狼の王 (3)


 遠ざかっていく日女ひるめの後ろ姿は、しだいに、夕暮れの色に染まり始めた野の風景に紛れていく。日女の姿が見えなくなっても、高比古はその方角を睨みつけていた。


 その仕草に、狭霧はぷっと吹き出した。年頃の娘から逃げおおせて、安堵しているように見えたからだ。


「高比古って、あの日女っていう巫女からものすごく好かれているみたいね? もてるのもたいへんね」


「もう、よくわからん――。いったいあいつは何がしたいんだ?」


 高比古は辟易とため息をつくが、目は、ようやく災難が去ったと恍惚として見える。だから狭霧は、やはり笑った。


 日女という巫女のことを狭霧はよく知らなかったので、尋ねてみたいことがいくつかあった。


 日女とのつき合いは長いの?


 結局のところ、どういう関係なの?


 あの子があんなに夢中になるようなことを、何かしたの?


 でも、狭霧の唇は動こうとしなかった。こんなことを尋ねたら、高比古はきっと戸惑うだろうと思ったのだ。


(やっぱり訊かないでおこう。いつか高比古が、自分から話してくれるまで――)


 もともと彼は、自分の胸の内を素直に話す人ではない。 それに、高比古と日女の関係を誰より知りたがるだろう、彼の妻、心依姫も、彼を困らせてまで知りたいとは思わないはずだ。


 無言のまま微笑む狭霧に気づくと、高比古は気まずそうにつぶやいた。


「……悪い」


 何に対しての「悪い」なのかは、よくわからない。でも、狭霧は応えておいた。


「いいよ。それで、わたしに話って? さっき日女に、わたしにする話があるっていっていたでしょう? 人払いが必要な、とか……」


「それは……」


「ううん、わかった。口実だよね?」


 高比古は、ますます居心地悪そうに口ごもる。


 聞いた時から狭霧も感じていたが、やはりそれは、日女から逃れるための嘘だったのだ。


「悪い、あんたをだしにして」


 だしにするどころか、苦手なものから身を守る盾にされたのだが。狭霧は、くすくすと笑った。


 責めることではないし、鉄面をかぶったような無表情ばかりする彼が、苦手なものを必死に避ける姿を見られたのは珍しいと、幸運に思った。


「いいよ。あなたがあの姫を悲しませるようなことをしないか見張るって、心依姫とも約束していたしね」


「心依と、約束……?」


 高比古は、ぼんやりとした。目は、なぜ今その名が出るのかと怪訝がっている。


「あの、……そうじゃなくて、ただわたしは、心依姫から――ええと……」


「――ああ、あんたとあいつは仲がいいんだっけ。そういえば、心依から、あんたの草園の世話を手伝わせてもらってるって聞いたよ」


 高比古は、静かに微笑んだ。その微笑に、狭霧の目はすうっと引き寄せられていく。


 高比古は、笑うのが得意ではなくて、どこかぎこちない笑顔を浮かべる人だと思っていた。それなのに――。いま高比古の顔にあったのは、とても優しい笑みだった。


「少し、話してもいいか?」


「――いいよ」


 日女から逃げるのに必死だったせいで、高比古の手は、まだ狭霧の手首を掴んだままだった。そのまま道の端へ寄って、腰を下ろしていく。高比古から手を引かれるままに、狭霧も隣にしゃがみ込んだ。狭霧が座ると、高比古の手は、役目を終えたようにすっと手首から離れていく。


 二人がしゃがみ込んだ一本道は、港や、地元の民が暮らす浜里へ続いている。


 夕餉の支度に励む時間のせいか、道には人通りがなく、ここを通っていくのは風だけだった。湿り気のある夕風は、野原に群れる草をさあっと音を立ててなびかせながら、海の方角へと流れていく。それは、光を浴びるととても美しく輝いた。


 光の色に染まった夕風は、道の向こうに広がる緑の葉先に美しいさざ波を起こしながら、野原の上を吹き渡っていく。


「きれいね、風が――」


 想ったままをつぶやいた。すると、高比古から返ってきたのは、妙に張りつめた声だった。


「そうか? ――妖しいよ。何か、困ってる……」


「困ってる?」


 意味がわからなくて、高比古の顔を振り仰ぐ。高比古は、すぐに目を逸らした。


「なんでもないよ」


 高比古がいった言葉の意味はわからないが、わからない理由だけはわかった。


 それは、彼が事代ことしろだからだ。


 高比古は、事代たちの中でも類い稀な力に恵まれているという。そのせいで、人の目や耳では感じにくいものが、視えたり聴こえたりしているのだ。



(今のも、そうなのかな?)


