目覚め草 (2)


 狭霧が目を覚ました館は、浜里で一番奥まった高台に建てられていた。


 邇々芸の後について戸をくぐり、外へ出てみると、そこに広がる景色は、狭霧が覚えているものとどことなく似ている。


 浦が違うとはいえ、同じ遠賀と呼ばれる一帯にいるというのは、どうやら間違いなさそうだ。ここがもし遠く離れた場所であれば、岩肌の色や地模様や、生えている木々の種類は違うはずなのだから。


 狭霧をいざなって先をいく邇々芸の背中は、妖しいほど落ち着いている。


 ゆっくりとした歩み方で狭霧を連れ歩く彼と一緒にいると、どうしてか勢いが奪われて、つい、いざなわれるままに後を追ってしまう。


 本当に狭霧を浚ったのかと奇妙に思うほど、邇々芸には悪びれるところがなかった。そして彼は、当然のように狭霧の世話を焼いた。


「足元に気をつけて。実はいま、海際では桟橋をつくっているところで、木材があちこちに転がっているんです」


 邇々芸はよく気が利いて、わずかでも足場が悪くなるといつのまにか手をとって、狭霧が難なく先へ進めるように引いてくれた。


 やがて、青い海に面した岩の岸辺が見えてくる。行く手には人足が大勢いて、邇々芸がさきほど説明したとおりに、力仕事に励んでいた。


 青い波が白い粒となって弾ける岩場では、山から運ばれた丸太が木の匠が手にする刃物で面を削られている。樹皮を削り取られて形を整えられた丸太は、人足の肩に担がれていく。運ばれる先は岩場……桟橋となるべく木組みを待つ海際だ。


 でも、なんとなくその光景は、狭霧の目にうまく馴染まなかった。


(ここの桟橋は、海にあるんだ?)


 そういえば、出雲で最もたくさんの船が繋がれる神門かんどの港が造られた場所は、潟湖かたこだった。水門で海と繋がる入り海で、海の水と真水とが混じるところだ。


 かけ声に歩みを合わせて巨大な木材を運ぶ人足たちの様子を、邇々芸は誇らしげに狭霧に見せた。


「いま、新しい港をつくっているところなんです。ここに寄る船が増えそうだから――」


「はい。……立派な桟橋ができそうですね」


「なんだか浮かない顔をしていますね。港には興味がありませんか?」


「そうじゃなくて、その……」


 その浦の背後には丘がそびえていた。いつの時代かに崩落したのか、見かけは少々荒々しい切り立った崖の形をしているが、その崖はおそらく、この港に吹きつける海風や波を宥める役を果たすのだろう。船を繋ぐ桟橋を、この岩場につくろうとしているからには、ここはきっと水底が深く、船底も守ることができて、たしかにここは港に適した場所なのだろう。でも――。


「あの、船を陸に上げる場所はどこですか?」


「船を、陸に上げる?」


「はい。船を長く海に沈めておくと海の生き物が船の底を覆うので、進みが遅くなったり、傷むのが早くなったりするでしょう? だからわたしは、てっきり港は船を陸に上げる浜の近くか、それか潟にあるのだと思っていたんです。……そういえば、ここに来るのに大河を通りましたね」


 狭霧はぐるりと周囲を見渡した。そこには、岩場の隙間を通って海に流れ込む小さな川があった。でも、おぼろげな記憶にある、大河と呼ぶべき大川は見当たらない。


「ここは、あの大河の河口ではないのですか? それとも、あの大河と、水路か運河で繋がっているのですか?」


「水路? 運河……」


「はい。使っていない船は、水路か運河があれば、あの大河へ運べるんじゃないかと思ったんです。真水が混じるところへ置いておけば、船の底を守れるんじゃないかと……」


 邇々芸は、真顔をわずかに歪めた。


 桃色の唇をひそかに動かして、舌の上で狭霧がいった言葉を転がす。しばらく黙ってから、彼はふうと息を吐いた。


「なるほど、たしかに――。あなたがいう通りです」


 彼は渋い真顔をして正面を見つめた。勇ましい掛け声で呼び合いながら、力仕事に励む人足たちを――。


「あなたがいった通り、大河とこの地は支流で繋がっています。そして、あなたがいうのは、大船を使う時の話ですね? それはおそらく、大がかりな商いに長けた者たちの知恵です。僕たちに港造りを教えたのは、そういえば、運ぼうと思えばすぐに陸へ運べるような小舟を扱う海の民でした」


