4話:果実のまどろみ

序、裏切りの代償 (1)

 眠りが浅いのはいつもと同じなのに、なぜか息苦しい夜だった。


 はっと目を覚ました時、狭霧さぎりは、自分の目もとが濡れているのに気づいて驚いた。


 耳か、もしくは胸のあたりには、童のか細い泣き声がじんと疼きながら残っている。その、涙で震えた幼い声は、童の齢の自分のものだった。


『いっちゃいやだ、かあさま……!』


 涙声につられて浮かび来るのは、暗くて静かな真夜中の庭――。


 どこまでも続くかのような暗闇と、冷たい土。


 駆けても駆けてもなかなか近づいていかない、狭霧に安らぎをくれる誰かの居場所。


 それは、母が死んだ時の夢を見るたびに、怖くなっては泣きじゃくって寝床を抜け、外へ飛び出した時に見た風景だった。


 でも、いくら思い出そうとしても、狭霧は眠っていたあいだに見た夢を覚えていなかった。


(わたし、かあさまの夢を見たっけ――。ううん、きっと見たんだ。だって、泣いてるもの。見たのよ、きっと)


 身に覚えのない涙を訝しみながら、狭霧は眠っていたあいだのことを思い返してみた。


 でも、やはり胸は見た夢を覚えていなかった。


 ぎりぎりと胸を締めつけてくるものは、悲しい夢ではなくて、悲しい夢を見た後に寂しくてたまらない想いをした、幼い思い出のほうだった。


 いまもまだ、狭霧の胸には幼い泣き声の余韻が残っている。まぶたの裏には、真夜中の冷たい庭をさまよう小さな裸足のつま先が、繰り返し浮かんでもいた。


安曇あずみ、どこにいるの。一人にしないで。安曇……!』


 幼い狭霧が助けを求めた相手は、物心ついた時から父の代わりをしてくれた青年だった。母が亡くなってからは、彼は父代わりだけでなく、母の代わりすら務めてくれた。


 でも――。それは、狭霧にとって遠い昔の思い出だ。


 母が亡くなったのは狭霧が十の齢の時で、悲しい晩のことを夢に見てうなされたのもその頃の話だ。


 母がもうこの世にいないということは、すでにわかっている。


 だから、しばらくそんな夢を見た覚えはなかった。それなのに――。


(どうしたんだろう、胸がどきどきする……落ちつこう。夢よ)


 ふいに蘇った幼い不安を宥めるついでに、狭霧はわずかに顎を傾けた。


 すると、狭霧ではない別の人のために広げられた寝床が目に入った。


 その寝床には、誰かが眠ったあとが残る掛け布があった。でも、そこに誰かの寝姿はない。寝床はからっぽだった。


 だから、狭霧は人を探した。そこに眠っていたはずの青年の姿を――。


高比古たかひこ……」


 身を起こした狭霧の目が真っ先に向かったのは、二人の寝床としてあてられた天幕の出口だ。


 天幕を形づくる堅布と堅布の隙間が、その天幕の出入り口になっていた。そこからはいま、薄ぼんやりとした外の光が滲んでいる。そしてそこには、天幕の堅布に背を向けて座る青年の背中が見えていた。


 名を呼びかけると、すぐに彼は気づいた。


 堅布の隙間から、狭霧が小さな頭をくぐらせて外へ顔を出すと、彼はすこし首を傾げて背後を見やった。


「起きたのか? まだ早いぞ」


 彼は、まだ早いから寝ていろといいたげな真顔をしている。


 だから、狭霧ははにかんだ。


「高比古こそ。わたしより早く目覚めていたくせに」


 高比古はとくに答えずに目を逸らして、ふたたび横顔を見せた。仕草は狭霧を無視したふうだが、そのぶっきらぼうな態度にも狭霧はくすくすと笑った。


 こういう不器用さが彼のいつも通りだということは、よく知っていたのだから。





 春とはいえ、明け方の風は冷たくて、二人の周りには白霧が溢れていた。


 その霧は、出雲軍の野営となった野を流れる川が生んだものだ。さらさらと流れる川の水面の上には、純白の真綿のように柔らかな霧の道が仕上がっていて、森と海へ向かって滔々と連なっている。


