狼の王 (2)
「姫様、今日は気合いが入っていますねえ」
(品性がなによ。泥まみれの姫がいたっていいじゃないのよ。だいいち、出雲には生まれながらの姫君なんかいないっていうのに。土いじりだって、ただの力仕事じゃないんだから)
「姫様、少し休みましょう」
(道具の使い方だって、ちゃんとこつがあって、地面の高さが川より高いか低いかとか、水路をどうするとか……わたしはまだそういうことに詳しくないけど……ちゃんといろいろ考えなくちゃいけないのに、あの人は……!)
「姫様、姫様!」
「え?」
狭霧は、はっと顔を上げた。
周りには、黒土が掘り起こされたばかりの地面が広がっている。十人ほど、農夫と娘がいたが、彼らは揃って狭霧を見つめてくすくすと笑っている。話声にも耳を貸さずに、がむしゃらに鍬をふるっていたからだ。
たちまち狭霧は、顔を赤くした。頬や首に流れていた汗の湿り気も、いまさら思い出した。
(わたし、ずっと心の中で文句をいってた?)
狭霧の足を止めた盛耶に腹を立てたのは、朝の話だ。それなのに――。
(いくら面と向かって文句をいうのが苦手だからって……恥ずかしい)
陰口をたたくというわけではないにしろ……狭霧はくらりと気が遠くなった。
(情けない……)
ひそかに落ち込む狭霧へ、遠賀の人たちは優しく声をかけてくる。
「いやあ、姫様には頭が下がりますよ。みんなを見てください。出雲の姫様に負けるなと、あんなに働いて――。この調子じゃ、あっという間にここは畑になりますよ」
今日の役目は、畑の開墾だ。新しく畑にしようとしている場所の草取りは済んでいたので、土を掘り起こして、みんなで目についた小石を外へ運び出していた。
狭霧に声をかけた農夫は、陽に焼けた顔に満面の笑みを浮かべていた。
「これで、遠賀はまた少し豊かになります。食べ物に困らなければ、はりきって他の仕事ができますからね!」
畑が増えれば、実るものが増えて食べ物に余裕ができる。
食べ物に困らなくなれば、他のことができる。たとえば、遠賀なら商いに、出雲なら道や戦船をつくったりして、他のことに精を出せる。増えた畑の分だけ、その地は豊かになるのだ。
狭霧は少し笑顔になって、額の汗をぬぐった。
「みなさんの役に立てているなら、嬉しいです」
(やっぱり、これでいいんだ。盛耶がいったことは正しくない。うん、わたしは間違ったことはしていない)
そう思うと、すっと静かになった胸は、次はむずむずと嬉しくなった。
「じゃあ、調子がいいうちに続けましょうか。今日中にひと段落つけばいいですね」
はにかみの笑顔を浮かべて返事をすると、狭霧は再び鍬をふるうことにした。
その日の仕事が済み、一緒に汗を流した農夫たちに別れを告げると、狭霧は川に浸かって、水で身を清める。それから野営へ戻るが、狭霧の目は、行く手にいる人の顔を気にして仕方なかった。
(盛耶に会いませんように! あの、偉ぶったわけのわからない人に、捕まってしまいませんように!)
……が。
遠賀の畑から、出雲軍が野営にしている広場へいくには、野原の端をくねる小さな道を通らなければいけなかったが、狭霧が避けたかった人は、どうしても通らなければいけない一本道の先にいた。
天では、昼間のあいだゆっくりと空を渡った陽が西の端に降りていて、薄青の空は、夕焼けを待つように少し琥珀色を帯びていた。川べりの野では夕餉の支度が始まり、河原につくられた石の竈と広場を行き来する兵たちがちらほらといて、それなりの人通りがあった。
盛耶は、川べりの野と草むらの境に、目印のようにぽつんと置かれた大岩の上にいて、そこに腰かけていた。川べりの野にある夕餉の支度に追われる兵たちのことなど、知ったことではないといいたげに、そこに背を向けている。狭霧は、それが気に食わなかった。
(本当に、偉そうな人。手伝いもしないで――いったい何をしてるんだろう?)
