序、裏切りの代償 (2)
日女の齢は、見た目からすると、十六か十七。狭霧と同じくらいだ。
彼女が身にまとうのは、手間をかけて何度も洗われた純白の上衣に、真朱の裳。大陸の女官がする化粧のように麗しい弧を描く眉は濃く、目尻にかけてすっと上がった目は鋭い。
目尻にある朱色の化粧や、朱で彩られた小さな唇。強い化粧に負けないほど、日女の顔立ちは凛と整っていたが、恐ろしいほど目が強かった。
高比古が去って、狭霧と二人きりになった後も、日女は唇の端を吊り上げて笑っていた。
にやりと笑われたまま、じっと凝視されるのが居心地悪くなって、狭霧は話しかけるついでに、日女の身綺麗な姿を褒めてみた。
「お、おはよう、いい天気ね。その……あなた、朝、早かったの? 髪もきれいに結ってるし、化粧も――。そういうのって時間がかかるんでしょう? わたしはそんなにしないから、わからないんだけど」
日女は、せせら笑うように肩をすくめた。忌々しげにつぶやいた。
「二人の寝床、高比古様とおまえが使う天幕か……ふん。――で、相手は高比古様にするのか?」
剣幕におされてひそかに後ずさりをした狭霧を、日女は脅迫するような軽蔑するような目つきで見据える。
「夫だよ。友国でののんびり穏やかな暮らしに、敵国での刺激的な暮らし。南国に、北の商国に、敵国まで、おまえが夫を選ぶなら、よりどりみどりだろう? それでも、出雲の王を選ぶのか?」
「わたしは高比古と、そんなんじゃ……」
日女は、
つまり、今も嫉妬されて、高比古に近づくなと警戒されているのだ。
そこまで気づくと、狭霧は肩を落とした。いま敵意混じりに責められていることは、すべて誤解だ。こんなふうにきつく責められるいわれなど、狭霧にはまったくないのだから。
「あのね、いっておくけど、高比古がわたしと一緒にいるのは、高比古がそうしたいからじゃないわよ。そう命じられているだけで……」
でも、そこで狭霧は口を閉じる。なんとなく、なにをいっても日女が気を変えることはない気がした。だから、自分のことではなくて、別の話で日女を諭すことにした。
「だいいち、高比古にはもう心依姫っていう奥方がいるのよ? わたしなんか……」
あなたがどういおうが、心依姫は高比古の妻と呼ばれる娘よ。
それにあの姫は高比古のことが大好きで、彼のいいところをしっかり見抜いているの。高比古だって、本当は心依姫のことを考えていて――。
そうして狭霧は、前に日女が「無意味だ」と馬鹿にした高比古と心依姫の仲を訴えてみた。
でも、日女は心依姫のことをやはり相手にしなかった。
鼻で笑った日女は白い顎を下げ、少し低くなった場所から、いっそう暗い目線で狭霧を睨み上げた。
「先に妻が何十人いようが、大国主と
日女がしたのは、狭霧がよく知らない話だった。
おまえの祖母の……と、話が祖母のことへ移ると、狭霧はぽかんと唇をあけてしまった。
「祖母? おばあさまのこと、知ってるの?」
狭霧の祖母とは、母、
でも、そういえば狭霧は、祖母の話をほとんど聞いたことがなかった。
なにしろ祖母は、母がまだ赤子の時に亡くなったという話だ。母、須勢理にすら思い出を残さなかった祖母の話を、狭霧が耳にすることはほとんどなかったのだ。
日女の小さな顔は、得意げにふふんと笑っていた。
「知っているさ。巫女だもの。哀れな
祖母の名は、櫛奈田。それは聞いたことがあった。でも――。
「哀れな櫛奈田? それって……」
「櫛奈田様は、巫女として須佐乃男様に奪われた娘さ。そして王の虜になり、ふふっ、命まで捧げた……」
くくっときつい笑い声を赤い唇からこぼす日女を、狭霧はじっと見つめるしかできなくなった。
押し黙る狭霧へ、日女はいささか高慢な笑みを浮かべた。
「いいか? おまえを一目置くのは、須佐乃男様と大国主にかしずく男たちだけじゃない。巫女もそうだ。おまえが特別なのは、武王と賢王に繋がる血のせいだけではなくて、おまえが女神に愛された娘だからだ」
「女神って……」
「出雲の女神は永遠を愛し、死を抱く。おまえを愛するあまり、おまえを死の世界に呼ぶだろうよ?」
「……死?」
禍々しい言葉と、来るべき日を
