若き王子の髪飾り (3)
待ち望んだ風が吹いたのは、さらに一晩を過ごした後の朝だった。
「今です、船を出します!」
風の番をしていた男が仮宿に駆け込んできたのは、まだ夜が明けきらない早朝だった。一行は眠りこんでいるところを起こされたが、待ちに待った知らせに、顔は揃って明るかった。
積み荷は船に置いたままだったので、片づけるべき荷物らしいものはない。寝床にしていた土の上からぞろぞろと起き上がると、一行は、主である
須佐乃男が一行に姿を現したのは、それからすぐのことだった。戸口にかかった薦をよけて早朝の風を吸った須佐乃男は、白んだ空を見上げて笑った。
「なるほど、よどみもなくまっすぐに流れる、よい風だ」
船が繋がれたのは、潟湖につくられた港だ。
上陸して風を待った高比古たちとは別に、船には、船番として人足が残っていたが、彼らは先に起こされていたようで、船はすでに出航の支度を終えていた。
須佐乃男を先頭にして高比古や狭霧たち、陸で休むことを許された面々が船の前までやってくると、船頭の男が朗らかに声をかけた。
「おはようございます、須佐乃男様。いつでも出られますよ!」
「そのようだな。で、話をつけていた地元の潮見役は?」
「彼です。このあたりじゃ一番の腕ききとかで。名は……」
舳先に足をかけていた船頭が告げる前に、威勢のいい大声で須佐乃男へ名乗った若者がいた。
「
凪咲と名乗った若者は、船から砂浜に飛び降りてくると、須佐乃男の足元で平伏した。
足元でかしずく青年を見下ろして、須佐乃男は苦笑した。
「一番の腕ききとは、若いのになかなかだな。わかった、頼むよ、凪咲」
おそらく血気盛んな若者が我こそは一番だと吹聴しただけで、実際はそうではないだろう。須佐乃男の口調はからかい混じりだったが、ぱっと顔を上げた凪咲の目は、輝いた。
「は、はい……! 命をかけて!」
その様子を、高比古は須佐乃男の背後から見ていた。
(ひとこと交わしただけで、よくもまあ、命をかけるなどと……)
凪咲という船乗りは、須佐乃男という近隣諸国へ名を馳せた王からじきじきに声をかけられて、すっかり舞い上がっているように見えた。
「どうぞ、船へ……! 夢みたいです。おれみたいに小さな村で生まれたやつが、出雲の旗をつけた船の舳先に立てるなんて!」
飛びあがるように立ち上がって一歩踏み出した凪咲は、船の上ではためく黄色の軍旗を振り仰ぎ、感嘆の息を漏らした。
「すごいなあ……! この旗を見れば、海の悪党だろうが震えあがって、船を襲うような真似はしませんよ。よっぽど世の中のことを知らない若造でなければ」
最後、凪咲は調子よく笑ったが、須佐乃男の背後にいた高比古は、冷ややかなため息をつかずにはいられなかった。
「そういう世の中のことを知らない馬鹿が一番恐ろしいと思うがな。なにをするか予測がつかない」
たちまち凪咲は、顔を赤くして賛同した。
「そ、そうですね。すみません、ばかみたいなことをいって」
高比古と、そこではしゃぐ凪咲は、あまり年が違わないように見えた。年がそう変わらないのに、かたや高比古は、清らかな白布で仕立てられた袴と上衣を身につけ、綾織の帯で留め、玉飾りのついた剣を佩き、黄色の染め紐で彩られた
高比古を、凪咲は、まぶしいものを見るように見つめた。
「あなたは、須佐乃男様の御子様? それとも、どこかの豪族の――?」
凪咲は、上物の衣装に身を包む高比古を、高貴な血が流れるどこぞの子息と思ったらしい。
高比古は、ひそかに憤った。高比古の出自は、凪咲がいう貴いものとは真逆だったからだ。親はすでになく、故郷の村も滅ぼされている。豪族の血どころか、出雲の血の一滴すら、高比古は身に備えていなかった。
「無駄口を叩くな。仕事をしろ」
不機嫌にいって睨みつけると、凪咲はぴゅっと背を向けて逃げ去った。
「す、すみませんでした、ただいまぁ!」
情けなく遠ざかっていく凪咲の背中を見送って息を整えていると、ふと、妙な視線を感じる。高比古はその視線のもとを探して振り返るが、自分を見つめるその目と目を合わせても、その人は目を逸らさなかった。奇妙な笑みを浮かべて高比古を見ていたのは、老王、須佐乃男だった。
(なんですか?)
じろじろ見られていることに腹が立って、高比古は視線で訴えるが、須佐乃男はくくっと嗤うだけで答えない。そして――。
「さあ、風の機嫌がいいうちに、さっさと出よう」
颯爽と一歩を踏み出すと、凪咲や船頭たちをけしかけるようにして、船へと向かった。
出航の時が来た。
潟湖から海へ繋がる水道を通って海原へ出てしまうと、凪咲はさっそく舳先を陣取った。縄のついた土製の道具を海の底に放って、垂らした縄を手繰り寄せて――。その道具で、凪咲は水の深さを測っていた。
「進路、このまま! 風向きよし!」
海の道を探りつつ進路を示す凪咲に導かれて、船は青波を越えていく。
出雲を出て以来、岸から離れてしまわないようにと、船はずっと陸地の山影を追って進んできたが、舳先はいまや外洋を目指して、白波をいただく荒海へ向かって舵を取る。
海の底が遠くなり、海の青色は、これまで以上に濃く澄み渡る。
波も高くなり、それを越えようとする船の揺れも大きくなった。
「この先は風だけで進みます。櫂を片づけてください。しばらく揺れます! 須佐乃男様、姫様がた、縁に近づかないでください!」
凪咲は、声を張り上げて船縁にいることの危うさを伝えるが、高比古はそれに従う気になれなかった。
船縁に手をつけたままで、足を踏みしめて立った。
荒波を乗り越えるたびに船は波を割り、海水をかぶる。ずぶ濡れになるのを覚悟で、高比古は海道の果てを見据えた。今に現れるだろう島影と、そこまでの道のりを、わずかたりとも見逃すまい、忘れまい、と――。
揺れに怯える
「さ、狭霧様~! 危ないです、こちらへ!」
振り返ると、船の中央あたりでは、髪を振り乱した事代たちと狭霧が、帆柱のそばに建つ屋根付きの倉にしがみついていた。中には、出雲から運んできた土産の品がしまわれている。
(見られてる……? やっぱり)
咄嗟に高比古は目を逸らして、船の行く手へと顔を戻した。
少し前から高比古をじっと見つめる奇妙な視線は、途切れることがなかった。須佐乃男だった。
老王は孫娘のそばで、孫娘の小さな身体を守るように細い肩を抱いていた。そして、振り返った高比古と目が合うと、にやっと笑った。
(さっきから? いや……。出雲を出てから、ずっとそうだ)
出雲を出てからずっと、高比古は、須佐乃男から見張られ続けている気分だった。
……休ませんぞ、いっときたりとも。
老王の眼差しには、そういう脅しを感じることもあった。
(気のせいだ。いや……気にしたら負けだ。いつもどおりにやればいい)
戸惑いを振り切ると、高比古は、船が切り分けていく紺碧の波の果てを見つめた。
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