 ふう。感嘆とも羨望ともつかないため息を、彼はこぼした。


「――こしですね。大船のことなら越に聞けと、そういえば聞いたことがあります。そうですね、出雲は、越と深く繋がる国ですね……」


 越というのは、異国の名だ。大船を操って北方と大陸を行き来する商いの国で、出雲とは古くから縁がある。出雲には越の名がついた里があちこちにあるし、狭霧の父、大国主の一の后も、越から嫁いだ姫だ。


「大船のことなら越に聞け……そうなんですか?」


「ええ。越の船道具はとても質がよくて、欲しがる国があちこちにあると聞いています。その道具が、越の国がある西の海から陸伝いに運ばれて、東の海に渡るほどだそうですよ」


「西の海から東のって……そんなに?」


「船の技というのは、それだけ貴重なものです。出雲はその恩恵を受けているんですものね。あなたのような姫君が、当たり前のようにその技をつぶやくんですから」


「いえ、それは……」


「――そうですね。当たり前のことじゃない。きっとあなただからです。そうでしょう?」


 そんなふうに褒め文句を並べられても、狭霧はうなずけなかった。


 いま狭霧がしたのは、どこかでちらりと見聞きした話ばかりで、邇々芸に褒められるほど詳しくは理解していないのだから。


 気まずくなってうつむいた狭霧へ、邇々芸は、ますます大切なものを扱うように接した。


「こちらへ、狭霧。あなたを案内したい場所は、この先にあります」


 邇々芸は、手にとったままだった狭霧の手をゆっくりと引く。狭霧の指を包み込むようにやんわりと丸められた邇々芸の指先は、乱暴に無理やり引っ張ることもなく、ただそっと狭霧をいざなう。


 狭霧を連れて、邇々芸が向かったのは、ごつごつとした海際の岩場から少し遠ざかった場所で、浜里を海風から守る盾のように背後にそびえる、切り立った崖のふもとだった。その崖を遠くから眺めた時は、堅固な印象があったせいか堅い岩を想像させたが、近づいてみると、土の質は意外にも柔らかかった。


 空に向かって遥か高くまでそびえる崖は、蔦を伸ばした蔓草で覆われている。土は浸み込んだ雨水で潤っていて、崖のふもとには木々が生い茂り、豊かな林ができていた。


 邇々芸と連れだって崖のふもとの林を歩いていると、ひときわ目を引く可憐な樹があった。葉をこんもりと丸く茂らせる樹で、枝に純白の花をつけている。今は春の季節だというのに、その樹がつける純白の花は、まるで溶け残った雪に見えた。


 邇々芸に手を引かれて樹へ近づいていくと、狭霧の鼻先には、ふわんと花の香りが漂う。


 花の香りに誘われるようにぼんやりと見上げて、狭霧は、頭上で大輪の花を咲かせる純白の花を探した。狭霧に、邇々芸はくすっと微笑んだ。


「この樹は、〈海照らし〉というんですよ」


「〈海照らし〉?」


「そうです。白く瞬いて、海を照らすようでしょう?」


「――あなたは、きっと草樹によく通じているんでしょうね。樹の名前が、こんなにすっと出てくるなんて――」


 そういえば、邇々芸は森に自分の草園をつくってもいた。


 邇々芸は、肩をすくめて笑った。


「通じているといっても、草や樹と、虫や獣たちの関わりまで気にしているあなたほどではありませんよ? ――ただ、僕はこの樹が好きなんです。これは、とくに気に入っている樹で――ほら、これが僕の腰かけです」


 知り合いの館に招くように、とある樹の木陰へと狭霧をいざなうと、邇々芸は、木の根元にどっしりと置かれた大きな岩を指差す。


 その大岩は、たしかに腰かけるのに手頃な形をしている。狭霧の細い指先を包む邇々芸の手は、狭霧をそこへ導いた。


「でも、今日はあなたに貸してあげます。あなたは、僕の大切なお客様だから」


 邇々芸は道楽に励むようにくすくすと微笑んでいて、仕草はとても優しい。


 本当にわたしは、この人に浚われたんだろうか?


