諸刃の光 (2)


 追い立てられるように〈海照らし〉の大樹を降りきって、冷えた地面に足をつけるなり、狭霧のかかとは土を蹴る。足がもつれてしまわないのが不思議なほどの素早い足さばきで、もと来た坂道を、全力で駆け下りていく。すると、見覚えのある館の影が見えてくる。周りには、たくさんの火が揺れていた。


 崖の上から見下ろした時も火明かりが見えたが、地上に戻ってみると、火の灯かりは結構な数があった。火の正体は、兵が掲げる松明の灯りだ。夜明け前だというのに、浜里には大勢の大和兵がいて、あちこちを駆けまわっていた。


 暗闇の中、坂道を下っていくと、何人かの大和兵が狭霧の姿を見つけて、ぎょっと血相を変えた。


「いたぞ!」


「こっちだ、ここだ! 早く!」


 彼らが探していたのは、狭霧だった。狭霧が、邇々芸ににぎの館から姿を消してしまったから――。


 兵たちはすぐに仲間を呼び始めたので、狭霧を取り囲むようにして、雄々しい足音が近づいてくる。兵たちの目は狭霧へと集まり、後方からはさらに大勢の兵がやってくる。


 でも、狭霧は、自分を取り押さえようと群がる敵国の兵など目に入らなかった。


 駆け足をやめることなく、呆然とする兵たちを突き飛ばすように走りながら、大声で叫んだ。


「今すぐ逃げてください、逃げて! 出雲軍が、ここへ向かっています!」


「い、出雲軍!?」


 出雲という名を聞いて、飛び上がった兵もいた。


 目を白黒させる兵たちの隙間をかき分けながらそれを繰り返して、人を探した。優美な気配を漂わせる、異国の王子の姿を――。


「早く船出を! 邇々芸様はどこ? あの人は、どこで寝ているの?」


 擦り傷だらけの腕で涙をぬぐいながら、邇々芸を探す狭霧を、兵たちはぽかんとして見ていた。やがて、兵たちの奥に、雑兵とは別の高貴な気配が現れる。暗闇の中では、やってくる人影はほとんど見えなかった。でも、その人のもつ気配だけで、狭霧はそれが誰かわかった。邇々芸だった。その後ろには、穂耳ほみみという名の青年の影もある。


 邇々芸は、寝てなどいなかったようだ。髪飾りを外したり、寝着に着替えたりすることもなく、昼間に別れた時と同じ姿でそこにいた。


 狭霧と目が合うと、邇々芸は、唖然と唇をひらいた。


「狭霧……」


 狭霧がもたらした敵襲の報は、すでに遠くまで伝わったようで、あたりでは「出雲軍が――」と、兵たちがどよめく声があちこちから湧く。


 やって来た邇々芸は、兵たちのように青ざめることもなく、姿を消した狭霧に腹を立てて苛立っているふうでもなく、驚いていた。逃げたはずなのに、なぜ戻ってきたんだ――と、邇々芸は、見開かれた目で狭霧に尋ねかけた。


 まっしぐらに邇々芸のそばを目指すと、狭霧は、真正面から顔を見上げた。


「すぐに逃げてください。わたしがここにいることを、出雲軍は知っています。そのうえで、夜明け前にはここに攻め入ると……! 来たら、必ず舟は焼かれて、あなたは国へ帰れなくなります。その前に、少しでも早くここを出てください!」


 邇々芸は、泣き腫らした狭霧の目もとを、不思議なものを見るように見下ろしていた。


「それを知らせに戻ってきたんですか? 一度は逃げたのに――」


 それから、邇々芸の視線の先はゆっくりと下へ降りていく。擦り傷だらけになった狭霧の細腕や、膝から下があらわになった素脚や、引っかき傷や、葉の染みがついて黒ずんだ衣装など――。狭霧の姿をたしかめると、邇々芸は小さく肩で息をした。


