闇を照らす大樹 (1)


 時が過ぎて、風も夜の色に染まり始めた。琥珀色の光をはらんできらきらと輝いていた夕風は、いったん光を弱めると、すぐさま鈍い影を帯びていく。


 用意された夕餉を早々に食べて、狭霧は寝床に横になった。


 先ほど耳にした話が本当なら、今に、いにしえの森で狭霧の足を動けなくした大和の術者がここに来るはずだ。明朝、大和へ旅立つ船へひそかに狭霧を乗せるまで、眠らせておくために――。


 外からの光が薄れると、明かり取りの小窓の他に灯かりをもたない狭霧の居場所は、真っ暗になる。暗闇の中で、緊張に震えながら掛け布にくるまっていると、狭霧は、不思議な風が吹いたのを感じた。


 香りもなく、ぬるさや冷たさもべつだん感じないが、いやに重くて濃い風だった。何も知らなければ、「へんな風」と首を傾げて終わったかもしれないが、今は、正体に思い当たった。


(高比古が、言霊っていうのを使った時に似てる……。きっと、眠りの風だ。術っていうのをかけているんだ)


 掛け布の中で、狭霧の腕の内側は赤く腫れていた。手には、咄嗟につくりあげた器の破片がある。鋭い角を肌に押しあてていると、ふとした隙にぼんやりと気が遠のきそうになるのをこらえることができた。


 異様な眠気と闘っていると、ある時、堅薦の向こう側……館の外の庭あたりで、人が増えたり減ったりする気配を感じた。そこを出入りする人たちは、揃って戸惑いや焦りじみた雰囲気をまとっている。


(きっと、わたしに術をかけるのがたいへんだっていう相談をしているんだ。人が少なくなった気がするけど、手助けを呼びにいったのかな。どうしよう……術者の数が増えたら、やっぱり術っていうのは強くなるのかな。わからないけど……)


 もし、考えているよりもっと酷いことが起きたらどうしよう。


 もしも、根本的なことを間違えていたら?


 器のかけらで肌を傷つけたり、寝床にひそんだり……本当にこれでいいの? ほかに、どうすればいい? どうすればここを逃げられる?


 疑問は次から次へと湧き出てくるが、現状をろくにわかっていない狭霧には、返せる答えがなかった。ただ、知らないということに、痛烈に脅えた。


(どうしよう……いたっ!)


 思い悩んでいるうちに、破片の角を強く押し過ぎてしまった。肌にちくりと刺さった鋭い角は容赦なく食い込んで、ぬるい雫がじんわりと浮き上がる。真っ暗闇にいるせいで色は黒く見えているが、その雫は赤い色をしているはずだ。血だ。


(やりすぎちゃった……いいわ。これでしばらく眠らなくて済むかも……)


 血をぬぐおうと、掛け布の端を手首に近づけたところだった。何かが目に入った気がして、狭霧はぽかんと闇の中に見入った。


 それは、手首のあたり。狭霧の手首を締め付けることもなく、つかず離れずの場所で輪っかをつくる紐だった。闇の中にいるせいで色は黒ずんでいるが、もとは鮮やかな黄色をしているはずだ。出雲の軍旗と同じ、強い黄色を。


(高比古……)


 この紐を手首に結わえた時、高比古は狭霧を守るように念を込めたといっていた。彼がくれたものなら……出雲随一の事代ことしろの力をもってすれば、どうにか今の窮地を脱せるのではないのか。


 まぶたを閉じた狭霧は、わらにもすがる思いで、腕に巻いた染め紐へ額を近づけた。


(お願い、助けて。ここにあなたの力が宿っているなら……!)


 でも、はっと我に返る。そして、お願いとすがりついたことをたちまち悔やんだ。


 脳裏に浮かんだ高比古の顔は、鬱陶しそうな渋面をしていた。忌々しげに舌打ちをして、狭霧を嘲っていた。そのうえ、狭霧は高比古の、相手を蔑むような冷たい声までを思い出した。


 人に頼るだけで、自分では何もしないのか――?


