一夜の喧嘩 (2)
広大な王の間は、そのまま宴の場へと変わった。
「かたいこというな! 出雲から老王がみずからやってきたのだ。従者も船乗りも、みんな館へ入れてやれ!」
でも、不幸なことになったと嘆く者もいた。
「あ、あの。私たちはその……こういう華やかな場が苦手で、ねええ?」
「すみません、お酒も飲めないのです……。え? 呪術のためかって? いいえ、その……たんに飲めないのです。隅っこでおとなしくしています。暗くてのりが悪くて、その、すみません……!」
宗像についてきたのは、
華やかな場に馴染むことができず、招かれたものの場違いな染みになったように、たしかに二人の存在は浮いて見えた。壁際で身を寄せ合っていた二人は、人々が酒に酔い始めると、今のうちにとばかりに、そそくさと王の広間を後にした。
「わ、私たちは宴には不向きですから……!」
「晴れの宴に、妖しいものの気が移るといけませんから……!」
裾の長い着物を引きずって逃げるように出ていった紫蘭と桧扇来の後姿を、高比古はうらやましげに見送った。
(どうにかいって、おれも連れていけよ)
高比古も、宴が苦手なのだ。主を追き去りにして逃げた部下の気の利かなさを嘆いて、遠ざかりゆく後姿を眺めて、ため息を漏らす。
黙っていると、いつの間にか隣に宗像の若い娘がぴったりと寄り添っていた。そうかと思えば、高比古が手にする盃に酒を注いでくる。
「どうぞ、出雲の策士様!」
「ど、どうも……」
紫蘭たちのように、高比古は酒が飲めないわけではなかった。だが、華やかな場は性に合わないのだ。
上座では、筒乃雄と
宗像の娘たちはそれぞれ櫛やら鏡やら小さな壺やらを手にしていて、狭霧の髪を宗像風に結いあげていた。
さっきから、きゃあきゃあと甲高い声で騒いでいるとは思っていたが、ある時、娘たちの高い声は、夜闇をつんざくように大きくなる。狭霧の髪が、結い上がったのだ。
「きゃあ、すてきすてき!」
「そ、そう……?」
恥ずかしがる狭霧を、宗像の娘たちは口々に褒めそやした。
「この結い方は、大陸の姫君の髪を真似たものなんですよ。あなたの顔立ちには、このほうが似合うわ!」
「宗像は
娘たちの大はしゃぎに、そばで酒をかっ食らっていた須佐乃男が笑顔を向けた。
「出雲だろうが宗像だろうが、娘たちが集うと実に華やかなものだな。どれどれ……」
孫娘の顔を覗き込んだ須佐乃男は、ひときわ上機嫌に笑いだした。
「いいぞいいぞ。いきなりべっぴんになった」
「え、本当? 似合ってる?」
「ああ、よく似合う。帰ったら出雲の娘たちに結い方を教えてやれ。美女が増えるわい。気分が乗ったぞ。ぜひ一曲……」
孫娘の変貌を喜んで頬を緩ませた須佐乃男は、片膝を立てて、立ち上がる支度をしている。それを見るなり、高比古は表情をこわばらせていった。
(待てよ。一曲って、まさか……あの?)
いつだったか、さしてうまくもない即興の歌を自信満々に披露していた須佐乃男の姿を思い出すと、高比古は背に冷や汗を感じた。
だが、事態は心配どおりに進んでいく。
宴の輪から一歩内側へ入った須佐乃男は、両手を振り上げて大声で歌い始めた。
「宗像の娘と出雲の娘。妻問いするならどちらにすべきか~。どちらも美しく、決めかねる、あーらよいよい」
やはり、うまい歌というわけではない。高比古はうつむくと、こめかみを押さえた。
(おいおいおい、爺さん……)
出雲の老王、須佐乃男の下手な歌に文句をいえる従者がいるわけがない。奔放に舞い踊る主の姿に苦笑を浮かべつつも、人々は、懸命に手拍子を打って場を盛り上げた。
いや、文句をいえる人が一人だけいた。
「相も変わらず、下手な歌を」
筒乃雄だった。いまやその宗像の老王は、腹を抱えて笑い転げている。
(下手な歌だと?)