 納得すると、狭霧はそれ以上問うのをやめることにした。


「あんたに話すべきかどうかも、よくわからないんだが――。でも、あんたくらいしか、話せる人がいない」


 そういって、横顔を向けた高比古は、片膝を抱えてため息をついている。


「どうしたの? 内緒にしてほしい話だったら内緒にするよ?」


「実は、心依のことなんだが……どうすればいいと思う?」


「どうって?」


 今の会話だけではわからない。でも、彼が悩んでいることはわかった。



 ……平気? 大丈夫? わたしでよければ話を聞くから――。


 本当に大丈夫だよ、誰にもいわないから。役に立てるなら――。



 狭霧は、高比古の横顔をじっと見つめた。


 しばらくして、高比古は様子を窺うように狭霧を見たが、その後で、安堵したように口元をほころばせる。それから、ある時吹き出して、肩を揺らして笑った。



「あんたって――。そんなに人の心配ばかりをしていたら、疲れないか?」


「わたし、そんなじゃ……」


「変なことをいったな。ただ、おれにはできないってだけで、普通はそうなのかもな。おれには、誰かの面倒をみる余裕がないから」


 いつかのように馬鹿にされるようではなかったが、その言葉もよくわからない。


 高比古がそれ以上その話を続けることはなく、しばらく黙ると、肩でふうと息をした。


「あのさ――あの子は、いい子だよな……」


 高比古が話しているのは、彼の妻となった姫君のことだ。しかし――。


 心依姫は、嫁いだばかりとはいえ、夫に惚れ込んでいるようだった。


『わかるんです。あの方は、とてもお優しい方――。お心が広くて、それに、兄様は容貌かおだちが麗しくて、凛々しくて……!』


 そういって、頬を赤らめもしていた。


 でも、高比古のほうはそうでもないといいたげだ。少なくとも、心依姫が前に狭霧に見せた可憐な気配は、彼になかった。


 狭霧は、ほんの少し眉をひそめた。


「そうだね。心依姫は、あなたのことをとても好きね」


「ああ、それで困ってる」


「困るって?」


「――応え方がわからない。わかってやれないことがつらくて、申し訳ない」


「応え方がわからないって? もしかして、心依姫のことを好きになれないっていうこと?」


「それって、なろうとすればできるものなのか?」


 高比古は、狭霧を覗きこんでじっと目を合わせてくる。それから、口の渇きを嘆くように小さく唇を動かした。


「わからないよ、そんなの」


 狭霧は、色恋について語れるほど、それに長けているわけではない。


 でも、せめて、彼の胸の内を代弁してあげたかった。恋についてはわからなくても、高比古のことなら、わかるかもしれないのだから。


「もしかして、リコさんのことが忘れられないとか?」


 高比古には、想い人がいたはずだ。もしかして、その人への想いが、心依姫への想いを邪魔しているのでは――?


 高比古は即答した。


「あいつは関係ない。もう済んだ。ただ……よくわからない」


「わからないって?」


「わからないものはわからない。だいいち、どうして男は女を娶らなくちゃならないんだろうな。その気もない相手をそばに置かなければいけないとか……本当に、よくわからない」


 そこまで話が進むと、狭霧はほんの少しだけ彼の悩みがわかった気がした。


 彼が抱えているのは、きっと、身分ある青年としての悩みだ。もし高比古がそういう暮らしに憧れていたり、娘の扱いに慣れていたりしていれば、起こらなかったかもしれない類いの、まつりごとのために妻を娶ることになった若者の悩みだ。


