闇を照らす大樹 (2)

 日が暮れた後も、松明を手にして、港と野営を往来する武人たちの足音はやまなかった。


 大国主の娘姫が行方知れずになったという話は、すでに浜里中にいき渡っている。激昂して目をぎらつかせる武王や、その後を追って里を横切る従者たちの緊迫した目つき。強靭な武人の身体に戦装束をまとい、殺気じみたものをまとわりつかせて行き来する異様な一行の行方を気にして、遠賀おんがの人々は、住居の入り口から顔を出して噂をした。


「大国主の御子姫を浚うなどと……恐ろしや」


「戦の国の武王の護衛軍を相手に……」


 結局、高比古と安曇は、丘から里へ下りるまで連れだって歩き、話し込んだ。


 暗い坂道を降りる間、二人の声が途切れることはなかった。そこで交わされた話のほとんどはこの後の手順だったが、安曇が最後にしたのは、高比古への警告だった。


「先陣には盛耶もれやを置け、高比古」


「盛耶を?」


「そうだ。彼に役を与えて、許しなくここにいることをうやむやにしてやれ。恩を売れとまではいわんが、繋がりをつくれ。――いや、もっとはっきりいおうか。……そういう顔をするな」


 呆れ調子で安曇がたしなめた時、高比古は、さも面倒くさそうな渋面をしていた。釘をさされるやいなや、それまで以上のしかめっ面をしたが。


「そういう顔? 悪いが、もともとこういう……」


 折れようとしない高比古に、安曇はやれやれとため息をつく。


「いいから、高比古。盛耶を敵に回すな。大国主が大国主であったのは、あの方を慕った他の武王が大勢いたからだぞ?」


「――わかってる」


 安曇がするのは、高比古の耳には痛い話だ。


 高比古は、彦名や大国主、須佐乃男すさのおなど、〈王〉という呼び名をもつ高位の者たちから、出雲という国を背負っていく後継者候補と見られている。


 いずれ上に立つ気があるなら、有力者は手なずけておくべきだと、安曇は高比古を諭していた。――それは、理解した。しかし、高比古は、ため息をつくのを止められなかった。


「なあ、安曇」


「なんだ?」


「須佐乃男は、いったいおれに何をさせる気だ? あの爺様は、本当におれを杵築きつきの武王に据える気なのか?」


 昨年の秋、須佐乃男に呼び出された高比古は、雲宮へ移り住むように勧められた。それは命令ではなかったが、ほぼそれに近かった。


 翌春の阿多あた行きを見越して、杵築の兵舎に通う日が増えそうだから、そのためかと、高比古ははじめ思ったが、移り住んでしばらくすると、奇妙な噂がまことしやかに囁かれた。


 須佐乃男は高比古を、杵築の大国主の後継に据える気でいる。彦名の後継ではなく――と。


 しかし、それが真実かどうかは誰にもわからない。だから高比古は、その噂を聞かないふりをして、これまでずっと通してきた。だが、それが奇妙なことだとは、高比古自身もよくわかっていた。


 今、高比古の隣にいる安曇は、杵築の武王のそえで、その噂のことも、渦中にいる高比古のこともよく知っている人物だ。安曇になら、この話をしてもいい――そんなふうに高比古が思うほど、信頼がおける男でもある。


 とうとう胸中を語ると、安曇はぼそりと乾いた息を吐いた。


「須佐乃男様なあ――。宗像むなかたでおまえと一緒にいるうちに、何かを思われたのだろうが――あの人が考えることは、私もよくわからん。忠告をするとすれば、あの人が絡むことなら考えても無駄だから、まあ、あまり気にするなとしか……」


「同感だ。気にしてないよ」


 宗像の都へ須佐乃男と一緒に旅をした時、高比古は老王に張り合おうと意地を通したことがあった。しかし、結果は惨敗。老王の反応を追うのに精一杯で、高比古を手の上で転がそうとした老王の真意をすぐさま悟るとか、裏をかくなどという真似は、微塵もできなかった。結局、老王の思うままに操られただけだった。


