目覚め草 (1)


 同じ霊威をもつ者とはいえ、出雲での事代ことしろと巫女は少し異なる。


 自分と似た霊威をもつ事代を見つけ出すのは高比古にとってたやすいが、巫女となると話は別だ。


 出雲の一の宮、神野くまのの宮に仕える巫女は、特別な気配をもたないという特別さを誇っていた。それは巫女たちが、崇めたてまつる女神をこの世へ降ろすためのしろになることが多いので、己を無にする修練を積んでいるから、というのがその理由だが、今の高比古にとってその事実は、疎ましくて仕方なかった。


 ゆっくりと時間をかけて登った遠賀おんがの丘を、足場を踏み飛ばしながら降りきると、道はやがて、港に面した阿多族の浜里へと通じる。


 平地に行き着くと、人が暮らす家々や広場が一気に目の前に広がる。日女ひるめの居場所として教えられた仮宿へいってみるが、そこはからっぽで、誰の姿もなかった。


(いったい、どこにいきやがったんだ?)


 休むこともなく港の雑踏を掻き分け、曲がり角や分かれ道に出くわすたびに、高比古は人を捕まえて大声を出した。


「出雲の巫女を見なかったか!」


「あ、あちらの神殿の隅で見かけました。でも、今は水浴びをなさるとかで、川へ……」


「川? どこの川だ!」


「そちらの道の奥だと思います。泉が湧き出ている場所で、霊気が心地よいとおっしゃっていたので……」


「そっちだな?」


 聞きたいことを聞いてしまうと背を向けて、海民たちに示された道をいく。


 そこは、浜里の裏林へ入る細い道で、道には湿った黒い小枝や落ち葉が積もっている。道に沿って、ほんの小さな清流が流れていたが、その小川のせいか、それとも海から吹く風が落としていく露のせいか、林の中はしっとりとした湿り気に包まれていた。


 しだいにきつくなる傾斜をものともせずに大股で登っていくと、やがて行く手には、鮮やかな苔色に染まった崖壁がそびえる。その岸壁の隙間からは泉が湧き出ており、苔に覆われた壁を小滝のようにちょろちょろと伝って落ちている。清らかな水の滴が落ちた先には、小道のそばを流れる小川の源流らしき小さな池ができていた。淵には切り出された石が並んでいる。それは水を使うための足場で、その泉は、人々のための水場になっていた。


 日女の姿は、そこにあった。


 海民が聞いたとおり水浴びをしていて、巫女の衣装は解かれて、少し離れた場所に畳まれて置いてある。日女は、丈の短い内着だけを身につけていたので、裾の下には白い腿が覗いていた。そのうえ、内着の薄い布地は水に濡れていたので、肌にぴったりと張り付いて肌の色を透かしている。姿は、ほとんど裸身に近かった。


 人の気配を感じたのか、日女はぴくりと肩を震わせて、咄嗟に胸元を隠し、背後を振り返る。それから、息を切らして近づいていく高比古と目が合うと、ぽかんと唇をあけた。


「高比古様?」


 日差しが射しこむたびに、光は水面を照らしてきらきらと輝かせる。林の奥の水場には、小滝が奏でるさらさらという水音が涼しげに満ちていた。


 日女が立つ石のそばまで寄ると、高比古は足を止めて、肩で息をする。日女のつんとつり上がった強い目をまっすぐに見つめて、荒い息混じりに命じた。


「まずいことになった。力を貸せ」


「まずいこと?」


 胸元を隠したまま、日女は不思議そうに反芻する。でも、すぐに目は高比古を誘うように艶めかしくなる。


「巫女のみそぎを覗いておいて一言目がそれとは――。それに、私にものを頼むなら、少しは……」


 いうことを聞かせたいなら、まずは好意を示してくださらないと――?


