一夜の喧嘩 (3)
小窓の向こう側を行き交う、人々の雑踏。話し声や、くぐもったざわめき。ときおり屋根を撫でる、緩い夜風。
薦で入り口を閉ざされた小屋の中は、不気味なほど静かだった。薄暗い小屋の土床を、娘は、高比古のいる寝床へ向かって、一歩一歩近づいてくる。娘は真顔をしていたが、それは、凍りついたようにかたまって見えた。
出会ったばかりの青年の寝床へ、娘は、みずから近づいていく。薄闇の中で、娘の頬は白くぼやけていたが、頬も、瞳も、緊張で強張っているのか、ぴくりとも揺れなかった。
娘の麗しい貌つきや細い手足に、これから起きることに戸惑うような緊張感が漂うのは、今のような妖しい雰囲気によく似合った。
雰囲気に酔うように、高比古もほどよく緊張した。そして、寝床に腰掛けたまま、娘が自分のもとへ近づいて来るのを待った。でも、真正面までやってきた娘と目が合うなり、闇の中でも目立つほどぎらついていた目は、急に勢いを失っていった。
命令した声からも、緊張が抜けた。
「……隣へ座れ。顔を見せろ」
いわれるがままにそばに腰を下ろした娘の顔を見下ろすと、呆然となった。
その娘の顔が美しいということは遠目からでもわかったが、近くで見るとなおさら、娘は、凛と伸びた鼻筋が印象的な、華やかな美貌の持ち主だった。
せめてもの抵抗にやんわりと結ばれた唇、華麗な弧を描くまつげに飾られた、愛らしい瞳。娘の瞳は、唇よりずっと正直だった。娘の双眸は、高比古をまっすぐに睨みつけていた。
粗末な身なりをしているとはいえ、娘の風貌には品があって、どちらかといえば高貴だった。高比古は、娘を哀れに思った。
(こういう品のいい顔をした奴婢は、高値で取り引きされるのだろうな。身分ある男をもてなすにはうってつけだ。こういう宿に案内される、異国からの客人のもとに忍ばせるには、とくに――。おれも、そういう客人の一人か)
身体にみなぎっていた力が、あっという間にしなびれていった。
「おまえ、奴婢か? どこの国から連れて来られた」
つぶやくように問いかけると、娘は、形のよい眉をむっとひそめた。表情では応えたが、唇は閉ざされたままだ。娘は、答えなかった。
「いつからここに……こうやって過ごしている?」
やはり、娘は答えない。でも、瞳は正直だった。
高比古を睨み上げる可憐な瞳は、かっと血がのぼせたように歪んだ。それから、罵るように凝視した。娘の瞳にあったのは、敵意だ。それは、高比古や、娘が遣わされるような、すべての身分ある男へ向けたもの。もしくは、彼女の身をとらえる宗像へ。
高比古はいつか、娘に同情していた。
(奴婢が……力無き者がそんな風に怒っても、何も解決しないよ。でも――怒りたいよな)
「おまえは、なぜそんな風に怒っている。――無理やり犯されたことがあるのか」
率直に訊ねた瞬間、娘の瞳が、かっと見開かれた。
……おまえだ。おまえこそがそういう敵だ。おまえだって、奴らと同じくせに!
