若き王子の髪飾り (2)



 仮宿となった舘は狭く、全員が寝そべって夜を明かせるほどでない。


 折り重なって眠ればどうにかなるだろうが、かつての出雲王とその孫娘である姫に、そのように狭苦しい思いをさせるわけにもいかない。


 宴に飽きると、須佐乃男すさのおは、従者たちを館から追い出した。いや、老王は孫娘を気にしたのだ。


「嫁入り前の姫の寝姿を拝めると思うなよ? さっさと出ていけ、さあ」


「そんな、おじいさま! 旅についていくって決めたからには、わたしはそんなこと気にしないわよ。今のは嘘です。みなさん、館を使ってください」


 祖父の横柄な態度を取り繕うように、狭霧さぎりは懸命に引きとめたが、ぞろぞろと館を出ていく従者たちは微笑を浮かべるだけだ。


「いいんですよ、狭霧様。おやすみなさい」


 なかでも、先陣を切って館を出た高比古たかひこは振り返ることもなかった。


 出雲の策士として何度となく戦の旅に出た高比古にとって、土の上で眠ることにはなんの抵抗もない。爺様と孫娘の甘ったるいやり取りのそばに一晩中いなければならないくらいなら、立ったままで寝ろといわれても、迷わずそっちを選ぶだろう。


 高床の館のそばを陣取ってむしろを敷き、寝転がると、さっそく目を閉じる。でも、その日に限って、高比古はうまく寝つけなかった。


 頭の中には、奇妙な戸惑いと脅えが渦巻いていた。


(おれが、姫を娶る?)


 どんな娘だろうが、女に対して、そばに近づきたいとか、そんなふうに思った覚えは高比古にない。むしろ、邪魔だ。鬱陶しい。


 知らずのうちに唇を噛んだ高比古の目の裏に映ったのは、狭霧という名の姫の顔だった。見ているだけで腹が立つ、能天気な笑顔だ。


 狭霧は、出雲という大国の武王と、伝説的な王妃の一子として生まれ、そのうえ、祖父は賢王、須佐乃男。


『力あるものが上に立つ。出雲に血の色は無用』


 力の掟が支配する出雲では、血筋の良さなど意味を持たないはずなのに、狭霧の極上過ぎる血筋には、その掟も通用しない。


 狭霧は、出雲の誰からも姫と呼ばれて、かしずかれる。身分に甘えて何度も馬鹿げたことをしでかして、何不自由なく暮らしているくせに、それでも不満があるらしい。


 一度、こんなことがあった。


 寂しい夜の浜辺で、狭霧は、高比古の前ですすり泣いた。


『いいすぎよ。わたしだって、好きでとうさまみたいな偉い人の娘に生まれたわけじゃないわ。わたしだって……』


 その、誰もが羨む極上の血筋に生れついたのは自分のせいではないと、狭霧は生まれを恨むようにそういったが――。その時ほど、かっと頭に血がのぼったことは、高比古になかった。


 精霊や死霊と自在に話ができるという妙な力を生まれ持った高比古は、親からも忌み嫌われて、幼い頃から、村の外れにつくられた冷たい岩の祠に、半ば繋がれて育った。


 その夜の狭霧の泣き顔を思い出すと、身体をくまなく流れる血潮が熱くなり、勢いよくほとばしって、頭に血を上らせる。


 ……おれにいったい何をしろと? 

 ……このおれに、あんたの見事な暮らしを、可哀そうだと慰めろと?


(くそ野郎が。あぁ、腹が立つ)


 思い出した怒りに任せて、高比古は思い切り寝がえりを打った。


 無邪気さという、責めるに責められない盾をふりかざして身を守りつつ、無遠慮に人を傷つけてくる能天気な姫。高比古にとって狭霧は、そういう世間知らずの無知な娘だ。


(おれ、焦ってる? ……落ち着け)


 むしろを為す干し草の網目を爪でぎりっと引っ掻いて、どうにか胸を宥めた。


 高比古は、その姫のことが嫌いだった。でも、少し前に出雲で起きた処刑騒ぎの後、苛立ちは少しおさまって、狭霧と隣り合って過ごすことも苦痛ではなくなった。


 それは、極上の血筋を持つ者の哀れな一面を知ったせいだが、また、血筋とやらの存在を思い知ったせいでもあった。


 無邪気であること。そして、幼い頃から、大国主や須勢理すせり安曇あずみなど、出雲の核を成す人々に囲まれて育っていること。それは自然と、王者の雰囲気を持つ人をつくりあげるものらしい。狭霧は、高比古が二度と手に入れることができないものを、たしかに身に備えていた。


(……いや。そうじゃない)


