暁の香り (2)


 ここまで走り続けてきたのか、高比古は肩で大きく息をしていた。中の様子をたしかめると、彼はすぐに背後を気にして、鋭い声色で牽制した。


「それ以上近づくな、戻れ」


 床に転がされたせいで、狭霧の目は、床の高さに近い低い場所にあった。そこから見ると、高比古が声をかけた方向には、いくつか人影がある。土で汚れた裸足のつま先や、日に焼けたくるぶしには、見覚えがあった。遠賀おんがの里の人たちで、高比古に手を貸そうと、狭霧を探していたのだ。


 小屋の前から人払いをする間、高比古は、入り口の隙間をみずからの身体で塞いで、中を隠していた。薄暗い小屋の中に向けられた高比古の目はぴくりとも動かず、そこで狭霧を組み敷く盛耶もれやを馬鹿にするように、冷ややかだった。


「大国主は、おれを呼んでいないといった」


「ああ、遅かったな。あんまり遅いから、もう来ないかと思ったぞ?」


 盛耶は高比古を小馬鹿にして煽るようで、苦言を聞きいれる気配はなかった。


 高比古は、ついと眉根をひそめた。


「――狭霧から離れろ」


「なぜだ? おまえが消えろ」


 盛耶の声に、怒気が含まれていく。狭霧の両手首を掴んでいた手をじわじわと浮かすと、盛耶はそこで片膝をついた。野性的な目で戸口に立ちそびえる高比古をぎらりと睨み、口元に笑みを浮かべて、彼は、さっき狭霧にした以上に高比古を脅した。


「いい機会だ。邪魔をするならのしてやろうか? 腕にはさぞかし自信があるんだろう? 雲宮で武王の座を狙う、畏れ知らずの事代ことしろは」


 盛耶の口から、何度か出た言葉、武王――。


 少しずつだが、狭霧は、盛耶が高比古を敵視している理由がわかりかけたと思った。


 高比古は、去年の秋から雲宮で暮らし始めているが、それは賢王、須佐乃男すさのおの指示だという。


 盛耶は、武王になりたがっていた。諏訪の王など嫌だ、自分が父の後を継ぐ――と、唸り声をあげるようにして、狭霧にいった。


 でも、そこまで考えても、狭霧にはわからないことが多すぎた。


(この人が武王になりたがってるのはともかくとして――高比古が、武王になる? 高比古は事代で、彦名様の後を継いで事代主になるといわれていて、そういえば、神野くまのの大巫女様だって、巫王になるって予言をしていて……)


 高比古は、無言のまま戸口を塞いで立っていた。


 盛耶は、今にも高比古に殴りかかろうと構えの姿勢をとっているが、それを冷ややかに見下ろすだけで、高比古に、誘いに乗る気配はない。


 いや……そうではなかった。高比古は、盛耶がいった脅し文句を一薙ぎにするような、冷淡な笑みを浮かべた。


「死にたいのか?」


「なんだと?」


 不意打ちに、盛耶の勢いがいくらか削がれる。でも、次の瞬間には報復に燃えるように、掴みかかる直前のような中腰の姿勢をとった。


 高比古の口元に生まれた冷たい笑みは崩れない。高比古の目は盛耶を見下ろしていたが、それはまるで、すでに死んだ骸を見ているようだった。


「自分の命とそいつの身、どっちが欲しい? さっさと狭霧から離れろ」


「なにを――?」


「犯すっていうのは、生きたままそいつの身を食い殺すのと同じだ。知り合いが食い殺されるのを、むざむざ見逃す気はない。それくらいなら、おれがあんたを殺してやるよ」


 冷徹すぎるその声も、死神のりのようだ。


 そこで嗤っているのは高比古なのに、まるで別の人……いや、人ではない別の何かに見えて――。思わず狭霧は、背筋がぞくりと凍った。


 盛耶は、ぴたりと身動きを止めた。でも、すぐに彼は、はは……と余興を面白がるような笑い声をあげた。


「俺と戦う気か? おまえが?」


 死という言葉がちらついた闘いに用いるものは、もはや拳ではなくなった。ゆらりと立ちあがった盛耶の右手は、腰に佩いた剣の柄に伸びている。


 盛耶の仕草に気づくやいなや、狭霧は声にならない悲鳴をあげた。


 この人なら、今にも剣を抜くかもしれない。容赦なく人を傷つける刃をちらつかせて、高比古を脅すかもしれない。いや、脅しでは済まない。高比古を敵視する盛耶なら、一太刀くらい浴びせてもおかしくない。