形相を変えた娘は、目でありったけの暴言を吐くように睨んだ。
高比古を見る娘の目は、獣を見るようだった。でも、高比古は悔しいとも、腹が立つとも感じなかった。それどころか、胸は、娘を慰めたがった。そして、胸の奥に乱暴に刻みつけられたせいで、忘れたくても忘れられない過去の記憶が、気味悪く疼いた。
(……おれもある)
脅えた胸を落ち着かせようと、何度か浅く呼吸をする。
それから、ゆっくりと右腕を上げていった。娘の強張った頬を、手のひらで包もうと――。
指先からは、力が抜けきっていた。その指で頬に触れられた娘は、はっとまばたきをして、不気味なものを見るように高比古を見つめた。
親指の付け根あたりで、娘の頬の丸みをゆっくりと撫でた。一度撫でるとそのまま指を放して、高比古は、娘の顔から視線すら外した。
「――ねぐらへ戻れ」
それ以上、娘に触れる気も、顔を見る気もなかった。
意図に気づくと、娘は、何度か声にならない息を吐いた。木床につけて体重を支えていた指先は震え始め、目鼻立ちが整った娘の華麗な顔は、憤って赤くなった。
「なにもせずにわたしを帰すのか?」
娘は怒っていた。でも、高比古は、なぜ怒られなければいけないのか理解できなかった。
「ここにいたいのか?」
「逃げる気か?」
娘はやはり敵を見るように高比古を睨んで、忌々しげに唇を歪めた。
「……あなたを見ていると、腹が立つ」
喧嘩を売られているのだと、高比古は気づいた。
でも、今のところ、高比古はなぜこんな目に合うのかが納得いかない。
これまでなら、相手がどう言おうが冷たく追い払うだけだったのに、同情して、慰めてやりたいとまで思って、そのうえ、ねぐらへ戻してやろうとしたのに。
他愛もないいいがかりをつけられた気分で、機嫌は害したが、相手にする気はないと、態度を変えなかった。
「お互い様だと思うが。おれもおまえを見ていると腹が立つ。可哀そうで仕方がない」
芝居がかった言い方でいうと、娘は、ますます眼差しを険しくして高比古を責めた。
「わたしを怒らせたいのか?」
高比古は、感情的ないい合いにいちいち乗るほうではなかった。でも、今は――かっと頭に血がのぼった。
「おれを怒らせたいのはおまえのほうだろう?」
(なんなんだよ、この女。もとはといえば、おれに仕えるために来た奴婢じゃないのかよ。物以下の身分のくせに)
身をわきまえずに食いかかってくる娘が、腹立たしくてたまらなかった。
こいつを調子づかせたまま追い出すのは、鼻もちならない。
二度と口応えができないほど蹂躙して、差をわからせるまでここから帰すものか。
そう胸が決めると、いつのまにか高比古の手は、娘の襟元に伸びていた。
「……なにを……」
いきなり胸倉を掴まれて、娘は文句をいうが、その時にはすでに、娘の身は木床の上に押し倒されている。
じりじりと娘を寝床に押しやりながら、高比古は頭上から脅すように声をかけた。
「そんなにいうなら、朝までここにいればいい」
いたぶるような声を出したはずだった。でも、娘に怯んだ様子はない。むしろ、できるものならやってみろといいたげに、高比古をけしかけるように睨みつけた。
翌朝――。甘酸っぱい花の香りで目が覚めた。
小屋の壁の上方に備わる小さな窓からは、早朝の白みを帯びた光が差し込んでいる。花の香りのする風は、小窓から小屋の中へと吹き込んでいた。
(いったい、なんだ――)
寝ぼけ眼を手の甲でこすった高比古は、腕が裸なのに気づいて驚いた。
腕だけではなくて、身体も裸だった。そばには、眠りに落ちるまで大喧嘩をした相手の娘が、小屋の中を吹く花の香りのする風に素肌を晒して、すうすうと寝息を立てている。
寄り添って寝そべる二人の身体には、一枚の掛け布がかけられている。それは、どう見ても一夜の恋の後の風景だ。
錯覚をたしなめるように、高比古は何度か瞬きをした。
(一夜の恋の後の風景? まさか――。あれは、喧嘩だった)。
早朝の小屋は、花の香りのする不思議な風で満たされていた。それは、風の精霊が爽やかな芳香を運んで、わざわざ小屋の中へ吹き込んできていたせいだった。そこで、身構えることもなく人と身を寄せ合って寝転ぶ高比古のもとへ、祝福の挨拶にうかがうように――。
『お似合い、お似合い……』
風の精霊はくすくすと笑っているような雰囲気だった。しかも、やじ馬が騒動につめかけるように、風の通り道でもないこの場所へ、わざわざやってきたというふうだ。
『すてきな人ね。すてきね』
高比古の肌を潤す滑らかな風は、小屋の中をふわりと一周すると、小窓に吸い込まれるようにして過ぎ去る。そしてまた次の風がやってきて、花の香りを高比古のもとに届けた。
