一夜の喧嘩 (1)
「見えました!
舳先に立つ
「本当か? どこだ?」
報せを受けても、見えるのは青海原ばかり。須佐乃男の従者たちは、しきりに船縁から身を乗り出した。
しかし、船出からずっと船縁にたたずんでいた高比古は、凪咲から到着を知らされても表情を変えなかった。凪咲がそれを口にする前から、島が近づいていると知っていたからだ。
『いらっしゃい、こっちよ』
海上に浮かぶ土の在りかを知らせたのは、船の上の高比古に気づいた海風だった。
西の海の果てを吹く風は、出雲の風と比べると、いくらか異質だ。でも、どこでも風は、変わらず高比古に優しい。
(ありがとう)
胸のなかで微笑むと、目に見えないほど細かな霧状の波しぶきをはらんだ海風は、高比古に微笑むように白い頬を撫でていった。
やがて、目を凝らさなくても見えるほど目当ての島は近づき、船が向かいゆく港の様子も明らかになっていく。
港には大型船もちらほらと見え、丁寧に砂浜へ上げられている船もあった。よほどの長居を覚悟してのことか、藤壺など、海の生き物に船底が蝕まれるのを避けているのだ。
「立派な船だなあ! いったいどこの……?」
舳先に立つ凪咲が、砂浜に上げられた帆船の木組みにしげしげと見入っている。凪咲に教えたのは、出雲の船頭だった。
「なんだ、坊主、知らねえのか?
(越?)
その国の名も場所も、高比古は知っている。その越という国が、出雲と頻繁にやり取りをする随一の友好国だということもだ。
「ん、あれは――」
ふと、高比古の背後にいた
老王の視線の先を追うと、港の上にそびえ立つ岩場の上に至った。そこには人が二人ばかり立っていて、出雲の帆船の入港に気づいたのか、須佐乃男へ向かって白い袖を振っている。
挨拶を終えると、須佐乃男は、同じように岩場の上を振り仰ぐ高比古に教えた。
「越の国の王族だよ」
「越の?」
「おそらく、三の王家の跡取りだ」
「三の王家?」
「ああ。越には三つの王家がある。ほとんど同じ一族だがな」
簡単に説明をすると、須佐乃男は、高比古に笑った。
「狭い島だ。会えば、そのうち向こうから話しかけてくるさ。越はお喋り好きだからな」
須佐乃男は、笑顔を浮かべている。でも、目の向こうでは笑っていない気がする。それどころか、やじりの切っ先のような鋭い眼差しで高比古を意地悪く小突き、反応を窺うようで――。須佐乃男の笑顔を見ていると、奇妙な思惑が見え隠れしているようで仕方がなかった。
(なんだ、いったい)
高比古はもはや、須佐乃男のどの仕草が本物なのかがわからなくなっていた。
(なにをいいたい?)
じっと見つめて訴えても、そういう時には、すでに須佐乃男は目を逸らしている。
(……んだよ、もう)
ふうと息を吐き、それ以上追及するのを諦めるように、しだいに迫りくる砂浜へと目を戻した。
宗像の都は、高比古が思っていた以上に色とりどりで、華やかだった。
あちこちの国から、この島を人が訪れていることを示すように、船着き場に繋がれる船の形はさまざまだった。船の形が違うのと同じく、上陸してからというもの、すれ違う人の格好も、どれも違っている。
目に眩しい、鮮やかな染めをほどこされた絹の服を海風になびかせて通り過ぎるのは、おそらく大陸の人。もしくは、
上半身をむき出しにして、蛇文様で彩られた布を身に巻きつけている一行もいた。身なりはそれと似ているが、髪型や、身にまとう布の文様がわずかに異なる一行もいた。
こうして、さまざまな衣装を身にまとう人々に囲まれてみると、見慣れた出雲服も、それなりに特殊だった。出雲服はほとんどが白一色で、文様や飾りもほとんどなく、素朴な印象がある。色や文様でわざわざ身を飾ることをしないという意味では、出雲の衣服も、珍しいといえば珍しいといえた。
船を下りると、須佐乃男は、高比古と狭霧、そしてもう一人、