 もう一度、高比古はごろりと寝返りを打った。


 須佐乃男の命令に従って、宗像むなかたで姫を娶ったら――。


 自分の中にはわずかたりとも存在しない王族の血脈を、そばに従えたら、もしかしたら……。今は何も持っていなくとも、狭霧と同じところまで昇ることができるかもしれない。


 そうやって力をそばに繋ぎとめるのが出雲のやり方で、須佐乃男も大国主も、そのやり方にのっとって、力ある豪族から次から次へと姫を娶ったという。


 大国主に従って、出雲人として生きると決めたからには、そうすることになんの迷いもないはずなのに、心は戸惑った。


 娘を自分の妃としてそばに置くというのは、それほど、高比古にとって想像もつかないことだった。





 いっときは眠れたようだが、まだ空が暗いうちに目を覚ました。


 あれこれと思い悩んだまま眠ってしまったせいで、うまく片づけきれなかった迷いごとが、今でも頭の中に散乱している。それは、ひどく気味が悪い。


(……起きよう)


 頭の中を覆う霞を晴らしてやろうと、一気に身を起こした。


 散歩がてらに、昨晩も訪れた潟湖のほとりへ向かうことにした。


 時はまだ、夜と朝の狭間。夜の間、館の前の土を照らしていた焚き火は消え果て、今、周りにあるともし火は、一つとして見当たらなかった。しかし、天の端には朝が来ている。東の果ての山際には、暗闇に黄色い光が混じっていた。朝の先駆けのその光は、暗闇の中で、まばゆいほど明るく見える。


 砂浜へ向かおうとしていたものの、高比古は思わず光の方角を向き、光のまばゆさをじっと見つめる。その時――。ふと、高比古は下の方に違和感を覚えた。


(何か、ある)


 不思議なものを感じたのは、数歩先のあたりだった。腰をかがめて、足元を探した。そっと砂を掻くと、わずかに砂をかぶった飾りのようなものに指先が触れた。


 砂を払って、目の高さに掲げてみる。それは、草色と紫色をしていて、染め布を組み合わせた髪飾りの一部に見えた。


(これ、どこかで……)


 作りは出雲風で、年若い男の髪を飾るもののようだ。作りの上等さからいって、かなり身分の高い人に捧げられるものに見えた。


 目が懐かしがるので見入るが、とくに見覚えはない。


 それに、懐かしいとはいっても、目が覚えているわけではなさそうだ。高比古が懐かしいと感じるのは、髪飾りに残る気配だった。


(なんだ、この……優しい、柔らかい感じ)


 髪飾りに見入っていると、背後に物音を聞きつけた。


 須佐乃男と狭霧が休む舘の方角だが、振り返ると、その戸口を覆う薦布をくぐって飛び出した小さな人影がある。それは滑り落ちるようにして階段を下り、足をもつれさせるようにして駆けてきた。


 身なりから娘だとわかる。狭霧だ。


 薄暗い天のもとで一人ぽつりと立っていた高比古に気づいた狭霧は、まっすぐに駆け寄ってくるが、その表情は歪んでいて、目からは、今にも大粒の涙が落ちそうだ。狭霧は、びくりとして足を竦ませた高比古の緊張した顔より、高比古の手にあるものを見つめて、「あっ」と声をあげた。


 無我夢中という風にやってきた狭霧は、今さっき掘り起こしたばかりの髪飾りを、目を潤ませて見つめている。


「よかった、失くしたかと思って……!」


 それで、その飾りがなんなのかを悟った。きっとそれは、先日処刑された伊邪那いさなの王子の髪を飾っていたものだ。


「あんたのお守り? 伊邪那の、あの王子が遺した……」


 髪飾りを乗せた手のひらを差し出してやると、手の上の髪飾りを奪い取るように、狭霧はさっと手を伸ばした。そうかと思えば、砂のついた髪飾りを頬に寄せてうつむき、か細い肩を震わせた。


「よかった、あった、よかった……」


 うずくまった狭霧は、息をこらえるようにして泣いていた。泣いた姿を誰にも気づかせたくないとでもいうふうで、ひっくひっくと嗚咽こそ漏れ聞こえていたが、泣き声はなかった。


(そりゃ、そうだよな……。あんなに想っていた相手が、目の前で死んだんだ)


 その髪飾りの持ち主、伊邪那の王子がこの世から消えてからの狭霧は、落ち着いているように見えていた。


 高比古は、そういうものだと気にならなかったが、目の前で静かに泣きじゃくる狭霧の姿は、いやにしっくりと目に馴染んだ。


(これまでは、気丈にふるまっていただけか。薬師になるといったり、宗像へいく旅についていくといい出したりしたのは)


 それは、そうだよな。幼馴染の想い人が死んだのだ。


 そう思うと、今までろくに気遣いもしなかった自分が、間抜けに思えた。


(悪かったよ――)


 砂地に片膝をついて狭霧と目の高さを合わせると、謝るようにも震える肩に手のひらを添えた。


「平気か」


「……うん、ごめん」


 声をかけられると、狭霧はじわじわと顔を上げていく。頬を流れる涙を袖先で拭き去り、何度か浅く息をして、呼吸を整えた。


 狭霧は、無理に平静を装おうとしていた。それに気づくと、眉をひそめた。


「どうして旅についてきたんだ? 心の傷が癒えるまで、好きなふうに過ごせばよかったのに」


 狭霧はうつむいたままでしばらく黙ったが、ある時顔を上げて、高比古をそっと見つめた。


「心の傷を癒す薬はないって、あなたは前にいったわ」


「……そうだが」


「ついてきちゃったのは、ごめんなさい。あなたやみんなには邪魔になると思ったけれど、どうしても何かしていたくて、動いていたくて」


 高比古は、胸でつぶやいていた。


(前と違う)