(止めなくちゃ――! でも、どうやって。人を呼ぶ? 誰を……)


 剣の柄に手をかけた盛耶から凄まれても、高比古は冷笑をぴくりとも崩さなかった。それどころか、彼の笑みはますます暗く澄み渡る。


 高比古の気配に、隙は一分もなかった


「事代のあらゆる術を操って、丁重に殺してやるよ? まずは風を起こして、あんたの口を塞いでやろうか? おれが手を触れることなく、あんたは苦しみながら息絶える」


 狭霧は、すでに息の仕方を覚えていられなかった。


 高比古が怖い人だと思ったことは、これまでにも何度かあったが、今の高比古は、そのうちのどれともかけ離れて恐ろしかった。


 高比古は、盛耶のように人を殺める武具に手をかけることもなく、静かに笑っただけだった。でも、彼が無言で立つ姿を目にするだけで、こんな言葉が狭霧の胸にこだまする。


 まるで死を司る巫王。死神――。


 同じ想いを、盛耶も味わったらしい。


 いつか、盛耶の影は狭霧から遠ざかっていた。


「――そこをどけよ。通れない」


 盛耶は立ち上がって、戸口を塞いで立ちはだかる高比古を責めていた。


「ふん」


 高比古が横にずれて隙間ができると、盛耶は気合負けした居心地悪さを隠すように目を逸らして、脇をすり抜ける。戸口をくぐって外へ出ていくが、ふと何かを思い出したように立ち止まり、引き返した。


 盛耶が戻ってきたのは、狭霧のそばだった。狭霧のそばで片膝をついた盛耶は、自分の上衣の合わせ目に手を差し入れ、何かを掴み取ろうとする。


「狭霧」


 胸元から取り出したものを、盛耶は狭霧の手に握らせた。狭霧の手に乗ったのは、ずっしりと重く、ひんやりとした感触――。つややかに磨き上げられた、玉の手環たまきだった。


「ひとまず、謝っておく。さっきは順序がおかしかった。――先にこうするべきだった」


 狭霧は、盛耶の顔をぽかんと見上げる。獲物に噛みつく野狼じみた獰猛さは、今の盛耶からは薄れていた。


「これは、妻問いの宝だ。さっきの話、考えておけ。じゃあ、またな――」


「え……?」


(妻問いの宝? それってなんだっけ? 妻問いって――?)


 頭の中が朦朧として、狭霧は、年頃の娘なら知っているはずの言葉すら見失ってしまった。


 傷一つなく磨き上げられた硬玉の腕飾りを手にしたものの、狭霧は、そうしか動けない人形のように、首をふるふると横に振り続けるしかできなかった。


(もう来ないで。お願いだから、もう二度とわたしに近づかないで)


 去りゆく盛耶の大きな背中に懇願しながら、盛耶の姿が遠ざかり、浜里の薄闇の奥に見えなくなるまでじっと見送った。いつのまにか身体中から力が抜けて、膝は崩れ落ちるように床についていた。


「狭霧」


 ふいに、片腕を力強く引っ張り上げられた。その瞬間、狭霧は咄嗟に顔をあげて、自分の腕を取った相手を見上げた。


 誰? わたしに触るのは、誰――!?


