暁の香り (3)

 たとえ一人でいても、誰かが見守っていると感じるのは、とても心地いいものだ。


 胸には輝矢の髪飾りを忍ばせて、手首には高比古がくれた黄色の染め紐を結わえて――。二人分の祈りに守られて床についた狭霧は、ぐっすりと寝入ることができた。


 翌朝、すっきりと目覚めると、朝の一本道をいき、出雲軍の野営へ向かう。朝餉の支度を手伝うためだ。


 急ごしらえの炊ぎ屋となった川辺の草むらには、まだ朝露が残っていた。そこで、兵に混じって人数分の粥を炊いていると、遠くに高比古の姿があるのを見つけた。


 野原の端には、いい匂いが漂う炊ぎ屋に見向きもしない一団がいて、高比古はその一団に混じっていた。そこには紫蘭や桧扇来たち、事代ことしろや高位の武人たちが揃っていたが、どこかへ出かけるようで、先に朝餉を済ませたのか、いつでも発てる身なりをしている。


(高比古、昨日はありがとう。それにしても、本当に忙しそうね)


 本当は、そう声をかけたかった。でも、高比古がいた場所は声をかけるには遠かったので、せめて目が合わないかと、高比古の目元をじっと見つめた。


 すると、高比古は狭霧に気づいた。でも、しばらく目を合わせただけで、狭霧を無視するように顔をそむけて、自分の部下のほうを向く。


(もう……少しくらい笑ってくれればいいのに。勘違いされちゃうよ?)


 狭霧は、苦笑した。高比古の表情の乏しさに同情しつつ、呆れつつ。気を取り直して、朝餉の支度に手を戻すことにした。


(こんなに早く出かけるなんて、高比古って、夜明け前には目を覚ましていたのかな? 不思議なお守りをつくり出す力がある人なのに、楽をしようともせず、人よりずっと働いて――忙しい人って、尊敬するほど頑丈よね。わたしも、がんばらなきゃ。わたしよりずっとたいへんな役目をこなしている高比古に、合わせる顔がないわよ)


 狭霧の手首には、高比古がそこに結わえた黄色の染め紐がある。その紐は、きつく締め付けもせず、突かず離れずの場所に輪っかをつくって、手首をふわりと囲んでいる。でも、奇妙な力が働いているのか、引きちぎろうと力を込めようが、刃物を当てようが、狭霧の腕から外れそうになかった。


(それにしても、高比古たちはどこにいくんだろう――。毎日どこかへ出かけていると思ってたけれど、こんなに朝早くから野営を出ていたんだ。紫蘭や桧扇来や、武人たちも向かうんだ。たぶん、安曇や、とうさまもよね――)


 父、大国主をはじめとする高位の武人たちは、連日野営を留守にしている。


 高比古たちは、ここを出ていったい毎日、どこへ出かけているのか――。気にならないといえば嘘だが、実のところ、狭霧はそこまで知りたいと思わなかった。高比古や父たちのすることは、自分とはあまり関わりがないと思ったし、自分がすべきこととは違うとも思った。


(わたしは、目の前のことを真剣にやるだけよ。炊事の手伝いならそれを、土いじりならそれを――。特別な力なんかないわたしにはこれくらいしかできないのに。のんびりしているわけにはいかないもの。下働きだろうが、動いていなくちゃ)


 その朝、狭霧は、粥を炊く大鍋のそばに立っていて、兵の一人一人へ器を渡す役目を負っていた。


「どうぞ」


 にこりと笑って手渡すと、目が合った兵は、照れ臭そうに頬を赤らめる。


「ひ、姫様の手から飯をいただけるなんて……」


 兵を従える立場にある武人たちのもとへは、従者の役目にある者が、すでに粥を運んでいるので、飯にありつこうと大鍋の前で列をつくるのは、位の低い兵ばかりだ。勇ましく身を飾る鎧兜を脱いでしまうと、彼らの身なりはとても簡素で、髭が伸び放題の人もいれば、髪がぼさぼさの人もいる。


 頬を緩ませる兵たちへ、狭霧の隣で給仕をする男は、ちくりといった。


「申し訳ないと思うなら、姫様から役目を代わったらどうなんだ?」


 が、すぐさま兵の列から不満の声があがる。


「ええ? 嫌だ! おれだって姫様から飯をもらいたい!」


「そうだそうだ、姫様から手渡されるだけで飯がうまくなるんだ。ささやかな幸せを奪うようなことをいうな!」


 ただ、器を配る手伝いをしているだけなのに――。褒めそやされてしまうと、狭霧は顔を赤くした。


「そ、そんなに大したことはしてませんから……!」


 それから、ふと不思議に思った。


(姫様、か――。みんなと同じことをしているだけなのに、そんなに珍しく見えるものなのかな。それが、血筋?)