 日女の目はそのように甘く誘いかけたが、高比古はくわっと目を見開き、脅しをかけるように怒鳴った。


「ふざけるな! これは命令だ。力を貸せ!」


 ほとんど裸身で水浴びをする若い娘を前にしているにも関わらず、高比古に遠慮はなかった。日女のあられもない姿など目に入らないとばかりに、いうだけいうと、身を翻して踵を返す。


「すぐに野営へいけ。事代が上から念を送る。それを待つ準備をしておけ。いいな?」


「野営へ? ――あなたは? 高比古様は、今からどこへ――?」


「状況を把握する」


「状況? そもそも、いったい何が……」


「人を集めて、話を集めさせる。抜け道、海道のゆくえ、山と川の形、交易相手、人の顔……全部だ。野営に戻ったら天幕へいって、今おまえが訊いたのと同じことを誰かから尋ねられたら、そう答えておけ。野営の天幕に、箕淡みたみ比良鳥ひらとりという武人が残っているはずだから、そいつらに、やってくるすべての連中の話をどうにかして覚えろと伝えろ。わかったな!」


 いうが早いか、高比古の足は湿った黒土を蹴って、もと来た道を戻っていく。


 林の奥の水辺にぽつんと残された日女は、あっという間に去りゆく後姿を追って、形のよい眉をついとひそめた。


 濡れた衣服越しに肌を見せまいと、胸元へ回っていた細腕がゆっくりと下りていく。さらさら、ぴちょん――。清流と黒壁を伝う滴の水音は、相変わらず涼しげに響いていたが――日女はその水音に、文句をいった。


「むなしい――。恥じらっているのが馬鹿馬鹿しいとは、このことだ」


 日女の齢は十六。年頃の娘だ。いくら好意を寄せた相手からであれ、水浴びをしているところを覗かれるのは恥ずかしいし、驚く。だが、驚いたり、覗くなと不機嫌になってみせたりするほうが馬鹿馬鹿しくなるほど、高比古は日女の裸身を無視した。


「乙女の肌を前にしてあれとは――。あの方、まさか娘に興味がないわけではないだろうな?」


 日女の唇から、愚痴じみた文句が出ていく。でも、そこにはまだ笑みがあった。


「まあ、いい。何が起きたか知らんが、暇つぶしにはもってこいだ」


 日女は、唇の奥でつぶやいた。


「私はただ、高比古様の……王たるみことのおそばにいられればいい。出雲がどうなろうが、人がどうなろうが、知ったことではない。――さて、野営へ向かうとするか。命令どおりに」





 狭霧は、輝矢の笑顔を見るのが好きだった。


 輝矢は、同い年のほかの童のように天真爛漫で無邪気な笑い声をあげることがあまりなく、そっと静かに微笑んだ。彼が笑う時、細められた二重の目はこのうえなく優しく見えて、瞳にある凛とした輝きは、普段より輝きを増した。


 今でも狭霧は、輝矢のように笑う人は、彼のほかには誰も知らない。あんなふうに、遠くまで見通すことのできる大人びた静かさと、童男らしい無垢さを持ち合わせた人は――。


 これは、夢だ。


 今いる場所がそうだといい切れるほど、狭霧の目の前にあるものは、めちゃくちゃだった。


 輝矢の魂のかけらが残った髪飾りや、白い光。意思をもつ草の蔓や、それを操る異国の術者。それから、迫りくる青年の手のひら――。


 時の流れも、物も、場所も、目まぐるしく変わっていき、まったく関わりのない出来事や人の顔が一緒くたに蘇って、怒涛となって押し寄せた。


 その夢の中で、輝矢は優しく微笑んでいた。


『狭霧、大好きだよ。狭霧がいてくれれば、僕はなんにも怖くない』


 いつかの怖い夢で見た偽物の輝矢ではなく、狭霧が覚えているのと同じ、いつもどおりの輝矢だ。


 狭霧は、輝矢の夢を見るのが好きだった。記憶にある彼の笑顔を思い返して、何度でも彼への幼い恋心に浸っていたかった。


 でも、今、狭霧はとても怖かった。


 輝矢の笑顔が目の前にあるということは、これは幻か夢だと、そういうことは思い知っていた。輝矢は、すでにこの世にいないのだから――。


 だから、狭霧は、いつも待ち望んでいたように、幼い頃の幸せに浸ればよかった。でもなぜか、今はどうしても輝矢の笑顔が怖くて、泣き出したい気分だった。


(それじゃ駄目なんだよ、輝矢。もっと怒って)


