終章、あかつきに閉じる花


「狭霧、おいで。……大丈夫、何も心配ない」


 しばらく時を置いて、再び安曇が天幕に戻って来た時、彼は本当の父親かと見まがうほど温かな目で狭霧を見下ろした。


 どこまでもあなたを守ってあげる。そういう温かな眼差しを、安曇は狭霧にくれた。


 安曇の大きな手のひらに背中を押されながら、ゆっくりと向かった先は、港の隅だった。


 そこには、おそらくこの浜里にある中でも一番立派な館が建っていた。


「ここは……」


「神殿だよ。今日は出雲が借りているんだ」


 安曇がいう通り、入り口の前には出雲の兵がいて、我がもの顔で武具を構えている。


 狭霧を連れた安曇に気づくと、番兵は直立不動の姿勢をとって、斜めにしていた矛をまっすぐに立てた。どうぞ、お通りくださいと、彼らの武具は示していた。


 館は小さくないが、そこまで大きくもない。


「狭霧を連れて来ました」


 中へ足を踏み入れる安曇の背中越しに、舘の中の様子を窺った。


 そこには、十人程度の姿があった。大国主をはじめ、高比古や事代(ことしろ)たち、それから、高位の武人たちが円座を為している。そして、男たちがつくる輪の真ん中には小柄な少女がいる。


 純白の上衣に朱色の裳をつけたその姿は、出雲の巫女の姿。日女(ひるめ)だった。


 入り口で足を止めた安曇へ、大国主の従者の一人がひっそりと声をかけた。


「そちらへお座りください。もう始まっています」


(始まっている? 何が――)


 狭霧は、まだぼんやりとしていた。


 もう何がどうなってもいいというのが正直な気持ちで、実のところ、出雲軍の中でも上層部といえる面々が一堂に会していることにも、ここで為されていることにも、それから、自分がどう関わるかということも、今は興味がなかった。


 狭霧が思い巡らすのは胸元に戻した輝矢の髪飾りのことだけで、きっと今に力が戻る、きっと今に……と、そればかりだった。


 屈強な武人たちの輪の真ん中で静かに正座をする日女はまぶたを閉じていて、目をあけることはおろか、まぶたをぴくりと揺らすこともなかった。


 ただ、赤い小さな唇だけがわずかな動きで上下する。しかし、不思議なことに、日女の唇から出てくる声は、狭霧がいつか耳にした娘の声ではなかった。もっと低い、娘の声ではあり得ない、男の声――。出雲の東の都、意宇おうにいるはずの王、彦名の声だった。


「逃がした? しかも、相手が大和の、女王の御子だったと?」


 そのように男の声で語る日女のまぶたは、やはりぴくりとも揺れない。


 安曇に導かれるままに隣に座りながら、狭霧は、うつろな目で巫女の表情を追った。


(これって、しろ?)


 どこかで聞いたことがあった。事代や巫女など、特別な力をもつ人たちは、遠く離れた人と話をすることができるらしい、と。


 そういえば狭霧も昨日、遠く離れた場所にいる高比古と話をした。あの時は、声が耳元を吹く風に乗ってくるような感じだった。でも、今は少し違っていた。


 日女は今、日女ではないように振る舞っていた。まるっきり自分を忘れて無の状態になり、空いた分の隙間に、彦名の声を伝える何かを宿しているような――。


 そこにいるのは日女なのに、日女ではなかった。そして、この場に集った誰もが、彼女を日女とは扱わなかった。


 日女が口にした言葉に腹を立てて、輪の一番奥から身を乗り出した男がいた。武王、大国主だ。まぶたを閉じて、静かに正座をする日女を脅すように、大国主は低い声を出した。


「そうするしかなかった。慣れない夜の入り江など、危なくて進めるわけがない。川から追いこむなら、逃げ場を与える陣にするしかないだろうが? それに、敵陣には狭霧がいた。様子を窺って当然だろう?」


 ああ、と狭霧は思った。


 阿多あたの港へ戻る船旅の間に、狭霧は、邇々芸に浚われた後のことを尋ねられていた。問われたことはすべて安曇に話したが、きっと安曇にした話は、父である大国主をはじめ、高比古や、ここに集う武人たち、それから、出雲にいる彦名へも伝えられたに違いない。


 狭霧が招かれたこの場は、おそらく、戦についての談判の場なのだ。狭霧が何をして、なぜ戦が始まり、そして、結末がどうなったのかと話して、論じて、出雲王である彦名と善し悪しを決める場なのだ。