 そんなふうに狭霧が自分の記憶を疑うほどで、邇々芸の笑顔は、狭霧から抗おうとする力を奪っていく。邇々芸と一緒にいる間中ずっと、軽い眩暈めまいが続いている気分だった。


「ありがとう……」


 いわれるままに腰を下ろすと、〈海照らし〉の花の可憐な香りに包まれる。


 狭霧が大岩に腰を据えると、邇々芸は腰をかがめていって、そばで片膝をついた。


 狭霧より目の高さが低い場所から見上げる邇々芸は、まるで、高貴な人が大切な姫君を扱うように振る舞った。


「少し休みましょう。……いい風です。ほら、海風に花がなびいて、あなたに香りを降らせていますね」


 見つめられるままに目を合わせてじっとしていると、やはり眩暈を感じて、くらりとよろけてしまいそうになる。〈海照らし〉という花の香りに似た邇々芸の甘い声も、狭霧の耳を痺れさせていった。


(どうしてわたし、この人と一緒にいるんだろう。浚われたはずなのに――)


 怒って当然だというのに、腹を立てるのを封じられている気分だった。


 うつつの世界にいるはずなのに、白昼夢(ひるゆめ)を……本物ではない幻を見ているようで――気味が悪くて、やはり狭霧は、何度もくらりと目がくらんだ。


 甘い芳香に包まれた木陰で休む二人のもとへ、淡々とした気配がやってきた。


「どこへいったかと思えば、こんなところに……」


 声をかけた青年の姿が目に入るや否や、狭霧ははっと身構えた。


 現れたのは、穂耳ほみみという邇々芸の従者――狭霧を、邇々芸と一緒に浚った人だった。


(やっぱり、これは夢じゃないし、幻でもない。この人に……ううん、この人たちに、わたしは浚われたんだ)


 鮮やかな鬼灯ほおずき色の衣装を身にまとう穂耳は、濃い黒眉を歪めて、しかめっ面をしていた。


 穂耳は狭霧を一瞥するものの、それ以上狭霧を見ることはない。穂耳が責めるように見た相手は、狭霧のそばで片膝をつく邇々芸だった。


 唇を結んで穂耳を凝視する狭霧をちらりと見やって、邇々芸はため息をついた。それから、ゆっくりと膝を立てていくと、穂耳へ不満を訴えた。


「――無粋な奴だな。今、彼女といる僕に、わざわざ声をかけるほどの用があったのか?」


「俺はある、と感じましたが?」


 邇々芸を見やった穂耳は、不服そうに仏頂面をしていた。


「一つ、忠告を――。あなたが身を滅ぼすとしたら、原因はその余裕だと思います。あとで命取りにならないように」


「……不機嫌だな?」


「そう見えます? 正解です」


 邇々芸と穂耳は、主と従者だと狭霧は思っていた。でも、おそらく二人の結びつきはとても深くて、穂耳は邇々芸の従者といえども、自由に苦言を呈することのできる仲なのだろう。


 従順に頭を下げつつも、ぷいと横顔を向けた穂耳に、邇々芸は肩をすくめてみせた。そして、わざと穂耳に聞こえるように彼をからかった。


「ほら、狭霧。彼は兄ぶっているので、いつも僕に説教をするんです。館へ戻りましょうか。彼がうるさいから」


「は、はい……」


 いうがまま、されるがままに、狭霧の手は再び邇々芸の指に引かれた。


 穂耳の脇をすりぬけて、来た道を戻る。すぐ目の前に見える邇々芸の白い背中に、狭霧はため息を吐いた。


(変なの……どうして、わたし……)


 自分を浚った相手にすんなりと従っているのが、とてつもなく奇妙だった。


 それに――。館を出てからというもの、ずっと邇々芸は狭霧の手をとっていた。その間、一度として彼の手は、狭霧の身を守る不思議な守護に跳ね除けられることがなかった。


 邇々芸はその理由を、狭霧が拒んでいないからといった。


『いいえ。あなたは、敵意をもたない相手を敵視することはないようだ。とても頭が柔らかくて、目が澄んでいる。こんなに若いお嬢さんなのに――正直、感服しました


 そのようにいって邇々芸は狭霧を褒めたが、狭霧にそれは納得がいかなかった。


 狭霧が自分を浚った邇々芸を恨みきれないのは、敵意をもたない相手がどうのとか、頭が柔らかいとか、彼が称賛したようなたいそうな理由ではないと思った。


 狭霧が邇々芸を拒めずにいる理由はもっと些細なもので、それは邇々芸が、伊邪那いさなに縁のある人だからだ。


(この人が、輝矢のことを知っていたから? この人と輝矢が、ほんの少し雰囲気が似ているから?)