 意識が朦朧とするほど脅えた。でも、すぐに我に返る。狭霧の前にあったのは、高比古の真顔だったのだから。


「悪かった」


 高比古は、すぐに手を放す。高比古の手が離れると、狭霧の手首はするりと宙をすべって、再び膝はぺたりと床につく。


 高比古は、力が入らなくなった狭霧に手を貸そうとしていたのに――。ようやくそれに気づいた狭霧は、涙目で高比古を見上げた。


「ごめん、その……」


 それには答えずに、高比古は首を横に振る。それから――。


「――平気か? 何もされなかったか?」


 高比古には、これまで狭霧が知らなかった類の静かな優しさがあった。その声音や高比古の態度は、狭霧を癒した。でも、狭霧はまだ混乱していた。


「何って……何を」


 盛耶から、生まれて初めて気味悪いと感じた奇妙な眼差しで絡め取られて、手や身体の動きを力ずくで封じられた。盛耶は妙なことばかりを狭霧へいったが、わからないなりに、それはひたすら怖かった。


 脅えているうちに高比古が現れて、そうかと思えば、高比古と盛耶は、命のやり取りをほのめかす口喧嘩を狭霧の目の前で繰り広げた。


 唸り声をあげる獣に似た気配で脅した盛耶に応じた高比古の声は、冷たかった。その声は、まだ狭霧の耳もとでこだまになっていた。


『犯すっていうのは、生きたままそいつの身を食い殺すのと同じだ。それくらいなら、おれがおまえを殺してやるよ』


(――わたしはさっき、生きたまま殺されかけたの?)


 何度繰り返し考えても、よくわからない。けれど、初めて感じた奇妙な恐怖は、今でも狭霧を震えさせた。涙は止まる気配がなく、ぽろぽろと頬を伝ってこぼれ落ちていく。泣いているのが恥ずかしいとも思ってしきりに指でぬぐっても、涙は止まりそうになかった。


「どうして泣いてるんだろう? よくわからないのに」


 意味もなく泣くなんて変なの――。そう嘲る自分もいたし、思い切り泣くべきだと訴える自分も狭霧の中にいた。


 酷い目にあったのか、そうでなかったのか――。やはり狭霧は、よくわからなかった。


「馬鹿。あんなのを信用するなよ」


 不満げな声がするほうを見上げると、そばで膝をつく高比古が、不安げに目を細めていた。責め文句だったが、彼の目は狭霧の身を案じていた。


(信用する? 信用したの、わたし? 信用しちゃいけなかった?)


 狭霧の胸の中には、高比古に尋ねる想いも生まれた。唇は、想いをそのままつぶやいた。


「でも……幼馴染だし、信じなくちゃ、信じてもらえない。そう思って、そう思ったの……でも……」


 その時、狭霧はぐらりとよろけてしまった。眩暈が起きたかと思ったが、そうではなかった。狭霧は、がくがくと身体中で震えていた。


(怖かった、怖かった……)


 狭霧が鮮明に覚えているものは、初めて味わった恐怖だけだった。


「あの人、出雲に戻りたいからって、わたしのこと……。変なの――」


 高比古は、困った相手を叱るようにため息を吐く。


「理解できない奴なんか大勢いるよ。わかると思うほうがおかしい」


 高比古の仕草は、混乱する狭霧よりも、狭霧を理解しているように見えた。


 そういえば、狭霧の代わりに盛耶を責めたのは高比古だったし、死をちらつかせて追い払ったのも彼だった。狭霧は、とても嫌で恐ろしかったけれど、怒るべきことなのかそうではないのかもわからずに、結局、ただ震えるしかできなかった。


 高比古のほうが、自分をよくわかっている。そう気づくと、もう一つ狭霧は気づいた。

 

 高比古は、決して狭霧の身に触れようとしなかった。彼はそばで狭霧を案じていたが、手を貸そうとした彼の手を振り払ってしまってからは、彼は、わざと距離を保って、狭霧のそばに寄りすぎないようにしていた。無意識のうちに青年の身体に脅える狭霧を、気遣って――。


 狭霧は、なんだか、胸が締め付けられる思いだった。


 まるごと包み込んで抱きしめたり、優しい慰めの言葉で宥めたりして、懸命に世話を焼くわけではないが、高比古は優しかった。


(この人は、いつのまにこんなに優しくなったんだろう。いつのまに――)