(だから、安曇は心配するなっていっていたんだ。わたしのした過ちをここで話すけれど、気にしなくていいって)


 隣に座る安曇をちらりと気にした時、安曇は、押し黙ってじっと前を見つめていた。彼がじっと見守っているのは、輪の中央で彦名の言葉を伝える巫女と、大国主のやり取りだ。


 目を閉じたままの日女は、ほとんど頬を動かさなかった。それなのに、小さく動くだけの唇は、大国主を責める厳しい声を放った。


「狭霧――おぬしの娘か。厄介というかなんというか、それはそれで火種(ひだね)というものだな――」


「なに、火種だと?」


 怒鳴るようにいい返した大国主へ、日女の唇を通した彦名の気配は冷笑する。


「火種はかまどの宝だ。だから人が欲しがり、奪い合う。そういえばいいか? ふん。――まあ、それはいい。とにかくだ。話を聞けば、今回の戦は少し浅はか過ぎないか? 賊は大和の誰かと見なすだけで、相手を誰とも疑わずに追い立てる策を立てたのは、いかがなものか――」


「逃がしたわけじゃない。逃げられたんだ」


「逃がしたのだろう? おぬしの娘が」


「だから、それは――」


「ああ、それはまた話が別。私がしたいのは、出陣の前の話だ。策を立てた責は策士にあるが……もう少しどうにかできなかったのか? 例えば、一度こちらに知らせるとか。そこには巫女もいたのだろう? おぬしの娘が浚われたとあれば、そうするべき一大事だったろうに」


 彦名が次に責めたのは、高比古だった。


 輪の中で黙る高比古は、自分が槍玉に挙がってもぴくりとも真顔を崩さなかった。だが、高比古に代わるようにかっと顔を歪めた大国主は、真っ向から反論した。


「おまえに知らせる? 急を要していて、できなかった。それに、戦は生き物だ。何がいつ明らかになるかなど、誰にもわからない。そのうえで、その瞬間に一番正しい道を示すのが策士だ。高比古に非はない。失策の苦い想いなら、おまえだって何度も味わっただろう?」


「咎めただけだ。咎められるべきだからだ。思慮不足を恥じて、次はするな、と」


 狭霧や高比古や、大国主の従者たちが集められたとはいえ、二人の話に口を挟もうとする人は一人としていなかった。輪を為す男たちは、誰もが口を閉じて耳を澄ましている。ここは間違いなく出雲の二人の王、大国主と彦名の舌戦のための場でしかなかった。


 その後も、大国主と彦名の熱を帯びたやり取りは続いた。白熱する大国主と裏腹に彦名の声はずっと落ち着いていた。だが、静かなだけで穏やかなわけではない。声は刃のように鋭く尖っていた。


「とにかく、瀬戸の海だ。あそこの海を行き交う海民が大和側についたというのが本当なら、大和の手が及んだ海が一気に遠賀まで伸びたことになる。いや――大陸までだ。大和から瀬戸を通って遠賀へと自由に行き来ができれば、大陸から繋がる鉄の道の端にたどり着けるのだからな――」


「朗報だろう? 知らなければ、後で痛い目を見た」


「まあな。浚われたおぬしの娘のおかげだよ。これでは咎められない」


「だったら、四の五のいうな。黙ってろ」


「私がいわずに、誰がおぬしにいえるのだ? おぬしこそ、黙って聞いておけ」


 ふう……。日女の唇で吐息をこぼした彦名は、噛んで含むようないい方で先を続けた。


「なるほど、これで納得がいく。大和という国が、難なく旧国を滅ぼせたのはそのせいだ。奴らは助力の報酬に、鉄の道を開いたのだ。このぶんではもう、鉄は大和へ流れているのだろうな。これは、面倒な――」


 あぐらを崩して片膝に頬杖をついた大国主は、彦名の声を伝える日女を低い場所から睨み上げた。


「それで、どうする。おれはこのまま阿多へいくべきか? それとも海峡を戻って長門(ながと)へいき、瀬戸の道を封じるべきか」


「瀬戸は、そう簡単に閉ざせる道ではなかろうに。荒くれ者の海民が支配して、奴らの都は陸ではなく海にあるとの噂だ。攻め込むはおろか、都を探しあてる前に返り討ちにあう、とな。――瀬戸のことは、しばらくこちらで探りを入れる。おぬしは予定通り阿多を目指せ。それはそれで重要なことだ」