 どうにか邇々芸の腕を振り払ってしまいたくて、狭霧は、輝矢と邇々芸の違いを探した。


 輝矢のことを思い返してみても、齢も背丈も違う輝矢と邇々芸では、二人の顔はまるで別人のものだ。目もとや顔つきがほんのわずかに似通っているかもしれないが、十五の若さで命を落とした輝矢が、もしも邇々芸の齢まで大きくなったら、もしかしたら似ていたかもしれない、という、その程度だ。


 優しい気遣いや、丁寧な仕草。微笑んでいるように見えて、胸の奥には決して表には出さない固い意思があり、とても頑固な、凛とした部分を隠している――そういうところは、似ているかもしれない。とはいえ、まったく同じではない。それは、わかるのに――狭霧は、邇々芸の手を振り払おうとは思えなかった。


(輝矢とは違うのに。でも……でも……)


 軽い眩暈に冒されて、夢に足を捕われたまま、よろよろと進んでいる気分だった。


 顎を振って眩暈を振り切ると、狭霧は決心して唇をひらいた。


「そろそろ、理由を教えてください」


「理由?」


「はい。わたしがここにいる理由です。どうして、あなたはわたしを浚ったんですか? まだ教えてもらっていないでしょう?」


「ああ、その話を、さっきの場所でしようと思っていたんですよ。それなのに、穂耳が邪魔を……」


 くすり。狭霧を振り返って、邇々芸は笑った。


「実は、森で出会ったあなたに恋をしました。それで、あなたを欲しいと思い、画策しました」


「……嘘ですね」


 まるで信じようとしない狭霧に、邇々芸は苦笑してみせた。


「少しくらい信じてください。僕を叱ってくれる娘に、僕は初めて出会ったんです。そういう娘には、そうそう出会えないと思っています。とくに僕は融通がきかないところがあるので、誰か、特別な相手の話でないと、素直に話を聞き入れることができないのです。でも……」


「素直に話を聞き入れる? ――あなたを叱ったつもりもありませんが、それは、森の草園での話でしょう? あの時だって、あなたはわたしにいい返したじゃありませんか。話を聞き入れてなんか……」


「違います。いい返した時点で、すでに僕は、あなたと話ができていたんです。――意味がわかりますか? 僕は、相手があなたでなかったら、同じ話をしていても、きっといい返したくもならなかった。僕とは関わりのない相手がいっている話だと、聞き流すことができたからです。でも、あなたはそうではなかった」


 いつのまにか、目に見える景色は、見覚えのあるものに戻っていた。邇々芸に手を引かれて、狭霧は高台へ続く道をいき、もといた館まで戻ってきていた。


 海に面したごつごつとした岩場の道には、背後にそびえる崖へ続く、きつい勾配があった。きつい坂を登り切ると、そこからは青い海が見渡せる。潮の香りはするものの、波の音ははるか下。青々とした水面がたたえる輝かしい光は、海面という巨大な鏡に跳ね返されて、港や里や道や、眼下に見える人々の暮らしすべてを強い光で満たしていた。


 邇々芸の足は道を逸れて、緑の生け垣の隙間へと入っていく。緑の垣根で囲まれた道の先には、館の入り口になった広い庭があった。


 その庭まで来ると、海際の喧騒は一切なくなる。庭の奥に建つ館の入り口には番兵が立っていて、この庭と館が特別な場所だと、あたりへ知らしめていた。


 庭の中央まで来ると、邇々芸はそこで足を止めた。それから、一緒に歩みを止めた狭霧の両肩にそっと手のひらを置いて、自分と向き合わせるように向きを変えさせた。


 ぽかんと唇をひらいて狭霧が見上げると、邇々芸は、とても近い場所から狭霧をじっと見下ろしている。


 目が合うと、邇々芸はくすっと笑い、それから、囁くようにしていった。


「狭霧、僕は大事な忘れ物をしました」


「忘れ物?」


「はい。僕の国では、気に入った娘に妻問いをする時には、とっておきの宝物を贈る習わしがあるのです。今、僕は、あなたに何かを贈りたいと思っているのに……すみません、手ぶらです」


