諸刃の光 (3)


「う……」


 息を詰まらせながら泣いていると、いつの間にか、大勢が駆け回る気配が近くにあった。


 ぜえ、ぜえと大きく息をしながら、ほっとして叫ぶ細い声もした。


「ひ、姫様だ……」


「高比古様、姫様です、狭霧様です!」


 星すら消えた虚空で、一人ぼっちになった気分だった。だから、狭霧は、それがなんなのかよく思い出せなかった。


 どこかで聞いた声だ。それに、どこかで聞いた名前――。


 誰の声だっけ、なぜそんなに慌てているんだろう――と。


 でも、次の瞬間、力ずくで現実の世界に引き戻された。


「おい、しっかりしろ――!」


 両肩をぎっちりと掴まれて、乱暴に揺すられていた。真正面には、真顔を不安げに歪めた青年の顔があった。


 笹の葉に似た涼しげな目元や、ともすれば娘にも化けられそうな白い肌。そして、不思議と気高い雰囲気。高比古だった。


「あ……」


「あ、じゃない! どうしてここにいるんだ? 逃げたんじゃなかったのか? 追手に捕まったのか!」


「高比古……」


「ああ、おれだよ? どうしたんだよ、変な顔して――。いい、いくぞ。おい、誰か! 船へ知らせろ。狭霧を見つけたと!」


 高比古は、夜明けの方角へ向かって大声をあげた。


 狭霧がいたのは、邇々芸の館の建つ高台のあたりだ。坂の上のほうにあるその場所からは、眼下に海が見下ろせる。そこでは海が、朝の光を浴びて金色に輝いていた。


 煌めく海を臨む切り立った道の端には、裾の長い衣を身にまとう事代(ことしろ)が数人いて、高比古は、彼らに向かって怒鳴っている。


「船へ伝えろ。もう何をしても構わない。始めろと!」


 高比古がしたのは、戦を始めろという命令だった。


 行方知れずになった狭霧の無事をたしかめた。だから、敵に遠慮する必要はない、と。


 ふと見下ろすと、のどかだった浦は、前に見た時とは様変わりしていた。


 つくりかけの港がある岩岸では、出雲の戦船が波の上を占拠していた。


 小気味よく戦陣を為す出雲の船団は、朝焼けに燃える海を、沖へ向かって漕ぎ出している。その行く手には、朝日を浴びてぎらついた黒影になる船影がある。おそらく、先に港を漕ぎ出した邇々芸たちの船だ。


 邇々芸の――。そう思うなり、狭霧は、眩暈を感じた。


 花の甘い香りを彷彿とさせる邇々芸の穏やかな声は、いまや呪いの言葉のように繰り返し耳に響いていた。


『いったでしょう? 僕を逃がせば悔やみますよって』


 そうだ、彼を逃がしたのは自分だ――。


『できることなら、一生あなたの身に残るような傷でもつけてしまいたいのですが――残念ながら、これが限度です。でも、次は奪いますよ? そして変えます。あなたも、この大嶋も』


 いやだ。絶対にそうはさせません。


『あなたは、まだ子供なんですね――。あなたがどういおうが、いつか必ずそうなりますよ。あなたは僕の妻になります。いつか、あなたが大人になる日に』


 いいえ! 絶対にそんな日は来ません!


 幻なのか、呪いなのか。それとも、それこそが、邇々芸が狭霧に残した一生残る傷だったのか――。


 頭が朦朧となる中で、狭霧はほろほろと涙をこぼし続けた。


 邇々芸がなんといおうが、彼のいう通りになってしまうのは、どうしてもいやだった。だから、何度も狂ったように首を横に振った。


 この世に戦がはびこっているのは出雲のせいじゃない。邇々芸がいったのは真実じゃない――!


