大地を描く指先 (1)


 狭霧を高比古に預けようと決めたのは、安曇あずみらしい。


 彼の天幕でしばらく寝泊まりしていた狭霧を外へ連れ出し、高比古のもとへ連れていった安曇は、二人の前でこういった。


「仕方ないだろう? これから一番の暇人ひまじんになるのは、高比古、おまえなんだから」


「ひ、暇人……だと?」


 あっさり侮辱されると、高比古はのけぞった。でも、それも無理はなかった。


 高比古は出雲王の名代、策士という役についている。


 国を出ることが難しい彼の主、東の王の代わりに戦へついていき、王の全権を預かって行使するのが彼の役目だ。


 不服そうに眉をひそめた高比古へ、安曇はのんびりと説明をした。


「これから我々が向かう先は、阿多あたの都。南筑紫に栄える隼人はやとの一族が治める国で、我々は友朋ともがらになる話をしにいくだけで、戦をしにいくわけではないんだ。策士とは戦についていくものだろう? つまり、今回の旅でおまえにはなんの役目もないということだ」


「ふざけるな! 大和や、大和側の国や里の動向をちくいち見張って様子を知らせろと、おれは彦名ひこな様からじきじきに――!」


「それくらい、おまえなら片手間にできるだろうが?」


「か、片手間……だと?」


「だいたいおまえは真面目すぎるんだよ。今回の旅は、須佐乃男すさのお様がおまえに与えた休みだと思ったほうがいいんじゃないのか? というわけで、おまえには新しい役目を与える。狭霧のそばに始終ついて、無事に出雲まで戻すこと。わかったな」


「おれが、こいつのそばに始終ついて、だと……? 狭霧の守り人ってことか!」


 高比古は、鉄面のような無表情をぐしゃりと歪めて抗った。でも、安曇は穏やかな笑顔で高比古の不満を撫でるだけ。


「おまえしかいないんだよ。大和の術師が、またどこかで狭霧を狙ったらどうする? こうなった以上、狭霧に守り人をつけるしかないが、術師の存在を考えれば、狭霧の守り人には術師……出雲の事代ことしろが要る。だが、術者ではなくて武人に襲われる可能性も考えると、武人も要る。刺客との力の差を考えると、狙われた時にそうと知らせる見張り役も一人はおくべきだ。すると、狭霧を守るには事代が二人と、武人が二人、計四人が必要になる。だが、事代でも武人でもあるおまえなら、一人で済む。そしておまえは、ここにいる誰より暇だ」


「なんだと……」


 高比古はまだ文句をいったが、それ以上いい返すすべはなかった。


 声にならない声で唸る高比古へ、安曇は最後のとどめとばかりに芝居ぶって尋ねた。


「なら、策士としておまえに尋ねる。先日、狭霧は賊に浚われて、大和へ連れていかれそうになった。いま、狭霧を守る役をおく必要はあるか、ないか?」


「……それは、もちろん、ある」


「では、大和の術師が関わってきたいま、守り人にするのは武人だけで済むか?」


「……いや、事代も要る」


「では、何人要る? 誰がふさわしい?」


「……もういい。わかったよ! あんたのいうとおりだ。おれだよ。おれがやればいいんだろう!」


 まんまと高比古を手の上で転がしてみせた安曇は、にこりと笑って次の段取りへと話を移した。


「ありがとう。助かるよ。というわけで、おまえたち二人に天幕を用意した。今から出雲に戻るまで、狭霧の身は高比古に預ける。誰かの指一本触れさせないように、しっかり守れよ? いっておくが、指一本触れさせるなというのは、もちろんおまえの指も含めてだからな?」


「冗談だろ? おれに、そいつに手を出すような気は……!」


「ああ、わかってる。おまえが真面目な若者で実に助かるよ。では、頼んだよ」


 笑顔で釘をさした安曇は、話をまとめてしまった。


 それで、その日から狭霧と高比古は、夜は同じ天幕を使って寝泊りをして、昼間は同じ場所にいて、ともに過ごすことになったのだ。





 