 そう思うと、ふと、狭霧の耳に少女の声が蘇る。高比古を想って、恥ずかしそうに頬を赤らめた少女――心依姫の声だ。


『わかるんです。あの方はとてもお優しい方、お心が広くて……』


 高比古の妻となるためにはるばる宗像から出雲へ移り住んだ心依姫は、狭霧のそばで、とつとつと高比古への想いを語ったことがあった。


 出雲の草園でそれを聞いた時、狭霧は微笑ましいと思った。


 惚れてしまえばあばたもえくぼというし、相手のことが好きだから、たとえそうではなくても、良く見えてしまうんだろうなあ――と。


 でも今は、そう思ってしまったことを、心から謝りたかった。


(本当ね、心依姫。あなたの旦那様はいい人よ――)


 ようやく、息を吸うのが楽になってきた。


 そっと涙を拭くと、狭霧ははにかみながら高比古を見上げた。


「来てくれてありがとう、高比古――」


「おれのことはいいよ。それで、大丈夫なのか? ――平気か? その……たとえば、夜は眠れそうか? 浜里を守る番兵は増やすようにいっておくし、このままここにいるのがいやなら、野営のおれの天幕を明け渡してやるぞ?」


 高比古は熱心に狭霧を気遣っていた。それを感じただけで胸がほうっと安堵して、狭霧は深く息を吐いた。


「本当に大丈夫。ありがとう、そんなことまで心配してくれて――」


「でも……あいつ、絶対にまた来るぞ。馬鹿は本当にわからない……」


「高比古も、あの人はわからない?」


「さっぱりだ。あんな馬鹿、何をしでかすのかさっぱりわからない。それも、こんな人の目がある場所で――。もし手を出そうとしたのがおれなら、もう少しましに動くっていうか――」


「え?」


「――違うぞ? ものたとえだ。やるなら、もう少しうまくやればいいのにっていったんだ。――諏訪を出たことといい今といい、本当に勢い任せな奴だよ」


 高比古は、面倒なものに呆れるような素振りで腕を組んでいた。


 狭霧は、思わず笑った。


 さっき感じたように、やはり高比古は、狭霧以上に盛耶に腹を立てて、狭霧以上に自分の身を案じてくれている。そう思うと、安堵で胸はほっと温かくなった。


「ありがとう、高比古――。でも、もう平気だよ。今は初めてだったからびっくりしたけど、同じことがもしもまた起きても、その時は二回目だから、たぶんちゃんと逃げるし、助けを呼んだりできると思う。だから……ごめんね、心配かけて。ありがとう」


 まだ、何が起きたかは理解できずにいた。でも、頬にある笑みが少しずつ力強くなっていくのは、自分でも感じた。


(この人からこんなに心配してもらったんだから、わたしも、もう少ししっかりしなくちゃ)


 狭霧の笑顔を見やると、高比古は渋々とうなずいた。


「あんたがそういうなら――。それにしても、あいつ、よくあんたに手を出そうと思えるよ。大国主にばれたらどうなるかわからないってのに、本当、よくやるよ――」


 高比古がつぶやく言葉は、どれも狭霧には新しかった。


(そっか、わたしは、盛耶から「手を出され」たんだ。それは、とうさまが嫌がることなんだ。――それにやっぱり、高比古のほうが、わたしより状況を理解しているんだろうな)


 まだわからないことだらけだったが、今はそこまで不安ではなかった。知らなかったことを知っていくのはわりと爽快だし、きっとそれは、二度目が起きた時にどうにかできる力を、狭霧に残していくはずだから――。


「高比古は、とうさまが怖い?」


「ああ。――覚えてるか? 巻向で、一度、あんたを戦場に連れてったことがあったろう? あの後おれは、あの人に呼び出されて、思い切り脅された。忠告は一度、次はないって目をされてさ――実をいうと、あの場で殺されるかと思った」


「殺されるかと思った? 高比古が? とうさまに?」


「そういうものだよ。あんたは、それだけあの人から大事にされてるんだから。――だよなぁ、あいつ、さっきのが大国主にばれたらどうする気なんだろう? 黙っててやる義理はないんだが、おれも、怖くていえそうにない……。大国主だけじゃなくて、安曇あずみにも、無理だ。……切れた安曇が一番怖い」