日女は赤い唇の端を上げ、にやりと笑った。
「そうだ、死だ。……怖いか?」
「それは……」
出雲の女神は永遠を愛し、死を抱く。
おまえを愛するあまり、おまえを死の世界に呼ぶだろう。
そんなことをいわれたら、誰だろうがいい気はしないだろう。
(怖いか、怖くないか? そりゃ、どちらかっていえば怖いわよ。っていうより、気味が悪いわ……)
日女がいった言葉を胸で繰り返すと、狭霧はきゅっと唇を結んだ。
(出雲の女神って、いったいなんなんだろう。この子のいい方だと、なんていうか、薄気味悪いものにしか感じないんだけど――)
口ごもる狭霧を、日女は満足そうに見つめていた。
「なぁ、興味がないだろう? だから、その役を私に譲れ。いいな?」
日女がいうのは、狭霧によくわからないことばかりだった。
「なんのこと?」
「高比古様に愛されて、おそばにいくのは構わない。でも、たとえそうなっても、おまえの母のようには巫女の真似事をするな。巫女は私だ。それは、私の役目だ」
「またそれ? 警戒し過ぎよ。わたしが、高比古に愛されるなんか」
「おまえの血筋がそうだからだ。おまえの母も祖母も、出雲の王のそばへいき、一番の寵妃になり、巫女として最期を遂げた。でも……高比古様の巫女は私だ。それは、私の役目だ。わかったな?」
慎重に念を押すと、日女は狭霧の目の前から脇へずれてすたすたと歩き、狭霧のそばで腰を下ろす。
高比古から命じられた通りに、彼に代わって狭霧の守り人の役を務める気でいるらしいが、つんと鼻を逸らして真正面を見つめる日女に、それ以上狭霧と目を合わせる気はなさそうだった。
「ほんとに、違うんだけどなあ……」
いわれのないことにぶつぶついわれるのが我慢ならなくて、狭霧はつぶやくしかなかった。でも、すぐそばにいるのだから聞こえているはずなのに、日女に気にするそぶりはなく、彼女はぴくりと瞳を動かすこともなかった。
たしかに日女がいうように、ここ数日、狭霧と高比古は寝食を共にするようになっていた。
それは、彼が狭霧の守り人の役を命じられたからだ。
そのせいで二人は同じ天幕を寝床として使い、食事も同じ時に同じ場所でとり、丸一日一緒に過ごさなければならなかった。
でも、狭霧と高比古とのあいだに、日女がいうような特別な関わりはなかったし、そういうものが生まれそうな気配もなかった。
狭霧の目から見ても、狭霧といる時の高比古は、彼が宗像で想っていた相手、リコという奴婢の娘と一緒にいた時や、その娘と同じ存在として扱おうとしているはずの彼の妻、心依姫といる時とはいくらか違った。
彼は狭霧を、主から預かった、決して傷をつけてはいけない唯一無二の宝としか見ていないはずだ。
それは狭霧も同じで、高比古のことは、自分の守り人の役をいいつけられた友人としか感じない。
(友人……? わたしの友達なのかな、高比古って)
彼とは、日女が嫉妬する特別な関係どころか、友人と呼べるほど親しいのかどうかをまず怪しむくらいの、さして深くもない仲だ。
でも、四六時中一緒にいることになった相手が、恋しい相手でも大嫌いな相手でもなかったのは、意外にもとても楽だった。
恋心も嫌悪も抱いていないから、もっとそばへいきたいとか、少しでも遠ざかりたいとか、よく見られたいとか、恥ずかしい失敗を見せたくないとか、一緒にいることでなにかを想うことがほとんどなかった。
だから、自然と息ができたし、肩肘を張らずにのびのびと過ごすことができる。高比古は狭霧にとって、一緒にいて疲れない相手だった。
でも、そこまで思うと、狭霧は高比古のことが心配になった。
(わたしはそれでよくても、高比古が違ったら可哀そうね。……いいや、じゃあ、今度聞いてみよう)
大国主の居場所へ向かった高比古が、狭霧のもとへ戻ってきたのは、それからしばらくしてからだった。
緑の野に立ちこめる白霧の中をゆっくりと歩んで近づいてくる高比古に気づくと、狭霧は顔を上げた。
(よかった、帰ってきた。これでやっと気まずい場所から抜け出せる……)
隣りに座っているものの、お喋りをするでもなく虚空をにらみ続ける日女をちらりと見やりながらそう思って、狭霧はほっと安堵の息を吐きかけた。でも、高比古の顔が目に入るなり、その安堵はまたたく間に消えていく。