 出雲軍が次の目的地、阿多の都へ向けて出港する日を迎えたのは、狭霧と高比古が同じ天幕で寝起きし始めてから四日後のことだった。


 その前の日に、水先案内役の使者が阿多からやってきたのだ。


「いやあ、お待たせしてすみません。なにせ、来るのに三十日もかかりまして」


 南の海から、出雲軍を案内するために北上してきたという阿多族の船乗りはすっかり日に焼けていて、顔も身体も黒くなっていた。


 豪快に笑いながら、阿多からの使者は出雲軍をせっついた。


「では、いきましょう。よかったですねえ、みなさん、ついてますよ? いま、海風は阿多に向かって吹いています。我々が苦労したぶん、きっと出雲の船は早く着きますよ。たぶん、二十日もあれば……」


 出航を迎えたその日も、狭霧は大人しく高比古のそばにいた。


 そして、近くで出雲の船乗りと問答をする使者の声が耳に届くと、小さく息を吐いた。


「二十日かあ……」


 二十日もあればと喜んでいるからには、使者はかなり順調な航海を見込んでいるらしい。


 とはいえ、二十日――。それだけ長いあいだ狭い船の上に閉じ込められて、海を見続ける暮らしを送るかと思うと、気が滅入ってしまうものだ。


 ひそかに肩を落としていると、少し離れた場所から呼び声がした。


「こっちだ、狭霧。早くしろ」


 そこにいるのは、出雲風の身なりをする青年だ。耳のそばで角髪みづらに結った黒髪や、飾り気のない白の衣装に、黄の染め紐で飾られたくつ。笹の葉を彷彿とさせるふうに彼の目は涼しげで、ともすれば娘にも化けられそうなほど、肌の色は白い。そして彼には、不思議と気高い雰囲気があった。


 青年の名は、高比古。狭霧の守り人の役を仰せつかった人だった。


 渋々その役目を引き受けた彼に手間をかけさせないようにと、狭霧は従順に彼に付き添っていた。勝手に彼のそばを離れることはなかったし、彼に面倒な想いをさせてはいけないと、そばにいても用がなければ話しかけることもなかった。


 でもいま、ぼんやりとしているあいだに高比古は狭霧に先だって歩き始めていた。出航の支度が済んだという知らせでも受けたのか、彼は船に乗り込む気でいるらしい。


「ご、ごめんなさい」


 慌てて高比古の後を追うと、狭霧も、荷担ぎの兵や見送りの農夫たちなど、人で賑わう港を横切る。


 そうして二人で目指したのは、遠賀の港につけられた中でも一番の巨大さを誇る大船だった。帆柱には、ひときわ大きな軍旗がはためいている。船団でもっとも立派な軍旗を掲げるその船は、狭霧の父であり、軍国出雲の武王である、大国主(おおくにぬし)が乗る船だ。


 近づいていくと、その大船は渚にそびえる小島のように見えていた。


 船縁には、砂浜と甲板を行き来するための戸板が立てかけられていたが、それを伝って昇り、甲板へ降り立つと、その船の大きさに面食らう。人の手で造られたとはにわかには信じがたいほど、大きな船だった。


 その船は、狭霧が遠賀へ向かう時に下位の薬師として乗り込んだ小船とはかけ離れて広く、甲板はまるで広場のようだ。ほかの小船といえば、一本の丸太をくりぬいた丸木船を少し膨らませた程度の大きさしかなかった。そこに十人以上が乗り込むので、自分が腰を下ろすだけの狭い隙間しか与えられず、船上で自由に身動きをする余裕などなかった。