「こんなに汚れて――大和の衣装でよかったら、すぐに替えを用意できますよ?」


「いいえ、身なりなんか――」


「そうかな? 大和の衣装も、きっとあなたに似合うと思いますよ」


 困ったものに呆れるように、邇々芸は苦笑する。それから、ゆっくりと狭霧へ歩み寄ると、「失礼……」と声をかけて、触れる許しを請った。


 恭しく伸びた邇々芸の指先は、帯にねじ込まれていた狭霧の裳の裾を引き出してみせた。


 つややかな絹布で仕立てられた裳は、足首までふわりと落ち、もとの形を取り戻す。邇々芸は狭霧を、土いじりをする農婦のような格好から姫君の姿へ、手ずから戻そうとした。


 その悠長な手つきを、邇々芸の背後に立つ穂耳が咎めた。


「邇々芸様――」


「わかっている。――支度をさせろ。たぶん事実だ」


「は」


 短くやり取りを済ませると、命令を受けた穂耳は、さっと身を翻して邇々芸のそばを離れていく。向かう先はおそらく、港。そこで、浜里を離れる手はずを整えにいくのだ。


 穂耳の後姿を見届けると、狭霧はほっと胸をなでおろした。


 狭霧たちがいる場所は海から離れた高台だったが、潮騒がそこまで響き渡るほど、あたりはとても静かだった。それは、まだ夜が明けていないからだ。草樹も、虫も、風も、じっと息を潜めているように静かだった。


 朝の光は、まだここに届いていない。夜明けとともに攻め入ると高比古は狭霧へいったが、出雲軍がやってくる気配はまだなかった。


(間に合ったんだ――。邇々芸様たちは逃げ延びることができる……)


 一度消えてしまえば二度ともとには戻らない大切なものを、今度こそは守ることができた。よかった――。


 消えゆく穂耳の後姿を見送っていると、狭霧の目には涙が浮かんだ。そして、目尻の涙をそっと指でふく。


 狭霧を見下ろして、邇々芸は眉をひそめていた。一度邇々芸は、わからない……といいたげに首を横に振り、それから、ため息をついた。それは、まだ見ぬ敵に感嘆するようだった。


「尋ねてもいいですか? いったいあなたは、どうやって襲撃を知ったんですか?」


(どうやって?)


 狭霧は、答えに困った。それは、遠く離れた場所にいるはずの高比古が、彼に備わる霊威を使って狭霧に話したからだが――そのことをどう伝えればいいのか、わからなかった。


「この浜里のそばまで、窺見うかみが忍び寄っていたわけでもないでしょう? だったら、あなたがここへ戻るのは難しかったはずだ。その窺見は、あなたを手放すまいと守るだろうから。ということは、ここに出雲の兵は来なかった。と、すると――? ……聞いたことがあります。出雲の禰宜ねぎ事代ことしろと呼ばれて、ほかの国の禰宜とは少し違った霊威をもつのだと――。あなたにここを襲撃することを伝えたのは、事代という名の術者でしょうか?」


 狭霧は表情をこわばらせた。無言でいる狭霧に、邇々芸はやはり苦笑した。


「僕が聞いた噂は、事実だったようだ。――もう一つ訊いてもいいでしょうか? 出雲軍はどこから来ますか? 海から、川から? 僕たちはどう逃げるべきかを知りたいのですが」


「――それは、川です。さっき、遠賀の大河を下っていると……」


「川――ふん……」


 邇々芸は、さも嫌気がさすといわんばかりに狭霧に横顔を向けた。それから、いま称賛したばかりの相手をけなすような嘲笑を浮かべた。


「ということは、海という逃げ道をつくって敵を追い立てる陣です。あなたがここにいると危ぶんでいるせいでしょうが、どうやら僕たちを殺す気はなく、脅かして、逃げさせたいのでしょう。皆殺しにしたいなら囲い込むはずなのに……」


 そして、小馬鹿にするようにつぶやいた。


「甘いなぁ。滅ぼしておけばいいのに。馬鹿げてる……。それとも、事代というのが、他国が脅えるほどには有能ではなく、誰がここにいるかということまではわからないのでしょうか?」