人には、それぞれの仕事がある。夕餉の支度をするのは、兵の中でも下位の者の役目で、武王である大国主はもちろん、安曇や箕淡や、高比古も、それに手を貸すことはないだろう。王と呼ばれるからには、盛耶も同じ部類に入るのだろうが、相手が盛耶と思うと、むしょうに癪に障った。
(いい、すり抜けよう)
ぺこりと会釈をして、そそくさと盛耶の前を通り過ぎようとした。でも、盛耶はそれを許さなかった。
「おい、待てよ」
実は、通り過ぎる前から目が合っていたので、そうなるとは思ったが。
呼びとめられるので、渋々と歩みを止めると、狭霧は、盛耶が居場所にしていた大岩から少し離れた場所から盛耶の顔を見た。間をとったのは、また腕を掴まれるのは嫌だと、彼の腕が届かない場所を選んだからだ。――が。
「はい、なんでしょう?」
「隣に来ないか?」
「え?」
「少し話さないか? ほら、隣に来いよ」
身構える狭霧の前で、盛耶は、手のひらで自分が腰かける場所の隣を指している。そこに座れということらしい。
(――これ以上この人に関わるのは、いやなんだけど)
正直、断ってしまいたかった。でも、悲しいことに、狭霧には断る理由が思いつかなかった。
仕方なく、おずおずと近づいて、盛耶のかたわらに腰かける。でも、彼の腕が急に伸びても逃げられるように、なるべく隙間を空けて座ることは忘れなかった。
「どうしたんですか? 何かありましたか?」
こわごわと盛耶の顔を覗き上げると、盛耶は、太い首を傾げて狭霧を見下ろした。
「他人行儀な話し方をするなよ。幼馴染だろう?」
「でも……」
幼馴染だからといって、誰しもが仲良しというわけではないでしょう?
わたしは、あなたとそこまで仲が良かった覚えがないし……というか、あまりいい思い出がないんですが。よくいじめられていたので――。
と、いっそのこといってしまいたかったのだが、誰しもが思うことをはっきりといえれば、世の中のあれこれは、もう少し簡単だと、狭霧は切に思った。
(情けないなあ。胸の中でぶつぶつというだけなんて……うん、これじゃ駄目よ)
昼間の恥ずかしさや、自分への憤りも感じつつ、ため息を飲みこむ。
狭霧は、盛耶に合わせることにした。
「――わかったわよ。それで、話って?」
「怒ったのか?」
「え?」
「今朝だよ。何か気に食わなかったんだろう? おまえはそういう顔をしていた」
今朝の狭霧は、盛耶の馴れ馴れしい態度が気に食わなかった。くらりと気が遠くなって、狭霧はうつむいてしまった。
(……通じてなかったんだ)
狭霧の中では、怒りすぎたと後で悔やむほどだったのだが。
「何か気に食わなかったのか」と今さら問われても、今朝言い合いをした時に、かなり詳しく文句をいったつもりでいたのだが――。それに、いまさら、あの時はこうこうこういうわけで怒っていましたとつらつら説明するのは、どう考えても馬鹿らしいではないか。これ以上、どうしろというのだ。
「いいよ、もう……。気が済んだから」
「そうなのか?」
盛耶は、ほっと口元をほころばせた。怖いものなどなさそうな、無鉄砲な態度をとる盛耶が、そんなふうに吹っ切れたように笑うと、悩みなどまるでなさそうに見える。狭霧が口にしなかっただけで、問題は何一つ解決していないのだが。
(少しくらい、気づいて――)
狭霧は肩をすぼめて黙るが、盛耶には伝わらない。彼は精悍な顔立ちを夕風に向けて、爽やかに笑った。
「なら、よかった。一応、心配してたんだ。でもな、もとはといえばおまえが強情だからだぞ? それで、まさか、本当に土いじりにいって来たのか?」