 それなのに、武王のための大船には、用事を済ませようと歩きまわっている人が何人もいた。武王の居場所なのか、屋根のついた東屋あずまやすら、その大船はいただいていた。


 突っ立ったまま動かなくなった狭霧を、高比古は冷静に追い立てる。


「なにをそんなに驚いてるんだ? 宗像にいく時にあんたが乗った船も、これとたいして変わらないだろ。ほら、そんなところで立ち止まるな。後続の邪魔になる」


 甲板に降り立った高比古は、東屋や、早朝の空へ向かってそびえたつ帆柱のそばを通りぬけ、奥――船尾のあたりを目指す。


 それからしばらくして、船の上が慌ただしくなる。


 漕ぎ手を任された兵たちが続々と乗りこんでくると、彼らは各自の持ち場へつき、海へと伸びる長い櫂を握る。


 出航の支度が済んでも、帆はたたまれたままだった。


 きっとしばらくは、風ではなくて、漕ぎ手たちが櫂を漕ぐ力に任せるしかない航海になるのだろう。


 やがて、漕ぎ手の指揮役を任された兵が大声をあげ、太鼓を鳴らした。


「いくぞー、櫂を用意! せーい!」


 その兵が力強く叩いた太鼓の音は、ドン……ドン……と、同じ速さで勇ましく響いていく。船上を吹く海風に乗ってわずかにそよぐその音は、漕ぎ手たちが手を動かすための合図らしい。太鼓の拍子に合わせて漕ぎ手たちが櫂を操ると、ぎぎ……と重い音を立てながら船が動きはじめる。


 そして、武王の大船を囲んだ船団は、遠賀の岸をゆっくりと離れた。


「沖へ出る。左方向へ進路をとる。左側の漕ぎ手、手をやめ! せーい!」


 ドン……ドン……と、櫂の操り方を示して鳴らされ続ける太鼓の音。


 船はじわじわと動き、大船から見える浜辺の景色はしだいに遠のいていった。


 そして――。ついに出雲の武王を乗せた大船は、筑紫の大島の周りを進む海道に入った。






 ざざ……さ……潮騒の中で、勇壮な太鼓の音はたゆむことなく流れていく。


 二十日も船の上かと残念に思ったものの、慌ただしい船上の様子を見ていると、のんびりできる者などほんの一握りなのだということを狭霧は思い知った。


 見回してみても、優雅に波をかき分ける大船の上にいて、力仕事に手を貸すこともなくのんびりとしているのは、父の従者など、ほんの数人だけだった。


 それで狭霧も、出航してからというもの、自分に用意された腰かけに座ったまま、ぴくりとも姿勢を崩すことができなかった。


 それに気づいたのか、ある時高比古は笑った。


「まだ先は長いよ? すこしは肩の力を抜いたらどうだ」


「う、うん……でも、なんだかもうしわけなくて。だって、みんな力いっぱい働いているのに――」


「人それぞれだ。あんただって、あんたにしかできない仕事に追われる日がいまに来るさ。休んでいれば?」


 狭霧に休息をうながす高比古は床に座り、腰かけを背もたれ代わりにして片膝を抱えている。


 見本を示すように楽な姿勢をとる彼に倣って、狭霧は身体からくたりと力を抜いてみた。でも、耳や目は、忙しなく腕を動かす漕ぎ手や、帆柱やかじ取り棒の周りをうろつく船乗りたちを気にしてしまった。


(むりよ、気にしないで休むなんか……) 


 肩を落とした狭霧は、隣りで床にしゃがみ込む高比古をそっと覗きこんだ。彼はいまや、居眠りでもするようにまぶたを閉じていた。


「高比古、起きてる……?」


「あぁ、起きてるよ」


 目を閉じてはいたが、眠っているわけではなかったらしい。


 声をかけられるとわずかに姿勢を変えて、彼は狭霧を見上げた。


「なんだ?」


「その……高比古は、なにもすることがないの?」


「おれ?」


「出雲から遠賀に向かう時は、忙しそうにしてたじゃない。事代を大船に集めて話をしたりしていたんでしょう? 紫蘭しらん桧扇来ひおうぎが、あなたに呼ばれたって慌てていたのを見たんだけど――」