 目の裏には、盛耶もれやの傲慢な笑顔が蘇った。記憶に残る盛耶の顔は、狭霧を上から押し付けるような傲慢な笑みを浮かべていた。


『「力ある者が上に立つ、出雲に血の色は無用」……か。もっともらしいが、本当のところはどうだ? ――つまり、結局は生まれがものをいうんだよ。ここが出雲だろうがな』


 知らずのうちに、唇を噛んでいた。蘇った盛耶の声に、それは違う、そうじゃないといい返したかった。


 狭霧は、ぼんやりとした。でも、ぼんやりとしていると、わくわくとした声が、狭霧を現実に引き戻す。


「姫様、おれにも飯をください!」

 

 目の前には、もじもじと手を差し出す若い兵が立っていた。


「は、はい。ごめんなさい、今……!」


 慌てて、手にしていた粥の器を手渡す。そうしていると、嬉しそうに笑う兵の頭のずっと奥で、大きく口をあけてあくびをする大柄な青年の姿が目に入った。盛耶だった。


「おい、俺のメシはどうした。腹が空いたぞ。早く持ってこい」


「た、ただいま!」


 盛耶は、今起きたばかりというふうに大きく背伸びをして、機嫌悪く従者へ文句をいっている。


 それを見るなり、狭霧はむっと唇を結んだ。


(偉そうな人。やっぱり、ちゃんと働こう。ああはなりたくないもの)


 盛耶と目が合ってしまいませんように、ここにいると見つかりませんように――!


 兵の影に隠れつつ、狭霧は、手仕事を続けることにした。





 朝餉の片付けが済むと、狭霧の足は、こっそりと森の奥を目指した。


(畑へいく前に、少しだけ)


 こうやってわざわざ遠回りをするのは、もはや日課だ。


 人の目を盗んで林を駆け抜け、奥にある川に渡された丸木橋を通って、いにしえの森へ向かう。森の中でひっそりと茂る涼草の草園へ、こうして毎日通っているが、その森で、邇々芸ににぎに再び出くわしたことはなかった。邇々芸の姿どころか、その森には人の気配そのものがなかった。あるのは、森の侵しがたい荘厳な気配ばかりだ。


 とくに朝の森は静かで、ひんやりとしていて、緑の天蓋の下をゆっくりと歩くだけで、不思議な場所に迷い込んだ気がして、身が引き締まる気がする。


 葉の緑色を透かした清々しい色の光や、光をぼんやりと揺らす、冷たい朝の風。森を満たす光は澄んでいて、頭上に広がる緑の屋根はとても高い場所にある。上を見上げていると、緑色をした深い海の底から、彼方の水面を見上げているような錯覚まで覚えた。


(気持ちいい。緑の海に潜ったみたい……。きれい……。これを味わえるなら、あの人に会えなくても、いいか――)


 無駄足を嘆く胸の内を宥めながら、通い慣れた森の小路を進んでいくと、やがて、道の奥には清らかな草園が見えてくる。その草園の前が、狭霧の朝の散策の折り返し場所になっていた。


(あそこで、涼草すずくさの爽やかな香りを吸いこんだら、帰らなくちゃ)


 邇々芸は、すでに狭霧にとって、二度と会えない人になっていた。偶然森で出会った、どこの誰とも知らない人に、再び偶然会えるなどと思うこともなかった。


 でも、その日に限って――。狭霧は、行く手に見える緑色をした光の海の底に、品よく立つ長身の青年の姿を見つけた。


 その人は、緑の光に溶けてしまいそうな白一色の衣装を身につけている。黒髪は、両の耳元で綺麗に束ねられ、鳥の羽を思わせる白い髪飾りがついている。その人には、遠目から見ただけでもそうとわかる優美な気配があった。


 邇々芸だった。


「あ……」


 驚いて、声が出た。そのうえ、足が重くなった。


(もしかしてわたし、緊張してる? 毎日探していた人に、ようやくやっと会えたのに?)