「ご、強情? わたしが? それに、まさか本当にって……」
完全に、狭霧の意思はまったく伝わっていなかったらしい。
あなたはどうしてそんなに偉そうなんですかと、今朝、そう訴えたはずだった。勝手にわたしのことをわかったふりをするのは、やめてください、とも。それなのに――。
もはや、いちいち苛立つのが面倒になる。狭霧は、ここから離れるにはどうすればいいかと、そればかりを考えてしまった。
「土いじりにはいってきたわよ? 一応いっておくけれど、土いじりは決して賤しいことじゃないわよ。その場所が豊かになるためには、必ず畑が要って、畑が増えることによって人は……」
「賤しいに決まってるだろう? 土仕事なんぞ、身分がないものか落ちこぼれた奴がやるものだ」
「……あなたね」
ここまで上から人を見下ろせる人も、珍しいものだ。
力の掟に従う出雲では、血筋の貴賎に意味はない。生まれながらの王子も姫も存在しないと、声高にいわれているのに。
そこまで思うと、狭霧は気づいた。
盛耶がそんなふうにいうのは、きっと彼に異国の血が流れているからだ。
盛耶の母は、越の国の王の娘だ。越の国では、出雲と違って身分制度が絶対だと、そういえば狭霧は聞いたことがあった。
出雲には、越から移り住んだ人が大勢いる。盛耶の母君の離宮は、そういう越から移り住んだ人が多く住む里にあり、盛耶もその里で育ったので、そこで彼は、王者の子と扱われて暮らしたはずだ。盛耶が血筋の貴賎にこだわるのは、きっと彼の母親が、血筋だけで人生が定まる国から出雲へ嫁いだ姫だからだ――。
「出雲でそんなふうにいえる人は、あなたくらいよ。とうさまの血をひく他の御子も、そのほかの王の御子だって、あなたほどちやほやされて育った人はいないはずだもの。きっとみんな、出雲に血筋は関係ないっていい聞かせられているはずよ」
盛耶は、鼻で笑った。
「血筋? あぁ、力の掟か。あんなもの……! 出雲に血筋は関係ないといいつつ、そうでもないよ。おまえも、
もはや、盛耶の言葉も態度も、狭霧はどうしようもなく気に食わなかった。
なぜこの人は、いろんなものを馬鹿にするんだろう?
大勢の人が希望を抱く、出雲の掟のことまで馬鹿にするようにいって――。
「いえ、わたしは……」
わたしはそう思わない。須勢理の娘だからといわれたって、わからないものはわからない。そう反論しようとしたが、いい始める前に、目の前が暗くなる。
盛耶が、狭霧の顔を覗きこむように身をかがめていたからだ。盛耶の大きな肩は陽射しを遮り、狭霧の顔に影を落とした。狭霧を見下ろして、盛耶はにやりと笑った。
「『力ある者が上に立つ、出雲に血の色は無用』……か。もっともらしいが、本当のところはどうだ? 俺は、生まれた時から母の離宮で暮らし、育った後もそれ以下の暮らしを知らないぞ? つまり、結局は生まれがものをいうんだよ。ここが出雲だろうがな」
「それは、あなたの母君が異国の姫君だから……」
「関係ないな。なら、狭霧、おまえはどうだよ? 生まれた時から武王の宮で暮らしてきて、それ以下の暮らしをした覚えがあるか?」
「それは、まだわたしが幼いから。今にきっと……」
「ああ、そうだ。とくに女はな、嫁いだ相手の位に左右される。だが、おまえみたいな身分ある男の娘は、得れば手っ取り早く成り上がることができる宝みたいなものだ。夫は、おのずと位が高い奴になるだろう。つまり……力の掟っていうのは、利用できるものはすべて利用しろとの教えだよ。力がある者は力を、血筋がある者は血筋をだ」