 狭霧を捕えた手のひらを、白い光は弾こうとした。でも、それに耐えながら、青年の強い腕は狭霧を抱きかかえてしまった。


 逃げなくちゃ、戻らなくちゃ――。怖くなって、もがいた。もがけばもがくほど、夢の中で自分に笑いかける輝矢を見ていると、やはり狭霧は泣きたくなった。


(違う、輝矢。怒って……! 生きようと思って――!)


 輝矢の白い首を狙う、恐ろしい剣。それを振りかざす父、武王と、それを見守る高比古の、鋭い眼差し――。


『済みました。いつでもどうぞ』


 すべてに別れを告げた輝矢の声。そして、それを認めた父の声――。


『……そなたの望みどおりに』 


 繰り返し蘇る記憶の渦に巻かれながら、狭霧は夢の中で絶叫した。


(怒って、輝矢! そんなに綺麗に笑っているだけじゃ駄目。それじゃ、わたし、あなたを守れない……! そのままじゃ、あなたが死んじゃう!)


 いったい何がそれほど恐ろしくて、泣きたかったのか。夢から覚めた時、狭霧は覚えていられなかった。


 でも、涙はこぼれていた。気味が悪いほど頬が濡れていて、しずくが頬の丸みを伝って垂れたせいで、耳まで濡らしていた。耳だけではなく、その下にある黒髪や、狭霧の身が横たえられた敷布まで――。


(敷布? それじゃあ、ここは――? 森じゃない!)


 はっと我に返って、勢いよく身を起こした。


 狭霧が目を覚ましたのは、とても静かな場所だった。耳が遠くなった錯覚を覚えるほど、外の物音が遠かった。風の音も、風が煽る葉擦れの騒々しさも、人の気配や雑踏も、何もかもが近くにはない。


 あるのは、丁寧に削られた木壁。目の前に木壁の美しい木目が見えていたが、狭霧はその木目が、不気味なほど静かで味気ないものだと思った。


 その理由に、狭霧は気づいた。


 遠のいた記憶をたどると、眠りに落ちる前の狭霧は、たしかに古い森にいた。そこで最後に見たものは、朝もやをまとった豊かな森の木々だった。森の木々は、今目の前にある木の壁と似ているが、異なるものだ。森で見た木々はもっと堂々として見えたし、樹皮の向こう側で樹液を脈打たせる幹は、静かだが生きていた。だが、目の前に見える木の壁は――すでに命の営みを終えたものだ。


(ここはどこ? 森じゃない。わたし……?)


 繋がらない記憶に、目まいを感じた。


 どうにか周囲をたしかめると、そこは立派な館の中で、狭霧の身体は、小部屋の真ん中に敷かれた寝床の上にあった。跳ね起きたせいでよれていたが、腰から下には掛け布も丁寧にかけられている。


(どこ? いつ? ……今はいつ?)


 狭霧は、今のような光景に覚えがあった。


 輝矢がこの世から消えてから数日後のことで、病人のように寝かされた狭霧の枕元には、高比古がいた。


『ごめん……、ごめん……』


 彼はそういって、涙を流したっけ――。


(そばに、誰かいる――。高比古……?)