 立ち止まりそうになる足をいい聞かせて、行く手に見える邇々芸のそばまで進んでいく。邇々芸は草園の前に立っていて、狭霧と目が合うとにこりと笑った。


「おはようございます」


 すっと横に伸びた眉や、憂いを帯びて見える優しげな目や、白い頬や、華やかな桃色の唇や、細い顎や、美しい二重の目――。邇々芸の顔立ちや背格好は、早朝の森の気配にうまく馴染んでいた。


 さく、さ……。森の小路に降り積もった落ち葉を踏み分けながら、無理なく声が届く場所まで近づくと、狭霧も朝の挨拶を返した。


「お、おはようございます」


 狭霧と向かい合うと、邇々芸はにこりと笑って、狭霧の顔をじっと見下ろした。


「会えてよかった。実は、もう一度あなたに会いたいと、ずっと思っていたんです」


「わたしも……。実は、毎日ここへ来ていたんです。もう一度会えないかと思って――」


「僕を探してくれていたんですか? それは嬉しい」


 二重の目を柔らかく細めて、邇々芸は笑った。


「よかったら、少し歩きませんか? 向こうに、あなたに見せたい場所があるんです」


「わたしに?」


「ええ、たぶん気にいってくれると」


 断る理由はなかった。狭霧は、こくりとうなずく。すると、邇々芸は、狭霧を気遣うように何度も背後を振り返りながら、ゆっくりと道を進み始めた。


「そう長くは歩きませんから。どうぞ」


 そういって、邇々芸はそっと腕を浮かせて、凛々しい仕草で狭霧をいざなう。


 邇々芸の顔にある品のいい笑顔や、優美な所作は、まるでどこぞの姫君を相手にしているかのようだった。名は狭霧だと名乗っただけで、狭霧は、それ以外のことは何一つ彼へ伝えていないのに――。


 たしかに、狭霧が身にまとう上衣や裳は、ただの里の娘とは間違いきれないほどの極上の品だった。とはいえ、連日の土いじりで、もとは白の衣も、それなりに色がくすんでいる。


(誰に対しても、同じように接する人なのかな? やっぱり、輝矢みたい。あの子も、どんな人に対しても態度を変えない子だった。きっと、いい人よ――)


 それは、狭霧を、胸がふわりと浮く気分にさせた。


 道の表面を覆う落ち葉は、二人が進むに従って、さく、さ……とかすかな音を立てている。


 落ち葉がこすれる物音のほかにも、さらにひそかな物音が鳴っていた。それは、ぴしん、ぱし……という、何か、とても軽いものがきしむような音だ。でも、あまりにひそやかだったせいか、人の耳にはなかなか届かない。


 静かな森には、不思議な気配が隠れていた。でも、その気配はあまりにひそやかで、狭霧は結局、気づくことができなかった。





 小さな道は、いにしえの森の奥へと続いている。道筋に沿って奥へと歩いていくと、狭霧は、向こうに人影があるのを見つけた。


 人影は、朝もやをまとう大樹のそばに立っていて、背格好は邇々芸と良く似ている。森の奥に姿を現したのは、邇々芸と齢が変わらない青年だった。


 その青年は、道を進んで近づいていく二人に気づいていて、目を逸らすことなくじっと見つめていた。その視線に応えるように、邇々芸は、片腕をあげて青年へ合図を送った。


「お連れの方ですか?」


「連れというか、友人です。名は、穂耳ほみみというんです」


「もしかして、お目付け役ですか?」


「お目付け役……なのかもしれませんね。彼はね、狭霧、いつも僕に説教しようとするんですよ。実は、彼のほうが僕より二つ年上なんですが、少し年上だからといって兄ぶるんです」


「でも、もしかして、あなたが草園にいっている間、あの人はずっとここで待っていたんじゃないですか? とても面倒見がいい兄上ですね」


 狭霧がくすくすと笑うと、邇々芸もふふっと笑みをこぼした。


「ええ。彼は、いつも僕のそばにいてくれます。いいえ、彼だけではなくて、僕はいろんな人に支えられています。――穂耳に、あなたを紹介させてください。森で会った娘に叱りつけられたと話したら、いい気味だといって、あなたにとても会いたがっていましたから」


