諸刃の光 (1)

 海側、崖側、右、左……大樹の枝は、四方へ交互に伸びている。


 太い幹に抱きついて腕と足の力でよじ登り、できる限りと伸ばされた右腕で、丈夫そうな太い枝を探して狙いを定める。がっちりと枝を掴んだ手の力に、幹から跳ねあがった時の弾みを加えて、さらに枝の上へ――。しばらくよじ登った後、狭霧の足は、人の背の二倍以上の高さの場所にあった。


 でも、下を見る余裕はなかった。高い場所まで来た……と、それをたしかめるなり、目は上へ向く。木を登る道筋は、地上から見上げた時にすでに読んであった。下から見上げた時の光景を思い出して、次に手を伸ばすべき枝の位置をたしかめた。


(大丈夫、いける)


 これほど高い場所から足を踏み外せば、ただではすまない。でも、狭霧は恐怖を感じなかった。どれだけ足場が心もとなくても、今、足をつけている太い枝や、はるか頭上まで伸びる立派な幹が、出雲へ向かって逃げるための道に見えたからだ。


 一本目の大樹を登りつめると、少し高い場所に根を張る別の大樹の枝に飛び移り、それをさらに登って、三本目の樹の枝に手をかけ――。


 順序よく上へ上へと大樹を登りつめていくと、狭霧の目に、とうとう崖の頂きが見えてきた。


(もう少しだ――! あと少し登れば、頂きへ足をかけることができる。そこから丘を伝って、この浜里を離れることができる……!)


 逸る胸をおさえつつ、狭霧は懸命に手足を動かした。しかし、最後の最後で、目の前に見えた景色に青ざめた。


 三本もの大樹を伝って、狭霧は崖の上を目指した。しかし、いざ登りつめてみると、崖の上へ渡るには、わずかに足場が足りなかった。


 狭霧がいま足を置いているのは、最後の樹の、一番上の枝だ。低い場所にある頑丈な幹と違って、上の部分の幹はいつ折れてしまうかわからないほど頼りなく、細い。その分よくしなるため、ぐらぐらと揺れて、木登りをするには不安定だった。


 そのうえ――、狭霧が目指していた崖の上は、そこよりさらに高い場所にあった。腕をいくら伸ばしても指先もかすらないほど、離れたところだ。


(――どうしよう。これじゃ、上へ登れないわ。何か別の方法は――? 足場になる場所とか、枝とか、別の樹とか……)


 一度地上に戻って、四本目の大樹を探そうか。それとも、帯を解いて、どこかにひっかけてよじ登れる場所を探すべきか――。


 崖の上へたどり着こうと、幹と枝にしがみついたまま、何度もあたりを見回した。すると、そのうちに、狭霧の目は不安でこわばっていった。

 

 足の下は、真っ暗だった。そして、その闇の下に気が遠くなるほどの虚空があることは、下のほうから上へと吹き上げる夜風が狭霧に教えた。


 狭霧が大樹を登り始めた場所は、浜里で一番の高台だった。今狭霧がいる場所は、そこからさらに三本もの大樹を登り継いだ場所だ。絶壁の頂きに迫るほどで、高さははかり知れない。今が夜ではなく昼間で、明るければ、きっと足の下には恐ろしい光景が見えただろう。はるか下方に遠ざかった浜里の集落や舟や、造りかけの港は、砂粒のように小さく見えているはずだ。


(ここまで来たのに……!)


 手が届かないとわかった瞬間、崖の頂きが、ひどく遠のいたように感じた。


(どうしよう――! ここに隠れていて、どうにかなるの? 高比古か誰かがわたしが浚われたと気づいて、助けてくれるのを待つ? そうしたら、大和行きの舟に乗せられずに済む? 出雲の野営へ戻ることができる?)