 狭霧は、どちらかといえば幼い顔立ちをしている。でも、その姿こそ前と同じだが、仕草や物言いは、別人のようだと思った。急の変貌におびえて、高比古がつい尻込みするほどだった。


「邪魔だなんて思ってないよ。須佐乃男は上機嫌だし、主がああだと一行も安堵するし」


 つい慰めの言葉をかけていたが、そんな風に他人を気遣う言葉を吐くのは、えらく気味が悪かった。


 居心地が悪くて、さっと目を逸らした高比古を見上げて、狭霧はきょとんとした。狭霧も、不思議なものを慈しむように苦笑した。


「そうだね、ありがとう。……輝矢かぐやが死んじゃったのは、もうわかってるんだけど、まだそばにいる気がするんだ。この髪飾りに、まだあの子が残っている気がして……。でも、そんなこと、ないよね。こんなものを持っていたって、あの子がそばにいるわけがないのに」


「……うん」


 狭霧が大事そうに握り締める飾りを、ちらりと見下ろした。


 狭霧が自嘲していったように、その髪飾りに、狭霧を守る霊らしきものはいない。でも、力のようなものは残っていた。夜明けの砂地で、高比古の足を呼び寄せた、不思議な気配だ。


「でも、あんたを守ろうとするものは、ちゃんとそこにいるよ。優しくて、柔らかいものだ。大事にしてやればいいよ。あいつも、きっと喜ぶ」


 狭霧は、泣き笑いをするように頬に山をつくった。


「……ありがとう」


 そんなふうに礼をいわれるのも、安心しきったような笑顔を向けられるのも、高比古は慣れていない。


 慰めるように狭霧の肩に置いていた手のひらが、ふいに華奢な肩の形を感じ取るので、たちまち恥ずかしくなり、手をひっこめた。


「礼をいわれるほどのことじゃない」


 狭霧の表情は、穏やかな笑顔に戻っていた。その表情は、船旅の間、しばらく高比古が見てきたのと同じものだった。


「でも……早く、どうにかしなくちゃね。こんなものを持っていたら、わたしは、誰のところにも嫁ぎにいけないもの」


 高比古は、目をしばたかせた。


「嫁ぎたいのか?」


「そういうわけじゃないけど……。わたしの嫁ぎ先は大事でしょう? その、身分に驕っているわけじゃなくて、とうさまとおじいさまの血を引いているって意味では、ね? あなただって、宗像で姫を娶るんでしょう?」


 高比古はぽかんと口をあけた。


「聞いたのか?」


「おじいさまが、誰かとそれっぽいことを話してて、それで、なんとなく……」


 高比古はますます驚いた。


 そこにいるのは、かつて能天気だと鬱陶しがっていた姫君だが、前とは別人を相手にしている気になった。


(……勘も良くなってる)


 狭霧の変わり様を訝しがるような、喜ぶような。奇妙な感覚に任せて、つい本音を話した。


「あんたは、何もいわれてないだろう? おれは男だから、これからもそういう話が出るかもしれないが、あんたが嫁ぐ相手は一人だけだから……たぶん、切り札扱いにされてぎりぎりまで取っておかれるさ」


 昨晩、自分を嗤った須佐乃男の笑顔が脳裏にちらつくのを打ち消しつつ、高比古は、正直に思うままを伝えた。


「好きなように生きろよ。今は、誰かに嫁ぐ気なんかないだろう?」


 狭霧が丁寧に手にする髪飾りを見やっていうと、狭霧は、野花が咲いたようにほうっと口元をほころばせた。


「そうなの。実は、あなたがお妃を娶るって話を聞いて、ちょっと不安になっていたの。わたしも、もしかしたらそのうち、急に旦那様を決められてしまうのかなあって。ありがとう、ほっとした」


 狭霧は、そばで膝をつく高比古をまっすぐに見つめた。


「あなた、感じが変わったね。とても優しくなった」


「……べつに」


(あんたに、おれの何がわかる?)


 なぜだか腹が立つので、高比古はそこで話を終わらせた。


 しかし、少し前からそうだったが、狭霧は、高比古が不遜な態度をとっても物怖じしない。不機嫌に黙っても、そばでくすくすと可憐な笑い声をあげる。笑顔からは、たしかに不安のようなものが薄らいでいた。


 まだ虫の居所は悪かったが、高比古は、胸の奥底でほんの少し喜んだ。


(こいつを慰められたのなら、よかった)


 少し前なら、誰かを慰めるという芸当などできなかったはずだ。


 狭霧が変わったように、自分も少し変わったのだ。そう思うのは、少々くすぐったい気分だった。


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