「ああ、あの時はね。いまはなにもないよ。なにせおれは、ここにいる連中のなかでは一番の暇人だからな」


 ぼそり、と彼は恨みを吐くようにつぶやいた。


 彼がいうのは、安曇がいった言葉だ。


『どうせ暇だろ?』


 にこやかに笑った安曇は、その言葉を切り札として、狭霧の守り人という役目を高比古に与えてしまったのだから。


 すねたようにつぶやく高比古に、狭霧はぷっと吹き出してしまった。なんでもないような真顔をしているくせに、わりと気にしているらしい。


「本当に暇なの?」


「ああ。おかげで、策士としても事代としても、すべての役目を免れた。全力であんたを守れとさ」


 いかにも不本意といいたげだが、どうやら本当に彼は、狭霧の守り人という役目に徹するように命じられてしまったらしい。


 ふてぶてしく横顔を向ける高比古にはにかみつつ、狭霧は彼へ頼みごとをしてみることにした。


「あの、もしも本当に高比古にすることがないなら、お願いがあるんだけど」


「ああ、なんだ」


「その、薬師のことを教えてくれないかな。前にいっていたでしょ? 星読みのこととか……わたし、まだ知らないことがたくさんあるの。だから、今のうちにすこしでもと思って――」


 熱心に頼みながら、狭霧は内心どきどきと胸を鳴らせていた。


 以前、狭霧を支配していた「出雲の姫にならなくちゃ――」という想いは、いくらか胸から薄れていた。


 それは、想い続けた幼馴染への想いが少しずつ薄まっていったせいでもあった。


 ……あなたの姿をこんなお守りに代えて、あなたと引き換えに選んだ道だもの。立ち止まってなんかいられないわ。


 なかば脅迫されるようにして、かつて狭霧の手や足は彼への想いによって動かされていたようなものだった。でも――それは、ある事件を境に消えいってしまった。


 高比古は、狭霧をとらえていた想いが消えたことに「平気だよ。これでいいんだ」と安堵したが、それが本当に彼がいうように呪いじみたものだったとしても、自分を突き動かし続けた力が薄れたのは、狭霧は不安でたまらなかった。


 いくべき道だけは見えた気がしたのに、その道を進み始めてほんの少したったところで、急に足が止まった気分だ。


 まだどこにも辿りつけていないというのに急に動けなくなって、途方に暮れているような――。早く進まなくちゃ、足を動かさなくちゃ――。そんなふうに、狭霧は結局毎日焦っていた。


 だから狭霧は、高比古に渋面をされるのを承知で頼みこんだ。少しでも足の動かし方を思い出したい、少しでも先へ進みたいという一心で――。


 控えめないい方をしながらも、「お願い……」と真摯に見つめる狭霧の視線に、高比古は目を丸くした。それから彼は、抱え込んだ片膝を下ろしてあぐらをかくと、小さく笑った。


 よけいな手間をかけさせるなと不機嫌になるのも覚悟していたが、意外にも高比古の反応はよかった。だから狭霧は、ほっと息を吐く。


 でも、微笑を浮かべた彼がしたのは承諾ではなかった。


「あんたが、星読み? まだ早いな」


「……う」


 せっかくやる気になっていたのに。気力をごっそり削いでいくような苦言に、狭霧はがくりと肩を落とす。


 でも、狭霧を見上げる高比古の目はまだ笑っている。彼は、二人の頬を撫でていく春の海風に似合うふうに、爽やかな笑みを浮かべていた。


「星の読み方より先に、出雲の外の国々のことを教えてやるよ。あんたは先にそっちを覚えたほうがいい。前ので懲りてるはずだろ? よくわからないまま、また誰かに浚われでもしたら、おおごとだろ?」


 高比古がしたのは拒絶ではなくて、新しい提案だった。しかもそれは、狭霧の奥にくすぶっていた不安にふしぎとそぐうものだった。


 わたしは、なにもわかっていない――。


 結局、出雲の姫にも、薬師にもなれていない――。


 焦りを抱える狭霧にとって、彼が先に覚えるべきだといったことは、たしかに、まずはじめにしなければいけないことに違いなかった。


 狭霧は目を輝かせて、二つ返事で返した。


「うん、ありがとう!」







 一度席を立った高比古は、舷の隅から小さな器を手にして戻ってきた。


 取っ手のついた木の器で、船の中に入った海の水を外へ掻き出すのに使うものだが、いまに限って高比古は別の使い方をした。


 少しひらけた場所を探すと、その木床を囲んで二人で腰を下ろす。それから彼は、器の中に指先を浸して、溜まっていた潮水で木床に線を描いていった。


 線はまっすぐではなくて、ところどころで曲がったり歪んだりしている。と、思って眺めているうちにも、狭霧が見つめる先で、線はなにかの形をかたどるようにぐにゃりと曲がった。


(これは……?)