 狭霧の父も、祖父の須佐乃男すさのおも、大勢の妃を娶った人だった。妻になった娘たちのほとんどは、出雲の有力者の娘か、異国の王と関わりのある娘。つまり、ほとんどが政のための婚姻だ。祖父たちは、それと同じことを高比古にさせようとしているに違いない。


「あなたを心依姫の夫にさせるっていうのは、おじいさまが決めたのかな。彦名ひこな様かな? もしそうなら、無茶なことをいうものよね。人には向き不向きがあるっていうのに」


 須佐乃男を責めた狭霧へ、高比古は小さく微笑んだ。


「いや。今思えば、断れば済んだんだ。宗像で、須佐乃男から姫を娶れといわれた時、おれは命令されたと思った。でも、たぶんそうじゃなかった。あんたの爺様に乗せられて、まんまと引っ掛かったんだ。彦名様はまだ一人身だよ。それを思い出していれば……考えればわかったのに、間抜けだよ。自分の撒いた種だ」


 高比古が心依姫を娶ることになったいきさつを、狭霧はほとんど知らない。でも、高比古が自嘲していうようなことが起きたらしい。


 高比古は、苦しみを吐き絞るようにいった。


「だから、あの姫には申し訳が立たない。できもしないことを引き受けて、やっぱり手に余って、ほったらかして……。なあ、どう思う? おれにあの姫が好きだって想いがなくても、そばにいれば、あいつは喜ぶかな? それとも……それなら近づくなって嫌がるかな」


「それは……」


 そんなに核心に迫ったことを尋ねられても、答えられない。狭霧は心依姫ではないのだから、心依姫がどう感じるかなどは、わかるはずがなかった。


 黙り込んだ狭霧へ、高比古は微笑んだ。


「――答えなくていいよ。へんなことを訊いて、悪かった」


「ううん……役に立てなくてごめん」


「そんなことない。聞いてもらったらすっきりした。不思議だな。誰かに話すだけでこんなに楽になるなんて」


 そういう高比古の笑顔は、たしかに、何かに洗われたように爽やかに見える。


(……いつのまにこの人は、こんな笑顔を覚えたんだろう)


 狭霧はその笑顔に、ぽかんと唇をあけた。


 狭霧が出会ったばかりの頃の彼は、誰かを傷つけるしかできそうにない人だった。それが、いつのまにか――。


 高比古は腕で抱えていた片膝を伸ばすと、くつろいだような座り方をした。


「で、あんたは?」


「え?」


 訊き返すと、高比古の目は、たちまち居心地悪そうに遠くを向いた。


「いや、その……あの髪飾りは……」


 仕草はおずおずとしている。高比古は狭霧を心配しているらしいが、誰かを気にかけることは覚えたが、慣れていなくて気まずい。そういう雰囲気だ。


(やっぱり、不器用なんだなあ)


 できそうにないことであれ、狭霧のためによかれと精一杯励む姿は、なんとも微笑ましい。


「あれなら、まだここにあるよ」


 くすくすと笑って、上衣の胸元あたりを手のひらで大事に覆って見せた。


 胸に忍ばせた膨らみに触れるなり、狭霧は、高比古のことを不器用だと思ったことを恥ずかしいと思った。自分も、高比古と同じくらい不器用だ、と。


「やっぱりわたしじゃ、高比古の相談相手になるには役不足だね。わたしも、わからないもの。もし今、わたしが誰かに嫁ぐようにいわれたら、絶対に高比古と同じように困ると思うよ。いったいどうやってあんなに男の子を好きだって思っていたのか、全然思い出せないもの」


 ……わたしも同じだよ。難しいよね?