須佐乃男について小道をたどりつつ、高比古は胸の中で反芻した。
(宗像の主、名は
それは、大陸へ渡る航路を取り仕切る一族の長の名だ。そして、高比古が娶れと言われた娘の祖父の名でもある。
しかし、そのことを思い出すだけで、高比古の足は重くなった。
宗像の一族は、海の番人ともいわれる。このあたりの島は、倭国から大陸へ渡る際には必ず寄らなければいけない海の要所だ。いわばここは、大陸へ向かう海の関所なのだ。そして、宗像という一族は、その重要な海域を支配している。
婚姻という形であれ、出雲が宗像と繋がりをもつのは重要だ。それはよくわかる。しかし――。
(娘を娶る? おれが? ――もう、なんとでもなれだ)
吹っ切るように、高比古は腿の傍に垂らした拳を、ぐっと握り締めた。
(娘を一人、出雲へ連れて帰るだけだ。妻問いをしろというならしてやるよ。――命令どおりに)
そして、目の前に迫っていた王宮の門を、一息のあいだに潜り抜けた。一行の足は、筒乃雄の宮殿の入り口にさしかかっていた。
宗像の王宮は、大屋根がいくつもそびえ立つ出雲の王宮とは、かなり雰囲気が違っていた。床を高い位置にしつらえた高床の大舘はなく、どの建物も、背が低い。首長である筒乃雄の居場所として案内された館も、床は、土の上に木の板を渡しただけだ。だが、広さはかなりのものだ。
宗像の侍従に案内された館の入り口から奥を覗くと、広々とした大広間があった。広すぎて、奥の壁際にいる人の顔がろくに見えないほどだった。
その舘は、色布が垂れていたり、珍しい形の壺や高杯がそこかしこに置かれていたり、どこも華やかに飾られていたが、奥の壁際あたりは特に贅沢なものが並んでいた。壁は、金糸入りの色鮮やかな織り布で飾られ、床も一面が毛織の敷物で覆われている。壁掛けの布を背に、優美な獣をかたどった脇月に腕を預けて座る、身体の細い老人がいた。
(きっと、あいつが宗像の主、筒乃雄だ)
老人は、館の入口に現れた高比古たちの姿を見つけると、機嫌よく腕を掲げて、大声を出した。
「ようやく来よったか、出雲の古狸め! こっちじゃ、こっち!」
出雲の古狸と老人が呼んだのは、須佐乃男のことらしい。
聞くなり、高比古は胸の中で吹き出した。
(いえてる。ものすごい古狸だよ、この爺様は)
これまでの復讐も兼ねて、胸の中で賛同したが、いつのまにか顔にも出ていたらしい。
目ざとく振り返ると、須佐乃男は苦笑した。
「顔がにやけとる。笑うならせめて隠れて笑え、高比古」
「え?」
たしなめられるまで、自分がにやけていることに気づかなかった。居心地悪く目を逸らしたが、反逆するようにも、からかい文句で返した。
「すみません。あまりにも似合いの文句だったので」
須佐乃男は豪快に笑い飛ばした。
「それだけ威勢がよければ、さぞかし鍛え甲斐があろうな」
「……え?」
「なんでもない、聞き流せ。……おお、久しぶりだな、宗像の古狸!」
高比古との会話を終わらせると、須佐乃男は、行く手でにやりと笑って待ち受ける筒乃雄のもとへ向かって、大股で歩き出した。
「さあ来い、こっちじゃ、狸ご一行」
須佐乃男と筒乃雄は、古くからの顔馴染みのようだった。
筒乃雄の真正面へと行き着くと、筒乃雄が座す敷物の端に須佐乃男が座し、高比古と狭霧、そして、須佐乃男の従者、矢雲は、須佐乃男の背後に腰を下ろす。
出雲からやってきた一行がすべて腰を据えると、筒乃雄と須佐乃男が話を始める。二人の挨拶は、互いに古狸と呼び合うだけあって、どれも判じ物じみていた。
「ようこそ、海の道へ。……で? 土産話を聞かせい。伊邪那が滅びたという話を聞いた。日の出の方角では、いったいなにが起きておるのだ。――大和の動きは?」
「なんとも。動きがないとの知らせを受けているが、動きがないのか、動きが見えないのかは、なんともわからん。なにしろ、かの国の主は女だ。わしら出雲者は、女心に疎くてな」