 邇々芸が胸に残していった呪いじみたものを、打ち消してしまいたかった。


 涙目で虚空を睨みつけながら首を横に振り続ける狭霧を、高比古は奇妙なものを見るように見下ろしていた。


「どうした――?」


 でも、高比古が狭霧を気遣ったのはそこまでだ。区切りをつけるように唇を横に強く結ぶと、彼は、狭霧の手首を掴んで力ずくで引いた。


「いこう、狭霧。港へ下りて、守りの兵と合流しないと――。残ってる敵がいるかもしれないし、地元の奴らに襲われても面倒だ」


 でも、狭霧の足は、呪いに捕われたようにそこから動けなかった。


 だから、どうにかしてその呪いを解かなければならないと思った。


 小さく動いた狭霧の唇は、高比古へ向かってぼんやりといった。


「くちづけて」


「……は?」


「お願い、早く。唇に」


 高比古は一度黙って、狭霧をじっと見下ろした。それから、彼は狭霧の身を案じた。


「……何があった?」


「何もない。わたしが馬鹿だった。なんにもなかったことにしたいの。だから早く……」


「――どうしたんだ?」


「だって、そうしないと出雲が――出雲が、悪者にされちゃう……! あなたにできないなら、安曇に頼むから」


 病に冒された娘がうわ言をつぶやくような狭霧を、高比古は眉根をひそめて訝しがった。


「出雲?」


 なんだ、この娘は――。狭霧、大丈夫かと名を呼んで身を案じていたのに、歪められた高比古の目は、初めて出会った相手を見るような不安げな色を帯び始めた。


「誰でもいいの。頼める人なら。どいて……」


 狭霧は、ふらりと足を動かした。ついと顎をあげて前を向いた狭霧の目は、事代の衣装を身にまとう青年が二人並んでいるのを見つけた。海を見下ろすのに背を向けているが、背格好には見覚えがあった。紫蘭と桧扇来だ。


 狭霧のつま先は、二人のもとを向いた。呪いを解いてくれる人なら、誰でもよかったのだ。


「あの……」


 お願い、と声をかけようとした時、狭霧の身体は、見えない壁にぶちあたって跳ね返されたように、くるりと後ろを向いていた。


 目をしばたかせていると、温かな手のひらで両頬を包まれた。それから――。


 あぁ、呪いが解けた――と、ほっと安堵を誘うものが唇に触れて、離れた。


 狭霧の顔を動けなくしていた温かな手のひらもそっと遠のいて、狭霧の鼻先や頬に、朝の涼しい風がふわりと通り抜ける。


 その風の向こうでは、高比古が渋面をしていた。


「……これでいいのか」


 狭霧の目をくらませていた呪いじみた影は、その瞬間に去った。でも、突然何かが切り替わって、またもや狭霧は、混乱を覚えた。


「あ、ありがとう」


 かろうじて応えると、腹立たしげに眉根を寄せた高比古は、腹の底からふり絞ったような低い声で狭霧を脅した。


「いくぞ。これ以上ぐだぐだいうなら、ぶん殴ってでも連れていくからな」


 高比古は狭霧の手を引いて、坂道をずんずんと下りていく。掴んだ手首が痛いだろうとか、そういう気配りは彼になかった。


 目に見えないものに翻弄される狭霧から幻を奪うように、わざと強く引いて、痛みを与えるようだった。


 




 あちこちに丸太が転がったままのつくりかけの港には、矛と盾をもって他を威圧する兵の一団がいた。陸に上がった高比古を待つ、守りの兵だ。


 海を臨む岩場にも、事代たちの姿があった。事代たちは、狭霧を連れて里へ下りてくる高比古の姿を見つけるなり、はっと顔を上げて、坂道を駆け上がってきた。


「高比古様、戦船に乗った事代が、指示を仰ぎたいと申しております。安曇様から、賊がどこへ向かっているのか確かめてほしいと――。退くべきか、進むべきかとお尋ねです!」


「賊が、どこへ向かっているか?」


 夜と朝が入り混じった暁の空は過ぎ、東の果てから太陽が顔を出した今、それは、まばゆいばかりの強烈な光を放っている。何もかもを金色に染めてしまう凶暴な光は、眼前の海を丸ごと、直視できないほど眩しいものへと造り変えていた。


 眉の上に手のひらの笠をつくり、高比古は金色の海を見据えて船影を追った。そして、沖へ向かう出雲の船団の先にある黒い船影の行方を確かめると、信じられないとばかりに目を見開いた。


「なぜだ……なぜ東へ向かう。てっきり南へ――大隅の地へ逃げ込むのかと――」


 高比古は、ちっと舌打ちをした。


「――海峡を渡る気だ。瀬戸の道だ……。しばらく大人しいと思ってたら、奴ら、魔の海の海民を手なずけていたんだ。くそっ、絵地図が変わる」


 憤る高比古の声をすぐそばで聞きながら、狭霧は、恍惚としたまま胸の中で繰り返した。


(瀬戸の道――、魔の海――?)