 枕元に誰かが座っている気配を感じて、ぼんやりと視線をさ迷わせる。だが、そこにいる人の姿を見つけるなり、狭霧ははっと身を強張らせた。


 そこには人がいた。でも、そこにいたのは、目の前にあるものを誰かれ構わず睨みつけるような高比古とは、まるで別の気配をもつ人だった。


 そこにいた人は、ゆったりとあぐらをかいて狭霧を見下ろしていた。その人の顔にあるのは、穏やかで涼しげな笑顔――邇々芸ににぎだった。


 がたん。狭霧は、寝床の上で後ずさる。


 両の耳元で綺麗に束ねられた黒髪や、そこについた鳥の羽を思わせる白い髪飾り。それから、優しい二重の目に、品のいい細い顎――。


 夢でありますようにと、狭霧はそこにいる人の顔を繰り返し見た。でも、何度見ても、そこにいるのは邇々芸だった。


 狭霧と目を合わせて、邇々芸はにこりと微笑んだ。


「目を覚ましましたか。涼草すずくさのせいかな?」


 一度、邇々芸はうつむき、ちらりと床の上を見た。そこには土の器があり、緑の草が綺麗に盛られている。彼が森で育てていた薬草だった。


「この草は、目覚め草とも呼ばれているんですよ。匂いを嗅ぐと鼻が通って、目が覚めるから――。せめて、あなたに心地よい眠りをと用意したのですが……かえって起こしてしまったかな」


 その器からは、すんと鼻に抜けるような爽やかな香りが漂っている。それを、狭霧も一瞥した。でも今は、草の香りなどどうでもよかった。


「どういうことです? どうしてわたしはここにいるんです。ここはどこです? 森にいたはずなのに――」


 森で、奇妙な術を使われて手足の自由を奪われたことを思い出すと、邇々芸を見つめる狭霧の目はきつくなった。狭霧を宥めるように、邇々芸はなおふんわりと微笑んだ。


「あなたを無理やり抱き上げた腕が、まだ痺れている。医師に見せたら、しばらくは細かなことができないといわれましたよ。何か起きても、剣もふるえるかどうか――」


 無理やり抱き上げた――。それは、身動きができなくなった狭霧を抱きかかえて、川岸に繋いだ舟へ無理やり運んだ話のことをいっているのだ。狭霧は、邇々芸を睨む目を険しくした。


「ここはどこです?」


「よく眠れたようですね。元気そうです」


 邇々芸は笑顔を崩さなかった。でも、彼の穏やかな目元は、困ったものを見るようにわずかに細められている。


(この人はわざと話を逸らしてるだけだ。無視されてる)


 狭霧の話を聞こうともしなかった、いつかの盛耶もれやとは違う――。そう確信すると、狭霧は眉をひそめた。


「眠れたって? どうしてわたしは眠ったんです?」


「僕も驚きました。きっと疲れていたのでは……」


「そんなはずないでしょう? 大勢に浚われながら、いったい誰が……。いい加減に本当のことを話してください」


 本気の怒りがこもって、狭霧の声はしだいに低くなっていく。それでも邇々芸は、くすくすと笑うだけだった。


「すみません。実は、あなたを眠らせました」


「眠らせたって……どうやって? あなたが従えていた術者たちの技で?」


「ええ、かなり難しかったらしいですよ。しばらくはもうできないと、術者たちは泣きごとをいっていました。あなたを守るものが、あなたに何かしようとするたびに邪魔をするのだそうですよ?」


「わたしを守るもの……?」


 はっと狭霧の手が胸元に伸びて、胸の合わせに忍ばせた髪飾りをたしかめる。手のひらが髪飾りの形を感じ取ると、狭霧は肩でほっと息をした。


(よかった、どこかで落として来てはないみたい。輝矢がわたしを守ってくれたんだ――)


 気が抜けたように息をする狭霧を、邇々芸は微笑んで見下ろしていた。


「あなたを守るものは、そこにあるんですね?」


 にこやかに笑っているくせに、邇々芸は狭霧の仕草を逐一見張っていた。


 ある時、邇々芸は手のひらをそっと浮かせた。逞しい身体つきをする青年のわりに彼の指は白く繊細で、その指は、狭霧へ向かって宙を進んでいた。


 だから、狭霧は身構えた。


(この人、わたしに触れようとしてる? 胸元に輝矢のお守りがあるってわかったくせに、どうして――?)


 邇々芸の指は狭霧の黒髪に触れようとしたが、指先がそこへ行き着くまでの間、邇々芸は、狭霧から目を逸らそうとしなかった。


(わざとだ。お守りの力を、試そうとしてる――?)