高比古は、もともと表情が乏しい彼らしく、いつも通りの真顔をしていた。
でも、いまの彼の目はぞっとするほど冷たくて、その顔にあるのがいつもと変わらない真顔だとしても、別人のように見えていた。
そして、彼の足が向いたのは狭霧のほうではなく、日女のもとだった。
白霧に浮かび上がった高比古の影に気づいた時から、日女はすでに立ちあがっていた。
日女の目の前で足を止めると、高比古は淡々といった。
「日女、来い。沙汰がおりた。始めていいそうだ」
凍てつく冬風のような高比古の厳しい眼差しを浴びても、日女の強い微笑は崩れない。高比古がいったようななにかが起きると、はじめから知っていた顔を日女はしていた。
「兵が寝入っているうちに終わらせる。支度は済んでいるか。調子は?」
「高比古様のお手を取らせていただければ、力は冴えましょう」
「おれの手?」
暗に、自分と手を繋げといった日女に、高比古は怪訝顔をする。でも、いまに限って、彼もいつものように力ずくで跳ね除けるような真似はしなかった。
「……本当だろうな」
「私がお仕えすると契った相手はあなたです、高比古様。私の神はあなた」
「……」
渋々というふうだったが、高比古は片腕を浮かせると、日女の手元へ向かって差し出した。
中空に差し出された手のひらへ視線を落とすと、日女は満足そうに笑う。そして、そこへみずからの華奢な手のひらを重ねて、ゆっくりとまぶたを閉じた。
「……ふふっ」
赤い唇からは笑い声が漏れるが、それもとても冷えている。
いわれるままに手のひらを差し出した高比古と同じく、日女の様子もいつもとは違っていて、恋しい相手に触れようと高比古を追いかけまわしているような印象は、いまの日女になかった。
高比古の手のひらを両手で包みながら、日女はそっとつぶやいた。その声は、年頃の娘が口にするような華やかなものとは、まるでかけ離れていた。
「……声が聴こえる。女神の声が。その者を殺せ、殺せと……」
ぞくり。狭霧は息を飲むが、高比古は態度を変えない。
「たしかか?」
「ええ。女神は男王に背く者がお嫌いだ。女神が求めるのは、
「急いだほうがいいか。逃げるすべをもっているか?」
「いえ、いま去ろうとすれば怪しまれるだけ。留まるべきか、去るべきかと迷っているのでしょう。……いきましょう。この気配をたどれば、その者のもとへたどりつけましょう。……女神が怒っている。裏切り者に報復をせよと、殺せ、と」
「報復? でも、大国主は殺すなと。彦名様も……」
「
日女は、ゆっくりとまぶたをあけていく。
彼女が見つめる先は、高比古の目だけだ。高比古も、日女から目を逸らすことはなかった。
「いけるか?」
「ええ。このままお手を。あなたに触れていれば、私の力は冴える」
「わかった」
手を取り合ったままで高比古が一歩を踏み出すと、うっすらと暗い笑みを浮かべた日女も同じように足を進める。甘えた様子は日女にいっさいなく、重ね合わせた高比古の手から、本当に不可思議な力を得ているふうだった。
そうやって手を取り合ったまま、二人の背中が白霧へ向かって進んでいくのは、ぞくりと胸が凍るような妖しい光景だった。
少し離れた場所まで進んでから高比古は一度振り返って、ここへ戻ってきてから初めて狭霧を向いて、目を合わせた。
「狭霧、天幕の中にいろ。おれが戻るまで、ここを動くな」
「う、うん……」
なにか、恐ろしいことが始まるんだ――。
不思議な力を持つ、事代という術師の筆頭である高比古と、巫女の日女が共に手をたずさえて始めるなにかが――。
そのまま狭霧は、白霧の狭間へ消えていく二人の影から目を離すことができなかった。
そして、その日。狭霧は噂を聞いた。
武王の護衛軍の中に、大和と通じていた裏切り者がいたらしい。
その者は追放されたらしいが、その前に神殿に閉じ込められ、巫女の手で服従の契りをさせられたらしい。
今後、出雲に背いた瞬間に身体の半分を失う契りを。つまり、呪いだ。
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