 ふと、狭霧の背中に温かいものが触れた。なんだろうと隣を見やると、半歩先を歩いていたはずの邇々芸が狭霧のすぐ隣にいて、近い場所から見下ろしている。背中に回ったのは、純白の袖で覆われた、邇々芸の腕だろう。


 邇々芸の手つきは丁寧で、まるで姫君を護衛する高貴な武人のようだった。


 とはいえ――。勝手に肩を抱くような真似をされるのは、狭霧にはいい気分ではなかった。


(結構この人、馴れ馴れしいなあ。もしかして、これくらいの齢の男の人と、わたしくらいの齢の娘が歩く時って、こういうものなのかなぁ。……わからないけど)


 青年と娘が、普通どのようにして歩いたり話したりするのかを、狭霧はよく知らない。


 ちらりと顎を傾けて隣を覗き上げると、邇々芸の横顔が見える。まっすぐ前を向いた邇々芸は、口もとに品のいい微笑をたたえていて、昨日狭霧に乱暴をした盛耶のような、娘に襲いかかる男じみた雰囲気はない。


 はっと気付くなり、狭霧は落ち込んでしまった。


(変な目で見たりして……わたし、失礼なことを思った? この人は、森を案内してくれているだけなのに)


 胸に生まれた暗い疑心を宥めつつ、邇々芸の優雅な手に誘われるまま進んでいくと、樹のそばで待っていた穂耳という名の青年は、静かにうつむいて礼をする。そうかと思えば、彼は地面に片膝をつけ、深く頭を下げた。


 邇々芸は穂耳のことを友人といったが、穂耳の振る舞いは、友人というよりは従者のものだった。


(こんなに丁寧にかしずく従者を連れているなんて、もしかしてこの人、ものすごく位が高いのかな? ――そうよね。お忍びで来ているっていっていたし)


 そばを歩く邇々芸を気にした時、邇々芸は狭霧に横顔を見せて、ひざまずく穂耳に笑いかけていた。


「首尾は?」


「上々です。いつでもどうぞ。ただし、早めに」


「……ほらね、狭霧。彼は兄ぶっているので、いつも一言多いんです。自由にどうぞといいつつも、必ず何かは釘をさすんですよ?」


 短い言葉で穂耳とやり取りをした後で、邇々芸は柔らかな印象のある二重の目を雅やかに細めて、狭霧を見下ろす。笑顔は柔和だ。


 でも、何か奇妙だ。


 不思議な幻を見ている気になって、狭霧はぽかんと唇をあけた。


 邇々芸は微笑んでいた。そして、先ほど宣言したように、穂耳へ狭霧を引き合わせた。


「穂耳、彼女が狭霧です」


 狭霧は、はっとして笑顔をつくった。


「さ、狭霧です。はじめまして」


「はじめまして。穂耳と申します」


 はじめの挨拶が済むと、穂耳はうつむいていた顔をあげて、ゆっくりと腰をあげていく。


 ひざまずいていたのでわからなかったが、穂耳の背はかなり高かった。


 そして、穂耳の身なりは、邇々芸とはかなり違っていた。衣服は鮮やかな鬼灯(ほおずき)色に染められていたが、布地は目が粗く素朴な織りで、袖や、袴の縫い方も簡素だ。その分、首回りや帯に細かな刺繍がほどこされている。身なりの粗野さに似合うほど肌は陽に焼けており、背中まで下りた黒髪の結い方も無造作だった。


 狭霧の笑顔と目が合っても、穂耳はぴくりとも表情を崩さず、真顔をしていた。


「邇々芸様、急いでください。――さっき、気づかれたそうです」


「わかった」


 邇々芸は肩をすくめつつ、狭霧を見やった。邇々芸は笑顔を浮かべていたが、やはり狭霧は、心細く感じた。誤って幻の世界へ足を踏みいれてしまった――たとえるなら、そういう気分だ。