 触れ合わないように互いの距離を保っているとはいえ、高比古は、狭霧の近くにいた。


 でも、狭霧は、高比古の香りを感じなかった。輝矢には輝矢の香りが、いにしえの森で出会った邇々芸ににぎという名の青年には彼の香りが、盛耶にも、盛耶の香りがあったのに――。


(ううん、違う――)


 しだいに、狭霧は、高比古にある香りや印象のようなものに気づいていった。高比古には、風や水、森や泉など、人というよりは自然の香りに近いものがあった。注意しないと当たり前すぎて気づかない上に、さして優しくはなく、甘くもないが、そこにあると気づくだけで不思議と安堵する――高比古にあるのは、そういう香りだった。


(みんな違うね。よく見れば、みんな……そうだよね)


 安曇が怖いと黙りこむ高比古も、妙におかしい。狭霧はくすくすと笑った。


 そのうち、ふと高比古がうつむいた。


「ん? あんたのお守りは?」


 高比古が気にするのは、狭霧の胸元。そこには、髪飾りがわずかに紐の端を覗かせている。大切な相手の手を引くように、狭霧は胸元からそれを取り出した。


「あれなら、ここにあるよ。すごいのよ、さっき。これがね、白く光って、盛耶を弾き飛ばしたの!」


 でも――。狭霧の手のひらに乗った髪飾りを目にするなり、高比古の目は、急に暗く翳っていく。


「――触ってもいいか?」


「うん、どうぞ」


 盛耶には絶対に嫌だと拒んだが、相手が高比古なら平気だ。


 いわれるままに、差し出された高比古の手のひらに、草色と紫色の染め紐を組み合わせた髪飾りを丁寧に置いてやる。すると、高比古は、手の上の髪飾りをしげしげと見つめて、それから、淡々と尋ねた。


「――ふうん。なあ、狭霧。最近、何か変わったことはないか?」


「何かって?」


「この髪飾り――前に見た時と比べると、少し違って見えるんだ。力が弱まっているのかな……」


「力?」


 高比古の手に渡った髪飾りを、狭霧も覗きこんだ。


 狭霧は、その髪飾りに輝矢の魂のかけらが入っているとわかる不思議な力や、不思議な目は持ち合わせていない。いくら大事なお守りでも、時おりただの髪飾りにしか見えなくなったり、本当に輝矢の幻が宿っているのかと不安になったことも、これまでに何度もあった。


 でも、今は疑う気などなかった。なにしろ、この髪飾りは、盛耶から狭霧を守ろうと働いたばかりなのだから。


『怒って、輝矢!』


 胸の中で呼びかけている間、その髪飾りには、狭霧の願いに応じようと力を溜める何かが宿っていた。たしかに、何かが――。


 その時のことを思い出して狭霧はにこにこと笑うが、それとは裏腹に、手の中の髪飾りを覗きこむ高比古の目は、奇妙なものを見るように歪んでいく。高比古は、狭霧にとっては悲しい提案をした。


「これ、おれに渡しておかないか?」


「えっ? だ、だめ――!」


 高比古の声が終わるより先に、狭霧は、大切なお守りを手放すまいと身を屈める。だから、高比古もそれ以上はいわなかった。


「なんでもない……いい」


 しばらく、高比古は、無言のままで手の上の髪飾りをじっと見つめていた。


 それから、髪飾りを狭霧の手に返すと、なにやら手仕事を始めた。何かを探すように自分の身体を見下ろすと、袖に結ばれた染め紐をじっと見つめている。


「これでいいか」


 その紐は、高比古の袖口を留めるためのもので、出雲の軍旗を彩るのと同じ強い黄色に染められていた。それを袖から抜き取ると、高比古は、手のひらの上で丸くまとめて、口元で祈りをこめるような仕草をした。


 高比古がつぶやいたのは、言葉だったのか、別の何かだったのか。少なくとも狭霧の耳には、彼の唇のあたりで奇妙な音が漂ったとしか感じなかった。


 やがて、高比古の周りに不思議な風が起きた。それは、妙に重くて息苦しいのに、思い切り浴びてみたいと足を踏み入れたくなるほど優しくて、奇妙で、温かい。


(なに、これ……。どこかで……?)