 その霧を野へ運んで、夜明け前の暗闇を白く薄めてしまったのは、朝の冷えた風の仕業だ。


 澄み渡った朝の風は、海の方角へ向かって吹いていた。


 そしてその風の行く手には、あかときの空が広がっていた。


 高比古がぼんやりと眺めていたものは、その薄暗い空だった。


「空、きれいね。天が澄んでいて、きらきら――宝玉みたい」


 東の方角から押し寄せる白い輝きに染まるたびに、それまでこの世を夜の世と呼ばせていた天の闇は、しだいに薄まって澄んでいく。


 真っ暗闇としか思わなかったものが、見る見るうちにその色を失っていく様を見るのは、何度同じ夜明けを見ても不思議だと、狭霧は息を飲んだ。


 そうか、こんなに夜の闇って透明で、澄んでいたんだ――。


 それはまるで、沖では深い青に見える海の水が、浜辺に向かうにつれて色を失って、透明になっていくのに似ていた。


 きらりと光をはらむ丸い水粒や、真珠じみた白い泡を弾けさせながら、波打ち際に打ち寄せる穏やかな波のように、明けゆく空は澄んでいた。


「空って、きれいで、とても広いね。こんなにきれいな天っていう宝玉の内側で、人はみんなで暮らしているんだね」


「天が、宝玉? それはまた、ばかでかい宝玉だな」


 馬鹿にしたような言葉だが、いい方はそうでもない。彼にとってはどうでもいいくだらない話だろうが、拒んでいるわけではなさそうだ。だから、狭霧はやり取りを続けることにした。


「なんだか、空って、毎日違うよね。昨日もその前の日も見たのに、見るたびにきれいだって思うの。毎日見ている空なのにね」


「毎日違う? そんなことない。変わらないよ」


「そうかな。だって――」


 眠りから覚めたばかりの空に似合うふうに、狭霧に応える高比古の声はぼんやりとしていた。でも、ゆっくりとした口調のわりに、答えはしっかりと返ってくる。


「おれがいったのは、昨日と今日の空が違うとか、さっきと今の空が違うとかじゃなくて、長い目で見ればって話だよ。春には春の空になるし、夏には夏の空になる。天気が良ければそういう空になるし、嵐が来る前ならそうとわかる空になるし。あぁ、そうか……」


 そこまでいうと、高比古はなにかに気づいたように狭霧へそっと目配せを送った。


「星読みはまだ習っていないのか?」


「星読み?」


 星読みというのは、太陽や月、星の動きを読んで、種まきや出航の時期を選んだり、物事を占ったりする術のことだ。と、そういうことは知っていたものの、狭霧はそれ以上詳しくなかった。それに、よく知らないその術を学ぼうと考えたこともなかった。


「あ、うん。まだ……」


 ぽかんとして答える狭霧に、高比古は小さく笑った。


「なら、余裕ができたら学べ。それも薬師の技だ。あんたは、薬師になるんだろ?」


「う、うん……」


 従順にうなずいてから、狭霧はおずおずと顔を上げた。


 高比古の目は夜明けの空を見つめるように戻っていたので、狭霧に横顔だけを見せていた。


 彼の淡々とした横顔を見ていると、狭霧の胸は寝覚めの気味悪さを思い出したようにどきどきと高鳴り出した。能天気にはしゃいで、空のきれいさをつらつらと語ったさっきの自分のことも、どうしても気に食わなくなった。


(高比古って、やっぱりすごい人なんだ。事代ことしろで薬師で、それから彦名様の名代を務める策士で……)


 胸には焦りのようなものが生まれていて、朝からそこにあった気味悪い部分を、ちくちくと小突いていた。


(星読みも薬師の技の一つなんだ。わたし、知らなかった。てっきり、全然違うものだって――。やっぱりわたしは、薬師としてはまだまだなんだ。知らなかったことが、また一つ増えちゃった……)


 焦りは焦りを呼んで、狭霧の目元を濡らした悲しい胸騒ぎまで、そこへ呼び寄せてしまった。


(どうしたんだろう。落ちつこう)