「わかった」


 横顔を向けて、大国主は忌々しげに吐息する。


 まぶたを閉じたままの日女は、しばらく唇を閉じた。いや、言葉を発することはなかったが、何かを考えているように唇をわずかに震わせた。


 朱に彩られた唇から再び彦名の声が漏れた時、声音は、ずいぶん大人しいものに代わっていた。


「ところで、おぬしの娘の狭霧姫は阿多へ連れていくのか? 盛耶もれやと出雲へ戻すという手もあるが――」


「妙なのがうろついているかもしれん海へ放り出せるか? もちろん、一緒に連れていく」


「それなら、忠告しておく。阿多には年頃の若王がいただろう。たしか、名を火悉海ほつみとか――。もし阿多で妻問いを受けても、ひとまず断れ」


 彦名が案じたのは、狭霧のことだった。婚姻がらみの話で自分の娘の名が挙がるなり、大国主は目を剥いて唸り声を上げたが。


「妻問い? 狭霧にか? 狭霧はまだ十五だぞ!?」


「名のある王の娘なら、十四前にはたいがい相手が決まるという事実を覚えているか、穴持なもちよ……」


 道理の合わない文句でいい返す大国主に、彦名の声は呆れたが、大国主は聞く耳をもたなかった。顔を真っ赤にした武王は、激怒して怒鳴った。


「この世の決まりなどどうでもいいわ! 戯れ言だろうが、妙なことをぬかすな。狭霧を出雲の外になんかやるか!」


「なら、盛耶と出雲へ戻すのが得策だろう? 娘をわざわざ連れていくなど、餌をちらつかせにいくようなものなのだぞ?」


「これが最後だ。今後は一切出雲の外に出さん。須佐乃男がなんといおうが、必ずだ。だから今は、おれのわがままを聞け!」


「わがままとわかっているのなら、少しくらい控えたらどうなんだ?!」


 しだいに、抑えられていた彦名の声までが猛っていった。


 激情をぶつけ合う二人の王のやり取りを追って、そこで輪を為す男たちは、じっとうつむいて耳を澄ませている。


 そこで、ふうと安堵の吐息を漏らした人がいた。安曇だ。


 やれやれといったふうに隣を見下ろした安曇は、やはり狭霧を気遣った。


「もう大丈夫だよ、狭霧。あの通り、あなたへの責めは、穴持様がすべて肩代わりする気でいる」


「その――」


 突然笑いかけられて、狭霧はぼうっと安曇の笑顔を見上げた。


 狭霧の視線の先で、安曇は、輪を為す男たちの表情や、中央で声や身ぶりを大きくする大国主の様子を窺うような素振りをする。


「もう出ようか。どうだろう」


 大国主が安曇を気にかけることはなかったが、日女越しに気配を感じたのか、彦名の声がそれを許した。


「もういい。とにかく穴持、皆を持ち場へ戻せ。続きは二人でやり合おう」


「続き? ああ、やってやるわ。おまえのしたり顔は気に食わん。この狐が!」


「私だって、おぬしのわがままに振り回されるのは我慢がならん!」


 




 彦名のための依り代となった日女と大国主を残して、武人たちはぞろぞろと館を後にした。


 和ませようとしたのか、狭霧の背中を押して道をいく間、安曇は冗談をいって笑った。


「実はあの二人――穴持様と彦名様は、昔から仲が良くなくてねえ。喧嘩するほど仲がいいというのか」


「うん――?」


「彦名様が策士で、二人が一緒に戦に出ていた頃は、毎回たいへんだった。狐だのわがままだの、ところ構わず二人で罵り合ってね」


「うん……」


「それにしても、彦名様のやり方はだんだん須佐乃男様に似てきた。妙なことにならなければいいが――」


 最後に、安曇は苦しげに黙って、ちらりと狭霧を見下ろした。安曇がしたのは、狭霧の将来を気にかけるような、危ぶむような――そういう、深刻な目だ。


「うん?」


 狭霧は首を傾げたが、それ以上は気にならなかった。


 すでに背後に遠ざかった館で、狭霧のおかした過ちが取り沙汰されていた時も、その後で再び自分の名が挙がった時も、ずっと狭霧はぼんやりとしていた。


 これではいけない。心配してくれている安曇に申し訳がない。そう思ってひやりとするが、それ以上はうまく頭が働かなかった。


 手のひらはつい、胸元に伸びる。


(どうしよう。消えちゃった。とんでもないことになっちゃった。輝矢……)