夕暮れ時の琥珀色の光を遮る盛耶の目には、森で息づく獣のような生き生きとした輝きがある。その目は、前に狭霧が思ったように、狼の王じみた野性的な雰囲気を彼に与えた。
盛耶は、狭霧の目の奥を覗き込むように見下ろした。
「狭霧――おまえは、上に立つ気がないのか」
「え?」
「土いじりだと? 馬鹿げてる。なぜ、わざわざ下っ端どもの世話を焼く? おまえには上にいけるだけの血筋があるのに」
ある時、狭霧は、身の毛が逆立つほど驚いた。大岩に置いていた手のひらが、大きなもので包まれて動かなくなっていた。盛耶の手に握られていたのだ。
「何を……放して」
振り払おうとするが、盛耶はいつのまにか、狭霧にぴったり寄り添う場所までにじり寄っていた。急に腕を伸ばされても逃げられるようにと、隙間をつくって並んでいたはずなのに。
離れようと手のひらに力を込めた瞬間、盛耶は腕を掲げて、狭霧の肩を抱き寄せる。放してほしくて仕方なかったのに、そんなふうにされると、盛耶から遠ざかろうと溜めていた力が手のひらから消えていった。――脅えたのだ。
なんの気兼ねもなく抱きついたり寄り添ったりした相手は、狭霧にとって輝矢だけだ。
輝矢も、いつのまにか背が高くなっていたが、同い年で、長年小さな館に閉じ込められて育ったせいか、輝矢の身体は細身だった。だから、盛耶のように、いかにも武人という頑丈な身体つきをする相手から、こんなふうに近寄られた覚えは、狭霧になかった。
自分よりはるかに大きな肩や、抗っても対抗できなさそうな太い腕や、なにより、嫌がる狭霧を気遣おうともしない横柄さ。それは、どうしようもなく気味悪かった。
「離れて」
震えかけた小声でそういって、そっぽを向くのが精一杯だった。
でも、そんな悲鳴など聞こえなかったかのように振る舞う。狭霧は、小さく喚くようにいった。
「上に立つだなんて、そんなことを考えたことは一度もありません。あなただって、これ以上どこへのぼる気なんですか? もうあなたは、上にいるじゃないですか。あなたの従者から聞きましたが、今は、
盛耶は、越と出雲の両国から諏訪の御使いを任されており、父君から王の称号を得ている――と、盛耶の従者は狭霧へ伝えた。
狭霧より三つ年上だから、盛耶の齢は、十八か十九くらいだ。その若さで、大切な国へ出雲側の長として出向く役目を負っているのだから、交渉の能なり、武の才なり、きっと盛耶は、それなりの才能に恵まれている人だ。血筋に加えて力もあるのなら、行く末を約束されたようなものだ。
それなのに、どうしてこんなに目をぎらつかせて、力がどうの、血筋がどうのと語る必要があるのだろう? 狭霧は、そんなふうに思ってならなかった。
だが――。狭霧が「諏訪」という言葉を発した瞬間に、盛耶にあった狼の王の印象が、血に飢えた獣へと変わった。
「諏訪だと? 諏訪なんぞ、あんなところ……!」
歯を軋ませながら、盛耶は拳を震わせた。
「このまま何もせずにいたら、
「戻れなくなる? なんのこと――?」
盛耶は、諏訪にいるのが嫌らしい。それは気づいたし、気づいてしまったからには理由が気になる。でも、今の狭霧はそれどころではなかった。
「わかったから、放して……!」
消え入りそうな声で訴えても、盛耶は聞く耳をもたなかった。ますます力強く狭霧の肩を抱き寄せて、自分の胸元に囲おうとした。
狭霧はとうとう、助けを呼ぼうとあたりをたしかめた。野には、兵たちが夕餉の支度をするのに行き来している。誰かと目が合って、狭霧が助けを求めていると気づいてくれれば、窮地を脱せると――。
すぐに、数人と目が合った。でもそれは、出雲の兵ではなかった。