 困りきった苦笑を浮かべつつ、高比古を見上げる。そうしながら、狭霧は、高比古と出会ったばかりの頃のことを思い浮かべた。


 出会った頃、狭霧は高比古が大の苦手だった。でも、「高比古というのはこういう人だ」と覚えて、それから身構えることを覚えた後は、逃げ出したいと思うことはなくなった。


 狭霧が高比古に脅えなくなれば、高比古のほうも、狭霧を目にして苛立つことは減った。そして、彼を苦手だと思う気持ちが薄れていくと、狭霧の胸に残るのは、なぜか、一緒にいる時の安堵の想いだった。


 前に狭霧は、こんなふうに思ったことがあった。


 彼と一緒にいると、自信が湧く。彼と仲良くなれれば、ほかの誰ともうまくいきそうな気がする。だって、彼はわたしを嫌いだから――。


 わたしを嫌いな人と仲良くできれば、怖いものはなくなるもの――。


 思い出して、狭霧はくすくすと笑った。


 何かの拍子で思ってしまったその考えは、あながち間違ってはいないのかもしれない。その証に、今も狭霧の胸には、むずむずと自信めいたものがこみ上げた。


 海風になびく野原には夕暮れの色味が降り、しだいにそこは光の海に代わる。


 簡素な道のきわで野原を背に座り込んだままで、狭霧と高比古はしばらく話し込んだ。話したのは、遠賀に来てから何をしていたとかそういうことだが、他愛のないお喋りは、夕暮れの情景によく馴染んだ。


 時は流れて、気づいた時には、西の空の果てに、夜の到来を知らせる藤色の光が滲んでいた。それで――。


「暗くなるな。もういくか」


 互いに、目配せをし合った。その時だった。


 狭霧は、川べりの野の方角から、二人のそばに近づいてくる気配を感じた。そうかと思えば、目の前が急に暗くなる。大きなものが、すぐそばに立ちはだかっていた。


(なんだろう?)


 顔を上げてみると、そこには、鍛え上げられた体躯をもつ武人がいる。盛耶(もれや)だ。盛耶は二人の前に仁王立ちになり、そうかと思えば、勢いよく狭霧の手首を掴んで、自分のもとへ引っ張り上げた。


「何してるんだ。そいつから離れろ」


(また、この人――)


 腹が立って、狭霧はいい返した。


「離れろ? どうしてあなたにそんなことをいわれなくちゃいけないのよ」


 だが、盛耶の目は狭霧の表情を見ていない。狼の王じみた眼差しは、まっすぐに高比古に注がれている。盛耶は高比古を睨みつけていた。


「こんなところで会うとは……。高比古って奴はおまえだろ――?」


「そうだが」


 高比古は短く答える。だが、尋ねたくせに、盛耶は答えを待たない。


「こんな奴が……! 世継ぎとして育てられているだと? ふざけるな!」


 盛耶は、敵視するような目で高比古を見下ろしている。


 高比古は怪訝なものを見るように眉をひそめて、ゆっくりと立ち上がっていく。高比古の目の高さが少しずつ上がっていく間、盛耶のぎらついた目は、一瞬たりとも高比古から外れない。敵の動きを見逃すまいと、相手を威圧するようだった。


 高比古が立ち上がり、二人の目の高さに差がなくなると、盛耶は、高比古の身なりをじろじろと見る。黄色の染め紐で飾られたくつや、飾り気のない白の服、腰に佩いた剣に、出雲風の髪飾りをつけた黒髪。とくに耳のあたりへ視線の先がいきつくと、盛耶は雄叫びをあげるようにいった。