 狭霧が想うのは胸に忍ばせたお守りのことだけで、今はやはり、そのほかを考えられなかった。








 人が去り、静まり返った館の中。そこを離れていく人々の足音も遠ざかると、日女の赤い唇から発せられる彦名の声は、いよいよ研ぎ澄まされて鋭くなった。


「さて、芝居は仕舞いにしようか、穴持」


 が、打って変わって大国主はまだ顔を赤くしたままだ。


「はあ? 芝居だと?」


「――違ったのか? 私はてっきり、私の意図に気づいたのだと……。いや、おぬしにそんな器用な真似ができるわけがないか。おぬしは本当にわがままな――まあ、いい」


 結局、それ以上の言葉を飲みこんだ彦名は、それまでとは区切りをつけるように大きな息継ぎをする。そして、厳かに続けた。


「ところで、穴持。遠賀に着く前に、どこかへ寄ったか?」


「二度ほど、長門に寄ったが?」


「長門のどこだ」


「長門の鼻と、神岬」


「――ふむ。ではそこに、出雲以外から来ている船があったか?」


「――何が訊きたい?」


 問い詰めるような訊き方に、大国主は黒眉をひそめる。慎重に低く抑えた声には凄味が滲んだ。


 彦名の声は、冷笑した。


「おぬしの姫の手落ちなど、取るに足らないことが起きているかもしれんと思ったまでだ」


「取るに足らないこと――? なんだ」


「大和の、邇々芸ににぎとかいう若御子は、狭霧を大和へ浚おうとしたのだな?」


「ああ、そうらしい」


「わざわざ呪術者を率いて、遠賀までやって来て」


「だから、何がいいたい?」


「出雲の船が遠賀にいることを、なぜそいつは知ることができた? もっといえば、なぜ狭霧を乗せた船が遠賀に着くと、大和は知っていたのだ。たまたま同じ時期に遠賀に居たにしては、出来過ぎではないか?」


 先ほどまで大国主の身に滾っていた熱のようなものはすべて消え去り、人の気配のない神殿には、凍てついた静けさが染み始めた。身じろぎ一つせず、獣じみた眼光を目に宿した大国主は、彦名の声を発する巫女の無表情を、じっと睨みつける。


 大国主の無言の催促を、彦名は察したらしい。せせら笑うような冷たい声で、出雲に居るその王は続けた。


「おかしいと、先ほどひそかに高比古が私に伝えた。私もそう思う。……忌々ゆゆしいなぁ、穴持よ。狸面たぬきづらを通して、しばらく様子を窺えよ。おぬしの近くに、大和の窺見うかみがいるかもしれんぞ? もしくは、出雲の裏切り者か……」








「もう何も心配することはないから、しばらく休みなさい。いいね?」


 狭霧を天幕まで送り届けた安曇は、そういって穏やかな背中を向けた。


 いったん天幕の中に入って立ちつくしたものの、狭霧の足は、むずむずと天幕を抜け出てしまった。


 狭霧のもとを去った安曇の後姿の向こうに、高比古の影を見た気がしたのだ。


 高比古といえば、安曇と船に乗った時に別れてから、まだ一度も目を合わせていない。


 混乱に任せて、呪いを解くくちづけを高比古にせがんで、頼まれた通りにと、そこで彼と唇が触れた。でも狭霧は、その時のことをろくに覚えていなかった。起きたという事実だけは覚えているが、いったいどんなふうだったかとか、細かなことは、いっさい忘れていた。


 狭霧が望んだ通りに混乱が混乱を打ち消したようで、高比古とのくちづけは、その少し前に邇々芸からされた敵意混じりのくちづけの瞬間も、揃って狭霧から忘れさせた。それはたしかに、功を奏したのだ。


 でも、胸の曇りは晴れなかった。胸には後ろめたい想いが生まれて、苦しくなるばかりだった。その苦しさは、輝矢の髪飾りのことばかりを気にしているわけにはいかないと、突っついて痛みを味あわせる。


(――高比古に謝らなくちゃ。へんなことを頼んでごめんなさいって……。心依姫にも申し訳ないって、ちゃんといわなくちゃ)


