暁の香り (1)


 太陽が西に沈みかけていたせいで、真横から射す光はすでに赤く色づいていた。


 高窓から滲む茜色の光に彩られた小屋の中で、狭霧はあぐらをかく盛耶もれやの後ろに膝をついていた。


 さらさら、さら……。盛耶の髪は意外にも素直で、木櫛で梳くと、ほとんど力を入れなくても従順にいうことをきいて、まっすぐに流れ落ちる。結い紐の端を唇で咥えながら黒髪を分け、見よう見まねで両耳のそばできつく結び、くるりと丸めて――。


 狭霧の手が止まると、盛耶はちらりと背後を気にした。


「どうだ?」


「……さっきのほうがいいと思う」


 もともと盛耶の髪は、首の後ろで一つにまとめられていた。盛耶のために、鎧に合わせてつくられた髪飾りには黒味を帯びた毛皮があしらわれていて、とても雄々しく、彼によく似合った。でも、生まれて初めて狭霧が結った、少々不格好な出雲風の角髪みづらは――。


 正面に回ってしげしげと出来をたしかめるものの、実のところ、それは盛耶の華のある顔立ちにうまく馴染まなかった。


「わたしじゃなくて、もっと器用な人にやってもらえば、もしかしたら似合うかも……」


「いいんだ、似合わないってことくらい、俺もわかってる」


「……前の結い方に戻そうか?」


「このままでいい」


 盛耶はあぐらをかいた膝に肘を置き、うつむいている。似合わない髪型に変えろと頼んだのは自分のくせに、仕草はぷいとすねているようだった。


「いいじゃない、無理しなくて。前のほうがかっこよかったよ?」


「いい。大国主の子のくせに出雲の正装が似合わないなんぞ、とんだ間抜けだ。目が慣れるのを待つ」


「大国主の子のくせに似合わないって……それですねていたの?」


 力ずくで狭霧の手を引いて、浜里にある狭霧の仮宿を目指したのは、さっき高比古に出会ってしまったからだ。


 高比古の身なりは、衣服から髪の結い方まで、すべて出雲風だった。出雲生まれではないせいで、高比古の顔立ちは生粋の出雲の民とは少し違うが、彼は出雲服を着こなしていた。盛耶は、高比古に嫉妬したのだ。


 狭霧は、呆れた。


「いったら怒るかもしれないけど……わたし、あなたは血筋にこだわりすぎていると思うよ? さっきも、とうさまの子だってことを偉そうに……じゃなくて、もしかしたら違うかもしれないけど、その……鼻にかけているように見えたから、そういうのって、よくないっていうか、その……」


「黙れよ。諫言かんげんは好かん」


「かんげ……?」


「説教されるのは嫌いだと、そういったんだ」


「あ、そう」


 狭霧の目の前で横顔を見せる盛耶は、ますます意地を張っているように見える。


(面倒な人……子供っぽいというか、なんというか)


 胸の中で愚痴を吐いてから、狭霧はつぶやくようにしていった。


「わからないなあ。わたしは、とうさまの子っていうのが苦手だったけどなぁ。とうさまの子じゃなかったらよかったって思ったことが何度もあるもの」


「なら、誰の子ならよかった」


「そんなことを今いわれたって……。安曇かなあ。とうさまより、ずっとたくさん面倒を見てもらっているし」


「馬鹿げてる」


「馬鹿げているのはわかってるわよ。……訊いたのはそっちのくせに」


「おまえがそう思うのは、母親のせいだ。須勢理様は須佐乃男爺の末娘。父親が大国主じゃなくても、おまえの血は上等だ。だからだよ」


「だから、どうしてそんなにふてくされているのよ」


 立派な武人の姿をしているくせに、盛耶の態度は、むずかる童のようだ。いっていることも、狭霧にはないものねだりに感じる。狭霧は、首を傾げた。


「母親のせいだって……あなたのかあさまのほうが、よっぽど位が高いじゃない? とうさまの一の后は、わたしのかあさまじゃなくてあなたのかあさまよ? そのうえ、異国からとうさまに嫁いできた姫君で……」