宴の場の戯言だろうが、出雲の賢王と呼ばれる旅の主、須佐乃男を貶められたと思うなり、高比古は憤った。しかし、高比古の怒りはすぐにおさまり、それどころか、再びうつむいて頭を抱えることになる。
宗像の老王、筒乃雄も、細い膝を立てて立ち上がった。そうかと思えば、我もと人の輪の内側へ入っていって、須佐乃男のそばで骨ばった両腕を振り上げ、陽気に踊り始めた。
「嫁にするなら宗像の娘だ。出雲の娘は気が強い。尻に敷かれて男はたまらん。あ~こりゃこりゃ」
さきほどの須佐乃男の歌に続けた即興の歌なのだろうが。筒乃雄の歌声も、やはりうまいというほどではなかった。
(頭が痛い――。なんなんだ、この爺様たち……)
腹芸ともいうべきやり取りを目の前で見せつけられた時には、この二人の老王に度肝を抜かれたと思った。しかし、宴の場で、また違ったふうに驚かされるとは。
高比古はうなだれたが、衆目を集めて愉快げに舞い踊る老王二人の足踏みは、ますます大きくなる。
いつの間にか、歌合戦が始まったらしい。筒乃雄に応えて、次は須佐乃男が歌った。
「男を敷くほど、尻は大きなほうがいい。子供は丈夫で、出雲はゆくゆく安泰じゃー」
「色好みの出雲男め。そこらじゅうから娘を集めてなんとする?」
「ではこうしよう。出雲の娘は宗像へ、宗像の娘は出雲へ♪」
「それは名案、これでお互い安泰じゃ~♪」
芝居がかった身振りと文句でつづられた歌がそこまでいきつくと、歌合戦を見守るような手拍子が響く広間には、どっと笑いが起きた。
だが、高比古は笑いきれない。
(いったいなにが可笑しいんだ。さっきの緊張を返せ)
しかし、広間を笑いで満たした老王二人は満足げだった。
満面の笑みをたたえて肩をたたき合うと、盃を探して、もとの席へと戻っていく。
「これでこそ古狸だ。さあ、飲もう」
「ああ、飲もう」
ひとたび一丸となった盛り上がりを見せた広間の空気は、熱い。この場に集うそれぞれが宴に酔って、めいめいの話し相手と陽気に笑い合っている。
抜け出すなら今だと高比古は思った。ここにいても無駄だ、と。
「失礼、酒に酔いました」
隣であぐらをかく須佐乃男の従者、
見咎められないようにしたつもりだったが、上座に座る二人の老王は、場を立ち去ろうとした高比古を目ざとく見つけた。高比古の背中は、老王たちの声を聞きつけた。
「須佐乃男、彼はどうした?」
「ああ、奴なら……実は、人見知りが激しい」
訊ねた筒乃雄に応えた須佐乃男のいい方は、茶々を入れるようだった。酒の席に似合うように、筒乃雄も冗談で返した。
「人見知りが激しい次期出雲王か、それはいい!」
……当たっているだけに、腹が立つ。
聞こえないふりをして、そのまま館を後にした。しかし、外に出て、夜闇のもと、行く手の土の上に小さな石が転がっているのを見つけると、思い切り蹴り飛ばした。
寝床として充てられたのは、王宮の外れにある小さな小屋だ。
足を伸ばして寝転がれる広さの寝床があり、寝床の部分には木板が敷かれていたが、ほかは土がむき出しのまま。土間に木製の寝床をつくっただけの、簡素なつくりだ。
周囲には、似たような造りの小屋が十ばかり並んでいる。異国からの客人が多い宗像ならではの、客人のための棟だ。
日が落ちたというのに、立ち並ぶ小屋の前にある小さな通りは、明るかった。通りはともし火で飾られ、異国の夜を楽しんでいるのか、まだ人の気配がある。
王宮を自在に出歩けるということは、その通りを行き来しているのは、どこかの国の地位ある男たちなのだろうが、宗像にたどり着いたばかりの高比古には、誰が誰だかわからなかった。とくに今は、わざわざ知りたくもなかった。
小屋の入口にかかった薦を避けて、小屋の中へ身を滑り込ませると、ようやくふうと息をついた。
土の上に板を渡しただけの粗末な寝床も、今は、この上なく贅沢に感じる。
(……疲れた。やっと、一人になれた)
思えば、自分だけの空間に閉じこもるのは、出雲を出て以来だった。
寝床の真ん中に四角く畳んであった掛け布を背中で踏んでしまうのも厭わずに、どさっと木板の上に寝転がる。小屋の中に明かりはないが、壁の高い位置に小さな窓がしつらえてあったので、真っ暗闇というわけでもなかった。