 ぎゅ。思い切り幹を握りしめた手に、もう一度力を込める。


 狭霧の手首には、鮮やかな黄色に染められた紐が結わえられていた。


(高比古……)


 染め紐の存在に気づくと、それが、芳香を漂わせる純白の花よりも、もっと明るく暗闇を照らすともし火に感じた。

 

(――ここにいちゃいけない。大和へ浚われてしまっては、駄目だ。わたしが浚われたのは、あの方がわたしに恋をしたとかなんだとか、そんなかわいい理由のわけがないんだから――!)


 敵国の武王の目を盗んでまで、邇々芸ににぎが狭霧を連れ去ったのには、それなりの理由があるはずだ。狭霧が、周辺諸国に名を馳せる武王である父と、いまなお出雲に影響を与える老王、須佐乃男の血をひく娘だからに違いないのだ。


(ここにいちゃいけない。わたしが大和に浚われたら、きっと出雲に面倒が起きる。絶対に逃げなくちゃ――!)


 帰りたい、逃げなくちゃ――! 想いや覚悟が強まっていくうちに、狭霧はいつか、手首に巻かれた軍旗の色のお守りに向かって、声を震わせていた。


「お願い、高比古、これでおしまいでいいから! わたし、あの崖の上にいきたいの。ここから逃げたいの!」


 夢中だったせいか、出雲一の事代ことしろの力を信じたせいか。それとも、腕に結わえられた染め紐に、たしかな力が宿っていると気づいていたせいか――。狭霧は、願いが通じると信じて疑わなかった。


 そして――。ふわんと鼻先に漂う甘い花の香りが、いっそう強くなった。そうかと思えば、大樹がゆっくりと動き始める。狭霧を乗せたまま、背伸びをするように枝はぐいぐいと伸びていき、とうとう大樹は、崖の上まで狭霧を送り届けた。滑らかな動きで枝を伸ばした大樹は、まるで、巨大な指先に乗った小さな虫を、檻の外まで運び出すようだった。


 




 枝の上から転がり落ちるようにして地面に降った後、狭霧は、しばらく呆然と虚空を見つめた。


 叶うと信じて疑いはしなかったが、まさか、願いを聞き入れた樹が、みずから枝を伸ばして自分を運んでくれるとは――。


 たった今起きた奇跡をたしかめようと、じわじわと目線の向きを下げてみる。でも、そこに、不思議と感じる光景はなかった。狭霧を崖の上まで運んだ大樹の枝はもとに戻っていて、崖の頂きより低い場所で、何事もなかったように枝を逸らせていた。


 手首に巻かれた染め紐を握り締めながら、出雲一の事代の力に畏怖を感じて、それに感謝した。


 ここまで来れば、追手がいたところで見つからないだろうし、追いつかれもしないだろう。今ここにたどり着くためには、不思議な力をもって枝をいい聞かせて、不思議を起こさなければいけないのだから。


(よかった、逃げられた――) 


 安堵と驚愕で目が潤んだのを、すぐさま指先でぬぐった。そして、くたびれた身体に鞭をうつように、自分自身にいい聞かせた。


(まだだ……まだ)


 まだ、崖の上に逃げただけだ。本当の無事を得るには、ここから遠ざかって、出雲軍の野営まで辿り着かなければならなかった。


(歩かなくちゃ。方向は――?)


 高い場所にいるせいで空を遮るものがない分、夜空はとても広かった。


 夜半を越えているはずなのに、弓の形をした三日月はまだ天高い場所にいて、地上を優しく照らしている。空には雲一つなく、満点の星が輝いている。銀色の星光を帯びた夜空は眩しく、美しくて、それを見上げた狭霧の焦りを、ふっと溶かすほどだった。


(そうだ、船乗りは、星の位置で方角を調べるって聞いたことがあるわ――。ええと、船の上で見ていた星は……出雲の方角は――)


 船乗りは星の位置をつぶさに覚えて、東西南北のいずれの方角も読み解けると、それはどこかで耳にしたことがあった。しかし、星空を見上げて目を輝かせたものの、狭霧はすぐに、うなだれた。


(出雲の野営の方角って、どこ? ここは、どこ……?)