「あの……」


「今、遠賀おんが阿多あたの港には、大国主の一行が来ているそうですね」


「え?」


「それにしても、出雲の術者は、力が強いですね」


「……術者?」


「ええ。あれだけの船団が港に船を着けていながら、武王の一団がいることを隠す存在があるようなのです。これでは、うかつに近づけない。あれは、なんと呼べばいいんでしょうね。障壁でしょうか、結界……それとも、潔斎域? なんと呼ぶのか、あなたは知っていますか?」


 知らずのうちに、狭霧の背に、冷たい汗が下りた。


(出雲? 術者? いったいなんの話をしているの)


 邇々芸の声は、しだいに冴えていく。丁寧な話し方をしつつも、彼の声音は、さっき穂耳と言葉を交わした時の雰囲気に近づいていった。


「歩かせるような真似をしないと、そういえばいいましたね」


 ここにいては駄目だ――逃げろ。心の底で危うげな悲鳴が起きて、狭霧の足は後ずさりをした。でも、わずかに退いただけで、それ以上は後ろへ下がれなかった。背中に、それを阻む邇々芸の手のひらがあったからだ。


「――あなたは、誰?」


「僕が、誰か? それは、後で話しましょう。今は穂耳が許してくれそうにないから」


 邇々芸は柔和な笑みを浮かべている。でも、いっていることは、決して穏やかではない。


(騙されてる?)


 さあっと血の気が引いて、青ざめた。次の瞬間、狭霧は背中の手のひらを振り切って、一歩を踏み出していた。逃げようと――。


 幸い、足には自信がある。相手が長身の青年だろうが、思い切り駆けて森を出て、大声を出して助けを呼べば……。


 でも、邇々芸のそばから少し離れた場所で、狭霧の足は止まってしまう。そこには、狭霧の行く手を阻もうと立ちはだかる人影がいくつもあった。現れたのは、丈の長い典雅な衣装に身を包んだ男たちで、四人いたが、揃って手を胸の前で組んで、何やらつぶやいている。咄嗟に狭霧は、それがなんなのかを悟った。少し前に、似た光景を見たことからだ。


(事代? 術者?)


 気づくや否や、狭霧の足は、そこから動かなくなった。はっと気づいて真下を見下ろすと、不思議な蔦が、足の周りでさわさわと地上を這っている。それが足に絡みついて、狭霧はびくとも動けなくなっていた。


「離して、きゃあ……!」


 意をもって狭霧の足に絡みつこうとする異形の草に脅えて、悲鳴すら震えた。


 少し駆けて離れたはずだったのに、邇々芸の気配は、あっという間にすぐそばまで追いついてくる。彼は、先ほどと一切変わらず、穏やかな笑顔を浮かべていた。


「さあ、いきましょう。そばの川岸に舟が待っています」


「ふ、舟?」


「ええ。そこまで、僕があなたを抱いていきます」


「ちょっと待ってください。舟って……わたしを、どこに連れていく気なんですか!」


 恐怖で声が引きつった。でも、喚いても、邇々芸に躊躇する様子はない。


 足首のあたりは、動物のように不気味な動きをする草でがんじがらめにされている。邇々芸の手を避けようと少し身動きをするだけで、前のめりになって転んでしまいそうだった。


「暴れないでください。幻の草が、足に食い込みますよ?」


 背後に立った彼は、平然と狭霧の背中と腿のあたりに腕を伸ばして、抱き上げようとする。狭霧の悲鳴は聞こえているはずなのに――。


 邇々芸が、いったいどこの誰なのかも、彼と一緒に現れた奇妙な集団がいったいなんなのかも、こんなふうに浚われようとしている理由も、狭霧は、どれもこれもがよくわからなかった。このまま連れ去られてしまえば、行き着く先も、間違いなくわからない場所のはずだ。


(そんなところへいったら、帰れなくなる――! 待って、やめて。触らないで……!)


 脅えて、ぎゅっと身を凍らせた狭霧に伸びた邇々芸の手のひらが、まさに触れようとしたその時。ばちん――! と、白い光が弾ける。昨日、盛耶を狭霧から弾き飛ばした、狭霧を守ろうとする光だ。


「え?」


 脅えつつ背後を振り返ると、そこでは、邇々芸が目を見開いて、弾き飛ばされた自分の手のひらや、狭霧の身を訝しげに見下ろしていた。


「今のは――?」


 きっと、邇々芸を弾き飛ばした光の源は、胸元に忍ばせた髪飾りだ。


(今のは輝矢? お願い、輝矢、怒って! わたしを助けて――!)