狭霧と、狭霧を抱き寄せる盛耶を目ざとく見つけたのは、三人で連れだってやってくる娘たちだった。身なりからして、遠賀で暮らす地元の娘たちだ。
盛耶と娘たちは、顔見知りだった。娘たちは、まっすぐ盛耶のもとへやってくるとめいめいが可憐な声をあげた。
「あ、出雲の若様、見ぃつけた!」
「あらぁ? その女の子、だあれ?」
嫉妬混じりの甘い文句だった。娘たちは、狭霧が盛耶のそばにいるのが気に食わないらしい。
盛耶はそれを無視して、蚊でも追い払うように突っぱねた。
「いつ俺がここへ来ていいといった? とっとと帰れよ」
「ええー? ひどぉい」
「お相手はどなたなの? 私たちの恋敵の娘は、いったいどこの誰……?」
娘たちは、狭霧の顔をぶしつけにじろじろと覗きこんでくる。狭霧の衣装が土埃で汚れていたせいか、娘たちは、狭霧を身分ある王の娘とは思っていないらしい。
盛耶は舌打ちして、彼女たちを睨みつけた。
「鬱陶しいな、とっとといけよ」
「……怖ーい」
結局、娘たちは、くるりと向きを変えて来た道を戻っていく。
去れといわれてあっさりと背を向けたところをみると、娘たちがここまで来たのは、出雲の野営に用事があったわけではなく、盛耶が目的だったのだろう。
「今のは?」
尋ねると、盛耶は冷笑した。
「遠賀の尻軽女ども」
賤しいものを蔑むようないい方だった。自分のことをいわれたわけではないが、狭霧はむっと眉をひそめた。
「ひどいいい方ね。尻軽って――」
「今日、港を歩いていたら声をかけてきたんだぞ? 俺がここにいる間だけでいいから構ってくれだとさ。昼も夜も俺の世話をしたいそうだ。そりゃあ、そうだろう。子でもできたらもうけものだもんな。相手が、出雲の大国主の御子なんてな」
たしかに、盛耶は、娘たちに噂されそうな美丈夫だ。なにしろ、彼の母親である大国主の一の后は、指折りの美姫と噂された女性だ。その血を引く盛耶も、狼の王を思わせる勇壮な雰囲気を醸す青年ながら、繊細で華やかな美貌を受け継いでいた。
でも、狭霧にとっては――。彼の凛々しい顔立ちなど、もはや意味のないものにしか映らなかった。
(やっぱりこの人、無理)
胸の中でため息をこぼすと、目も合わせずに咎めた。
「相手が出雲の……って、そんなに自慢になること? あの娘たちが、本当にそれで喜ぶと思ってるの?」
「何を怒ってる? 妬いてるのか?」
「はあ?」
盛耶が、可愛らしいものをからかうように覗きこんでくるので、狭霧は呆れた。
あまりの話の通じなさに、これ以上取り合う気も抜け落ちた。
「その、わたし、いくね。用事を思い出したから。用事、用事……」
我ながら、へたくそな嘘だなあと嘆きつつも、狭霧は、盛耶の手を振り払おうとした。一刻も早く、盛耶のそばを離れてしまいたかった。
でも、盛耶の手は離れない。それどころか、包み込んだ狭霧の手ごと掴んで自分の胸元に添わせると、盛耶は、真上からじっと狭霧を見下ろした。
「おまえに、頼みがある」
「頼み?」
「おまえにしかできないことだ。……まあ、手ぶらでいうことでもないな」
そこまでいうと、盛耶は狭霧の指から手を放す。これまでどんなに振り払っても跳ね除けられなかったものがあっさりと離れると、狭霧は夢中で手をひっこめた。
そうするうちに、盛耶は狭霧より先に岩から下りて、立ち上がった。
「狭霧、少しここで待ってろ。いいな?」
無理やりそばに座らせて、強引に手を掴んで、勝手に去っていくかと思えば、別れ間際にそんな命令を残していくので――狭霧は胸の中で文句をいった。
(本当に、勝手な人! こっちの都合なんてまるっきりきかないで――!)