 出雲や事代をけなす言葉にむっとして、狭霧はいい返した。


「いけないことですか? いくら戦がはびこっている世の中とはいえ、無駄な生き死には不要です。あなたのいう通り、出雲が、あなたを捕えるより追い立てるほうの策を選んだのなら、わたしは出雲を誇りに思います!」


「いいえ。出雲は大乱のもとです。この世に戦が蔓延しているのは、戦で国を負かそうが、とどめをささない出雲のせいです。出雲が敵国を滅ぼすことはめったにありません。せいぜい跡取りを奪うくらいです」


「どうして、それがいけないんですか? 出雲が大乱のもとだなんて、勝手に悪者にしてしまわないでください!」


 納得がいかずに間髪をいれずにいい返すが、邇々芸は、狭霧の無知を宥めるように微笑むだけだった。


「いいえ。生きながらえさせていずれ使う気でいるのか、それが美徳だと勘違いしているのか――。やはり母のいう通り、出雲がのさばっているうちは、戦の世は終わらないでしょう。そして、このまますべてが共倒れになる。一つにまとまらなくては、遅かれ早かれ、この倭国と呼ばれる島一帯は、大陸に栄える強国に乗っ取られることになるでしょう」


 邇々芸が断言した言葉に、狭霧はまだ歯向かいたかった。


 邇々芸が、なぜそんなことを口にして、どうしてそこまで迷いなくいい切るのか。


 それはどうにも理解しにくいし、出雲を悪くいわれるのはいい気分ではなかった。


 きつく唇を結んで睨むように見上げる狭霧に、邇々芸は肩をすくめた。


「危機を知らせてくれてありがとう。大和の女王の御子だと知られたうえで捕えられたなら、厄介な目にあうところでした。あなたのおかげで命拾いできそうです。――僕はそろそろいきますが、あなたはどうしますか? 僕と大和へいきますか?」


「――皮肉ですか?」 


 今、ここにいるのが馬鹿げたことだとは、自分で承知していた。大和へ連れ去られても仕方ないと、覚悟を決めて狭霧はここにいるのだ。


「どういう意味です? 拒めるものなら拒んでみろとでも?」


 小さな唇を震わせて憤る狭霧へ、邇々芸は一度黙って、苦笑した。


「なるほど――そういうことですね。いえ、決してあなたを馬鹿にしたわけではないのです。ただ、どういうことかと理由を知りたかっただけで――。僕だって、あなたを浚ってしまいたいですよ。宝を目の前にして、持ち去ることができないなど、これ以上の苦痛はありません」


「宝?」


「ええ。僕が……大和の後継が、大国主と須佐乃男の血をひく娘を后にしたと触れ回れば、それだけで、出雲という大国に脅える小国は震えあがります。その分、無益な戦を避けられるんです。あなたのもつ名と血というのは、万人の命と、万の剣に代わるほど、素晴らしい値打ちがあるのですよ?」


 邇々芸はくすりと笑って、雅やかな印象のある二重の目をそっと細めた。


「あなたと会って、あなたのことや、出雲のことが少しわかりました。でも、かえってわからなくなったこともたくさんある――。どうして僕を逃がしに来たんですか? 僕があなたを浚えないと信じていたからですか?」


(僕が、あなたを浚えないと信じていた?)


 邇々芸の言葉の意味を、狭霧はうまく飲み込めなかった。でも、邇々芸の穏やかな双眸にまっすぐ見つめられていると、それは、いとしい記憶を呼び起こした。


(輝矢――)


 邇々芸の目によく似た目をした幼馴染の少年の愛らしい顔と、狭霧を見つめる眼差し。そして、会うたびにそばに寄って、肩を寄せ合った時の温もり――。いとしい記憶が蘇って、その少年のことを想うと、それは狭霧の耳や目にまとわりついて離れなくなる。


 狭霧の目に、みるみるうちに涙が溢れた。肩も、唇も、泣き咽んで震え出した。


「どうしてもあなたを助けたかったのは――前に、見殺しにしてしまった子がいたからです。大好きな子だったのに、敵国の子だからと、ただそれだけの理由で……わたしは、殺されるところを、黙って見ているほうを選んでしまったんです」