「それは……」


 邇々芸のいった言葉の意味を読み解くと、狭霧の頬はしだいに熱くなった。


 照れ臭くなって目を逸らすが、邇々芸はそれを許さなかった。狭霧の肩に置いた手のひらに力を強め、僕のほうを見てくださいとばかりに、狭霧の視線を誘った。


 邇々芸は、狭霧をまっすぐに見つめて、真摯にいった。


「狭霧、僕の妻になってください。僕は一生あなたを守ります」


 狭霧は面食らって、頭を恍惚とさせた。


 妻問いがなんたるか、夫婦になるというのがなんたるかも、狭霧はろくにわかっていなかった。それなのに、まさか二度も続けて、よく知りもしない青年から妻問いを受けることになるなんて――。


 黙り込む狭霧に、邇々芸はふっと微笑んだ。彼はゆっくりと身をかがめていって、土に片膝をつくと、狭霧の手を包み込むように取る。それから、彼はわずかにうつむいて、包み込んだ狭霧の手の甲に唇を近づけていった。誓いを捧げるような、神聖な仕草だった。それから――。狭霧は、手の甲に柔らかな唇の形を感じた。その瞬間、身の毛がよだつほど驚いた。それから、脅えた。


 これはおかしい。変だ。どうして――。


 混乱は混乱を呼んで、それは、追い打ちをかけるように遠い記憶を呼び覚ました。


 いつだったか、輝矢に力強く抱き締められたことがあった。


 幼い頃から仲が良くて、なにかにつけては抱き合ったり、頬を寄せたりして喜び合ったり、慰め合ったりしていたので、二人が抱き合うのは、決して珍しいことではなかった。でも、その時の輝矢からの抱擁は、思わず狭霧が緊張して、後ずさりして逃げたくなるほど力強かった。いつもの輝矢と違う――と、力強さに驚いたが、同時に、とても幸せな気持ちにもなった。


 それなのに、その時の輝矢は、はっと我に返ったように狭霧から離れると、悪いことをしたとばかりに詫びた。


『本当に、その、ごめん……』


『いいよ。でも……』


 照れ臭いけれど、幸せだったから、もっとこうしていてもいいんだよ?


 そう告げたかったけれど、照れ臭くて、胸の中から言葉は出ていかなかった。


 だから狭霧は、遠ざかろうとする輝矢のそばへ寄って、頬を赤らめて、輝矢の腕を取った。


『いつか、輝矢の嫡姫むかひめになりたいなあ。ね、輝矢』


 ――気が遠くなるのが一瞬なら、戻るのも一瞬だ。


 はっと気がついた時、狭霧はぽろぽろと涙をこぼしていた。


 眩暈がして、ぐらりと膝が揺れる。これまでも軽い眩暈がずっと続いていた気分だったが、それが急に酷くなった風だった。


 よろけた狭霧を助けようと、邇々芸は咄嗟に立ちあがって、腕の中に抱きとめた。狭霧を見下ろして、彼はぽかんとした。


「――すみません。怖かったですか?」


 邇々芸は優しかった。少し前に、盛耶から無理強いされた時とは正反対だった。


 でも、だからといって、邇々芸は輝矢ではないのだ。それなのに――。


(何を探しているんだろう、わたし……)


 はらはらと頬をこぼれ落ちる涙は、止まりそうになかった。胸の中でいろいろな責め言葉が渦巻いたが、それはすべて、自分に対しての文句だった。


(雰囲気や故郷や目元や、そんなものがほんの少し輝矢に似ているだけで安堵するなんて……似ているだけでいいの? 輝矢はもういないのに。馬鹿みたい……)


 まったく別の人を相手に、輝矢を思い出している自分が怖かった。


 そういえば、狭霧が浚われる羽目になったのも、もとはといえば狭霧自身のせいだった。どこの誰ともわからない邇々芸を探して、いにしえの森に、何度も一人でかよったから。邇々芸に、輝矢の面影を求めたからだ。