 高比古が始めたことに追いつこうと、狭霧は木床をなぞる彼の指先を懸命に追った。


 線をたどり終えた高比古の指先は、木床を一度離れると、すこしあいだをあけてまた別の形を描く。その周りにも、小さな円や、歪んだ楕円や――。


 のどかに揺れる船の床の上に、海から汲みあげた青波の滴で描かれていく絵柄を見ているうちに、狭霧はふっと気が遠くなった気がした。彼がそこにしたためるものを見ているうちに、身体がふらりと天高く舞い上がって、はるか天上から眼下を見つめている気分になった。


 それはきっと、彼が描くものが、狭霧の想像通りだったからだ。


「高比古、これって……」


 狭霧が声を震わせても、高比古は手仕事をやめない。


 休むことなく床の上に指先を器用に這わせて、彼は船の床に壮大な絵図を描いてみせた。


「絵地図だよ。右の端が出雲で、左側が筑紫の大島。それからここが、いまおれたちが進んでいる海道」


 高比古の指が描いたものは、出雲の浜から西へと続く海岸線……大地の姿だった。それだけではなく、絵地図を描き終えた彼の指は、出雲の船団が進んだ海の道までを急ごしらえの絵地図に加えていく。


「右の端が出雲で、出雲を出たおれたちはいま、このあたりにいる。遠賀(おんが)だ。遠賀があるのは、出雲がある敷島と、筑紫の島のちょうど接するあたり。この海を北へいくと、宗像むなかたの都がある島がある。前にいった場所だ。わかるよな?」


 高比古は絵地図を指して説明するが、そのたびに狭霧の目や耳には、海の道を渡った時に海上で感じた風や、潮の香り、波しぶきや、陸の方角から届いた海鳥の喧騒が、じわじわと蘇った。


「うん、宗像……わかる」


「ああ。いまおれたちが目指しているのは、この地図でいうと左下の隅、出雲からみて南西の方角だ。筑紫島は南に広がっているから、おれたちが目指す場所……阿多はけっこう遠くにあるらしい。まあ、これくらいかなぁ」


 目分量ではかるように、彼の指先は描かれた南の大島の左下あたり、ぎりぎりの位置に都に見立てた丸い印を描いた。


「それから、こし……宗像であんたが会った北の商国の若王がいただろう?」


「越の三の王の、真浪まなみ様?」


「ああ、そうだ。あいつの国がある場所は出雲の東の先だ。……越は、あんたが描け」


「え?」


「あんたのほうが近い。おれは手が届かないから、あんたが続きを描け。出雲がある海から、岸を横へ伸ばせばいいだけだ」


 高比古はそんなふうにいって、狭霧に潮水の入った器を押し付けてしまう。


 そういうわけで、いわれるままに器を受け取った狭霧も、絵地図を仕上げる手伝いをすることになった。


 見よう見まねで高比古の真似をした狭霧は、指先を海の水に浸して、彼が描いた絵地図を右側……東の方角へ向かって広げていった。


 出雲の右、東側へと海岸線を伸ばしていく狭霧に、高比古は注文をつけた。


「陸の線は、だんだん上に向かって曲げていけ。……ああ、そんなもんでいい」


 迷いなく力強い線を描いた高比古と違って、狭霧が恐る恐ると付け加えていった線は、自信なさげにぐにゃりと揺れていた。でも、高比古が線の拙さに文句をいうことはなく、狭霧が右上へ向かって線を伸ばし終えると、線の内側に一つずつ印をつけていった。