盛耶のいった頼みとやらにも、興味は湧かなかった。
その頼みがどんなものかは知る由もないが、たぶん、うなずきたくない頼みだと、なんとなくそう感じもした。だから、背を向けた盛耶が振り返りもせずに遠ざかり始めると、狭霧はごくりと息を飲んだ。
(今のうちに、逃げるべき……よね? 振り返らないでよ? そーっと、そーっと……)
どこかへ向かって進んでいく盛耶の後姿をじっと見張りながら、そろり、そろりと静かに足を浮かせる。
大岩に腰掛ける狭霧を見つけて、また別の青年が駆け寄ってきたのは、そんな時だった。
その人は、狭霧を見つけてほっとしたように名を呼んだ。
「さ、狭霧……!」
高比古の声だった。でも、頼りない言い方といい慌てようといい、いつもの彼らしくないが。
「高比古、どうしたの……」
ふしぎに思って振り返ると、落ち着く間もなく、人影が飛び込んでくる。かなりの早足で狭霧の前にやってきた高比古は、そのままの勢いで狭霧の腕を引いた。
狭霧は、面食らった。
高比古は、いろいろなことをあまり顔に出さない人だ。喜んでいても驚いていても真顔を貫いて、慌てることがほとんどない。それなのに今は、まるで何かから逃げている最中のようにびくびくとしている。
「ちょっと歩かないか?」
一応問いかけるものの、狭霧の手首を掴んだ時から、高比古の足は、そこから遠ざかるように動き続けていた。川べりの野に背を向けた高比古は、港へと続く一本道へ向かって狭霧の手を引いた。
「うん? どうしたの、何かあった?」
「いや、その……」
こんなに歯切れの悪い高比古を見るのも、狭霧ははじめてだった。
狭霧は目をしばたかせた。
そういえば、高比古と顔を合わせたのは久しぶりのことだった。遠賀に着いてから、高比古はどこかに足しげく出かけていたので、しばらくの間、狭霧が高比古の姿を見た覚えはほとんどなかった。
「どうしたのよ? 久しぶりに見たと思ったら、慌てて――。今日はずっとここにいた? 毎日どこかに出かけていたよね?」
「出かけ? あぁ、今さっき戻ったところで、そんなことより、どこかへ……」
「どこかって?」
「どこでもいいっていうか、その……ちょっと、道、この道……道が生えている草を、少し遠くまで……」
「道が生えている草? ――あの、何を話してるかわかってる?」
歯切れが悪いどころか、高比古がいっていることはいまいちよくわからない。
困惑しているようだが――こんな彼も珍しい。
「……高比古、何かあった?」
誰かに叱られたとか、大きな間違いをおかしたとか――いう脅え方でもなかった。
(まあ、ちょうどいいか。盛耶が戻って来る前に、ここを離れたかったし――)
利害は一致していたので、狭霧は、高比古に手を引かれるままに、草むらの真ん中につくられた一本道を進んでいった。――が。出雲の兵で賑わう川べりの野を少し離れたかそうでないかというところで、高比古の追手が追いついてきた。
足早に駆けて来るのは、気の強そうな娘だった。
「高比古様! いったいどこへいかれるのです……!?」
ぎっくう! ぴたりと足を止めると、高比古は飛び上がるようにして肩を震わせた。
「た、高比古……?」
(この人がこんなに脅えるなんて――? いったい誰に追いかけられているんだろう。女の子みたいだけど――)
そろそろと後ろを振り返ると、高比古を追いかけて来た娘は、すぐ背後まで迫っていた。
娘が身にまとうのは、手間をかけて何度も洗われた純白の上衣に、真紅の裳。姿は、巫女のものだ。
(この子、どこかで見た気が……)
首を傾げているうちにも、巫女の身なりをした娘は、真紅の裳をはためかせて大股でやってきて、高比古の手を取ろうとする。――が、その時。高比古は、狭霧を盾にして背後に隠れていた。
「高比古様、いったいどこへ! まだ話は済んでいません。力の契りを!」
「だから、おれはいやだと……」
娘は、懸命に手を伸ばして隙あらばというふうに高比古の腕を掴もうとしている。いや――腕の構え方を見ると、掴んだら最後、もう二度と逃がさないとばかりに、抱きつこうとしている。
その光景を見て、やっと狭霧は、娘のことを思い出した。
(
でも、首を傾げた。
遠賀についてからもう七日が経つが、その間に、この巫女の姿を見かけたことはなかった。こんなふうに高比古を追いかけ回していれば、否が応でも目に入るだろうに。
相変わらず狭霧の背に隠れながら、高比古は必死に娘の手を振り払った。