 手首に巻いた紐を見ているうちに、高比古の冷淡な眼に睨まれた――そんな錯覚を覚えると、狭霧の胸は、たちまち水を打ったように静まり返った。


(そうよ。高比古は神様じゃないんだから、ただ、「助けて」なんて虫のいいお願いをすれば、きっと高比古はわたしを馬鹿にするわよ)


 高比古や事代の力というのも、狭霧はほとんど知らなかった。でも、きっとどんなことでも自由自在にできるような、全能の力をもっているわけではないだろう。


 例えば、未知の力で身体をふわりと浮きあがらせて夜空を飛ばせてとか、堅薦かたこもの向こうで狭霧に術をかけようとしている大和の術者たちをたちどころに消してとか、そんな都合のいい願いごとは、叶わないだろう。


(そうよ、自分でやらなくちゃ――。何ならできる? どこまで手伝ってもらえば、ここを逃げられる? 考えて、考えて――。今できる一番いい方法はなに? 少しくらい間違ってもいいのよ、逃げ切れれば――)


 まじないの文句を唱えるように、胸で繰り返すうちに、ある時狭霧は、これしかないと一つを見つけた。


 手首に巻かれた細い染め紐に唇を近づけると、まぶたを閉じていく。そして、そこに力を宿した高比古が言霊を吹きかけた時のように、小声でつぶやいた。


「わたしは眠ったと、そこにいる術者に思わせて。それから、ここから出る手助けをしてほしいの。お願い、そこにいる番兵を眠らせて」


 一心不乱に念じた後、狭霧は決意と共に唇を横に結んだ。


(そのあとは、自分でやるから)

 




 不思議だった。


 狭霧には人離れした奇妙な力などないはずなのに、懸命に耳を澄まして壁の向こう側の様子を窺っていると、ある時、とても静かになったと感じた。


 覚悟をつけてしまってからは、いやに手足の自由がきいた。手足も膝も、指先も、目も鼻も耳も、狭霧にある何もかもが、たった一つのものを目指して、共に闘っている気分だった。


 血が滲んだ掛け布をそっとよけて寝床を出ると、忍び足で戸口へ。外の気配を気にしながら、ほんの少し堅薦の端をよけてみる。わずかなすき間から外を覗くと、そこには、館をぐるりと囲む回廊が見えていて、その先には、月光で白く彩られた夜の庭が見える。


 そこには、異様な光景があった。広々とした庭には、小山の形を為した黒い茂みのようなものが、いくつもできていた。


(人だ……眠ってる)


 庭には、膝を立ててうずくまったり、樹の幹に寄り掛かったり、思い思いの姿勢で眠りこける異国の兵の姿があった。


 手首に残された高比古の力は、狭霧の願いを聞き届けたのだ。


(やっぱり――。高比古は、出雲一の事代だもの。ここにあるのがいくら高比古の力の片鱗でも、大和の術者なんかに負けるわけがないのよ)


 真夜中の庭へ飛び出した狭霧は、早足でそこを横切っていく。


 庭を抜けて暗い道に出て、ふと眼下を見下ろすと、そこには黒い海が広がっていた。高台にあるその場所から望むと、天上から地上に降り注ぐ月光を浴びた暗い海は、星の色をした輝く波をいただいているように見えた。


 月の夜の海景は、美しかった。でも、狭霧はすぐに海に背を向けて、支度を始めた。


 ふんわりと狭霧の腰を包んでくるぶしの位置まで垂れる裳の裾を帯へねじこんで、膝を出す。袖も、何重にもまくって腕を出した。


 動きやすい格好をつくると、狭霧のつま先は、夜の冷たい土を蹴る。


 道を海とは逆方向に駆け登り、さらに高い場所を目指した。


 視線の先には、はるか高くまでそびえる崖が、黒い影になって見えていた。


(絶対どこかには、あの崖の上へいく道があるはずよ。ここから出雲軍の野営を目指すには、連れてこられた時みたいに川をさかのぼっていけばいいのだろうけど、わたしは舟の操り方がわからないし……やっぱり、登るしかないわ)