 誰かに、自分の口から「輝矢を見殺しにした」と告白するのは、初めてのことだった。


 その瞬間、「そうか、わたしはあの子を見殺しにしたんだ」と、それは、狭霧の中で決して覆ることのない事実になった。


(輝矢、ごめん、輝矢……)


 悲しいことに、今、輝矢を想っても、目の奥に蘇ったのはいとしい笑顔ではなくて、彼の髪を飾っていた髪飾りだった。半年ものあいだ胸の合わせに忍ばせたせいで、角がよれて、少々黒ずんで古びてしまった髪飾りだった――。


(あの子は、もういない。死んじゃったんだ。髪飾りすら、古びていく……)


 咳き込んでしまいたくなる息苦しさにおされながら、狭霧は想いを吐き絞った。


「一度死んでしまったら、人は、二度と生き返らないんです。まるっきり違うものに変わってしまうんです。だから……! だから、あなたを逃がしにきました。あの子の代わりに……。あなたを、別のものにさせてしまいたくなかったんです……」


 こみ上げる嗚咽を宥めるように、何度も息継ぎをした。そして――。少し息を整えてから再び顔を上げて、邇々芸の柔和な目もとを探しあてた、その瞬間――狭霧は、呆然となった。


 邇々芸の目は冷たくて、気に食わないものを蔑むように狭霧を見ていた。邇々芸の瞳には、前に感じた通りに分厚い壁のようなものがあって、それに阻まれて、その奥にあるものは、何ひとつ狭霧に見えなかった。


「僕に情けをかけてくれたんですね。――なるほど、あなたは出雲の姫君です」


 眼差しと、言葉の冷たさに、身体の芯から震えあがった。


 彼の態度は、まるで、狭霧への宣戦布告のようだった。救ってもらったことに恩などない。むしろ、出雲の象徴をその目でたしかめて、ますます敵意が募った――とばかりに。


 狭霧は、胸の底から恐ろしくなった。そして、とても恐ろしくて巨大なものに、気づいた気がした。


(話し合っても、通じないんだ――。意思と意思が、望みと望みが違うから。考え方が根元から違っていて……本音で話しても、わかり合えないから――。だから人は、戦うんだ――)


 それは、戦というものがなぜ起こるかということの理由に違いなかった――。


 血の気が引いて、闇夜の中で、狭霧の肌は、病的なまでに白くなった。


 狭霧を見つめて、邇々芸は微笑んだ。でも、いくらその笑顔が優しかろうが、彼の目の奥に笑顔のような優しさはつゆほどもなかった。


「僕を逃がしたことは、いずれ後悔しますよ? 僕は、母の後を継いで王になり、母の生んだ大和を育てます。あなたを、僕の一の后にしたい――その気持ちは変わりません。東の大和と西の出雲が合わされば、必ず倭国の戦は終わります。だから」


 邇々芸がしたのは、まつりごとのための婚姻の話だった。


(やっぱり、ぜんぶ嘘だった。幻だったんだ……)


 狭霧の震えは、止まらなかった。首を小刻みに横に振って、たどたどしく抗った。


「それは……無理です。そんなことをすれば、わたしは悔やんで、生きていられません」


「悔やむとは、大和の僕と……敵と結ばれることを?」


「いいえ……!」


 邇々芸が区別をつけたがるように、敵がどう、味方がどうとかいう考えは、悲しいほど狭霧にはなかった。


 そういうふうに相手を見られないことが、出雲という戦の国では異色のことで、我ながら風変わりで出来損ないだと、自分を罵りたいほどだった。


 邇々芸のことも、わかり合えないのは悲しいが、彼を憎いとまでは思えない。


 邇々芸についていってはいけないと思うのは、憎いからではなくて、大事な少年のためだった。


「どうしてもあなたと結ばれたくないと思うのは、前に見殺しにしてしまった子と、あの時に一緒に逃げなかったことを悔やんでしまうからです!」


 狭霧は、渾身の想いを込めて邇々芸を拒んだ。


 でも――。邇々芸は苦笑して、狭霧を子供扱いするだけだった。


「あなたは、まだ子供なんですね――。あなたがどういおうが、いつか必ずそうなりますよ。あなたは僕の妻になります。いつか、あなたが大人になる日に」


 こんなにいっているのに、どうしてこの苦しみをわかってくれないんだろう。


どうして、こんなに話が噛み合わないんだろう? 