 高比古に会って、謝罪をしなければ。


 そして、やるべきことを済ませたら、狭霧には、どうしても高比古に頼みたいことがあった。実のところ、高比古のほかに、頼る人が見つからなかった。


 狭霧は、野営の入り口へ向かって駆けた。さっき見かけた高比古の後姿が、港の方角へ向かっているように見えたからだ。


 天幕を飛び出した狭霧の足は、高比古がたどったはずの道を追った。


 高比古は浜里へ向かったわけではなく、野営からそう離れていない場所にいた。


 港へ続く一本道の周りには、丈の高い草で覆われた草むらがあったが、高比古は道から少しはずれた場所に寝転んで、草の中で、考え事でもするように空を見上げていた。


 野原の一角で草に埋もれる高比古を見つけて、駆け足で一本道をたどっていた狭霧は、慌てて足を止めた。まさかこんなところで寝ているとは思わなくて、つい声が出た。


「あ……」


 すると、がさりと草が動いて、はっと身を起こした高比古と目が合った。


「――あ」


 高比古も目をしばたかせていた。


 高比古は、「なぜあんたがこんなところにいるんだ」とばかりに狭霧を凝視する。狭霧はその目と目を合わせていられなくなって、うつむくと、声を震わせた。


「その……邪魔をしてごめん。わたし、高比古を探していたの。今朝のことを謝りたくて――。今朝は、へんなことをさせて、ごめ、ごめんなさ……」


 高比古はぼそりとつぶやいて、先に許した。


「ああ、いいよ。よくわからないが、落ち着いたのか? そもそも、いったい何があったんだ?」


 高比古は、いつも通りにぴくりとも真顔を崩さず、無表情を貫いた。


 彼はいつも通りだ、いつも通り……そう思うと、狭霧は、ほうと胸をなでおろした。


 高比古は、その時のことを、まるで気にしていないらしい。


(そうよね。ちょっと唇が触れただけよ。手が触れたのと同じよ。何もない、何も……)


 今朝のことどころか、高比古は、それ以上は何も尋ねようとしなかった。昨夜からの騒動のことにも一切触れようとせず、彼の態度は、先ほど神殿でひらかれた談判ですべての片は付いたといいたげだった。高比古の目はすでに過去から離れていて、彼が見つめる先は、すでに明日だった。


 落ち着き払った高比古の真顔に、狭霧はしだいに癒されていった。


(そうか、終わったんだ。そうよね――)


 狭霧は、ふう……と長い息を吐いた。


「その、そばへいってもいい?」


 恐る恐ると問いかけると、高比古は不思議そうに首を傾げた。


「いいよ? わざわざ訊くようなことか?」


 どうしてそんなに緊張してるんだ? と、高比古の真顔はいいたげだった。それも、狭霧の安堵を誘った。


(そうよね。何もやましいことはないもの。いつも通りよ、いつも通り――)


 息を整えながら、高比古の隣へいって、草の上に腰を下ろす。


 それから、胸の合わせへ指を差し入れると、どうしても高比古に見て欲しかったものを取り出した。それは、狭霧の大切なお守り、輝矢の髪を飾っていた、少し古びた髪飾りだった。


 狭霧の手の上に大事そうに乗せられた髪飾りを目にすると、高比古はまじまじと覗きこんで目を丸くした。


「ちょっと見て欲しいんだけど――。これ、前と少し違う? あのね、なんだかとても寂しくなっちゃった気がするの。前までわたしを守ってくれていたものがね……」


 消えていないかな――。


 たどたどしいいい方で、そう告げようとしたが――その言葉が狭霧の唇から出ていく前から、高比古は、先につぶやいた。


「……消えてる」


 それは、自分では知りようがない真実だ。そうかなと思ったところで、特別な目をもたない狭霧にはわかりようがない。でも、高比古にとってはたやすく確かめることができる事実だ。


 その高比古から告げられると、最後の通達を突きつけられた気になる。狭霧は唇を結んで、歯を食いしばった。


(やっぱり……。消えちゃったんだ。輝矢の残り香は、なくなってしまったんだ)


 目尻が震えて、目が潤んだ。


 でも、震える狭霧の手の上を覗きこむ高比古は、ほっとしたように苦笑した。


「消えたよ。これでもう、これはただの髪飾りだ」


 高比古は「好都合」といいたげで、血の気を引かせて青ざめる狭霧には相容れなかった。


 どうしてそんなに悲しいことをいうの? どうして喜んだりするの?