 幸い、足には自信がある。木登りも平気だ。岩だろうが枝だろうが、足場になるものがあればどんな場所でも登ってやる。決意は揺らがなかった。


 狭霧が駆けるたびに、手首に結わえられた染め紐も同じように弾んで跳ねた。


 染め紐から、「ここにいるよ」と話しかけられているような、「早く頼れよ」とせっつかれているような――そんな気もした。でも、そのお守りにこれ以上頼る気は起きなかった。いや――、もしも次に助けを願うなら、自分ではどうしようもないほど危うくなった時だと思った。


 死に物狂いで努力をしないうちからは、あつかましくて、次のお願いなどできそうになくて――。というより、そんなことをすれば高比古に許してもらえない――と、そう信じた。





 その日の晩、日が暮れると、丘の頂きには炎が揺れた。


 何日もの間、出雲の武人たちは列を為して丘に登っていたが、その晩に限って、陽が落ちてからも、出雲の武人たちが山道を下る気配はなかった。それどころか、時が経ってあたりが暗くなるにつれて、人の数は続々と増えていく。


 夜の炎の灯りは、よく目立つ。とくに、高い場所にある火はそうだ。


 出雲軍がこの地にいることを隠そうと、事代は言霊を唱えていた。重い風の壁を丘の上に為して、闇夜で煌々と瞬く炎の輝きを、そこに無いもののように見せようと――。


 でも、ある時、高比古はそれをやめるよう命じた。


「もう、こそこそしなくてもいいだろう。どうせ奴らにはバレてる」


 高比古は、薄暮れの影の底に沈んだ大地を見渡せる崖の縁に立っていた。


 阿多族の浜里を、強い海風から守るようにそびえ立つその丘の頂きからは、遥か彼方までを見渡すことができた。高比古が見つめる天の果てには、ほかよりも早く夜が訪れていた。その方角が、東だからだ。


 深みを増した空色と、優艶な紫色が入り混じった空は彼方まで澄み渡り、奥行きの果てしなさを思い知らせる。日が暮れるごとに澄んでいく天と対を為して、遠賀の大地は、闇の色に染まり始めた。


 眼下の景色を見渡して、高比古は唇を横に引いた。


(東は敷島へ続く海峡、南は日向隼人と大隅隼人の都へ向かう海、北は宗像の海、か。ここからなら、どこへも逃げられるってことか)


 遠賀という地は、東西しか行きようがない海に面する出雲や、ほかの多くの海とは異なる特別な場所だった。土地は筑紫と敷島の狭間にある細い海峡に沿っており、そのほかにも、いくつもの航路が交わる中継地に位置していた。


 ふと、高比古は、ぎっ、ぎっ……という、鉄製の沓底が石粒を踏みしめる重い足音を聞きつけた。やって来たのは、戦装束に身を包んだ青年、安曇あずみだった。


 高比古のそばまでやって来ると、安曇は、隣に並んで眼下の大景を見下ろした。


「状況は?」


「変わらない」


 高比古は、安曇がやってきた方角をちらりと振り返った。


 そこには、大きな天幕が張られている。天幕の周囲には松明が立てられ、煌々とした炎の輝きで、天幕の布地を赤く炙っていた。


 天幕には、武装した男たちが忙しなく出入りをしている。その慌ただしい気配といい、天幕を炙る炎の猛々しさといい、そこは、戦の時につくられる本陣に似た気配を帯びていた。あたりには、殺気めいた異様な緊張が満ちている。