 息苦しがる胸を、夢だ、現実ではないといい聞かせながら、狭霧は救いを求めるようにも高比古の横顔を目で追っていた。


「あのね、高比古……」


 でも、狭霧はそれ以上続けられなかった。


「ううん、なんでもない」


 高比古は、一度ちらりと見やった。でも、口ごもった狭霧の言葉の続きをいちいち問いただすこともなく、高比古は視線を遠い夜明けの空へと戻してしまった。






 しだいに暗がりが薄れていく天のふもとで、しばらく続いた沈黙を押し破ったのは、やはり狭霧だった。


「ねえ。そういえば、心依姫ここよりひめと話はしないの? 事代や巫女の異形の力を使えば、高比古にならできるんじゃ……」


 狭霧が心配したのは、高比古と、彼に嫁いだばかりの異国の姫の仲だ。


「心依と、話? しないよ」


 悩むそぶりもなくいい切られると、狭霧の目の裏には、狭霧に望みを託すような幼い異国の姫の小さな顔が浮かび上がる。


『じゃあ。旅に出ている間、心依姫の姉様として、高比古を見張ってくるからね』


『はい……姉様』


 幼い顔つきをする年下の姫の寂しげな笑顔を思い出すと、狭霧は、ぶっきらぼうに断った高比古が、とても意地悪に感じてしまった。


(高比古には、それができるのに。出雲随一の力をもつ事代で、彦名(ひこな)様と自在に話ができる巫女だって従えているくせに――)


「どうして。『元気?』って一言いってあげるだけで、きっと喜ぶよ? 心依姫、つらい想いをしているよ? 異国に嫁いだのに、高比古が出雲を出ちゃって、寂しい想いを――」


 でも、高比古が折れることはなかった。


「あいつが心細い想いをしているのはわかってるよ。でも、なにもしないのはあいつのためだ」


「心依姫のため? どうして……」


「一度したら、続くだろう?」


「え?」


「一度でもおれがあいつに声をかけたら、あいつは次を待ち続けるだろう? ないものを待ち続けるよりは、ないものと思ってもらったほうがいい。だから、なにもしない」


「それは、そうだけど――そうだよね、ごめん」


 高比古がいうのは、たしかにその通りだと納得するしかない答えだった。


 当然といえば当然だが、高比古は狭霧よりも心依姫のことを考えていたに違いないのだ。でも――。


(じゃあ、待って寂しくなることがないようにって、毎日でも声を届けて、話してあげればいいのに。それじゃ駄目なのかな)


 やりきれなくなると、狭霧はふうと息をついてしまった。


「なんだか、心依姫にもうしわけないなあ」


「もうしわけない? なにが」


「わたしが高比古を説得できたら、心依姫を喜ばせられるのに」


「は?」


「だって、じゃあ、待つのが悲しくならないように、何度も話しかけてあげればいいのにって思っちゃって……」


 すると彼は、煙たいものを見るように狭霧を見た。


「やめろよ。悪いけど、おれにはいま、あいつのことを考える余裕がないんだよ。これ以上なにをいわれようが、厄介としか思わないだろうから、もう二度というな。あんたを鬱陶しく思うのは……なんだかいやだ」


 強く拒まれたことよりも、彼の態度に狭霧はいい負かされてしまった。急に狭霧から身構えた彼の気配は、他人を遠ざける小さな棘で覆われたように変わった、そんなふうにも感じた。


「……うん」


 渋々とうなずくと、狭霧は唇を閉じた。


 それから、うっすらと白みゆく朝の景色へ、狭霧も逃げるように目を向けた。






 しばらくすると、朝もやの底に誰かの足音が響いた。


 人も花も獣も虫も、まだ眠りと目覚めの狭間をさ迷ってまどろむ、早朝の世界――。狭霧と高比古が肩を並べてぼんやりとたたずむその世界は、とても静かだった。


 そのせいか、幻のようにぼやけて響く静かな足音も、霧の奥のずっと遠いところにあるというのに、たしかなものとして響いてくる。


 ぼんやりと耳を澄ます狭霧の隣りで、高比古ははっと首を伸ばして、海の方角を見つめた。仕草はまるで、足音の主すら見抜いたようだ。


 やがて、彼がじっと見つめるあたりの白い朝もやには、それまでなかった強い色が浮かび上がり始める。そこに現れたのは、鮮やかな朱の色。その色の裳をはき、純白の上衣を身につけ、出雲の巫女の身なりをした若い娘だった。――日女ひるめだ。


 出雲軍の野営となった野の草花を踏みしめながら静かにやってきた日女は、まっすぐに高比古の前へ向かい、立ち止まると、赤い唇をひらいた。


「高比古様。大国主が、話をと……」


 すぐに、高比古は立ちあがった。


「わかった」


 無駄のないやり取りは、日女がここにやってきて、それから狭霧の父、大国主に呼ばれることになると、はじめから知っていたようだ。――いや、絶対にそうだ、と狭霧は確信した。彼が、夜明け前から天幕を抜け出てここにいたのは、それを待っていたに違いないのだ、と。


 立ち去る間際に、高比古は日女へ鋭い目配せを送った。


「おれが戻るまで、ここに……狭霧のそばにいろ」


 それは、命令だ。


 日女は、ぞっとするような冷たい微笑を浮かべて、うなずいた。



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