「よくいうわい! 女に弄ばれているのなら、これまで散々女を利用してきた罰があたったのだ」
「そうはいっても、いい女は宝だ。宝に目がくらめば、手に入れようとするのが男だろう?」
「宝なあ。して……
「さあて、得るならわしは女がいい。女でないなら……ほかにくれてやればいい」
やり取りは、いつか須佐乃男が口にした男同士の下世話な話といえる。でも、単なる戯言の応酬でないことは、決して目を逸らそうとせず、挑みかけるような気配をまとって話を続ける二人の王の姿からわかった。
今も、須佐乃男の言葉に筒乃雄は息を飲み、目を見開いて慎重に尋ねた。
「ほかにくれてやるだと? ――それは、出雲の意思か?」
「ああ、そうだ。――で、女のほうは? 宗像の宝は、いただけるのだろうか?」
そこまで話が及ぶと、筒乃雄は、皺にうずもれて細くなった目に奇妙な力を宿して、須佐乃男の背後をじろりと見た。
品定めをするような目つきで筒乃雄が舐めるように見つめたのは、高比古と、高比古の隣に座るもう一人の青年、矢雲の顔だった。
「どっちだ、相手は?」
間違いなく、二人の王の話題は、筒乃雄の孫娘のことに移っている。
須佐乃男と筒乃雄、いや、出雲と宗像の間で、筒乃雄の孫娘を出雲へ嫁がせるという話は、ほとんどまとまっていたのだろう。筒乃雄が気にしたのは、孫娘を嫁がせるかどうかではなく、夫となる男が何者かということだけだった。
(それって、おれだよな――。応えなきゃ……)
いつの間にか、場は、高比古が妻問いをするべき状況に移っている。
とはいえ、高比古は、答えるのに躊躇した。それは突然すぎたし、それに、自分を見定める筒乃雄の目が、宝の品定めをするようで気味悪かった。それに、須佐乃男と筒乃雄という二人の会話に、みずから口を出す勇気が湧かなかった。
結局、筒乃雄に応えたのは、須佐乃男だった。
背後を振り返って、老王は、緊張で真顔を張り付かせた高比古を軽く顎でさした。
「こっちだ。名は高比古。
「彦名か。あいつは好かん。生きているのか死んでいるのか、ようわからん男だ」
「うまいいい方だな。だがご存じのとおり、あれは生きている」
「ああ、そうだな。生きて、見事に出雲を操って」
筒乃雄は、孫娘の相手を見極めようとしているはずだが、一度高比古の顔を見たきりで、高比古に話しかけることはおろか、それ以上は目配せもしなかった。筒乃雄が問いただす相手は、須佐乃男だけだった。
「この若者を、彦名の跡取りとおぬしは認めたのだな?」
「わしにそのような裁量はない。すでに位を退いた老いぼれ爺だ」
「よくいう……! では、彦名は?
「あの二人は、この者以外にいないと声を揃えておる」
「……ふ、む」
筒乃雄は、口元にたくわえた白ひげの中で唇を閉じると、何度か舌で唇を湿らせた。
考え事をめぐらせるような仕草だが、筒乃雄が逐一目を光らせる相手は須佐乃男であって、高比古ではなかった。
ある時、くくっと吹き出すと、筒乃雄はやれやれとばかりに額を振った。
「出雲の大狸みずからが、わざわざ連れ添ってやってきたのだ。それなりの若者だろう。わかった。くれてやる」
「嬉しい限りだ。高比古、礼を」
そこまで話が進んではじめて、高比古は二人の老王から眼差しを受けた。その婚姻の当事者だというのに。
妻問いをしろというのならしてやるさ。そう覚悟したものの、その出番を与えられることすら、高比古にはなかった。
妻を娶れと命じられた瞬間から、
でも、身体は自然と動いた。手のひらを敷物につけ、恭しい仕草で深々と頭を下げる。
(もう逃げられない。渦に飲み込まれるしかない)
婚姻の許しを与えた宗像の老王に頭を下げながら、懸命に胸を宥めた。
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