 狭霧という名の、大国主の娘姫が姿を消した。そして、数日にわたって様子を窺っていた海際の地帯が、奇妙な動きを見せ始めた――。この二つの報がもたらされてから、この丘で大国主のための天幕が張られるまで、それほど時はかからなかった。


「もう一度聞くが――、狭霧が消えたというのは、間違いないんだな?」


「駆けずり回って散々探したのに、いなかったろう? あんたはどう思う? 狭霧が自分で身を隠すか? 幼い頃からあいつのそばにいたのは、あんただろう?」


 齢が十以上離れているとはいえ、高比古の態度に、年長者に対する遠慮はなかった。安曇も、それを咎めることはない。二人には、これがいつも通りだから――力の掟に従う出雲では、齢も生まれも意味を成さないからだった。経験の差こそあれ、意宇の王、彦名の名代である高比古と、武王の影を務めることもあるそえである安曇に、身分の差はほとんどなかった。


 安曇は、鉄の武具に包まれた腕を胸の前で組み、高比古の頭より高い場所でため息をこぼした。


「――ないと思う。とくに最近、あの子は変わった。だが、事代まがいの妙な力に隠されているというのは本当なのか? そればかりは、私たちにはなんとも判別しづらいんだが」


「単にあいつがどこかで足を滑らせて戻れなくなったとか、そういうことなら、こんなに慌てない。狭霧は誰かに連れ去られて、匿われたよ。間違いない」


「いい切れるんだな?」


「くどい。あいつにおれは、おれの力を移した紐を渡しておいたが、それごと気配が消えてるんだ。どこぞの術者か神官が絡んでいるとしか、考えられない」


「術者か神官――。霊威が絡んだ戦になるのか」


 ふう。安曇はひときわ重いため息を吐く。


「それで――狭霧が匿われた場所の目星はついたのか」


「二つに絞れる」


 いつ戦が始まっても闘えるような戦装束姿の安曇と違って、高比古が身につけているのは、いつも通りの白の簡素な衣装だけだった。


 高比古の目は、眼前に広がる大景の東の方角から逸れることがなかった。


「昼間のうちに、浜里の民すべてを集めて話を聞いた。このあたりにある港や、行き来する連中のことなど、片っ端から知らせさせたが、まとめると、このあたりには、港をもった浜里が点在するらしい」


「――そうだろう。ここは交通の要所だ。大陸に向かう船、筑紫の北岸を回って阿多あた族の都の方角に向かう船、出雲や越の方角に向かう船に、筑紫の東岸を回って南に向かう船――、あらゆる連中がここを通るし、そういう連中を相手に商いをするにはうってつけだ。……それで、二つに絞ったとは?」


紫田しだか、遠賀の南側……大隅おおすみ族の港がある浜里だ」


「紫田か、大隅の浜里? 理由は」


「下っ端の兵や、遠賀の農夫から聞いた話だが、狭霧は林の奥にある森に何度か出かけていたらしい」


「ああ、森――。いっていたな。私も連れ戻しにいったことがあるよ」


「狭霧が浚われたなら、場所はそこくらいだろう。ここしばらく、狭霧は昼間の間、遠賀の畑に出かけていたらしい。あいつが行き来したのはその畑と出雲の野営、それから、宿のある港の里だが、どこにも必ず人の目がある。よほどでなければ、浚うのは難しい」


「たしかに、そうだな。それで?」


「森の奥に、川が流れていた」


「川? 野営のそばに大河を流れていたが、それか?」


「いや、別の支流だ。浚われた場所が森なら、次に考えるべきは逃げ道だよ。おれも森までいってみたんだが……へんな森だった。そこらじゅうに妙なものがあった」


「妙なもの?」


 おもむろに、高比古は手のひらを差し出した。


 そこには、手のひらにすっぽりおさまる大きさの白い花が乗っている。花びらの形は丸みを帯びていて、うっすらと甘い香りを放っている。


 高比古の手に乗った花を上から覗きこんで、安曇は眉をひそめた。


「この花は?」


「森の小道の脇にいくつか置いてあった。――花には、偽の隙間をつくるようまじないがかかっていた」


「偽の、隙間――?」


「結界というのか、障壁というのか――違いはおれにはわからないが、とにかく、おれたちがここでやったのと同じだよ。この花には、そこに何かあると隠すように力が込められていた」