 戸惑いは、しだいに苛立ちに変わりゆく。涙でぼやける邇々芸の笑顔に向かって、狭霧はとうとう怒鳴った。


「絶対にそんな日は来ません!」


「いいえ、必ず来ます」


 にこり。狭霧の苛立ちをひと撫でするような柔和な笑みを、邇々芸は浮かべた。そして――。気色ばむ狭霧のもとへ、一歩ずつ近づいた。


 邇々芸の背後、東の空の果てに、淡い光の線が生まれた。夜明けの先駆さきをするためにこの世に現れた、あかつきの光だ。


 夜が明ける……彼方の淡い光は、そう狭霧へ気づかせたが、その光は、すぐに隠れてしまった。邇々芸の頭の影になって、見えなくなったのだ。邇々芸の雅やかな顔つきは、狭霧の視界を遮るほど真正面にあって、光の影になって、黒い闇色に翳っていた。


 夜明け前の、耳に痛いほどの静けさ。静寂に包まれた仄暗さの中で、黒い影になった邇々芸は、少しずつ狭霧へ近づいてくる。そして、彼の息づかいや体温が、先だって狭霧の肌に触れた。


 油断していた。はっと息を飲むと、狭霧は夢中で後ずさった。


「何を……!」


 でも、逃げようとした時には、両肩がびくりとも動けなくなっていた。そこには邇々芸の大きな手のひらがあって、狭霧が暴れると、思い切り力がこもる。痛いほどだった。


 痛みを振り切ろうと抗っているうちに、邇々芸がつくった暗がりの中で、唇に温かいものが触れた。その瞬間、ばちっ! と、頬のそばで純白の閃光が弾けた。敵意をもたない相手には働かないと、邇々芸が自分でそういった光が――。


 その光はきっと、狭霧を守ろうとして、邇々芸に痛みを与えたのだ。光が弾けるやいなや、狭霧の肩を押さえつける手のひらや、狭霧に触れた唇はぴくりと強張った。でも、痛みに耐えるように、狭霧の肩を押さえる手のひらには、なおさら力がこもる。いつのまにか、頭の後ろも手のひらで押さえられていた。


それは、とても息苦しかった。邇々芸は狭霧にくちづけたが、それは、まるで蹂躙するような無理やりのくちづけだった。


「……なして、離れて……!」


 唇のわずかな隙間から悲鳴が漏れても、邇々芸はしばらく離れようとしなかった。


 いつのまにか、邇々芸の手のひらは肩や頭の後ろを離れて、狭霧の両頬を覆っていた。狭霧を極限まで怖がらせてから、ようやく彼は唇を離して、目と目がとても近い場所で、冷笑した。


「やはり、あなたの守護は手厳しい。できることなら、一生あなたの身に残るような傷でもつけてしまいたいのですが――残念ながら、これが限度です」


 これまで邇々芸の手は、狭霧を気遣って手を引いたり、姫君にするように優しく手を取って手の甲にくちづけたりと、雅やかな仕草をしていた。でも、今、何も怖いことはないと油断させておいて手のひらを返した、いにしえの森で狭霧の手足の自由を奪った時と同じように、狭霧を押さえつけた。


 頬から手のひらが離れていって、身体に自由が戻るなり、狭霧は邇々芸のそばから飛び去るように後ずさった。自分の身を庇うように腕を首の前で交差させて、身構えて、がくがくと震えた。


 天の東の果ては、ほのかに色づき始めていた。


 彼方の地平線に生まれた明るい橙色の光は、またたくまに闇を朝の色へと染めあげていく。それは今や、天頂までを照らして、天の闇を麗しい紫雲の色へと変えていた。


 太陽が昇る前の美しい明時あかときの空を背に、邇々芸は笑顔を浮かべた。その笑顔はとても綺麗で――それは、彼の芯にある頑なな意思を見せつけるようだった。


「これであなたは、きっと僕を忘れられない。いったでしょう? 僕を逃がせば悔やみますよって。僕は、侵略者の血を引いているんです。ことごとく奪い、思うままに変えてしまうことに躊躇しない者の血です。そして僕は、それを誇りに思っています」


 いったい今、何が起きたんだろう?