 ようやく帰り道を見つけた迷子のように、狭霧は邇々芸のそばで安堵していた。でも、いま感じている安堵が恐ろしくて仕方ないとも思った。見つけたと安堵した帰り道は、絶対に本当の帰り道ではないと、心の奥ではわかっているから――。


 それでも、輝矢の面影がある人のそばにいると思うと、むしょうにほっとした。


 どうせ、求め続けた帰り道は永遠に見つかりっこない。輝矢はすでに、この世にいないのだから――。


 だから、この道をいけば、探していたものと似た安堵が手に入る。これでいいんだ――。そんなふうに感じている自分にも、腹が立った。


 さまざまな想いで喉が詰まって、音にならない呻き声をもらした。


 涙をこぼして黙りこむ狭霧を落ち着かせようと、邇々芸の腕は、いつしか狭霧の背中に回っていた。


「――すみません。急なことで驚きましたよね」


 いいえ、あなたのせいじゃないんです。ただ……。


 そういいたかったが、今はどの言葉も、狭霧の喉を通らなかった。


 無言で首を横に振る狭霧に、邇々芸はふっと微笑んだ。


「いいんです、僕が急ぎ過ぎた。――少し休んでください。そして、明朝……いいえ、そのうちに、いい返事を聞かせてもらえると、とても嬉しい」


 邇々芸は、手のひらでそっと狭霧の背を押した。


 そして、狭霧の歩幅に合わせて寝所になった小部屋へゆっくりと導いてみせると、別れ間際に温かな微笑を残した。


「よく休んでください。おやすみ」





 狭霧を落ち着かせるためには、時を与えたほうがよいだろう。


 邇々芸のはからいか、狭霧がうずくまる小部屋に近寄る者はいなかった。一度、侍女がやってきて、水壺と夕餉が運び込まれたくらいだ。


 館の外を吹く風の音が、何度も何度も木壁の向こうを通り過ぎる。その間ずっと、狭霧は、輝矢のお守りを手のひらに乗せて、ぼんやりと虚空を見つめていた。


 ふと気づいた時、戸口を覆う堅薦かたこもが、琥珀色にきらきらと輝いていた。陽が暮れて、外では今頃、まばゆいばかりの西日が射しているのだろう。


(もう、こんな時間……)


 混乱と自己嫌悪は、何度目かの大きなため息を誘う。


 はあ……。身体中の息を出し切ってしまうと、ふと、手の上の髪飾りが目に入った。紫と草色の染め紐が組み合わせられた輝矢の髪飾りは、西日の強い光のせいで、麗しい紫色も爽やかな草色も、今は琥珀色に染まって見えた。そのうえ、端はよれて丸くなり、思ったより髪飾りは傷んでいて、少しばかり黒ずんでも見えていた。


(これって、こんなだったっけ……)


 髪を飾るべきものを半年ものあいだ胸の合わせに入れておけば、形が崩れようが色あせようが仕方ない。それは理解したが、大切なお守りが古びていくのは、残念でたまらなかった。


 それから、あるものが目に入った。


 それは、「思い出した――」と、そう思うなり、びくりと狭霧を震えさせる強い色をしていた。


 それは、手首に結われていた強い黄色。出雲の軍旗の色に染められたそれは、夢の中をさまよう狭霧を呼び覚ますようだった。


 それから。狭霧は、その色の染め紐を手首に結わえた人の顔も思い出した。


(高比古……)


 その人の鋭い眼差しを思い出した途端に、鋭い刃でぐさりと頭を貫かれた気もした。


 すると、たちまち妙な違和感を覚えて、狭霧はあたりをきょろきょろと見回した。


(この部屋って、こんなだっけ?)


 それまでは、幻の靄がかかって見えでもしていたのか――? そんなふうに思うほど、今は、目の前にあるものがやたらとすっきりと見えていた。


 そばには誰もおらず、あたりはとても静かで、風の音しかしない――と、そう決めつけて、耳を澄ますのを忘れていた耳も、たちまち人の声を聞きつけた。


 その声は、狭霧が匿われた小部屋の外から聞こえてくる。この館を守る番兵の声で、彼らは、厄介な仕事を嘆くようにいい合いをしていた。


「今夜は寝ずの番をしろだなんて。おれたち、貧乏くじをひかされましたよねー」


「明日の朝までの辛抱だよ。明日の朝早く、邇々芸様は遠賀を発たれるはずだから」


「ああ、奥方も連れてな」


「えっ? そこの姫君も連れていくんですか?」 


 そこで小声で話している番兵は、声を聞く限りでは三人いる。そして、彼らが話す奥方というのは、狭霧のことらしい。


(奥方って、わたし? あの人の奥方って、どうしてそんな話になっているの。どうして――?)