 高比古は、その花を腰に下げた小袋の中へとしまい込む。次に、彼が手に取ったのも、花を片づけたのと同じ袋の中から取り出したものだった。


「それから、こっちは、川へ向かう小道に落ちていた」


 高比古の指に乗っていたものは、からからに乾いていた。水気を失ったせいでもとの色は失われ、渋味が増していたが、それは――。


 安曇は、つぶやいた。


「これは、干し草か? 高比古、これがいったいなんだ?」


「草の化け物だよ」


「草の、化け物?」


「ああ。実をいうと、おれもよくわからない。でも、どうやらただの草じゃない。森や林や、どこかで自然に生えているものではなくて、人の手で生まれたか、そのように代えられたか、呪いの匂いがするものだ」


「呪いの匂い? それは――?」


「草の声が聴こえない」


「草の、声?」


「ああ。草でも花でも風でも岩でも、意思があったり、なんらかの望みがあったりするものだ。そういうものが、この草にはまるで感じられない。そのうえ、呪い臭い。こんなもの、見たことがない」


「――すまないが、よくわからん」


 力強くいい切る高比古に詫びるように、安曇は、眼下の夕景に渋顔を戻した。


「呪いとか、草の意思とか望みとかいわれても、悪いが、私には理解しにくいよ。事代や巫女には戦でも世話になっているし、霊威というものも多少は信じているが……」


 ふん。安曇を見上げて一瞥すると、高比古は冷徹な横顔を向けた。


「わからないなら、疑わずに信じろ。事実だ」


「事実だといわれてもなあ……」


 安曇はまだ渋ったが、ちらりと背後を振り返ると、力なくため息を吐いた。


 安曇が目を向けたあたりでは、裾の長い妙な衣をまとった男たちが甲高い悲鳴を上げていた。事代たちだ。


「ひ、姫様ぁ、いったいどこに~~」


「なんとしてでもお探しするんだ! 風よ草よ水よ、お願いだからいうことを聞いて! 姫様のお行方を教えて~」


 事代たちは、天幕の周りを駆け回って、時々互いにぶつかって転んだりもしつつ、大騒ぎをしている。


 事代たちの様子を確かめると、安曇は諦めたようにうつむいた。


「なんというか、いっていることがよくわからない彼らと違って、おまえの話は筋が通っている気がするし――。まあ、私たちにも理解しやすいし、いいか――」


 無理やり納得したというふうに、安曇はゆっくりとうなずいた。


「いま頼るべきものは、剣ではなくておまえたちなんだろう? 信じなくては、仕方ないか……。――それで、紫田と、大隅族の浜里、この二つに狙いを定めたといっていたが、理由をまだ聞いていなかったな」


「理由か? 森の奥に流れている川の上流にあるのが紫田、下流にあるのが大隅族の港だからだ」


「川? さっき話していた支流のことか? そこで、狭霧は船に乗せられたと?」


「たぶんな。それに、紫田も、隼人の大隅族もどちらも、かつては倭奴わぬと関わりがあったらしいよ」


「倭奴というと、北筑紫の国か。大和の女王の第二の故郷とか。――それで?」


「今は倭奴も、国の中が乱れているから、紫田や大隅といえども、倭奴との繋がりは薄れているだろうが――。実は、面白い話を聞いたんだ、安曇」


「面白い話?」


「大和の女王が、倭奴の軍を連れて伊邪那いさなを滅ぼしに向かった時に通った道が、その川らしいよ」


「川って、さっきの? 遠賀の森を流れてた?」


「そうだ。正確にいうとその川ではなくて、本流の大河だが――。倭奴を出た女王は、まず内陸に入って、山越えをしたらしいよ。そして、倭奴の南にある紫田を通り、大河を下って大隅族の地へ渡り、そこから船出したらしい。――奇妙じゃないか。いったい連中は、どうして倭奴から船に乗らなかったんだろうな? 倭奴は海民の国だっていう話なのに」