「もうその話はいい」


「訊いたのはそっちのくせに」


 狭霧は、ぷうと頬を膨らませた。


 結局、盛耶は耳を貸さない。不機嫌な横顔を見せると、彼は自分のしたい話をした。


「――あいつとは、仲がいいのか?」


「あいつって?」


「さっきのあいつだよ。道でおまえが話してた奴」


「高比古のこと? 仲がいいっていうわけじゃないけど」


 尋ねられたから仕方なく――と狭霧は答えるが、内心、気味が悪くて仕方なかった。


(どうして、こんなことを聞かれなくちゃいけないんだろう? 人のことばかり、根掘り葉掘り……)


「一度、宗像まで、一緒に旅をして……」


「ああ、聞いた。そこで筒乃雄の孫娘を娶ったとか……」


 ちっ。盛耶は苦々しげに舌打ちをした。


「須佐乃男爺と彦名の仕業だ。奴ら、高比古に箔をつけたがってる」


「箔?」


 話が見えない。わかるのは、盛耶が、高比古のことを相当敵視しているということだ。


「どうして、高比古のことをそんなに嫌っているの? 高比古って、そこまで悪い人じゃないよ? 誤解されやすいところはあるけど……」


 盛耶は狭霧の顔をちらちらと見るが、話を合わせようとはしなかった。


「それで、あいつは、次はおまえを欲しがってるってわけだな?」


「聞いてよ、わたしの話……。高比古がわたしを欲しがる? いったい何がどうしたら、そんな話になるのよ」


 さすがに文句もいいたくなる。でも、へそを曲げて文句をいっても、盛耶はここにはいない高比古を相手に腹を立てるだけだった。


「なあ、狭霧。おまえはまだ雲宮に住んでいるな?」


「そうだけど……」


「ここしばらく、高比古が雲宮にいるっていう話は本当か?」


「いるって?」


「去年の秋から、意宇から杵築へ住まいを移したと聞いた。それは本当の話か?」


「それは、そうみたいだけど」


 たしかに、高比古は、去年の秋から雲宮の兵舎で寝泊まりするようになっていた。とはいえ、それまでも、高比古はもともと暮らしていた意宇の宮から足しげく雲宮の兵舎に通っていたし、時には、十日以上留まることもあった。


 もしかして、彼には決まった寝床がないのかもしれない――。狭霧がそう思うほどで、高比古はあちこちから呼びだされていた。杵築で暮らすようになってからは杵築から意宇へ通い、意宇だけではなく、その先にある大巫女の宮にも足を伸ばしている。雲宮の近くに用意された、心依姫の離宮へも。


「忙しいみたいだね。それが、何か?」


 盛耶は、顔を赤くして怒り始めた。


「須佐乃男爺の仕業だ! なぜ、わざわざあいつに……!」


「おじいさまの仕業? 高比古が雲宮に住むのが、そんなに怒ること?」


「駄目だ。あいつに渡すわけにはいかない――!」


「何がよ。渡すわけにはって」


「あれは俺のだ。俺がもらう……!」


「だから何をよ……っていっても、聞いてくれないんだろうなぁー」


 先を読んで、狭霧はついに匙を投げた。きっとこの調子では、盛耶は一人でぶつぶつと文句をいうだけで、狭霧の言葉に耳を貸すこともなく怒り続けるだろう。


(そもそも、この人、わたしがそばにいることを覚えているのかな?)


 狭霧は、それも怪しいと思った。


 だから、そわそわと立ちあがる準備をした。腰から下をふわりと包む山吹色の裳の内側で膝を立てて、腰をかがめて――。それから、あえて明るく笑って、盛耶に別れを告げた。


「わたし、みんなの夕餉の支度を手伝ってくるね? ここなら好きに使っていいから、あなたはここにいていいよ。それとも、あなたも一緒にいく? お腹空かない?」


 でも、盛耶がそれに応えるより先に、狭霧の手首は、彼の手にきつく掴まれていた。ここを立ち去ろうとした狭霧を、決してそうはさせまいと。


 狭霧を向いた盛耶の眼が、奇妙な輝きを得た風にぎらついた。


「おまえの助けがあれば、あれは俺のものになる」


 まっすぐに狭霧を凝視する盛耶の黒い瞳は、今や、生きる力に満ちていた。問答無用で獲物をとらえて食す、野狼に似た力が。


「……あの」


 勝手に、急に掴んだりしないで。そういいたくて仕方がないのに、なぜか、狭霧の唇はかたまって動こうとしなかった。


 腕からも、血の気がひいていく。ぎらりと自分を睨みつけている盛耶の眼から、いつのまにか初めのひと噛みをされて、身動きが取れなくなった気分だった。


(初めのひと噛み?)