自分が娘と寝ているのを、風は喜んでいるのだ。
そう気づいたものの、それは間違いだと、高比古は胸で文句をいった。
(……なんで。勘違いするなよ)
でも、高比古の言い分など聞かないふりをして、次から次へとやってくる温かな風は、ときおり香りと一緒に花びらまでを運んだ。
はらり……。高比古の手のひらに落ちてきたのは、爪の大きさの黄色い花だ。
受け止めてつまんでみたものの、苦笑した。香りを確かめるようにそっと鼻先を近づけると、花びらからは、小屋を満たしているのと同じ香りがした。
(……わかったよ。ありがとう)
ひとまず礼を告げると、風たちは満足したようだ。
『お幸せに。よかったね』
(だから、違うって)
誤解を正そうとしても、高比古を子か孫かのように慈しむ風の精霊たちは、人であれば舞いあがっているような雰囲気で、話を聞こうともしない。
仕方がないので、祝福にやってくる花の香りがする風に、はにかみの笑顔を向ける。しかし、ある時、人の視線を感じて、はっと表情を強張らせた。
眼差しのもとは、高比古の肩のあたりに頬を横たえていた奴婢の娘だった。娘は、小馬鹿にするようにからかった。
「なにを笑っている? 朝っぱらから、へんな策士だな」
たちまち、昨晩の憤りが蘇った。
「おまえはいちいち偉そうなんだ。……へんな奴婢だ」
昨晩の喧嘩の続きのように娘を組み敷くと、細い肩をおさえつける。それから唇を近づけて、触れさせた。歯を立てて、わざと甘い痛みを与えるような荒っぽいくちづけだ。
花の香りに包まれた、朝の白い光のもと。よく知らない娘と肌と肌を重ねるのに、高比古はとくに抵抗を感じなかった。だから、安堵した。
(なんだ、女を抱くなんか簡単じゃないか。くちづけもなにもかも、ただの喧嘩だ)
満足すると、薄い唇に不遜な笑みを浮かべていく。そして、触れ合えるほど近い場所にある娘の瞳に向かって、話しかけた。
「名は?」
「――
「おれか? べつに。好きなように呼べよ」
「出雲の策士でいいのか? それとも、へんな策士とでも?」
桐瑚と名乗った娘の態度は、相変わらずだ。
さっきの荒っぽいくちづけへ仕返しするように、娘は気の強い目で、まっすぐに高比古を見上げてくる。表情はまだ勝負はついていないぞといいたげで、桐瑚にとって今は、昨晩から続いている喧嘩の続きなのだ。
(喧嘩か……)
その喧嘩から、いち早く我に返ったのは高比古のほうだった。冷静になってみると、桐瑚は、背伸びをしている子供に見えた。勝気な物言いは、品のいい顔立ちに似合わない。
(きっと、昨日のおれも、こんな顔をしていたんだろうな)
思い返すと可笑しくて、小さく吹き出した。
「――年は?」
「……十七」
「じゃあ、おれと同じだ。若い娘のくせに、おれに喧嘩を売ったりして、おまえは人一倍肝が据わっているな。――おれの名は、高比古だ。出雲の策士でもへんな策士でも、好きなように呼べよ」
呆れ半分で笑う高比古を、その肩を枕にして寝そべる桐瑚は、無言で見つめた。まつげに飾られた美しい瞳は、今や、不思議なものを訝しがるようにぽかんとしていた。
いつまでもこうしているわけにいかないだろう。
颯爽と身を起こすと、高比古は寝床から降りる。床を歩いて土間の隅へ向かい、そこに置かれた水壺から手のひらで水をすくうと、顔を洗った。
「おまえも使うか?」
振り返った時、桐瑚は掛け布で身体を包みながら身を起こしていた。そして、それ以上、高比古が桐瑚を気遣うことはなかった。
木床の隅に押しやられていた衣を拾うと、
「おれはいく。おまえは、身支度が済んだらねぐらへ戻れ」
「……えっ、ちょ、ちょっと待って……!」
桐瑚は慌てて引き止めたが、その時には、すでに高比古の手は、小屋の外へ出ようと薦にかかっている。
薦をくぐって外に出て、朝の陽射しを浴びながら背伸びをしていると、小屋の薦が勢いよく開け放たれた。中から現れたのは桐瑚だった。
でも、それを振り返った高比古の真顔は淡々としていて、目はまるで、見知らぬ娘を見るようだった。
再び顔を合わせたものの、他人を見るように見られると、桐瑚は薦を手で押しやったまま、その場で立ち竦む。それから、悔しそうに唇を噛んで、文句をいった。
「置き去りにする気か? 無礼な男だ」
「置き去り? 一日中、おれにくっついて歩く気か?」
「そうはいっていないが、普通、いろいろあるだろう? 別れ間際に、せめて一言くらい声をかけるとか……」
「はあ? おれはいくと、さっき声をかけただろう?」
「……そうじゃなくて」
結局桐瑚は、居心地悪そうに言葉を濁した。
(なんなんだ?)