 冗談か? 自分がそんなふうに呼ばれていることに、狭霧は眉をひそめた。


「ここの姫君って、出雲のお方なんでしょう? すぐそこに出雲の武王の船団がいるって聞いたけど、追手は来ないのかな。逃げ切れるのかな――」


「なんの不安があるものか。邇々芸様がいくなら、瀬戸をくぐっていくだろう。あの海に入れば、追手がかかろうが追いつけるものか」


「瀬戸……あの、魔の海か。では、大和へお戻りになる日も近いな」


 どきどきどき――。高鳴っていく心音に脅えるのを耐えようと、狭霧は、自分の手首をぎゅっと握り締めた。


(今のはどういうこと? いったいなんの話?)


 たしかに昼間、狭霧は邇々芸から妻問いをされた。


 どうして急に、わたしなんかに……。そう混乱したせいか、それとも、輝矢と邇々芸を重ね合わせたせいか、その場で即座に断りはしなかった。でも、「わかりました、あなたの妻になります」と、いい返事をしたわけでもなかった。


(でも、それだって、ついさっきの話よ。そんなことが、どうして番兵にまで知られているの? ――ううん、違う。そうじゃない、きっと……)


 その瞬間。恐ろしいはかりごとに気づいた気がして、狭霧は息を飲んだ。


 番兵たちのひそやかな声を聞く限りでは、番兵たちは、聞いたばかりの噂を楽しんでいるふうではなかった。それは、まるで――。


(わたしがあの人の奥方になると、決まってるみたい……)


 狭霧は、眉山を寄せた。それから、一言でも多くを聞こうと懸命に耳をそばだてた。わからないことばかりでめちゃくちゃになっている頭を静めるために、一つでも多くの知らせを得たかった。


(明日の朝早く、邇々芸様がわたしを連れて遠賀を発つ? 瀬戸っていう海を通って、その海に入れば、追手は追いつけない……? 大和へお戻りになる日も近い?)


 当然の予定を話すようにいい切る番兵たちの話は、どれもこれも、狭霧には初耳だ。瀬戸という海のことも、そこが魔の海と呼ばれる由来も、その海が大和へ向かう時に通る場所だということも、すべて――。


 狭霧に蘇る声もあった。春の日差しに溢れた庭で狭霧に微笑んだ、邇々芸の声だ。


『いいんです、僕が急ぎ過ぎた。――少し休んでください。そして、明朝……いいえ、そのうちに、いい返事を聞かせてもらえると、とても嬉しい』


 わからないことが多すぎて愕然としつつも、狭霧の身体は、奥深い場所から震え始めていた。


(どうしよう。このままここにいたら、わたし……わたし……?)


 今のところ、邇々芸の目的も、何もかもがわからない。


 でも、痛烈に感じることがあった。


 これまでも、狭霧はいろいろなことをよくわかっているほうではなかった。


 遠賀へ着いてからだけを思い返してみても、高比古と盛耶が目の前で喧嘩をした時も、朝早いうちに野営を出ていった高比古たちがどこへ向かったのかということも、そういえば、どうして出雲軍が、遠賀で何日ものんびりしていたのかも、盛耶がどうして遠賀へ来たかも、日女(ひるめ)がどうして高比古を追ってきたのかも――。思い返せば、きりがない。どれも狭霧はよくわからず、わからないからといって、知ろうとも思わなかった。


 たとえば、畑の耕し方や、種の撒き方、薬草の育て方――。最近、熱心に学んでいたことはそれくらいだ。


 農婦と同じように、顔や手足を泥だらけにした毎日は誇りに思っている。でも、それだけでは、きっと駄目なのだ。


(知らなかったら、終わる――。迷っているうちに、大事なものが、また通り過ぎてしまう――)