 意味を悟るより先にこみ上げた言葉の理由を探すように、狭霧はその言葉を唇の内側で繰り返した。知らずの内に、盛耶に掴まれた腕には鳥肌が立って、奇妙な術にかかったように、肩も脚も震え始めていた。


(何? いったい何……)


 その時、胸の底にいる何かが叫んだ。『逃げて、早く……!』と。



 狭霧の胸の奥底にあるものは、歯をカタカタと鳴らすほど脅え始めていた。


(逃げる? どうして――この人は幼馴染よ? 母違いの義理の兄で……。わたしはいったい、何をそんなに脅えているの?)


 狭霧は、自分を嗤っておいた。でも、盛耶と目を合わせていると、瞳は恐怖で引きつっていく。狭霧に狙いを定めて、にたりと笑う盛耶の目は、いまや獲物に襲いかかる瞬間を窺う獣じみていた。


「親父が、どうやって武王の地位を得たか知ってるか?」


「……え」


「大勢の女を妻にしたからだよ。どうやったか知ってるか?」


 いったい、なんの話をしているの――。


 凍えていく狭霧の目を、盛耶の奇妙な眼差しは、そこに食らいついたまま放そうとしなかった。


「おまえも、もうわかる齢だろう? 親父は、要る女を奪いにいったんだよ。女さえ手に入れれば、その後ろにあるものがごっそりついてくるから。そうして親父は、あらゆる力を自分に繋ぎとめたんだ」


 ふるふる……狭霧は、夢中で首を横に振った。


(わからない。そんな話、わからないし、それに……)


 いつのまにか、真横から射しこんでいた茜色の光は遠ざかっていて、代わりに、高窓からは紫色をした淡い光が洩れている。それは、夕暮れと夜の境の色だ。天に夜が訪れて、闇が忍び寄っている時分なのだろう。


 狭霧の仮宿になった小屋は、薄暗くなっていた。小屋といっても、そこは狭くて、人が二人も寝転がればいっぱいになる。少し跳ねただけでも四隅の端から端までたどりつけるほどで、入り口になった板戸も、狭霧が膝をつく場所のすぐそばにある。


 でも今、狭霧にその板戸はとても遠かった。得体の知れない恐怖で息が詰まって、身がすくんで動けなかったし、なにより、目の前に立ちはだかる盛耶の存在が大き過ぎた。


「俺の妻になれよ、狭霧。出雲の武王の一の后に」


「え? 武王? 一の后? 妻……?」


 もはや、盛耶がなんの話をしているのかもわからなくなっていた。


 青ざめて反芻する狭霧へ、盛耶は満足そうに笑った。


「そうだよ、妻だよ。武王の妻だ」


 ……違う、わたしはあなたのいっていることなんか、全然わかってない!


 そういいたいのに、想いは声にならなかった。声は恐怖で途絶え、喉は凍っていた。


 狭霧は頬を引きつらせて首を横に振ったが、盛耶の笑みは、脅える狭霧をいい子、いい子と宥めるように、ますます柔らかく溶けていく。


「おまえの夫になれれば、俺は親父の後を継いで、武王になれる。諏訪から戻ってこられる」


 それしかできない生き物のように、狭霧は首を横に振り続けた。


 喉どころか頭も胸も凍り始めて、目と鼻の先で話している盛耶の言葉すら、よく聴こえなくなっていた。


「諏訪の王におさまるなんぞ……諏訪で、巻向まきむく桂木かつらぎと同じになるのはごめんだ……!」


 狭霧に語りかけながらも、盛耶の目はしだいに虚空を睨み始め、血走っていく。それは、狭霧の恐怖に拍車をかけた。


(ごめんなさい、逃がしてください。手を放して――! 怖い、怖い……!)