「むしろ……煮るなり焼くなり、どうにでもしてくれという気分だ」


 宗像での無力感を思い出して辟易と吐くと、安曇は小さく笑った。


「それでいいと思う。静観しろ。それにしても――」


 安曇は、遠くを眺めてぽつりとこぼした。


穴持なもち様の後継か――。あの人が武王になったのは、ついこの前だと思っていたのに、もう時が移るのか……」


「ん、時?」


 訊き返そうと振り仰ぐと、安曇は淡い微笑を浮かべた。


「なんでもない。独り言だ」


 やがて、二人の足は丘の斜面を降りきり、浜里へ続く暗い野道へさしかかる。


 そこまで来ると、安曇は急に歩幅を大きくして、高比古を追い抜いていった。


「とにかく、内輪もめは慎めよ? 盛耶は、若い頃の穴持様に通じるところがある。ああいう気性は、得ようと思って得られるものではないし、使いようによっては逸材になる。遠ざけるより懐柔しろ。いいな」


「……気をつける」


 渋々とうなずいた高比古を見届けると、安曇はくすりと笑った。そして、高比古に背を見せると、これまで以上の早足になって先を目指した。


「私は先にいく。大国主が気になる」


 二人の行く手、闇に沈んだ浜里の向こうには、炎の灯りがずらりと並んでいる。それは、港のある阿多族の浜里と、出雲軍が野営をつくる野原を結ぶ一本道に立てられた松明の灯りだ。


 少しずつ遠ざかり、闇に紛れていく年長の男の背中を見つめて、高比古は唇を結んだ。


 正直なところ、盛耶がどうこうとたしなめられて、居心地が悪かったのだ。


(安曇の奴……本当によく見てるなあ。そんなにおれ、あの馬鹿と仲が悪そうにしてたっけ?)


 盛耶が気に食わないと誰かに漏らしたことは、一切なかったはずなのに――。


 安曇が自らいい諭した高比古のこともそうだが、安曇は、盛耶のことも気にかけていた。


 盛耶は、安曇の主、大国主と越の姫の間にできた御子だ。その血筋に加えて、あの暴君ぶり。たしかに、盛耶は常人の器ではないだろう。と、そういうことは高比古もわかるが、気に食わない相手のことを持ち上げられても、なかなか素直には認められないものだ。


(あいつが狭霧を襲った話でもしたら、安曇はいったいどんな顔するのかな)


 居心地悪さにつられて、ささやかな悪事を企んでみるが――。


 気を取り直して、ぎっと奥歯を噛んで行く手を見つめると、足さばきを大きくした。


 安曇の後姿は、すでに遠ざかっていた。安曇が向かった先は、もちろん彼の主、大国主のもとだ。我を忘れて激昂する、手がつけられない神獣じみた大国主を抑えられるのは、もはや安曇以外にいない。武王のそばへ出向くのが急務とばかりに早足になった安曇と同じく、急ぐべき役目は、高比古にも目白押しだった。


 ひと足先に軍のもとへ戻った大国主は、そこで出陣の支度を命じているはずだ。


 怒りがおさまったとは考えられないし、あの得もいえぬ勢いで脅されたなら、きっと兵たちは慌てて働き、すぐさま支度を済ませて、今ごろ野営は整然と静まり返って、出陣の号令を待っているかもしれない。


 高比古の出番は、すぐそこだ。次にすべきは、戦策の指示だからだ。


 しばらく二人きりで話し込んでいた相手、安曇は、大国主の側近であり片腕である上に、戦場に出た出雲軍を動かす影の策士じみた役目を負っている。安曇と高比古が事前に策をたしかめ合うのはいつものことで、今の安曇とのやり取りで、杵築側……武王の了承は得たといえる。武将を集めて戦策をまとめる余裕もない今は、すぐに高比古の出番が来る。


(戦陣……盛耶が先頭か。役目を与えろって、目立たせろってことだよな? 盛耶なあ――)


 そのようにすべきだと忠告した男、安曇を追う高比古の足は重かった。


 しかし、憂鬱を振り切ると、ついと顎を上げる。そして、夜闇に隠れた安曇の背中のある方角を見据えた。


 




 夜が更けた頃――。浜里と野営を繋ぐ松明の道はさらに伸び、背後の森の奥へと続くことになった。


 闇に包まれた森の道には、松明を掲げる兵たちが点々と並び、手にした火明かりで目印をつくっている。炎の明かりに照らされた道には、大きなものを数人がかりで運ぶ兵の列が続く。


 兵が運ぶのは、出雲から乗ってきた船だ。夜の森には、指示を放つ鋭い声が響いた。


「急げ、船を運べ。森の奥へ! 船を――!」


 波の上や、川の上を滑るために造られた乗り物を持ち上げ、兵たちは、声を合わせている。勇ましい掛け声に合わせてゆっくりと動く人の列のそばを、高比古は、その光景を高い場所から見下ろしつつ駆け抜けた。