 わからないままうろたえていたら、きっと取り返しがつかなくなる。いつか、とても大事な二つのうち一つを選ぶのをためらって、途方に暮れた時のように――。


 その時。堅薦の向こう側の気配が、わずかに変わった。番兵のうち一人がどこかへ向かって遠ざかり、誰かを招き寄せているようだった。


「あ、術者様だ」


「姫君の館はこちらですよ!」


「あれ……いってしまったぞ? おかしいな」


「船出の支度でお忙しいからかなあ。まあ、今にいらっしゃるさ。まだこんなに明るいし、館の姫君も、眠るには少し早いだろうから」


 ぎゅ。そこに巻かれている黄色の染め紐もろとも、あらん限りの力で手首を握り締めた。


(術者? 船出? 姫君が眠るには少し早いって……なんの話?)


 胸の早鐘は、警鐘を打ち鳴らす。


 どちらかといえばのんびりとした、邇々芸の優しい笑顔が、目の裏にちらついた。輝矢に似た二重の目もとを細めて笑うと、邇々芸の品のいい顔立ちは、見ているだけでほっと心が和むほど雅やかだった。


 でも今、狭霧は夢中で首を横に振っていた。


(何が本当? 何が幻? 違う。……ぜんぶ幻だ)


 今、狭霧を支配するのは、未知への混乱と脅えだけだった。でも今は、それに躍らされて震えているほうが正しいと信じたかった。


(船なんかに乗せられたら、海の上では逃げ場がないわ。大和へお戻りになる日が近いっていうことは、その海を通っていく先は、大和? わたしは大和へ連れていかれようとしている? ――いやだ、大和にはいきたくない。出雲がいい)


 幼い頃から、狭霧は武王の娘という不相応な身の上が苦手だった。父や母や、祖父のような、出雲という大国を動かした面々に混じるべき稀有な能もないのに、ただ血筋を褒められるのが苦手で仕方なくて、出雲から逃げたいと思ったこともあった。


 でも今は、そんなことはいっていられない。輝矢と引き換えに、出雲の薬師に……出雲の姫になると決意したのに――。


(逃げなくちゃ)


 あなたの姿をこんなお守りに代えて、あなたと引き換えに選んだ道だもの。立ち止まってなんかいられないわ――。


 輝矢を失ってから胸でつぶやき続けた言葉を繰り返すと、急に目の前の白霧が晴れた気分になった。


 目の前がすっきりとして、館の狭さや、木の組み方が出雲風ではないことや、床に敷いてある木目の色が、まざまざと目に映る。


 それから――枕元に置かれている土の器。そこには、ここで目覚めた時のまま、爽やかな芳香を放つ涼草すずくさが盛られていた。


 狭霧の手は、枕元の器に伸びていた。邇々芸が目覚め草と呼んだ、薬草の器に。


(また眠るわけにはいかない)


 両手で器を掴み取り、頭上に振りかぶると、床にたたきつけた。


 がしゃん! 音が鳴ると、聞きつけた番兵たちが勢いよく駆けこんでくる。


「どうしました?」


 戸口を塞ぐ堅薦を跳ね除けるようにして小部屋に顔を出した番兵は、脅えていた。彼らの主……邇々芸の大切な奥方に何かが起きたかと慌てている――というよりは、重要な客人を逃がしてはまずいと、焦っているように見てとれた。


(やっぱり……間違ってない)


 勘を信じた狭霧は、なるべく彼らと目を合わせないようにした。


「ご、ごめんなさい。邇々芸様が置いてくださった涼草の香りを嗅ごうとしたら、手がすべって……」


 口からは、嘘がすんなりと出ていく。その唇を、今は頼もしい相棒に感じた。


「ああ、なるほど。わかりました。すぐに片づけますね」


 部屋の中を覗きこんだ番兵は、ほっと安堵の息を吐いた。それから、床に散らばった器のかけらをそそくさと集めながら、番兵たちは狭霧の心配をした。


「あぁ、かけらが結構尖っていますね。お怪我はありませんか」


 狭霧は、はにかんで応えた。


「はい、平気です」


 みずから器を壊したのは、その尖った角が欲しかったからだ。少し押しあてただけで素肌に血をにじませるような、鋭利な角が。


 その時、狭霧の胸元の合わせには、兵たちが駆けつける前に慌てて拾っておいた、かけらの一つが忍ばされていた。


 床に散らばったかけらの中でも、一番鋭利な角をもつかけらが――。





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