 ここから逃げることしか考えられなくなって、許しを請うように、狭霧は首を横に振り続けた。


 盛耶の顔は、鼻と鼻が触れ合うほど狭霧の近くに迫っていた。狭霧は、何かにとり憑かれたように目をそむけた。鼻や頬にかかる他人の息づかいが、こんなに気味の悪いものだとは――。盛耶の頬や唇や肩や、彼のものがほんの少しでも目に入るだけで恐ろしくて、彼の身体が目に入らない場所を探した。でも……どこにもなかった。狭霧の肩のそばには盛耶の腕があって、狭霧がどこへも逃げられないように、自分の身体で囲いをつくっていた。


 何が何かもわからないまま、狭霧は、いつしか小さな声で悲鳴をあげていた。


「やめてください……放して……!」


 でも盛耶は、笑うだけだった。脅える娘というのが彼にとって可愛いものであるかのような、気味の悪い笑みだ。


「俺は前に、桂木から、なぜ出雲にこだわるのかと諭されたことがあった。出雲は、新しいのか古臭いのかよくわからない、奇妙なしきたりに従う国だ。しかも、大きすぎる。それに引き換え、巻向は小さいが、王の権力は絶対で、思うようにできる。国を育てる喜びが味わえる、と。でも、俺は、そんなものは知りたくないと突っぱねた」


 盛耶は、狭霧の耳元で低い声を出していたが、狭霧は彼の声が耳に入るのも恐ろしくて、ぎゅっとまぶたを閉じて身構えた。だから、盛耶の一人語りなど、まるで耳に入らなかった。


 ただ、彼の息吹や低い声音が恐ろしくて、耳に吹きかかる息や、音の震えを近くに感じていることがすでに怖かった。


「いやだ、放して!」


 懸命に力を込めて、とうとう狭霧は、盛耶の腕を押し返した。でも、盛耶にとっては、ねずみが胸の上を這ったくらいのか弱さだったろう。果敢にも目の前を横切った鼠を、牙を剥いた狼が嗤うように、盛耶は笑みを浮かべた。


「おまえさえ手に入れば……須佐乃男の血筋をそばに従えられれば、俺は出雲に戻れる。おれの血は越のものじゃなく、諏訪でもなく、出雲なんだ――!」


「いやだ……!」


 がたん――! 鈍い音が床に鳴り、狭霧の前にあった景色が瞬時に変わる。見たことのない壁が見えた、そう思ったら、それは屋根の裏側だった。でも、目に見える景色が変わったと驚いたのは、一瞬だった。床に転がされて、身体の上に重くて温かいものが乗っている、そう感じると身の毛がよだって、狂いそうになった。


「何をするんですか、どいてください!」


 消え入りそうな悲鳴をあげて責めた。いったい彼が何をしようとしているのかはわからなかったが、とにかく屈辱的で、酷い真似をされていると感じた。


 狭霧の両手首を掴んだ盛耶は、それを狭霧の顔のそばの床にぎゅっと押し付ける。盛耶は、真上から狭霧を見下ろして、宥めるような笑顔を浮かべた。


「俺はそこまで悪くない。悪いようにはしない。安心しろ」


 ……何が? もう十分悪いです……!


 大声でそう罵りたいのに、喉は凍りついている。狭霧の唇から出ていくのは、弱々しい悲鳴だけだった。


「放してください……!」


「大丈夫だ、そう脅えるなよ。俺がちゃんと教えてやるから。――そうだ、おまえにこれを……」


 盛耶は、自分の胸元をたしかめるような仕草をした。でも、いったい盛耶が何をしようが、狭霧は彼の何もかもを咎めたくて仕方がなかった。


 ……脅えるな? この状況で脅えるなって、いったい何を考えているんですか!


 胸の中では絶叫しているのに、やはりそれは声にならない。


 夢中で目を逸らした狭霧は、横を向いて、ぽろぽろと涙をこぼした。


 その時――。ぱしん! と乾いた音を立てて、白い光が狭霧のすぐそばで弾けた。


「うわ……?」


 驚愕したといわんばかりの盛耶の声。狭霧は、目を丸くした。


「え?」


 いつのまにか、狭霧にのしかかっていた盛耶の身体の重みが消えた。盛耶は身を起こして遠ざかっていて、今、そばで弾けた白い光から顔を庇うように、手で目元を覆っていた。長い指の隙間から覗く彼の目は、忌々しげに歪んでいた。


「なんだ、今のは――」


 そんなことをいわれても、狭霧にも答えられない。


 無言でいるうちに、盛耶は、自分の身体を弾き飛ばした白い光の源を見つけた。


「それだ! おまえの胸の合わせの……何をもってるんだ?」


 敵を見るような盛耶の視線の先は、狭霧の上衣の合わせ目にあった。そこには、白い光をじんわりと帯びた小さなものが顔を出している。紫と草色の染め紐を組み合わせた、輝矢の髪飾りだった。