 狭霧は何度も胸もとへ祈って、自分も身をよじって暴れ続けた。


「放して、離れて……!」


 でも、いつか手は、動かなくなった足と同じように、自由を奪われる。はっと見やると、手首にも指にも、足を覆ったのと同じ不気味な草が、ぐるぐると絡みついている。


 その草を操っているのは、狭霧の行く手に現れた男たちだろう。術者、と呼ぶべき奇妙な身なりをするその男たちや、狭霧を捕まえようとする邇々芸や、邇々芸の背後で、ぴくりとも表情を変えずにじっと状況を見張る青年、穂耳――。どうにか逃げる隙を探そうと、自分を取り巻く男たちをかわるがわる見るものの、狭霧は、血の気が引いていく思いだった。


(お願い、輝矢、怒って! この草を解いて! お願い!)


 だが――。懸命の願いもむなしく、狭霧の身体はぐらりと揺れて、ふわりと浮かびあがる。邇々芸の手によって抱き上げられたのだ。


 狭霧に触れた手を咎めるように、邇々芸の手もとでは、ばちっ。ばちばちっ!と鋭い音を立てて閃光が散る。でも、邇々芸が狭霧を抱く手を放すことはなかった。


「……」


 狭霧を抱きかかえる邇々芸は、痛みに耐えるような真顔をしていた。いや、唇の端を吊り上げて笑った。


「守護を身につけているとは、奇妙な。――いや、驚かない。出雲が絡むと奇妙なことがよく起こるとは、聞いたことがある」


 ばち、ばちばちっ、と、光は邇々芸を責めるように彼の身のほうぼうで散る。


 主の身を気遣って進言したのは、背後で眉をひそめる穂耳だった。


「邇々芸様、俺が代わりましょうか」


 しかし、邇々芸はそれを拒んだ。


「構わない。母のそばにいたせいで、僕は術者に慣れている。少しくらいなら耐えられる」


 邇々芸の声を聞いた瞬間、狭霧はぞっと血の気が引いた。


 邇々芸に、輝矢のお守りの力は効かないらしい。


 盛耶を跳ね飛ばした光は、今、狭霧を救えないらしい。


(このままじゃ、連れ去られてしまう。どこか知らない場所へ――!)


「放して!」


 最後の力を振り絞って、悲鳴をあげた。しかし、邇々芸が狭霧を顧みることは、もうなかった。


 光から与えられる痛みに耐えて笑顔を歪めながら、邇々芸は、部下たちに命じた。


「急いで舟へ向かう。術者たちは、僕の身を守れ。それから、上方を力で囲め。気づかれたというなら、奴らは絶対に見ている。――どこぞの丘の上からな」



 そして、邇々芸は、狭霧を抱き上げたままで足早に森の小道を進んでいく。彼の従者が舟を守って待つ、川のほとりへと――。



 


 同じ頃。高比古の足は、丘の岩場を登り切っていた。


 その丘を登るのはすでに六度目で、高比古や、彼が率いた事代たちや、武人たちの足が、そこに生えていた草を何度も踏んだせいで、斜面にあった青々とした草むらには細い道ができていた。


 緑に覆われた斜面を登り切ると、頂きは岩場。地面に岩肌は見えていたが、白い岩壁は、蔦を這わせて伸びる蔓性の緑で覆われている。


 春といえど、ろくに道がない丘を草木をかき分けながら登るのは、汗をかくものだ。


 頂上から、息を整えながら下方を見下ろすと、高比古の眼下には遠賀の森の広がりが見え、海が見え、陸と海の境を滑らかに縁取る、入り組んだ岸辺の海岸線が一望できる。青い海に点々と見える白波は潮の流れを伝え、海の向こう側に横たわる長門ながとの陸地が、いかに近い場所にあるかを眺めることもできる。その岩場から見渡せる一番のものは、敷島しきしまと筑紫の間にある、狭い海峡だった。


 頂きまで登りつめ、ふうと息を吐くのもつかの間。高比古の目は、下方のある場所へと引き寄せられて、離れなくなった。


(ん? 何か……)