 謎を愉快がるように冷笑を浮かべる高比古に、安曇は苦言を呈した。


「それはそれで奇妙だが――。狭霧の行方と関わりがある話なんだろうな?」


「あるよ。女王の通った道の先にあるのは、伊邪那……つまり、今の大和の都だ。ということは、奴らは、その大河のことを、大和へ通じる道として覚えているはずだよ。大和と筑紫を行き来する時は、その大河と河口が目印だと」


「ちょっと待て、高比古……! それは、つまり――!」


 核心に迫っているようで、高比古は、なかなか重要なところに触れようとしない。


 こめかみを指で押さえつつ、安曇はどうにか言葉を読み解いた。


「ということは、高比古……狭霧を浚ったのは――」


 高比古は、東の果てから天頂へ向かってじわじわと染みていく闇の色を眺めていた。そして、不敵な笑みを浮かべた。


「ああ、そうだ。大和の誰かだ。そう考えたほうが、いろいろとつじつまが合う」


「つじつま? 何がだ。おまえが拾った干し草のことか? それが大和のものだと?」


「いや、草の呪いうんぬんの出所は、正直、おれもよくわからない。ただ、遠賀にいる間中、そっちのほうから吹く風が妙だと感じていた」


「風が? そっちって? 大隅族の港の方角から来る風がか?」


「そうだ。何か妙なものがいるから気をつけろと、風が痺れたようになっていた」


「風が、痺れる? それはよくわからんが……」


「とにかく、狭霧はたぶん、大隅族の浜里にいるよ。そこに狭霧といるのが大和の連中で、目的がおれが考えている通りなら、早く手を打たないと手遅れになる」


「手遅れ――?」


 安曇が頬をぴくりと震わせる。それを、高比古は横目で見上げた。


「おかしいと思わないか、安曇」


「おかしいとは……」


「どうして狭霧を浚った連中は、狭霧を狙えたんだろうな?」


「――どういうことだ?」


「なぜ、大国主の娘が遠賀にいると……いや、遠賀を訪れると知って、準備ができたんだろうな?」


 ふん。高比古は鼻で笑った。


「その連中は、狭霧が遠賀に来ることを知ってたよ。それは間違いない。少なくとも、ここ数日の間にそいつらが陣を張ったわけではない。十日前、出雲の船がここに着いた時からすでに、風は、おれに何かがおかしいと伝えていた。おれたちがここに着くより前から、連中は待っていたはずだ。出雲の船団が……大国主の娘が、遠賀を訪れるのをな」


「……高比古、それは」


 安曇の目の奥に、動揺が生まれた。それを、高比古は鋭い目配せで制した。


「だから。急がないと手遅れになる。そいつらが、大和なりどこなりへ狭霧を連れ出そうと船出をしたらおしまいだ。ここは四方に通じる海の道の交差路で、逃げ道が多すぎるんだ――」


「それより、高比古、さっきの話だ。どういうことだ? 狭霧の到着を知っていたうえで準備されていたということは、それは、もしかして……」


 目に困惑の色を浮かべる安曇に、高比古はいっそう声を低くひそめた。


「まだわからない。でも、本当ならおおごとだ。後で、おれから彦名様に直接伝えるが、あんたもほかに漏らさないようにしてくれ。それで……大国主には伝えたほうがいいかな」