 それは、邇々芸が、去る間際に残したのと同じ言葉だ。


 でも、なぜ、こうまで高比古が動揺しているのかは、狭霧にはわからない。


 狭霧の手首を握り締めたまま、高比古は苛立ちを吐き捨てるようにして、海際で青ざめる部下へ命じた。


「奴らは、瀬戸の海を通る気だ。後追いは無駄だ。退けと命じろ。――彦名様と話すのが先だ」


 やがて、高比古の命令を聞き届けたのか――。


 金色の海の上にいた出雲の船団はゆっくりと向きを変えて、狭霧たちの待つ浦へと戻ってくる。


 陸に上がった高比古や事代、それから、守りの兵たちのための船が数隻、岩場までやってきたが、なかでも狭霧は、一番に船に乗せられた。


 狭霧を迎えに来た船には、安曇が将として乗っていた。


「狭霧――! よかった……」


 大きく腕を広げて狭霧を迎えた安曇は、身にまとう戦装束がまるで似つかわしくないほど安堵した笑みを浮かべていて、その笑顔は、武将というより父親じみていた。


 広げられた胸に迎え入れられるものの、狭霧は上の空だった。


 なんだか足元がおぼつかないままで、始終自分を責めたり、誰かに謝ったりしていないと気が落ち着かなかった。


 とうさま、かあさま、ごめんなさい。


 心依姫、ごめんなさい――。


 安曇にひとしきり無事を喜ばれることにも、高比古に助けられて安堵した事実にも、たまらなく申し訳がなかった。


 安曇に抱きしめられながら、狭霧は声を震わせた。


「ご、ごめんなさ……わたし……」


 でも、謝罪の言葉を遮るように、背中に回った安曇の腕は、ぎゅっと狭霧を抱きしめて声を止めた。


 耳の上から、安曇の優しい声が降ってくる。


「いいんだよ。狭霧が無事なら」


 でも、自分を丸ごと包んでくれる温かい腕の中ですら、狭霧は、何度も首を横に振るしかできなかった。無事だったからいいなんて、そんなことは決してない――と。






 よほど安堵したのか、それとも、それほど狭霧が危うげに見えたのか。


 朝日が照らしだす金色の海を渡って、もとの港まで戻る間、安曇は狭霧の肩を抱いたまま放そうとしなかった。


 安曇は、父である大国主や亡き母に代わって、幼い頃から狭霧の世話を焼いてくれた人だ。


 狭霧が泣いていたり、ひどく落ち込んだりした時は必ず安曇がそばにいて、こんなふうに肩を抱いてくれた。――そういえば、母が亡くなった夜もこうだった。


 だから、いくら安曇が身にまとうのが戦装束で、二人がいる場所がいかめしい武人に囲まれた戦船の上だろうが、安曇のそばにいるのは、狭霧にとってはそれほど特別ではなかった。いつも通りだ――そう思うと、安堵する。そして、安堵すると涙が出た。


 海風を受けて強く波打つ帆布は、ばさばさと荒々しい音を立てている。船の上からぼんやりと眺める先で、波はまだ、朝日に彩られてあかあかと輝いていた。


 美しい光景は、苦しいことを忘れさせる幻術か何かのようだ。

 

 新しい呪いにかかったように頭がぼんやりとして、このうえなく安堵しているような、何かとんでもないことを忘れ果てて、愕然としていくような。奇妙な気分のままで憂鬱な船旅を終えて、阿多族の港へいき着くと、狭霧は、そのまま安曇に連れられて出雲軍の野営地へ向かうことになった。


 いくら見張りの番兵を立たせたところで、港の仮宿で、一人でいさせるのは心配だからと、これからは安曇が使っていた天幕を使うことになった。


 港には、狭霧のための馬が用意されていた。


 野営への野道に続々と連なる兵たちの列の中で、たった一人、まるでどこかの深窓の姫君のように、狭霧は馬上で揺られた。でも、それがおかしいと思うとか、一人で歩けるからいいと断ることすら、ぼんやりとした狭霧は忘れていた。朝の真っ白な暗闇の中で、途方に暮れている気分だった。