「え? え……!」


「渡せ」


「え?」


 むんずと腕を伸ばしてくる盛耶の手を、そうはさせまいと狭霧は阻んでいた。熱に浮かされたように腕に力を込めて、思い切り盛耶の手を跳ねのける。盛耶の手が奪おうとしたものは、狭霧の大切なお守り。輝矢の魂のかけらが入った、彼の髪飾りだったのだから。


「触らないで! あなたなんかが……!」


 それは、狭霧にとっては命より大事な宝物だ。暴漢の手から庇おうと、必死で身を屈める。


 狭霧から遠のいていた抗う力は、今、そっくり戻ってきていた。盛耶が武芸に秀でた武人だろうが、胸の厚さも腕の太さも違う、腕力では勝てそうにない相手だろうが、胸元に忍ばせたお守りを守るためなら――。


 もみくちゃになって床を転げながら、狭霧の耳には、遠い日に聞いた幼い盛耶の声が蘇っていた。


伊邪那いさなの牢屋になんの用がある?』


 今、彼の手に渡らないように必死に守っているのは、その頃に守ろうとした輝矢の身体や住まいではなかったが、やはり輝矢に関わるものだった。輝矢がこの世にたった一つだけ残した、彼の魂の残り香だ。


 その頃から十年近く経ても、相変わらず、盛耶は勝ち目のない相手だった。こうして歯向かうのが馬鹿げたことで、子供じみていると考えたこともあった。でも、今は、どうしても盛耶を遠ざけたかった。


 今なら、もう一度いえる。幼い頃に輝矢へいった言葉――子供じみていたと、前に自分で悔やんだ言葉を。


『怒ってよ、輝矢! あんなやつ、一緒にやっつけよう!』


(怒って、輝矢。弾き飛ばして! さっきの白い光があなたの力なら、もう一度怒って! こんなやつ、一緒に懲らしめよう? 微笑むだけじゃ駄目だ、輝矢……!)


 盛耶の腕に翻弄されて、何度か狭霧は、身体が宙に浮いたと思った。でも、胸元を隠した狭霧の手を力ずくで広げようとする盛耶に、屈することはなかった。とうとう呆れて、盛耶が力を弱めるほどだった。


「いい加減にしないと腕が折れるぞ、狭霧」


 それは脅し文句だ。でも、屈するつもりはなかった。


 唇を強く結んで盛耶を睨み上げた時、狭霧ははっと我に返る。何かを聞きつけた気がしたのだ。


 盛耶のせいで、とても遠いと感じていた小屋の木戸や、堅固な檻に感じた、薄い木の壁。その向こうで、走り回る誰かの気配を感じた。


(いる。誰か――)


 そして、少しずつ現実を思い出した。ここは自分の仮宿で、出雲軍の野営から少し離れた浜里にある。素朴な木壁の向こう側では、日が暮れ始めているはずだ。


 そこを、狭霧の名を呼びながら駆け回る人がいた。その人は、忙しなくあちこちの人を問いただしていた。


「狭霧、どこだ! 返事をしろ! ――おい、出雲の姫の仮宿はどこだ? 盛耶を見なかったか? 図体のでかい武人だよ」


 あたりには、その人のものだけではなく、大勢の足音が響いている。狭霧の仮宿は浜里の中にあるのだ。ただ大声で助けを呼びさえすれば、誰かが必ず気づいてくれる場所だ。


 自分を探す青年の名を、狭霧は夢中で叫んだ。


「高比古!」


 すると、木壁の向こう側を駆けていた人の気配が、狭霧を見つけた。


 足音の向きが変わり、そうかと思えば、ダンと踏みこむ音が地に響く。すぐに、引き倒すように乱暴に木戸が開け放たれて、そこにできた四角い隙間には、息を切らした高比古の姿が現れた。


 その時、小屋の床では、狭霧と盛耶が取っ組み合いの喧嘩をするようにもつれあっていた。


 輝矢の髪飾りを守ろうと奮闘した狭霧の髪は乱れていて、上衣の合わせや裳も、あちこちが寄れていた。盛耶のほうもそれは同じだ。


 それを目で追った高比古は、真顔を歪めていく。それから、呆れ果てたといわんばかりに、彼は盛耶を軽蔑した。


「……あんたは馬鹿か?」

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