 遠賀の浜里で借りた馬を駆り、戦船を運ぶ行列を追い越していくと、行く手に、ひときわ明るく照らされた野原が現れる。そこは、森の奥を流れる川のほとり。船を担ぐ兵の群れの到達地だ。


 松明の火明かりで飾られた河原は、汗だくになって船を担ぐ兵や、運ばれた船を川に並べさせようと、火で場所を示す武人たちでごった返していた。


「おまえたちはそっちだ! 次はその隣! 船を水に浮かべたら、縄をもってそばに並んで待て。次の者、前へ!」


 河原の奥には、力仕事に励む下位の兵たちとは一線を画す武人の集まりがある。その武人たちが身にまとうのは、闇夜の中ですら鈍く輝く豪奢な鎧や兜――兵を率いる位をもつ、武将と呼ばれる男たちだ。


 その中でも、武王、大国主は目立っていた。そちらの方角を向いた時に、まず目がいくのも、武王のもとだ。


 今、その河原には大勢の兵がいたが、その誰もが、武王の機嫌を窺っていた。


 急げ、武王が見ている。お怒りだ。急げ――!


 そこに、その男がいると気づくなり、いつのまにか目の色をうかがって役目に励んでしまう――。この王の機嫌を損ねないように、この王が満足してくださるように――。


 大国主とは、そんなふうに、何もいわずともおのずと人を従わせてしまう、稀有な男だった。


 この場にいるすべての兵と同じく、高比古も、いつのまにか武王の一挙手一投足を気にしていた。そのことに自分で気づくと、ふっと可笑しくなった。


(これが、服従か――。悪くない。この人になら――)


 手綱を操り、武将の集まりのもとへ向かう。


 〈出雲の死神〉とも称される武王、大国主の目は、闇の中でも奥の輝きがわかるほどぎらついている。夜闇に妖しくきらめく鎧を身にまとった雄々しい姿には、近くへ寄るのもためらうような、異様な気配が漂っていた。


 大国主のそばには、腕組みをして立つ安曇の姿があった。


 安曇は、やってきた高比古に気づくと、大国主から離れて歩み寄って来る。


「高比古、どうだ。このままか」


「ああ、このまま。狭霧を連れ去った連中がいった道を追う。幸い、水先案内人も用意できた」


 高比古が遅れたのは、浜里で人を――遠賀の大河の渡航に詳しい者を探していたからだ。


 安曇は、ほっと息をついた。


「見つけたか、よかった」


「ああ」


「それで、策は――」


「丘で練った通りだ。一本しか道がない川を通って向かうのだから、小技は使えない。敵襲と気づかれる前に岸にあがること、注意するのはそれだけだ。先陣は、弓隊……これは、盛耶に任せる。その後ろに大国主とあんた。後続におれからの注文はない。すべて任せる」


「――ほぼ二分だな。小さな頭で噛みついてみせて、巨大な図体で押し潰すというわけだな。ああ、わかった」


 安曇は笑った。何度も戦を経験した彼にとって、高比古の意図をくみ取るのは、造作でもないのだ。


 迷いのない真顔を貫く高比古を、安曇は、子供を敬うような目で見上げた。


「まったく……珍しい奴だよ、おまえは。雰囲気もやり方もまるで違うが、昔の穴持様を思い出すよ。あの方も迷わない人だった。……いや、そうじゃないな。迷いを見せない人だった。ついていけばどうにかなると、周りを信じ込ませる人だったよ」


 懐かしい思い出話を愉しむように、安曇はくくっと笑みをこぼす。それから、笑顔を向けたままで身体の向きを変えた。


「策士の仕事の半分は、戦を始めることと、終わらせること――つまり、戦場へ軍を確実にたどり着かせて、帰還させることだ。そのために必要な方法を知っているかどうかが重要で、風や森の声を聴く事代ことしろは適役というわけだが――。事実、おまえみたいな事代は珍しい」


 安曇は目を細めた。命を預けたと、高比古を信頼する目だった。


「武王がどう、巫王がどうのは私にはよくわからないが――須佐乃男様が、おまえを武王に推したのはわからないでもない。――まあいい、その話は戦の後にしよう。じゃあ、また」