入口から寝床へ行き着くまで、土床の上には壺がいくつか置かれていた。水か、振る舞い酒が入っているのだろう。
(もういい。寝よう……)
「誰だ? なにか用か」
疲れに任せた物憂げな声でぼんやりと呼びかけると、薦は、奇妙な動きをした。
それは、戦慣れした血気盛んな男がばさりと跳ねのけたり、主のもとへ向かうのに礼を尽くして丁寧に隙間をつくるような、高比古がこれまで目にしてきたのとは、別の動きをした。
小屋の入口に垂れた布薦を、ゆっくり、やわやわと押しよけていったのは、華奢な手のひら。そこに立っていたのは、若い娘だった。
娘の髪は、通りに焚かれた炎の灯かりを浴びて艶やかに照っていた。黒髪は長く、背中まで垂れている。娘の顔は、遠目から見ても美しかったが、先ほどの宴で狭霧のそばにいた娘たちのように、髪飾りや
(
奴婢とは、王宮に仕える中で最も低い身分をもつ者で、時たま物以下の扱いをされ、品物として商いの場で取り引きされることもある。そして、奴婢として働かされるのは、たいてい異国の地から連れて来られた者だ。戦で
高比古の小屋に現れた奴婢の娘は若く、美しかった。その娘がここに現れた理由を悟ると、肩を落とした。
高比古は、出雲の策士と呼ばれる地位をもち、今、宗像の王宮で熱心な歓待を受けている出雲の老王の一行の中でも、身分は主の須佐乃男に次ぐ。
高比古のような身分ある男をもてなすのに、夜、寝床へ娘を忍ばせるのはよくあることだった。
実のところ、こういうことが初めてなわけでもなかった。これまで出かけた戦の旅の途中にも、休めと言われた寝床に娘が入って来たことは何度かあった。とはいえ、誰であれ、他人とくつろぐという芸当ができない高比古にとっては、追い払う手間が増えるだけの厄介だ。
うんざりとして、それ以上娘を見る気にもなれなかった。
「帰れ。一人にさせてくれ」
娘は、立ち去ろうとしなかった。
「でも……」
「でも、なんだ? このまま戻れないというなら、須佐乃男の寝屋にでもいって、来るのを待ってやれよ」
(いいから、さっさと出ていけ。一人にさせろよ)
苛立ちもこみ上げて、声はとげとげしくなる。それでも、娘は立ち去ろうとしなかった。
「須佐乃男様? でも、ここへいけとわたしに命じたのは、その人だ。宴の場でわたしを呼んだ須佐乃男様が、ここへ……あなたのもとにいけと」
「須佐乃男が?」
頭に血がのぼって、目はぎらついた。
形相を変えた高比古に睨まれて、戸口で立ちつくす娘は、神妙な仕草でこくりとうなずく。しかし、それを見届けるだけの余裕は、すでに高比古になかった。
目の裏には、須佐乃男の嘲笑がちらついた。
……休ませんぞ、いっときたりとも。
そんなふうに脅されたと感じた時の、薄気味悪さ。それから、いつだったか投げ掛けられた問い。
『女は好きか? 抱けるか?』
老王の、からかうような声の抑揚までをいちいち思い出すと、舌打ちをした。
胸に困惑が生まれ、ひたひたと広がって、内側から焦らせた。
(いったい、この旅はなんなんだ?)
出雲を出てからこのかた、須佐乃男に逐一見張られているような気がしてたまらなかった。それは、ようやく一人になれたと安堵した小屋の中ですら変わらず、今も、老王の老獪な眼差しを浴びているように感じた。
ぎり、と奥歯を噛むと、拳を堅く結んで、娘を睨んだ。
目がぎらついていると、自分でもわかった。でも、本当に睨みつけたかった相手はその娘ではなく、高比古を試し続ける老王だ。須佐乃男に対して、ひそかに宣戦布告をする気分だった。
「……こっちへ来いよ」
凄味の効いた眼差しで誘われると、娘は、隙間をつくるのに薦を避けていた指先の力を抜いた。
指が落ちると、ぱさり……と小さな風を起こして薦は再び垂れ、夜の通りと、小屋の中とを隔てる。
薦が垂れて光が遮られると、異国から訪れた身分ある青年のための仮宿には、暗がりが生まれた。
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