 方角を知るのに星が使えると知っていたところで、どの星がどの方角を指すかというところまでは、覚えていなかった。いや、それだけではなく、ここが、出雲の野営のある阿多あた族の港と比べて、どんな方角にあるのかもわからなかった。


(どうしよう、どこにいこう……。――ううん、どこでもいい。とにかくここを離れなくちゃ――)


 力の入らない膝を叱りつけながら、ゆっくりと立ち上がると、登ってきた崖を背にして立った。すると、耳が、どこからか聴こえてくる水音を聞きつけた。


(水? 滝の音じゃないし……これは、川の音? そうだ、川よ! 川を目指そう!)


 自分は、舟に乗せられてここまで浚われて来たのだ。ということは、川をたどっていけば、必ず出雲軍が背にしていた森に出るはずだ。


 狭霧は、懸命に耳を澄まして水の音を聞きとった。かすかな水音から居場所を悟ると、足は早速、その場を離れようと歩き出す。


(うん、こっち――こっちへ進もう。いこう――!)


 崖の上は、緑の草樹の楽園になっていた。人の手が入らないその場所では、様々な草花が葉や茎をいきいきと伸ばして茂っていた。


 水音を頼りに、狭霧は、道なき道の中にできたわずかなすき間を求めて、川があると感じる方向へと進んだ。


 移動を始めてしばらく経った頃。ある時狭霧は、胸騒ぎを感じた。びくりと震えるなり足を止めて、周囲を見渡した。


(何かいる――)


 とはいえ、周りにあるのは、真夜中の草むらの暗い景色だけだ。しかし、たしかに狭霧は、自分を取り囲むようにして近づいてくる不思議な気配を感じていた。


(見つかった!)


 それはもしや、大和の術者たちが繰り出す何かの技なのか――。狭霧は、手首に巻かれたお守りを懸命に握り締めた。そうするしか、難を逃れる方法がないとも思った。


 身をこわばらせる狭霧を円で囲うようにして、不思議な気配は近づいてくる。でも、そこに、大和の術者の気配はなかった。あったのは、懐かしい雰囲気。高比古の気配だった。


「えっ……?」


 あたりには手つかずの草むらがうっそうと茂って、真夜中の今は、夜の生き物が目を光らせている。そこに人影はなかったし、もちろん、狭霧が「そばに来ている」と感じた青年の姿も、そこにはなかった。しかし――。


 手首をぎゅっと握りしめて、周囲の暗闇へ目を光らせているうちに、狭霧の耳は、ここにはいない人の声を聴いていた。風に運ばれているような、どこか耳ではない部分で聞きつけているような――狭霧が感じた高比古の声は、奇妙な響き方をしていた。


『狭霧……応えろ、狭霧』


「高比古、どこ……!」


 目を見開いて、四方の夜闇を見据える。


 耳もとに届いた高比古の声が、ほっと穏やかなものに変わった。


『応えた……見つけた』


 それでもまだ狭霧は、空耳や勘違いを疑わずにはいられなかった。


「聴こえて、るの……?」


 狭霧の頼りない問いかけに、耳元で響く高比古の声は応えなかった。


『ん? 今、どこにいる。敵陣じゃないのか?』


「わ、わかるの? どうして――、それに、いったいどうやって……!」


『あんたを探せと、日女ひるめに手伝わせている。それに、あんたの気配を隠してた障壁が消えてるみたいだ。いったい今、どこにいる? そばに誰かいるのか?』


「日女? 障壁……? ううん、一人よ。抜け出してきたの――」


『抜け出してきた? 一人で?』


「一人だけど……でも、一人じゃないよ。その、高比古からもらったお守りに、抜け出すのを手伝ってもらったの。見張りの兵を眠らせたり、樹の枝を伸ばしたり……」


『お守りの力を使った? 兵を眠らせたり、樹の枝を伸ばしたり? ……本当だ、力が減ってる。凄い真似をしたな――』


 高比古の気配は、心底驚いているというふうだった。でも、狭霧からすれば、高比古の言葉のほうが驚きだった。高比古は、出雲軍が駐留している阿多族の浜里にいるはずだ。狭霧からは遠く離れた場所にいるはずなのに、高比古は、狭霧の腕にあるお守りの具合を確かめたようだった。