「出雲風の角髪みづらか――。よく化けたもんだ。誰だって、髪さえそれっぽく結えば出雲の民に見えるってわけか?」


 いい方は、喧嘩を吹っ掛けるようだった。


「雑草のかたわらとは……えらく貧相なところで女を口説くんだな。貧しい場所が好きなのか?」


 様子を窺うように、高比古は黙っていた。しかし、盛耶の唇が閉じると、尋ねた。


「あんたは誰だ?」


 いい方こそ静かだが、高比古の目は喧嘩を買っていた。


 ふん、と盛耶は鼻で笑った。


「口のきき方に気をつけろ。父も母も知れぬ流浪の民が」


 盛耶の態度は横柄だったが、高比古も、どちらかといえば好戦的な方だ。高比古に、退く気配はまるでなかった。


「それで? あんたはいったい誰だ?」


 盛耶は頬を引きつらせつつ、もう一度鼻で笑った。


「――親父殿がおまえを呼んでいた。話があるそうだ」


「親父殿……大国主が?」


 高比古は、不審げに目を細めた。


「なぜ、あんたがおれを呼びにくる? 話したのは今が初めてのはずだろう?」


「……やっぱり。俺のことを知ってやがったな?」


 盛耶の形相が変わった。


「やっぱり――俺を大国主の御子の盛耶だと知った上でとぼけて、無視してやがったな?」


 高比古に、悪びれる様子はなかった。彼は冷めた口調で応えた。


「興味の湧かない奴に、話しかける趣味はない」


「興味だと? 笑わせやがる――!」


 二人のいい合いを目の前で聞きながら、狭霧は、不安で胸をどきどきと鳴らせた。二人の喧嘩じみたやり取りがなぜ始まったのかはわからない。でも、狭霧には、突然やってきた盛耶が、妙ないいがかりをつけ始めたとしか思えなかった。


 盛耶は高比古を毛嫌いしているらしい。ただ、高比古が出雲の生まれではないというだけの理由で――。


(なによ、悪いのはあなたのくせに)


 狭霧はとうとう、高比古を庇って二人の間に入った。


「あなたね、いい加減にしなさいよ。さっきから聞いていれば、意味のわからないわがままばかりいって! 今のは絶対にあなたが悪いわ。高比古に謝って。そうじゃないと……」


 でも、それは高比古に阻まれる。高比古は、傍らで前のめりになる狭霧へ冷たい目配せを送った。


「あんたの出る幕じゃない。黙ってろ」


「え……」


 高比古の味方につこうとしたのに、まさかその本人から拒まれるなんて。


(何か間違えた?)


 狭霧の勢いは、見る見るうちに消えていく。


 狭霧と高比古のやり取りを、盛耶は訝しげに見ていた。それから、大声をあげて笑い始めた。


「おまえはわかってる。わかってるんだな? 俺を――!」


 にたりと奇妙な笑みを浮かべて盛耶が向いたのは、やはり高比古のほうだった。


「わかった。おまえがそう出るなら、俺も出る。今のは、おまえからの宣戦布告と受け取ったぞ?」


「……好きにしろ」


 高比古は、苦虫を噛み潰したような渋面をしている。


「――だいたい、おれがどうこうはおれも知りようがないが、あんたの負けは見えていると思うが? おれは大国主と同じ意見だ。許しもなく諏訪を出て、こんなところまで追ってくるなんてありえない。ただの馬鹿だと罵られに、のこのこやって来た馬鹿としか――」


「なんだと? 俺は諏訪で仕入れた知らせを、親父殿の耳にじかに入れようと……!」


「下心が見える上申は間抜けだよ。自分の首を絞めるだけだ。そういったつもりだったが、わからなかったのか? ……いこう、狭霧」


「う、うん……」


 二人がいったいなんの話をしているのか、狭霧はまったくわからなかった。


 かっかと血を滾らせる盛耶とは打って変わって、高比古はずっと落ち着いていた。そのうえで鋭い一撃をいくつも放って、相手を弱らせたように見えた。盛耶のように声を荒げることなど、彼には一度もなかったのに。


(やっぱり高比古って、攻めるほうが得意なんだ。誰かを守ってあげるのがとても苦手な分……)