 眼下に果てしなく広がる遠賀の森。時の流れを刻み込んだ深い緑の屋根を、高比古が視線の先で撫でる。その時、森の木々が、ほんの少しざわめいた。


 ばさ……ばさばさ……! 勢いよく翼を動かして、天へと羽ばたく鳥の群れがある。緑の天蓋から、薄青の春空へ向かって飛び立った白い鳥の群れは、奇妙な飛び立ち方をした。それはまるで、森から天へと逃げ出したようだった――。


 おかしい――。


 眉をひそめる高比古の背後で、一緒に丘を登った事代たちが、次々と声を震わせた。


「た、高比古様」


「森が、へんです」


「森が、動いた!」


 たしかに、そうだった。今、高比古の目にも森は動いたように見えた。


 はた目には、ただ鳥の群れが飛び立っただけだが、それだけではなかった。ここ何日もの間、ここから見飽きるほど見続けたいにしえの森は、今の瞬間だけ奇妙に波打った。例えば、それまでの森とは別の森の姿を、一瞬の間に垣間見た気分だった。


(別の姿? ――そうじゃない。そうじゃ……!)


 食い入るように見つめる高比古の目の前で、再び鳥の群れが森から飛び立った。


「まただ。森が動いた」


「でも、あれ? おかしいな。森が、さっきの森に戻ってる」


 事代たちは、しきりに首を傾げている。でも、高比古の背には、冷たい汗が落ち始めていた。


「――違う。さっきの一瞬、おれたちが見た森が本物だ。森に、何かいるぞ。何か……」


「え? どういうことです、高比古様」


「見てろ。森に、何かが――」


 森の奥に、奇妙な力の集まりがある。脳裏に閃いた勘をたしかめようと、高比古は眼下の森に見入る。だが――、ある時、はっと息を飲んだ。


「おい、狭霧は?」


「はい? 姫様?」


「狭霧がいない。おれの力の気配もろとも、この世から消えた……」


「高比古様の力の気配? あの……いったいなんのことです?」


「あいつに渡したんだよ。手首に巻いて……。それが、跡形もなく失せた。狭霧の気配が消えた」


 高比古のこめかみに、一筋の冷たい汗が落ちた。次の瞬間、彼は背後の部下たちを振り返って、怒鳴った。


「おい! 野営に残っている事代はいるか!?」


「いません。今日は、みんなでこっちに来ていますから」


「くそ……こんな時に限って!」


 高比古のくつが、白岩を蹴った。頂きの岩場から身を投げ出すようにして飛び降り、下の岩場へ着地すると、すでに頭の高さより上になったもとの岩場から、主を心配そうに覗きこむ部下たちへ向かって、大声をあげた。


「おれは野営に戻る。おまえたちは森を見張れ。そこに何かいるぞ!」


「た、高比古様、何かとは、その、いったい……?」


「おれも知らない。何かだよ。おれたち、事代みたいのがいる。……ちっ。何日かけて調べたところで、調べきれるはずがなかったんだ。おれたちが視ていたのは、本物の森じゃなくて、偽物の景色だったんだから……!」


「に、偽物の景色? どういうことです、高比古様!」


 置き去りにされた事代たちが、泣き言をいうように喚く。その声を聞かないふりをして、高比古は、上ってきた道をずんずんの飛び降りるように丘を下っていく。



 ある時、ぴたりと足をとめると、高比古は部下たちを振り仰いで、大声を出した。


「そうだ、日女ひるめはどこだ!?」


「はい?」


「巫女だよ。三日前に出雲から来た巫女だ。盛耶の船に乗っかってた女だよ! あいつは今、どこにいる? 出雲に帰ってはいないな?」


「はい、巫女様なら、港の小屋を宿にされていると思いますが……」


「港の小屋だな? 上等だ」


 上方の岩場からおずおずと主を見下ろす事代たちへ、高比古は最後の命令を下した。


「いいか、おれは下に戻る。誰か、向こうの岩場にいって、大国主に……いや、安曇を探して、狭霧が消えたと伝えて、こっちに来るようにいえ。それから、下にいる巫女の気配を探せ。おれは今から、あいつに仲立ちを頼む。あいつへ、言霊ことだまを繋げる準備をしておけ!」

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