 何が起きようとしているんだろう?


 わたしはいったい、何を夢見たんだろう――。


 狭霧は、くらりと気が遠のいて青ざめていく。


 邇々芸は、くすりと笑った。


「あなたは気づいていないようですが、あなたの足には、大地の術がかかっていますよ。あなたを船に――海の上に出さないようにと、出雲の事代が、あなたに新たな守護を与えたのでしょう。感心しますよ、実に根回しがいい。だから、このままあなたを浚ってしまいたいけれど、今はそれができないんです。――でも、次は奪います。そして変えます。あなたも、この大嶋も」


 邇々芸がしたのは、政略結婚の話。それ以外のものは一切なかった。


 ぽろぽろぽろぽろ、頬に、涙が落ちる。唇を引いて、息を殺した。


 信じようとして、信じて、疑って、それでも守ろうとして、そして裏切られた。


 いや――。狭霧がここまで寂しく思ったのは、邇々芸に裏切られたからではなかった。どうしても裏切られたくなかった相手は、邇々芸ではなくて、もっと別のものだ。


 呆然と立ちつくす狭霧へ、邇々芸はいとおしいものを可愛がるように微笑んだ。


「あなたの父王へ、僕の後を追うように伝えてください。瀬戸の海は魔の道。波は、流れを知らない船を簡単に飲みこみます」


 邇々芸の目にあったのは、敵意――。


 闘う気なら、乗り込んで来い。罠を仕掛けて待ってやる。そういう好戦的な眼差しで狭霧を見て、それを最後に背を向けた。


 呆然として見送る狭霧の目の前で、邇々芸の後姿は遠のいていく。港まで降りて、出雲軍がここへ到達する前に、船出をする気なのだ。






 輝矢に少し似た顔をする彼は、輝矢とはまるで違う目配せを残して、狭霧のもとを去ってしまった。


 ぽろり――。狭霧の頬に大粒の涙がこぼれて、落ちて、また流れる。


 西天にはまだ有明の月がいて、それは、優しく地上を見下ろしていた。


 東から迫りくる朝の光と、西側に遠ざかる優しい月光を同時に浴びながら、嗚咽もなく、肩の震えもなく、狭霧は静かに泣き続けた。


 たくさんの想いや言葉が、胸の中で流れ星のようにいくつもひゅうと落ちていった。


(輝矢はもう、この世にいないんだ――)


 きちんと理解していたつもりだった。でも、きっとそうではなかったのだ。


 狭霧はいまだに彼の面影を探していたのだ。そして――。


(邇々芸様を逃がしてしまった――。出雲軍の標的を)


 いったい何をしていたんだろう? 出雲の姫になると息巻いていたくせに、なんていう馬鹿な真似を――。それに――。


(邇々芸様は最後、わたしに怒ってた。情けをかけても何もいいことは起きない。出雲が大乱を起こしているって)


『いったでしょう? 僕を逃がせば悔やみますよって』


 邇々芸は笑顔で真意を隠し続けていたが、その言葉にだけは、本気の怒りがほとばしっていた。


 その時、邇々芸は狭霧を責めていた。


 ――あなたです。あなたが戦を長引かせたんです。僕を捕えさせれば済んだのに、敵に情けをかけるような……出雲らしい真似をするから――。


 天に瞬いていた星座が――暗い闇の中でかろうじて目印にしていたものが、ことごとく落ちていった気分だった。


 恐る恐ると天を見上げると、夜のあいだに三日月と一緒に狭霧を照らしていた満天の星は、すっかり姿を消していた。


 それは、東の彼方、見渡す限りの陸地と海の果てに光の線をつくった朝が、星の輝きを消してしまったせいだが、今の狭霧には、星が天から姿を消したことすら、自分のせいに思えてたまらなかった。



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