 寂しくも誇らしくもあるような、不思議な気分だった。


 狭霧の背中に手のひらを置いて前へと押しやる高比古に身を任せて、くるりと向きを変えたところだった。盛耶の声が、それを引き止める。


「だから、いったろう? 親父殿がおまえを呼んでいたと。いくのはおまえだけだよ。俺は狭霧に用がある」


「さっきの、嘘じゃなかったのか?」


 高比古は首を傾げた。


「なら、なぜあんたがそんな役を負った?」


「俺が頼まれたわけじゃない。ただ、おまえを探していた奴とすれ違っただけだ」


「そいつの名は?」


「俺が知るかよ。諏訪からここに来たばかりだぞ?」




「……本当だろうな?」


「ああ。だからさっさといけよ。……狭霧、来い」


 いうが早いか、狭霧の手首は盛耶の大きな手のひらに掴まれてしまう。そのまま思い切り引き寄せられるので、狭霧は宙で足をもつれさせた。


「狭霧には何の用がある?」


「いわなきゃならんのか?」


「……妙な用だったら困る」


「なぜ困る? おまえが?」


 盛耶は、せせら笑った。でも、意外にあっさりと打ち明けた。


「髪結いだよ」


「髪結い?」


「ああ。角髪に結ってほしい」


「角髪に?」


「出雲らしさうんぬんでおまえに負けるのは鼻もちならないからな。……というわけで狭霧、頼むぞ。櫛は? 髪結い道具はどこにある?」


「ちょ、ちょっと待って……」


 話が読めない。一度整理させて。


 狭霧は、どんどん変わっていく状況に溺れたような気分だった。


「髪を結う? わたしが、あなたの?」


「ああ。結えるか?」


「……角髪なんて、結ったことがないわよ」


 角髪は、出雲でも成人した男のする髪型だ。


 それに、狭霧が自分以外の髪を結ったことがある相手といえば、輝矢くらいだ。しかも輝矢がしていたのは、童男がする幼い結い方だった。いや……何年か時を経て成人の儀を迎える齢になったとしても、輝矢なら……出雲に染まりきることをひそかに拒んでいた彼なら、出雲風の髪型に結われることを望んだかどうかはわからない。


 輝矢……。


 彼のことを思い出すと、狭霧の目は何も見えなくなる。ついぼうっとして、記憶にしがみつきたくなってしまう。


『ありがとう、狭霧。今度は僕が狭霧の髪を結うよ。たぶん、狭霧より上手にできると思うよ?』


 そういって、狭霧をからかった幼い笑顔。たしかそれは、二人で髪を結い合って遊んだ時の光景だ。


 何かを始めようと話すのはいつも狭霧の役だった。だからその日も狭霧が先に輝矢の髪を結い、その後になって輝矢は狭霧の髪に手を伸ばした。


 狭霧の耳の上に触れた、優しい指。手櫛で髪を梳いていく時の、さらさらという音。心地よくて、幼い狭霧は目を閉じた。


『そうだね、輝矢のほうがわたしより器用だろうね。どんなふうに結ってくれる?』


『内緒だよ。後でね』


 そういって、背後で彼がこぼした輝かしい笑い声――。


 気が遠くなるのが一瞬なら、戻るのも一瞬だ。


 はっと我に返った時、狭霧は盛耶から乱暴に手を引っ張られていた。


「おい、狭霧? いくぞ?」


「う、うん……」


 盛耶の提案を飲みこめたわけではなかったが、今の狭霧は断ることができなかった。


 目の裏には、まだ輝矢の笑顔がある。目を閉じれば……心も閉じてぼんやりとすれば……輝矢の笑顔に会える。


「狭霧?」


 心配したふうに眉をひそめる高比古の姿が、視界の隅に見えた。でも、「あぁ高比古がそこにいる」と思った時、彼はすでに少し離れた場所に見えていた。


 盛耶に手を引かれた狭霧は一本道をいき、港の方角へ向かっていた。


「見よう見まねでいいから。遠賀の女に頼みたくないんだよ。男にはなおさらだ。櫛はどこだ? おまえの宿にあるのか?」


「うん……」


「こっちか? 港か?」


「うん……」


 夢見心地のおぼつかない足取りで、狭霧の足は盛耶に引きずられるようにして野道を進んだ。


 何度か、盛耶は背後を振り返っていた。


 何度目かの後に、彼は高比古を探しているのだと狭霧は気付いた。離れいきながら、いい合いをした相手の様子を窺っているのだと。


(高比古は?)


 ぼんやりと思って狭霧が振り返った時、高比古も、狭霧たちに背を向けていた。出雲の兵で賑わう川べりの広場へ向かって――。


 きっと盛耶にいわれた通り、大国主のもとへ向かうのだ。



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