 邇々芸の意図に気づくと、狭霧はきゅっと唇を結んで指が近づいて来るのを待った。微笑みかけながらじっと狭霧を見つめる邇々芸の目は、まだ狭霧を向いている。目と目の勝負もついていないうちから、目を逸らすわけにはいかなかった。逃げたくなかった。


 やがて、ふわり――と、柔らかな羽毛を撫でるような手つきで、邇々芸の指先は狭霧の髪に触れた。その瞬間、ばちっ! と閃光が散る。


 狭霧の身を守る光に指を弾かれても、邇々芸の余裕めいた微笑は崩れることがなかった。


「力を失っていませんね。この光は、是が非でもあなたを守りたいらしい。でも……この力のことが少しわかりました。たぶんですが、これは、あなたに敵意をもたなければ働きません。そうでなければ、あなたを抱きかかえる前にあなたに触れていたことが、説明できなくなりますからね」


「え?」


 きょとんとする狭霧の目の前で、邇々芸はまぶたを閉じ、すうっと深く息を吸う。それから、これまでよりよほど優しい笑みを浮かべると、再び腕を掲げて指先を伸ばした。


 子飼いの鳥の羽を撫でるような優しい仕草で、邇々芸は指先でさらりと狭霧の黒髪を撫でた。さきほど彼の指を跳ねのけた光は、起きなかった。


 目を丸くする狭霧へ、邇々芸はますます柔和に微笑んだ。それから――。


 狭霧は、びくりと震えてしまった。次に邇々芸の指が触れたのが、狭霧の頬だったからだ。


 大切な飾りものに触れるような指づかいで、狭霧の顔の小ささをたしかめるように、邇々芸の指は頬の丸みをゆっくりとたどる。耳の際から、顎の輪郭を撫でて、小さな赤い唇の端までいきついたところで、指はそっと離れていく。


「ほら、やっぱり」


 邇々芸は、ふふっと笑った。


「もしくは、あなたが拒まなければ……かな。あなたを守るものは働かないようだ」


「そんなことは……拒んでいます!」


 喚くように反論する狭霧へ、邇々芸は苦笑を浮かべる。それは、それまでに比べると、いくらか血の通った笑みに見えた。


「いいえ。あなたは、敵意をもたない相手を敵視することはないようだ。とても頭が柔らかくて、目が澄んでいる。こんなに若いお嬢さんなのに――正直、感服しました」


 邇々芸がいうのは、狭霧への褒め文句だ。でも、狭霧はどれ一つ信じる気になれなかった。様子を窺うように黙りこんだ後で、狭霧は二度目の問いをした。


「ここはどこです? 感服したというのが本音なら、きちんと答えてください」


「やはり、聡明な姫君ですね」


 邇々芸はくすっと笑みをこぼす。それから、少し姿勢を崩して座り直した。


「ここは、遠賀です。あなたがいた港とは、浦が違いますが」


「わたしがいた、港?」


(おかしい――)


 狭霧が邇々芸と出会ったのは、森のはずだ。それなのに、港の話をするということは――。


 狭霧は、邇々芸を見上げる目つきを鋭くした。


「……わたしが誰か知っていますね? わたしの父が誰かも」


 すると、邇々芸の笑みがわずかに翳った。


「ええ。あなたの祖父の名も。父は大国主、祖父君は須佐乃男。あなたは出雲の狭霧姫だ。そうですね?」


「よくご存じで」


 もはや、狭霧の唇から出て行くのは苦いため息だけになった。


 浚われた理由は、いま明らかになった。それは、狭霧が出雲の武王と、いまだ出雲に影響を与える老王の血を引く娘だからだ。


「わたしがいた港と浦が違うっていうのは……」


「遠賀は広いです。ここは、岬を回って反対側で、別の川が注ぎ込む浦にある港です。あなたがいた場所と同じく、ここも隼人と呼ばれる一族が育てた港ですが、ここをつかさどるのは、大隅おおすみ族です」


「大隅族?」


「ええ。あなたがいた港をつくった阿多族とは、似て非なる一族です。ここに寄る船は、筑紫島を南下して南へ向かう船が多い。もしくは、瀬戸の内海うちうみの島々から来ている船が――」