 わたしは輝矢の幻を失ったのに。最後の残り香を、失くしてしまったのに――。


 高比古を責める筋合いはないとわかっているのに、どうしても止められなくて、急に頭に血が上った狭霧は、今にも高比古に向かって手を振り上げてしまいそうになった。


 泣きじゃくる直前の顔をする狭霧へ、高比古は微笑んだ。それから、ゆっくりとした口調でいい聞かせた。


「もともとそこにあったものなら、とっくにあんたの身体に混じってたよ」


「え……?」


「前にここで触れた時、前と少し違うっていったろ? あの時にはもう、あの王子の気配はその髪飾りになかったよ。代わりに、あんたが自分でつくった幻が宿ってた」


「――え?」


 聞き間違いをたしかめるように、狭霧は眉をひそめた。


 高比古は、寂しげに笑った。


「しばらくあんたを守ってたものは、あんたが自分でつくり上げた幻だよ。死んだ奴の幻を生み出すなんて、死をそばにつくり上げるようなものだ。邪術に近い。――あまりいいものじゃないよ」


 それから、高比古は、根雪を溶かしていく春の陽射しのような温かな笑みを浮かべた。


「『もういい、忘れろ』っていってる気がする。そいつの気配なら、あんたの胸の内側で満足そうにしてるよ。だから……」


 狭霧は、暴れ出すのをそれ以上こらえられなかった。


「……あ」


 酷いことをいう人だと、高比古に殴りかかろうとした手を、懸命に止めた。


 悲しみや寂しさと一緒に、虚しさがこみ上げた。ずっと心の拠り所にしていたものがもともと別のものだったと知らされたからだ。ずっと大切にしていたものがとっくの昔に消えていたのだと告げられるのも、苦しかった。


 あらゆる想いで喉は詰まって、息の仕方はわからなくなり、身体ががくがくと震えた。


 暴れ狂うような力が行き場を失うと、何もかもがめちゃくちゃになって、身を投げるように草原に突っ伏した。


(いつから? いつ? 高比古の話が本当なら、輝矢が消えたのはいつだった? ――いつなの……)


 考えても、わからなかった。高比古のように特別な目をもたない狭霧には、その瞬間があったことにも気づけなかった。その悔しさ――。


 何もかもが嫌で、苦しくて、号泣するのを止められなかった。


「あ……あ……」


 草の上で悶えるように泣く狭霧の肩を、温かい手のひらが支えた。高比古だろうと、それはわかったが、力強い仕草で落ちつけと慰められるのは、今の狭霧にはたまらなく嫌だった。落ち着いてしまいたくなんかなかった。狂っているというなら、狂ったままでも、狭霧はよかったのだ。


「今までここにあったものが、わたしが自分でつくった幻? 邪術? でも……それでもわたしはよかったの、いけないことだったとしても……! だって、だって……輝矢のそばにいられるなら、わたし……!」


『ずっと一緒だよ? 死ぬまで、ううん、死んでも』


 幼い頃に彼と交わした約束を、守ることができるなら――。


 たとえ幻でも、永遠に一緒に居られるなら――。


 なんとけなされようが、それが悪いことだとは思えなかった。


 息を詰まらせながら泣く狭霧を、高比古が抱きとめた。狭霧の訴えに、高比古はゆっくりとうなずいてみせた。


「そうだよ。たぶん、それは悪いことじゃない。死んだ後も覚えてやれるほど想ったなら、ずっと覚えてやればいい。でも、そいつは死んでいて、あんたは生きてるんだ。そこだけは、はっきり区別をつけなくてはいけない。死んだ奴に引きずられているうちは、あんたは何も生めないよ。そいつはそれをわかってて、もし今のあんたを見てたら、きっとほっとしてるよ。――そいつは、馬鹿じゃなかったろ?」


 こんなに身体が壊れそうになるまで泣いたことは、今まで狭霧になかった。


 背中に回る誰かの腕の温かさや耳元に降る声の優しさを、ここまで強く感じたことも。


 だから狭霧は、ようやく胸のつかえがとれた気がした。


 何よりも狭霧が脅えていたのは、少しずつ過去を忘れていくことだ。だから、みずから時を止めて、思い出をそばに繋ぎとめようとした。ほんのわずかでも輝矢を忘れるということが、どうしようもなく罪深いことに感じて仕方なかった。でも――。


「平気だよ。これでいいんだ」


 耳元で繰り返される高比古の声は、まるで優しく微笑む死神の許しに聴こえた。死というものを誰よりも理解して、悼んで、そのうえで奪いもする、稀有な死神の――。





 自分の腕の中で悲鳴をあげる狭霧を、高比古はそっと撫でていた。


 慟哭する背中を行き来する高比古の手のひらの上を、風が通り過ぎた。


 腕に抱きとめた小さなものを懸命に癒す彼に微笑みかけるような、淡く色づいた風だった。








  4話「果実のまどろみ」へ続く

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