 高比古も、その時、安曇を敬い、安曇に命を預けていた。自分がこうといい切った策を実行してくれる相手を――。


「ああ、後で」


 信頼を託して目配せを交わすと、安曇は、大国主のもとへ戻るような素振りをする。背を向けた安曇と同じく、高比古も、安曇に背を向けて川に向かった。


 水際では、松明を掲げて隊列を指示する男が、かすれ声を振り絞っていた。


「あと四団……! 順々に船を川へ! 前の連中を見て倣え!」


 森を進んでいた兵の列の最後尾も、見え始めていた。


 戦列は整い始めている。高比古の足は、川の下流――出雲軍の先頭方向へ向かった。


「乗船準備。すぐに出るぞ。櫂を上げろ。船を出す」


 指示を出しながら兵たちのそばを通り抜けると、高比古の声を聞きつけた上役たちが、同じ言葉を繰り返す。


「乗船準備! 櫂を用意!」


 同じ言葉が暗い川べりに響き、高比古の命令を、遠くへと伝えていく。


 そして、高比古の足が進むより先に命令は飛び交い、川に繋がれた船の上は、順々に慌ただしくなる。稽古を重ねた通りのやり方で、兵が乗り、船べりに足をかけ、岸に残った一人は縄をもち――兵たちは、次の命令を待つ姿勢をとった。


 船団の先頭には、ひときわ華々しい一団がいた。ほかとは毛色の違う異国風の戦装束で身を固める、諏訪帰りの一団だ。そして、盛耶。


 盛耶は、高比古を見つけるなり、黒眉をひそめて嫌悪をあらわにした。


(目が合うなりこれかよ。懐柔しろといわれてもなあ――)


 結局、高比古の顔もしかめっ面になる。胸にも不服が疼いた。


 にこりと笑いかけるとか、そういう芝居をしてやる気も起きない。


(さて、どうするか――)


 仕方がないので、煽ることにした。


 盛耶のそばを通り抜ける間際、高比古は、盛耶に嘲笑を向けた。


「盛耶、あんた、戦はできるんだろうな」


「は? なんだと……」


「腕を見せろよ。軍くらい動かせるんだろうな」


 冷笑して焚きつけると、盛耶は形相を変えた。


 それも無視して通り過ぎると、高比古は、背後で盛耶の怒鳴り声を聞いた。


「ふざけやがって――! あの野郎、ぶっ殺してやる! 見てろ、敵の首をこの船に山積みにして、目にもの見せてくれるわ!」


 とりあえず、手柄を立てる気にはなってくれたらしい。――が。高比古は、こっそりぼやいた。


「――簡単すぎるんだよ、馬鹿」


 盛耶が乗り込んだ船の前には、小舟が一艘用意されていた。


 漕ぎ手のほかに、事代が二人乗り込み、その前後には、大弓を手にした武人が腰かけている。高比古が、遠賀の浜里で話をつけてきた水先案内人の爺も先にここへたどり着いたようで、同じ小舟に席をとって座っていた。


「高比古様、奥へ」


「ああ」


 舳先に足をかけて、高比古のために空けられていた場所に腰を下ろす。そして、背後を振り返った。闇夜の中で、大河へ続く川の岸には出雲の船団が列をつくり、出陣を知らせる合図を今か今かと待っている。


 すう。一度深く息を吸うと、高比古は慎重に唇をひらいた。


「出していい。いこう」


 高比古の乗る先頭の小舟が岸を離れると、一艘、また一艘と、船は川の中央へ向かって離岸して、川幅に合わせた戦陣を為していく。


 大軍というわけではないが、武王の身を守るための精鋭軍だ。兵はすべて戦に慣れていて、逐一指図をせずとも、みずから流れを探して見事に乗ってみせている。


(平気だろう。動いた)


 背後を確かめ、高比古は、行く手へと顔を戻すことにした。


 後続のことは、後続に任せるべきだった。高比古には、高比古にしかできない役目が待っているのだから――。


 高比古を含めて、三人の事代を乗せたこの舟は、船団の斥候役だった。敵に術者がいるとわかった今、霊威の罠や、それに代わる厄介がないかと行く手を見張るのは、必須だった。


 役目をまっとうしようと、高比古の前後に座る事代たちは、うつむいたりまぶたを閉じたりして、目に見えない気配に備えている。


 高比古も、半分まぶたを閉じて、行く手の虚空を見つめた。今は、事代としての役目に徹するべきだった。――が、それを阻む怒鳴り声が、背後から飛んでくる。


「おい、先頭の軟弱者ども! 戦が始まったら すぐさま横へ失せて道をあけろよ、邪魔だ!」


 背後の船に乗る盛耶だった。


 高比古は、頭を抱え込みたくなった。


(おいおい……馬鹿か、あいつは――)


 盛耶には、たしかに大国主譲りの華じみたものがある。王者の風格と呼ぶべき異様な存在感があって、立ちはだかるだけで相手を圧倒する、安曇がいう、得ようとしてもなかなか得られないものを、彼は身に備えている。それは、高比古も認める。しかし――。