「だから、何が契りだよ! 次から次へと……もう、絶対にしない! 形代(かたしろ)のなんとかってやつはやってやっただろ? あれだって、大国主も須佐乃男もやったっていわれて仕方なくやったのに、後で聞いたら、大国主はしてないっていってたぞ。騙しやがって!」
そういえば、前に神野で出くわした時、高比古と日女はどこかへ向かう途中で、形代の契りというものを為しにいくのだといっていた。
でも、今のやり取りを聞く限りでは、それは、高比古の意ではなかったらしい。
高比古と日女の応酬はその後もしばらく続いたが、二人がするのは、狭霧がよくわからない話ばかりだった。
「あなたは、次の王たる若者。出雲の母神に必ず気に入られる。それに、あなたは力ある
「巫女の力? 興味ない」
「でも……」
「だいたい、出雲の母神っていったいなんだ? おれはよくわからないし、それに、おまえたちが崇める女神に気に入られる気なんかない! 面倒くさいことが起きそうな気がする――!」
「でも、大巫女はあなたが巫王になると予言を。
「だから、御津ってなんなんだ?」
「わからないのです。津というからには、水と関わりのある場所だと思いますが――。だから、慌ててお伝えにまいったのです。それが出雲ではない地にあれば厄介だと――」
「慌てて来るようなことなのか!? そっちのほうがこっちは厄介で……! いい、わかった、なら気をつける。だから、さっさと神野に帰れ!」
早口でいい合う二人の真ん中に、狭霧はいた。矢継ぎ早にいい放たれる文句を聞きつけるたびに目は高比古のほうを向き、日女のほうを向く……が、板ばさみになるのは、あまりいい気分ではなかった。
(いつまで続くんだろう。しんどいなあ――)
とはいえ、かっかと唸り続ける二人の喧嘩じみたやり取りは、まだ終わりそうになかった。
「いいえ。あなたと私は、形代の契りを交わした同士。表裏一体の私とあなたが睦まじくいればいるほど、契りは強まるのですよ? ほら、私の手をとって……」
日女が懲りずに何度も高比古の腕を取ろうとしたせいか、とうとう高比古が激昂した。
「だから、いちいち触るなと何度いえば……願い下げだ!」
苛立ちで顔を赤くした彼が、思い切り日女の細腕を振り払っても、日女は口元に笑みを浮かべて指先を浮かせている。高比古が隙を見せれば最後、彼の腕に取りついてしまおうと狙っていたが、それを見ていると、なんだか狭霧は、人に悪さをする隙を窺ってほくそ笑む物の怪を見ている気になってきた。
「あのー……嫌がっているみたいだから、少しは遠慮したら?」
さすがに割って入ることにしたものの、日女には効かなかった。狭霧に興味などないとばかりに、日女は冷笑した。
「だから、なんだ?」
言葉より何より、相手を蔑むようなしらけた眼差しに、狭霧はむっと眉をひそめた。
(なんなの、この人?)
狭霧に見せつけるように、日女の足は再びそろそろと動き出す。狭霧の背後にいる高比古のもとへ横から近づくと、浮かせていた手を高比古の手首へ伸ばそうとするが、それは、すぐさま振り払われる。
「どうでもいい、気が散る――」
高比古の声は、先ほどまでと打って変わって静かだった。
高比古は引きつった微笑みを浮かべていたが、その笑みの恐ろしいこと。日女の冷笑や、時おり高比古が、誰かを嘲笑う時とは比べ物にならないほど、今の彼の表情は狭霧をぞっと青ざめさせた。
「いいから去れよ……。おれは、狭霧と話がある」
「話、どんな――?」
「人払いが必要な話だ。いいから消えろ。鬱陶しい……!」
狭霧が驚くほどの冷笑とはいえ、激怒したというよりは、恐ろしいものに脅え過ぎて逆切れしたという印象だ。――ぶち切れてしまったらしい。
(そういえば、高比古って、人といるのが嫌いなんだっけ? 誰かに近寄られたり、触られたりするのが、大の苦手で……)
宗像で想い人ができたり、心依姫という妻を娶ったり、狭霧やほかの人と談笑する高比古の姿を見る機会が増えていたせいで忘れていたが、前ほどではないとはいえ、今でも、高比古は誰かと居るのが苦手なのかもしれない。
結局日女は、目を血走らせた高比古から追い払われることになった。拒絶されたというのに、日女の顔には、まだ笑顔があった。静かに笑いながら、日女は、去り際に言葉を残した。
「どのように離れようが、私とあなたは、魂で繋がっているのです。だから、別れは怖くない。あなたの心が、どこか別の場所を向いていても」
それは、まるで祈りの言葉のよう……いや、呪いじみていた。
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