 とはいえ、高比古に、これ以上狭霧の無事を喜ぶ気はないらしい。事実は事実。いったん無事を確かめることができたのだから、すぐさま話は次へ。そんなふうに口調を改めると、高比古は早口で告げた。


『まあいい。あんたにそれを渡しておいてよかった。そのまま陣を離れろ。向こう側とを隔てる壁みたいなものは、通り抜けたらしいから』


「壁? それって――?」


 高比古がいう不思議な壁など、越えた覚えはなかった。越えたものといえば、浜里の背後にそびえる崖くらいだった。


 狭霧は戸惑うが、高比古はそれを無視して続けた。


『後で話す。とにかく、そこを離れろ。でも離れ過ぎるな。すぐに迎えにいくから』


「迎えに? 高比古が?」


『おれもいくが、全員でだよ』


「全員――?」


『ああ、全員。今、おれは、大国主の護衛軍をごっそり連れて、あんたを取り戻しにそっちへ向かっている。あんたを奪われた大国主が、大激怒だ。さて、どうなるか――見物だぞ?』


 耳に届く高比古の声は、冷笑が似合うふうに冷ややかだった。


「とうさまが大激怒? 見物? それって……」


 狭霧は、その場に立ちつくしたまま、足を凍りつかせた。高比古の言葉が、まるで、恐ろしい報復の合図のように聴こえたからだ。


 高比古は、その問いかけも無視した。そして、高比古は次々と狭霧のことをいい当てていく。


『それより、あんたがいる場所を確かめさせろ。場所は……思った通り。遠賀の南端の、大隅隼人の港だな?』


「そ、そうだよ。遠賀の一部だけど、阿多隼人の港とは別の浦にあるって……」


『あんたを浚った相手は、大和の奴だな?』


「――そうよ。どうしてそれを……」


『そっちにいる事代――いや、なんと呼ぶのかは知らんが、とにかく、なんらかの霊威をもつ奴は、十人余りだ。兵は……目立つのを避けるのに、数はそう多くない。五十……せいぜい七十人くらいだ。それで合ってるか? どうだ?』


 狭霧は、とうとう大口を開けた。居場所にしろ、そこに集まる大和の兵たちの数にしろ、狭霧が教える前から、高比古はぴたりといい当ててしまったのだから。


 狭霧は、寒気じみたものすら感じた。


 高比古の声には、冷たく鼻で笑うような気配があった。前に、狭霧を身体の芯からぞくりと震わせた冷え切った気配が――。それはまるで、死の祭りの始まりを告げる死神じみていた。


『あんたを浚った連中は、あんたの親父が血祭りにあげるよ。その浦は、すぐに戦場になる。前みたいに倒れるのが嫌なら――血を見るのが嫌なら、しばらく海に背を向けて、そこでじっとしていろ。いいな?』


「血祭りって、ええ……!?」


『こっちは今、遠賀の大河を下って、そっちに向かってる。夜明け前には攻め入る』


「攻め入るって、高比古――!」


 狭霧の戸惑いを無視し続ける高比古は、意味ありげな言葉をいって狭霧の呼吸までを止めてしまう。


『念のため、力を送っておく。少し、我慢しろ』


 すぐに狭霧は、足元からびりっとしたものが立ちのぼるのを感じた。


「きゃ……!」


 それは、夕時にかまどから立ち上るのどかな煙に似ているが、時おりかすかな閃光を放つ。


 その煙は、またたくまに狭霧の脚から胴、肩のあたりまで立ち上る。地面から生まれた雷の霧に身体を丸ごと包まれた気分で、せめて身を庇おうと、狭霧は身体を折り曲げた。閃光をまとう光の煙は、触れると奇妙な痺れを与えたが、脅える狭霧を宥めるように温かかった。それは肩のあたりまで上ると、次は手首へ向かって流れ落ちていく。そこには、高比古がみずから結わえた黄色の染め紐があった。


(光が、紐に吸い込まれてく――!)