「瀬戸……?」


 聞いたことのない地名だった。でも今は、いったんその名を忘れることにした。わからない言葉を追い求めるより、先にしなければいけないことがあると思ったからだ。


「それで、わたしを浚った目的はなんです?」


「その話の前に、少し港を歩きませんか?」


「港を?」


「いったでしょう? あなたに見せたいものがあるんです」


 邇々芸は雅やかに笑うが、狭霧はそれを、唇を噛みしめて睨んだ。


「信じろと? 同じことをいって、あなたはわたしを森で浚ったんですよ?」


「怖いですか?」


 邇々芸は肩をすくめた。


「怖がらなくても、もう僕には何もできませんよ。あなたを守る力に痺れて、ほとんど指が動かないのですから、せいぜい、ほんの少しあなたの頬に触れるくらいです。僕が従える術者たちも、あなたにはしばらく手が出せませんよ。それだけの力を出すには、魂を休ませねばならない、時がかかると、嘆いていましたから――」


 邇々芸がどれだけ優しい笑顔を見せようが、さすがに懲りた。


「だから、それをどう信じればいいんです?」


 つむじを曲げて狭霧がいうと、邇々芸は小さく吹き出した。


「では、ただ僕があなたと話をしたいといえばどうです? 僕はあなたに興味があって、あなたのことが知りたい。大国主と須佐乃男の血を引く姫君がいったいどんな人なのかと――それだけです」


(それだけです、って、そんな馬鹿な話があるわけないでしょう? 話をしたいだけで、わざわざ娘を浚う人がどこにいるのよ)


 やはり狭霧は、邇々芸を信じる気になれなかった。だから、歯向かうように睨みつけた。


「では、あなたの素性を教えてください」


「僕の素性?」


「はい。あなたは、わたしを出雲の狭霧と知ってここへ連れてきたんでしょう? なら、あなたにも身の上を明かしてもらわないと、誰かもわからない人を相手に、わたしは話をしたいとは思いません」


「なるほど」


 邇々芸は苦笑して、唇を閉じた。しばらくそのまま黙ったが、ふうと息をつくと、諦めたように狭霧を見つめた。


「僕の故郷を、話していませんでしたね」


「はい。知らないほうがいいとしか――」


「では、それを今話しましょう。といっても、故郷はいくつかあるんですが……」


「いくつかあるって……?」


「僕の故郷は、三つあります。いや、四つかな」


「三つ……四つ?」


「僕が生まれたのは、倭奴わぬ。北筑紫にある国です。育った場所は、紫田しだ。倭奴の南、遠賀の西にある、小さな商いの川里です」


「倭奴、紫田……?」


 どちらの地名も、狭霧の耳にはうまく馴染まない。慎重に耳を澄ます狭霧の前で、邇々芸はゆっくりと話を続けた。


「母の故郷は、伊邪那いさな


「伊邪那? やっぱり……!」


「やっぱり?」


「いえ、その……」


 狭霧には、邇々芸の目が輝矢と似ていると気にし始めた時から、邇々芸に尋ねてみたい問いがあった。


 あなたは伊邪那の人ですか? 輝矢っていう男の子を知っていますか――と。


 そうしたら答えは、「はい、知っています」。もしくは、「いいえ、知りません」――。


(どうしよう……訊いてみたい。ううん、訊くのが怖い。どちらの答えでも、知るのが怖い……)


 じっと黙りこんでいると、ふいに邇々芸がくすりと笑った。


「落ち着いていますね。もっと驚かれるかと思いました」


「え?」


「だって、そうでしょう? 伊邪那は、出雲と長年戦ってきた国です。僕は、その国に縁があるといったのに――」


「それは……」


 伊邪那という国の名を、敵国の名と感じたことは狭霧になかった。むしろそれは、もっと知りたいと長年願ってきた国の名だ。大好きだった男の子の生まれ故郷で、その国を離れて、たった一人で出雲で暮らした少年、輝矢に繋がる場所だ。