(少しくらい、空気読め……)


 高比古が乗るのは、後続を導くために先頭に配された船だ。戦闘には不向きなので、盛耶にいわれるまでもなく、戦が始まればすぐに避ける手はずになっている。


 それくらい、少し考えればわかりそうなのに。それに――。


 うつむいてこめかみを押さえた高比古は、そばで控える事代へ、小声で命じた。


「後ろに乗せている事代へ繋げて、盛耶に伝えさせろ。いいたいことはわかったから、敵の窺見が潜んでいるかもしれない川で、今後いっさい大声は出すなと……」


(まさかあいつ、本当に戦に慣れていないわけじゃないだろうな。それともおれ、煽りすぎたのか? ――失敗した? そうじゃないよな。今は興奮して、抑えきれないってだけだよな? 頼むから、そうであってくれ――)


 呆れ返ったものの、すでに軍が動き始めている今、高比古がまずするべきことは、妙なほど自信をみなぎらせる盛耶を信じることだけだ。


 やがて、出雲の船団が進んでいく細い川は、本流――遠賀の大河に達する。


 高比古が乗った先頭の小舟では、水先案内人の爺が首を動かし、暗がりの奥の山影に目印を探していた。


「右に寄ってください。もうすぐ右側に大きな流れがありますから、それに乗れば、まっすぐに下流へ進めます」


 そして、明かりを減らして闇に紛れた船団は、暗い河を下り、河口にあるという大隅族の港を目指した。


 その夜は、雲のない星夜。天には、たくさんの星がまたたいていた。


 


 


 その頃、同じ星明かりを頼りに、大隅の浜里を駆けていた狭霧は、行き止まりに当たっていた。


 上へ上へ――と、いける道をすべていくと、たどり着いたのは、浜里の背後にそびえる崖のきわ。大隅族の港を海風から守る、絶壁のふもとだった。


 狭霧が立ち止まった場所は、ちょうど崖の南の果てで、岩肌がむき出しになった崖と、樹が覆い茂る丘との、ちょうど狭間だ。夜闇の中にいるというのに、そのあたりは、わずかに明るく見えていた。丘を覆う樹木がつける花が、夜天にまたたく星のような純白の色をしていたからだ。


 ぜえ、はあ……。疲れて、大きく肩で息をしていてもうっすらとした甘みを感じるほど、あたりは花が放つ強い香りで満ちていた。


 その香りにも、花のたたずまいにも、狭霧は覚えがあった。昼間に、邇々芸ににぎが教えてくれたのと同じ樹だ。


 荒い息を整えながら、夜闇を照らすような純白の花をじっと睨みつけていると、邇々芸とのやり取りが耳に蘇った。


『〈海照らし〉です』


『〈海照らし〉? この樹の名前ですか?』


『そうです。白く瞬いて、海を照らすようでしょう?』


 きっと、この丘で、〈海照らし〉という名の木々の林は、ずっと昔から、眼下に広がる壮大な海を見守っていたのだろう。


 古くからの群生地なのか、立派な大樹に育って天へそびえる樹もいく本かあった。そして、そういう〈海照らし〉の大樹は、行き止まりの先に新しい道を探した狭霧にとって、またとない望みの道と映った。


(登れる――! 崖の上へ、いけるかもしれない!)


 地面から背伸びするようにして枝を掲げる〈海照らし〉の大樹があったので、幹のそばまで近づいてみる。見上げると、〈海照らし〉の大樹のいただきは、はるか頭上にあった。勘を確かめようと何度も見上げてから、狭霧は、腿のあたりで握り拳をつくった。


(いくしかない。いこう――!)


 もう、なりふり構っていられない。姫君らしい清楚ないでたちをしている余裕はなかった。


 ごくり――。唾を飲み込む。それは覚悟で、始めの合図だった。


(さっき眠った人たちがいつ起きるかもわからないし、いつ、誰が、眠ってしまったあの人たちに気づくかもわからないもの。急がなくちゃ――。少しでも遠くへ、一歩でも向こうへいかなくちゃ――!)


 胸の中でそう唱えたのと、狭霧の手が大樹の幹に触れたのは、同時だった。


 狭霧の目はまっすぐに上を向いて、登る道順を探し始めた。


 幼い頃、無我夢中で樹を登って、いとしい幼馴染のもとを目指した時のように――。頭の中には、その樹を昇り切る光景しか浮かんでいなかった。


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