「越の都はこのあたり。その手前、越と出雲のあいだに、出雲の外港がある」


「出雲の、外港?」


「飛び地になっているが、出雲の領土くにだ」


「と、飛び地……?」


「異国を挟んで向こうにあるから地続きじゃないが、出雲領の浜里があるって意味だ。巻向まきむくへいくときに、あんたも寄っただろ? あの港だ。そこから山側に入ると、大きな湖がある」


 そこまでいうと、ふたたび潮水に指先を浸した高比古は、彼が描いた大地の真ん中あたりに大きな囲いを描いていく。いま彼がいった「大きな湖」らしい。


「これが、淡海あわうみ。内陸にあって、北と南の海を繋ぐ水の道だ。このそばにあるのが、巻向の都。それから――その下、南にあるのが、大和やまと


 出雲からはじまり、そこから武王に従って移動してきた海の道と、中継地である遠賀。


 それから、旅の目的地である阿多の都。


 以前訪れたことのある島の都、宗像に、巻向。そして、目下の敵国、大和――。


 高比古の指先は、船の床につくりあげた即席の地図に的確に印をつけていく。


 迷うそぶりも見せずに淡々と指先を動かして、高比古はたんなる薄汚れた床だった場所に見事に絵地図をつくってしまったが、それを目の前で見ていた狭霧は、胸の高鳴りをおさえきれなかった。


 彼の指先が木床に触れるたびに、そこに大地が仕上がっていく気がした。西から南、北から南へと四方に続く、広大な大地が――。


 感動して目を輝かせた狭霧は、声を震わせた。


「すごい……なにも見ないで、こんな絵地図が描けるなんて……! あなたの頭の中には、こんなに大きな地図がつまってるの?」


 でも、高比古は真顔を貫くだけ。彼はわずかに首を傾げた。


「地図がつまってるっていうか――。大事なものだから、一度見れば覚えるっていうか」


 彼がいうのは、狭霧にとって少々気が遠くなる話だった。


「一度見ただけなの? これを?」


 こんなものを、たった一度で? まさか――。ふつうの人にできることじゃない!


 彼との頭の出来の差を嘆くように、狭霧は喚きたくなった。


 でも、狭霧もその時、なんでもない船の床の上に高比古が描き上げた壮大な絵地図から目が離せずにいた。


 それから、感動混じりに思った。


(わたしも、同じかもしれない。この絵を――大地と海がなすこの形を、わたしも一生忘れないかもしれない……)


 たった一度目にしただけで、一生の宝にできそうな大事なものを、狭霧は彼からもらった気がした。


「そうかも、しれない……きっと忘れられないね」


 狭霧は眩しいものを見るように目を細めたが、それを高比古はせっついた。


「いちいち忘れられちゃ困るんだよ。水で描いた絵なんだから、どうせすぐに消えるんだし。じゃあ、乾く前に早速始めるぞ。まず、国の位置と名を覚えろ。出雲からはじめようか。いいか? 目立った土地の名は、出雲から西へ向かって順に、長門ながと、遠賀、倭奴わぬ、宗像、それから――」


 さっそく高比古は師匠ぶって話をはじめたが、少々強引な手ほどきは、狭霧をほっと落ちつかせた。


 新しいことが始まった――。


 そう思うと、やたらと爽快な気分もこみ上げる。


 どこかで聞いたはずだが、いまだにどこのことかよくわからない名前なら、狭霧にはたくさんあった。例えば、越や、倭奴、諏訪すわ瀬戸せと、それから阿多に、大和、大陸――。


(国の名前か。頑張って覚えなくちゃ。少しずつ、少しずつ、またはじめていこう)


 海風が撫でるごとに乾いて、少しずつ薄れていく水の絵地図のあちこちを手早く指し示しながら、高比古の早口はそれぞれの国の成り立ちを告げる。


 ぴくりとも笑わない高比古の真顔をちらりと見やると狭霧は微笑んで、彼の声にじっと耳を澄ませた。そして、新しいことの始まりに喜ぶ胸の高鳴りを嬉しく思った。




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