 とうとう狭霧の目は、じっと邇々芸を見つめた。


「あの、聞きたいことがあるんですが――」


「はい、なんでしょう」


「……輝矢という男の子を知っていますか? 伊邪那から出雲へ移り住んだ、わたしの幼馴染なんですが……」


 邇々芸は、唇の内側で輝矢……とその名をつぶやいた。それから、優美な眉を少しばかりひそめた。


「名までは知りませんが、たぶんわかります。出雲と伊邪那との間で交換された人質の王子の名ですね」


「そ、そうです……! 会ったことがあるんですか?」


 身を乗り出して尋ねると、邇々芸は肩をすくめた。


「いいえ。ただ、そういう哀れな王子がいたと母から聞いたことがあったのです」


「……そうですか」


「その王子は無事ですか? それとも――」


「それは、その……」


「やはり、哀れな運命をたどったのですね。……不思議はない。童にいったい何ができると、僕は何度か聞きました……母から。たまたまその王子が選ばれただけで、時が時なら、出雲へ赴くのは僕だったかもしれないとも聞きました」


 狭霧は、目をしばたかせた。邇々芸がしている話の意味がよくわからなかった。


 狭霧の目の前で、邇々芸は穏やかな笑みを浮かべている。でも、柔和に見える目の奥にあるはずの彼の意思は、狭霧には何一つ見えなかった。


「実は、母もそうでした。母も人質として倭奴へ渡ったのです」


「え……?」


「輝矢という王子と母との違いは、いったいなんだったのでしょうかね? 同じように敵地へ移り住んで、かたや哀れな死を遂げ、かたや……」


 くすくすくす。邇々芸は誇らしいものを讃えるように肩を揺らした。


「僕の母は、伊邪那へ戻りましたよ。僕を連れて――。そして、伊邪那を滅ぼしました」


「……え?」


「伊邪那のような国は滅びたほうがいいとそういって、その通りにしました」


「それって……もしかして」


 狭霧は国々の動きにそれほど詳しくなかった。王として遠くを見渡す父や、第一線で策を練る高比古ほどには――。でも、耳は、触発されたように、いつか高比古から聞いた不穏な話を思い出していた。


『もともとそういうつもりで……はじめから罠だったんだ』


伊邪那いさなの領地は大半を天照あまてらすという娘に奪われて、国の名を大和とあらためている。伊邪那の王は北の離宮に逃げ込んで都へ戻る時期をうかがっているが……出雲がいま目論むべきは、伊邪那と大和のさらなる争い。敵同士の潰し合いなんだ』


 それは、出雲のはるか東、輝矢の故郷あたりで戦が起きたという話だった。


「あなたのおかあさまの名って、もしかして……」


日歌琉ひかるです」


「え?」


「名は日歌琉。でも今は、天照と呼ばれることのほうが多いはずです。父の名で」


「父の名で?」


 邇々芸が話すのは、それまで知らなかった新しいことばかりで、狭霧はうまく話が飲みこめなかった。


 前に高比古から聞いた大和の女王の名を思い出したはいいものの、それが父の名だと聞かされたことも、滅ぶべきだといってその通りにしたと、あまりにもあっさりと戦を語る邇々芸の笑顔にも、狭霧の頭は混乱した。これまで覚えた当然の決まりが、次々に覆されていく気分だった。


「あの……」


 もう少し詳しく話してください。ごめんなさい、よくわからなくて。


 では、あなたは、いったい……?


 尋ねたい言葉は次々に胸にこみ上げる。でも、喉は混み合っていて、そこを通り抜ける順序を争ううちに、話は通り過ぎていた。


 にこやかに笑む邇々芸は、話を終わらせてしまった。


「そういうわけで、僕の四つ目の故郷は大和という国で、いま僕は、大和の邇々芸と呼ばれることが多い。これでいいですか? 僕の身の上をわかってもらえましたか? 話を続けてくれますか?」


 まだ頭は混乱していたが、狭霧はうなずくしかなかった。


「……はい」



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