 出雲軍の野営となった川べりの野に着くと、手ずから狭霧を鞍から下ろした安曇は、大切なものを天幕の中へ隠すように、狭霧の背を押した。


 そして、別れ間際に、狭霧をじっと見つめた。真剣な目だった。


「ここにいてください。何も心配ないから。――後で呼びに来ます」


 笑顔は狭霧を勇気づけるように力強かったが、いい方はとても深刻だ。


 だから、なんとなく狭霧は思った。


(――何か起こるんだな。心配なことが)


 でも、頭が朦朧としていてそれ以上は考えつかなかったし、今は解き明かそうとも思えなかった。


 安曇の手によって天幕の入り口が閉ざされると、狭霧は、布で仕切られた小さな隙間で力なく膝をつく。


 苦しいことがたくさんありすぎて、頭の中がめちゃくちゃになっていた。こらえきれずに堰が押し切られて、いったんはちきれてしまえば、もう手に負えなくて、ぼんやりとするしかなかった。


 邇々芸に浚われてしまったこと。それが戦を呼んだこと。


 邇々芸を――出雲軍の敵を逃がしてしまったこと。


 それから、ろくに覚えていないとはいえ、出雲で恋しい相手を健気に待っている少女を悲しませるような真似をしてしまったこと。


 でも、苦しいのはそれだけではない気がする。もっと大事な何かを忘れている気がする。


 なんだろう――。いったい、何を忘れているんだろう――。


 敷き布の上で寝転びながら、狭霧はしばらく思い耽った。そしてある時、目を見開いた。


 とんでもないことをしでかした、忘れてしまったと嘆いていたものの片鱗をわずかに見た気がした。


(……うそ)


 血の気が引いて、目が見えなくなった気がした。闇に襲われたようになって、急に狭くなった視野の中で、慌てて手をさまよわせた。震えながら指先が向かった先は、胸の合わせ。そこに忍ばせていた輝矢の髪飾りだった。


 そこから引っ張り出して、目の前に掲げてみる。でも――。


 少し古びた髪飾りに見入る狭霧の目はどんどんと震えて、引きつっていった。


 食い入るように見つめる先にある髪飾りは、前とは違って見えていた。何度も幻の声を聴かせて、不思議な力で狭霧を守ってくれた温かな気配が、そこからは遠のいていた。


 消えた、消えてる……。そう思うなり、いとしい少年の声を思い出そうとした。


 でも、その声も、いつのまにか遠のいていた。


 こんな声だった。たしか……と、思い出そうとすればできるが、それまで狭霧の耳元で響いていた鮮明な音色ではなくなっていた。


 がくがくと、髪飾りを支える手が震えた。


 身体の中身が半分奪われたような、とてつもない消失感に襲われて、眩暈がした。


 息が止まった気もして、そのまま天幕の床へ倒れ込む。それから、手にした髪飾りを見つめながらひくりとしゃくりあげる。それから泣きじゃくった。


(とんでもないことをした。どうして――とんでもないことになった……)


 狭霧を何度も安堵させてくれたのは、輝矢という幼馴染の少年の笑顔や声だ。


 幻であるとは理解していたけれど、その笑顔を見たいから、声が聞きたいからと、狭霧は毎日過ごしてきた。


 それを失った。いつのまにか、どこかに落としてきた。そう思うと、とうとう何もかもが遠のいた気がした。


(とうさまも、かあさまも遠くなった。心依姫も、わたしが自分で遠ざけた。輝矢まで、そばからいなくなった。――もう、誰もいなくなった……)


 いやだ、失いたくない、と、狭霧は泣きながら輝矢の姿や声を思い出そうとした。


 でも、穏やかな二重の目や細い顎と思えば、まぶたの裏に浮かび上がるのは、輝矢と少し顔つきが似ているだけの邇々芸の目もと。


 何度となく飛び込んだ細い胸や、背中に回った腕と思えば、さっきまで狭霧を抱いていた安曇の逞しい腕や、ここ数日のあいだに狭霧に触れたほかの青年たちの気配が蘇る。高比古や、邇々芸や、盛耶もれやや――。


 思い出す輝矢の腕や胸は、ほかの人たちのものと合わさって、少し逞しくなったりして、記憶は曖昧になっていた。


 十五の齢で時が止まった輝矢は、それ以上大きくなることはないのに――。どれだけ思い出そうとしても、思い出は鮮明でなくなっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る