 呆然となって自分の手首に見入る狭霧に、高比古の声が伝えた。


『よし――これでいい。あんたを大地に縛り付けた。いいか? しばらくそこでじっとしていろ』


「大地にって? それって……?!」


『そろそろ、おれも戦の支度をする。そこにいろ。いいな?』


「戦って? ねえ、高比古……!」


 訊き返すが、やはり高比古は狭霧の問いかけを無視する。


 結局、高比古がそれ以上話を続けることはなかった。懸命の呼びかけもむなしく、耳元で響いていた高比古の声や気配は、狭霧のそばから消えてしまった。






 高比古の気配がそこから消え去ってしまうと、狭霧は、真夜中の草むらでぽつんと立ちつくした。


 胸がどくどくと鳴っていて、その早鐘は、狭霧をせっつくように鳴り響く。脈の音がこだまするのは、ひどくうるさかった。ついに立っていられなくなって、狭霧は、草むらの底にうずくまると、膝を抱え込んだ。


(戦? 全員でここに向かってる? 攻め入るって? 血祭り――)


 自分が大和へ連れ去られてしまえば、きっとおおごとになる――と、それは気づいていた。しかし、まさかここまでとは――こんなにすぐに、軍が動くとは思わなかった。


 ――いや、考えればわかったはずだ。


 狭霧は、何度も首を横に振った。


(とうさまが大激怒って? 見物って……わたしを浚った連中を、血祭りにあげる?)


 さっきの高比古には、すでに戦の匂いがしていた。人を大勢殺めることになんのためらいもないふうに冷徹で、むしろ、その祭りに高揚している印象があった。


 前に、狭霧は、戦地へ赴く出雲軍を見送ったことがあった。その時も、武人たちの中に戦を怖がる人は誰一人いなかった。むしろ、敵を殺せ、滅ぼせと士気を高めて、武者ぶるいを喜んでいた。


 その時と同じように、今頃出雲軍は、戦の熱気に酔っているだろう。〈武王の娘〉という、軍旗にも似た貴いものに触れた敵の手を払いのけ、誇りを汚された報復をしようと――。


(戦を、わたしが起こした……)


 事実に脅えると、狭霧は、いてもたってもいられなくなった。


 よろよろと立ちあがると、足は来た道を戻り、崖っぷちへ向かう。何が起きているのかを、せめて自分の目で確かめたかった。


 眼下に広がる黒い海は、安穏とした波音を響かせている。沖に立つ白波は月光に彩られ、月からこぼれた光の筋のように美しく輝いている。


 夜空には、満天の星。細かなことはわからなくても、夜が更けるにつれて星空が傾き、西に向かって動くということは狭霧も知っていた。


 そこにあるのは、美しい海辺の夜景だ。しかし、この静かな景色は、すぐに壊されることになるだろう。


 今にここへ、武王に導かれた出雲軍がなだれ込んでくる。軍は、この里の人々を制圧して、舟や、造りかけの港を焼いてしまうだろう。


 目の前に広がる夜景が、狭霧の頭の中で、業火に包まれ始めた。炎に脅えて逃げ惑う人々の悲鳴が、耳に聴こえた気がした。そして、出雲の刃に囲まれる邇々芸の姿も、見えた気がした――。


 恐ろしい光景に打ちのめされて、息が止まったと思った。


(わかってる。邇々芸様は、輝矢とは別の人よ。優しい顔をしていただけで、何か裏があるっていうことも、もうわかってるよ。結果的に、あの人はわたしを浚ったんだもの。とうさまが怒るのは仕方ないわ。でも……)


 頭で理解していても、胸は、どくどくと不穏な脈を打った。


 胸は、輝矢が死んだ時のことを鮮明に思い出していた。あの時、心の臓は、あまりの悲しみと恐怖で動きを止めかけた。その時のことを胸ははっきりと覚えていて、嫌だ、二度とあの光景は見たくないと怖がった。


 崖っぷちに立ちつくし、夜の浜里を見下ろして、狭霧はぽろぽろと涙をこぼした。


(どうしよう……どうしよう!)