 そういえば狭霧は、似た気配を、すぐそばで感じたことがあった。


 あれはたしか、巻向まきむくでのことだ。狭霧が出雲軍に混じってその国へ出かけた時、紫蘭しらん桧扇来ひおうぎが、戦で傷ついた兵から痛みを忘れさせようと、不思議な言葉を使って眠らせていた。あの時、紫蘭と桧扇来の二人が為していたのは、祈祷きとうという名の、あやかしの技だったはずだ。


 閉じていたまぶたを開いていくと、高比古は、口元に寄せていた黄色の染め紐を狭霧へ差し出した。


「腕を出せ」


「え?」


 いわれるままに右腕を出すと、黄色の染め紐が、狭霧の手首に巻きつけられていく。結わえながらも、高比古は薄く目を閉じてまた何かつぶやくが、彼の唇が不思議な音を囁くたびに、手首のあたり……高比古が染め紐をくくりつけていくあたりがじんわりと疼いた。手首の周りに、ぬるい風が起きた気分だった。


「これでいい。たぶん、しばらく外れないから」


「外れないって? これは……?」


「あんたは、いろいろ厄介事に巻き込まれそうだから。念を込めたから、しばらくはこれがあんたを守るよ。その……あんたの大事なお守りもあんたを守るだろうが、とにかく、何か起きたらその隙に必ず逃げろ。いいな?」


「う、うん」


 なんだか、ものすごいものを間近で見てしまった気分だった。


(これが、事代の技なんだ……)


 狭霧の薬師の手ほどきは、事代の紫蘭と桧扇来がしてくれていたので、狭霧は事代を、薬師の上役のようなものと思っていた。でも、おそらく薬師と事代は、まるっきり違うのだろう。


 事代とは、不思議な技で風を起こしたり、怪我人に眠りを与えたり、人を殺めたり――そういう、普通の人には難しい特別な技を身につけた人たちなのだ。


 そういえば、紫蘭と桧扇来がいっていた。


『精霊というのは、風や石や木々に宿る力のことです。人に魂があるように、どんなものにも精霊が宿っていて、私たち事代は、言霊ことだまと呼ばれるまじないの文句を操ることで、精霊のかすかな声を聞き、話し、力を借ります。でも、高比古様は、それと自在に話をします。……桁違いの力をお持ちなんです』


(そうか、今のが……言霊っていうものだ)


 不可思議な力への脅えが憧れに代わると、狭霧ははにかみの笑顔を浮かべた。


「新しいお守りっていうことね? ありがとう。その……やっぱり高比古って、事代のすごい人なんだね。そういえば、紫蘭と桧扇来がいっていたよ? あなたはすべての精霊に愛された子で、言霊を使わなくても精霊から力を借りられるって。特別で、聖なる人で……」


 褒め過ぎたせいか。高比古はむっと顔をしかめた。


「なんなんだそれは。そんなんじゃない。これくらいならあいつらにもできるし、それに最近は、こういうのに慣れてるから――」


(最近は、こういうのに慣れてる?)


 なんのことだろう? と、狭霧は思ったが、すぐに幸せな理由を思いついた。


(もしかして――高比古、こういうお守りを誰かにつくってあげたことがあるのかな? 手つきが慣れていたし、きっとそうよ。……相手は、心依姫かな)


 好きになれない。そばにいたいと思えないといいつつも、高比古は、自分に嫁いだ幼い姫が心安らかに過ごせるようにと案じていた。


 出雲に残してきた新妻の手に、狭霧の手に結わえられたのと同じお守りがあれば、きっと心依姫は、毎日それを眺めて寂しさを紛らわせるだろう。


(そうなら、いいな)


 胸が、ふんわりと温かくなった。


 それから、この薄暗い場所を出ようと、高比古を外へ誘うことにした。


「高比古、野営に戻ろうか。お腹が空いちゃった――」


 浜里に建つ家々でも夕餉の支度が済んで、一家みんなで温かい食事を口にしている頃だろうから――。


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