「大国主に……そうだなあ」


 安曇が、ゆっくりと背後を振り返る。安曇が様子をたしかめたのは、そこに建つ天幕だ。夜が忍び寄っていたせいで、天幕の布の白さが闇の色に映えていたが、その白布は、揺れてなびいている。内側にあるものが、激しく動いているのだ。


 天幕の異様な動きをたしかめると、安曇は肩を落とした。


「今は、無理かもしれないな……」


 安曇や、安曇の身動きにつられて天幕を向いた高比古の目の前で、天幕の揺れはどんどんと大きくなり、布を張るための木製の骨組みまでが、ぐらぐらと揺れ始めた。そして、ある時、ひときわ強い力でたゆむと、天幕を為していた木骨が、呆気なく崩れ落ちる。中で暴れていた人が、木骨の繋ぎ目を外すか、壊してしまったのだ。


 大きく弛んで、形を失い始めた天幕の布地の向こう側から、武人たちの声がする。


「お、大国主……! お気をたしかに! どうか落ち着いてください!」


「お心をお静めください!」


 彼らは、武王を諌めようとしていた。しかし、懸命の取りなしもむなしく、天幕を崩した本人、大国主は、落ちてきた天幕の天井を乱暴に跳ね除け、そこから大きく一歩を踏み出した。


「安曇はどこだ、どこにいった……!」


 肩をいからせて憤怒を表す大国主は、いまや、業火の化身のようにも見えていた。怒り狂ったが最後、落ち着かせるすべなどない。そんなふうに周囲を威圧していた。


 肩で風を切って、自分のもとへ近づいてくる主の姿に、安曇はやれやれと肩を落とした。


「あの通りだ。今はいわないほうがいい。そんなことをお耳に入れようものなら、すぐにここは処刑場になる。……あの方に黙っておくことには、私が責を負う」


「わかった。なら、大国主にも、狭霧の行方はおれが事代の技を使って探したと伝えてくれ。そのほうが――」


「わかった」


 早口で言葉を交わした後、高比古と安曇は揃って口を閉ざした。豪快な足さばきで安曇に狙いを定めてやってきた男盛りの武王は、二人の仕草に目もくれなかった。大国主は、怒りで我を忘れているというふうだった。


「いったいどうなった。狭霧の居場所はわかったのか? 浚った奴の目星はついたのか!」


「はい、穴持なもち様。高比古が……狭霧が姿を消した場所の地形を読み解くと、内陸の紫田か、海沿いの港のどちらかだと、高比古が……」


「どちらかだと? いったいどっちだ。どこに攻め込めばいいんだ、はっきりしろ!」


 武王の目は怒りでぎらつき、報復に燃えていた。


 愛娘を浚った賊など、八つ裂きにしてやる。そこまでせねば許しはしない。怒りをほとばしらせた武王は、まるで、彼という神獣をここへ繋ぎとめている枷じみたものを今にもみずから食い破って、不可思議な力で夜空を跳ね飛んでいってしまいそうな、異様な力に満ちていた。


 大国主は高比古にとって『力ある者が上に立つ。出雲に血の色は無用』という力の掟を誰よりも体現する男だ。でも、今の大国主は、そんな掟など存在も忘れたかのように取り乱して、父親としての怒りをあらわにしている。こんなふうに我を忘れる大国主を見たのは、高比古は初めてだった。


 血走らせた目に睨まれるままに、高比古はじっと息を飲んだ。


「港のほうだと思います。ですが、今、最後の知らせを待っています」


 淡々と告げた高比古を、安曇はちらりと一瞥する。


「最後の知らせ? 高比古、それは?」


「奴らの障壁を崩せと、下にいる巫女に命じて来た」


「奴らの、障壁?」


「大隅族の港の方角に、風が通り抜けにくい壁のようなものがある。巫女には、それを破れといってある。その向こう側の様子を窺って、知らせろと」


「壁のようなもの? ……破る? そんなことができるのか?」


「ああ、あの巫女がいてよかった。正直、事代だけだと、そういうのは難しい」


「細かなことなどどうでもいい。決まったならどうにかしろ、わかったな!」


 大国主は舌打ちをして、そこで冷静に策を練る二人の落ち着き具合までを責め始めた。


「どうして、おまえたちはそう涼しい顔をしていられるんだ。狭霧が消えたんだぞ? 彦名もそうだった……。おれは、先に野営へ戻って支度をする。おまえたちが遅れたら、先に出てしまうからな!」