 狭霧の目が最後にいき着いたのは、ここまで登ってきた〈海照らし〉の大樹だった。枝の高さは崖の頂きまで届かないが、大樹を飾る純白の花の甘い香りは、崖の上まで漂ってきている。


 これと同じ可憐な芳香に包まれた昼間の樹下で、自分の手をとった青年の声が、狭霧の耳の奥でこだました。


『ただ、僕はこの樹が好きなんです。これは、とくに気に入っている樹で――ほら、これが僕の腰かけです。――でも、今日はあなたに貸してあげます。あなたは、僕の大切なお客様だから』


 狭霧の唇から、「……う」と、呻き声が出ていった。


 涙に濡れた目は、崖の下で暗い影になる〈海照らし〉の枝から離れなくなった。いつか、狭霧は崖っぷちにしゃがみ込んで、手のひらを地面につけていた。指は、力が入りすぎて小さく震えていた。


 狭霧の身体を支える手のひらに、そこから飛び出そうとする力が溜まっていく。でも、それを止めようとする力もこみ上げる。


 いかなきゃ――。いや、いっては駄目だ――! 


 異なる方向へ押しやろうとする力がそこではせめぎ合っていて、指だけでなく、膝も肩も、がくがくと震え始めた。


(ここから降りたら、もうここへ戻れないかもしれない。もともと、枝の長さが足りなかったし、それに、今邇々芸様のところへ戻ったら、今度こそ大和へ連れていかれるかもしれない。でも、でも……!)


 いま、自分を支配している考えが馬鹿げているということは、自分でもよくわかった。でも、それを振り切るだけの勇気が、狭霧にはもてなかった。


 瞼の裏に、輝矢の最期の笑顔が蘇った。出雲の刃に囲まれながら狭霧に笑いかけた、綺麗な笑顔が――。


『きみがいてくれれば、僕はなにも怖くない。きみのことが大好きだった。ありがとう。……さようなら』


 そして、息絶えた輝矢は、髪飾りに姿を変えた。その髪飾りは狭霧のお守りになり、輝矢の気配を宿したそのお守りを胸に大事にもっていると、輝矢がまだそこにいる気がした。しかし、それは、時が経つごとに悲しいほど古びていく――。


 少し角がよれて、黒ずんでしまった今のお守りの姿も、目の裏に蘇った。


 ひくっと、しゃくり上げた。


 どうしようと迷っているうちにも、頭上では夜空が回っていく。天上で西へ向かって動き続ける満点の星空は、もうすぐ朝が来るよと狭霧を急きたてた。剣を掲げた出雲軍がここへやって来るよ、と――。


 とうとう狭霧は、大樹の枝へ向かって、崖から飛び降りた。


 細い幹にしがみつき、一度は登るために掴んだ枝を再び力一杯握って、順々に降りていく。無我夢中で大樹を下りる間、狭霧はろくに考えることができなかった。


 頭の中は、もっと速く降りろと責め立てる言葉と、自分への責め文句が入り混じって、めちゃくちゃになっていた。


(とうさま、かあさま……! ごめんなさい、やっぱりわたしは出来損ないです。馬鹿な真似をして、本当にごめんなさい! でも――!)


 泣きじゃくりながら、手は自然と次の場所を探して、足も次の足場を探していた。


(もしもわたしが大和へ連れ去られてしまっても、その後で出雲へ戻る方法を探すことはできますよね? たとえそれが、出雲と大和の戦の始まりになったとしても――。でも、命だけは、一度消えてしまえば、二度と同じようには蘇らないんです。だから、どうか許してください――!)


 父なのか、母なのか、それとも――。誰に対して謝っているのかも、よくわからなかった。ただ、ひたすら誰かへ、許しを請い願った。


(敵とか、敵じゃないとかは、ごめんなさい、わたしはよくわからないんです。だから……お願い、みんなが来る前に逃げて! 死なないでください、お願い――!)


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