 いうだけいうと、武王は大きな歩幅で遠ざかっていく。小さくなった武王の後姿を目で追いかけつつ、安曇は、ため息をついて見送った。


「大荒れだよ。止めるなんてもう無理だ」


 それから、高比古を向き、許しを請うように切なく笑った。その時高比古は、去りゆく大国主の背中をぼんやりと眺めて見送っていた。


「どうだ、高比古。ああいう大国主を見るのは嫌か?」


 尋ねておきながら、あの人を許してやってくれ……と、そう頼みこむような笑顔だった。


「あの方とは、かれこれ三十年近い付き合いになるが、あそこまで脇目もふらずに暴れるあの方を見るのは、私も二度目だ。まあ、めったにないことだよ、許せよ」


「二度目って? 一度目は……」


「須勢理様が亡くなった時だ。あの時もひどかった――」


 安曇は、ぽつりといった。


「かけがえのないものを一度失えば、失った時の恐怖というものは、永遠に消えないのだろうな――。狭霧は、須勢理様がこの世にたった一つ残した、須勢理様の面影だよ。そのように大事なものを失くさずに済むなら、どんな苦労も厭わないものなのだろうな」


 それから、安曇は、高比古のためのいいわけをするようにいった。


「武王のわがままで、娘のために戦を仕掛けるように見えるだろうが、そうでもないんだよ。狭霧は大国主と須佐乃男の血を引く娘で、出雲としても、勝手に奪われてはまずい存在だ。だから……」


 安曇は、高比古の機嫌をうかがっていた。


 それに気づくと、高比古は安曇から目を逸らして横顔を向け、慎重に唇を動かした。


「――わかってるよ。狭霧を狙ったのが大和なら、どうせそういうことをもくろんでのことだろうし……。それに、大国主の気持ちも、なんとなくわかるよ。――狭霧も、そうだ」


 安曇は目を細めて、小さく尋ねた。


「狭霧って?」


「あいつも、伊邪那の王子を失っただろう? ここしばらくのあいつは、少し危ういよ」


「危ういとは?」


 肩をすくめて、高比古は首を横に振った。


「うまくいえない。ただ、あいつは事代でも巫女でもないのに、あの王子が死んで以来、それっぽいことをいくつかやっているんだ」


「いくつか? 何を――」


「処刑後には、生きたまま自分の魂を飛ばしたし、今は……生きた幻をつくっている」


「――え?」


「たぶんだ。うまく説明できない」


 高比古は、突き放すようないいかたで話を終わらせてしまった。


 そして、ふとまぶたを閉じて、今いる場所から浜里へ続く丘の斜面を見つめた。その方角から、自分のもとへ近づいてくる重い風があったからだ。


「……あ」


 高比古を見つけると、闇の色に彩られた丘の斜面を吹き上がってくる春の夜風は、高比古の耳もとで言霊を伝えた。


 高比古の耳に届いた声は事代のもので、知らせは日女ひるめについてだ。丘に登る前に日女へ与えていた命令を、彼女が果たしたということを、ひそか知らせる事代の声だった。


『巫女様より、あなたへ。「たしかめた。あなたのいった場所に、異国の神官の気配がある」とのことです――』


 聞き届けると、高比古は、すう……と息を吐きながら目を開けていく。


 黙り込んだ高比古を、安曇は不審げに見入った。


「どうした。何か……」


 安曇と目を合わせることもなく、高比古は短く答えた。


「大隅の港で決まった。始める」



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