なぜ引きとめられたのかが、さっぱりわからなかった。
はっきりいって、不愉快だ。桐瑚は、夜伽に遣わされた奴婢だ。それなのに――。
(どうして、奴婢からこんなにぶつぶついわれなきゃならないんだ? たいした用が無いなら、ついてくるな、鬱陶しい――)
不機嫌に、追い払ってしまおうかと思った。でも、目の前で照れ臭そうにうつむく桐瑚を見ていると、どうしてか苛立ちが薄れていく。
そういえば、出会った時からずっと薄暗い小屋の中にいたから、明るい場所で桐瑚の姿を見たのは、はじめてだった。
光の中で見ると、思った通り、桐瑚は美しい風貌の持ち主だった。凛と伸びた鼻筋や、柔らかそうに膨らんだ薄桃色の唇、華麗な弧を描くまつげに飾られた、華のある瞳。瞳の色は淡く、どちらかといえば琥珀色に近かった。
目を吸い寄せられたように桐瑚の顔に見入っていると、ふと、懐かしい花の香りがする。
早朝の通りに桐瑚と二人でたたずむ高比古を目ざとく見つけては、風は、はやし立てるように花の香りを運んで通り過ぎていった。
『この子、この子ね?』
『きれいね、すてきね、よかったね』
風の精霊の間で噂にでもなっているのか、風は次から次へとやってきて、同じ花の香りを運び、祝いの言葉を残していく。
(だから違うって。今だって、わけがわからない)
高比古は、夢中で否定した。ふてくされていいわけを探していると、桐瑚が、呆気にとられた風に高比古を見上げた。
「あなたの周りには不思議な風が吹くな。今朝もそうだった」
桐瑚の目は、不思議なものを見るようだった。でも、桐瑚の琥珀色の瞳に、怯えや、気味悪がっているような気配はない。
高比古はすこし安堵した。
「――どうやら、風に好かれているらしい」
それとなく答えると、桐瑚は、挑みかかるような笑顔を浮かべた。
「人からも、それだけ好かれればいいのにな」
からかい口調だった。
「……なんだと」
思わず手が伸びて、桐瑚の胸倉を掴む。凄味をきかせて睨んだが、桐瑚は笑う。琥珀色の瞳は、高比古を怒らせて満足したといわんばかりに輝いていた。
「怒るということは図星か? 出雲の策士」
「……おまえ、また……」
忌々しげに舌打ちをしたところだった。
背後で、誰かが怯えて飛びのいた。いいわけじみた娘の声もする。
「きゃ! そ、その……ごめん、誰かといるだなんて思わなくて、その……!」
振り返ると、人気のない早朝の通りには、狭霧の姿がある。狭霧は恥ずかしそうに笑って、逃げる機を待つようにじわじわと後ずさった。
「狭霧、どうした? こんな早くに――」
「う、ううん! その……ごめん! ちょうどあなたの影に隠れていたから、その人が見えなくて……、邪魔をするつもりじゃなかったの、本当にごめん!」
「はあ?」
狭霧は慌てていた。でも、頬は、嬉しそうににやけていた。
「あ、あのね。おじいさまに、あなたを呼んでこいっていわれたから、来てねって伝えに来たんだけど……! その、わたし、先にいくから!」
そこまでいうと狭霧は一歩近づいて、口元を手のひらで隠しながら、高比古の耳もとでひそひそと囁いた。
「ゆっくり来ていいからね。おじいさまには、うまくいっておくから!」
狭霧はなぜか、高比古に気を使っているようである。高比古は、それもよくわからなかった。
「……はあ?」
「じゃ、じゃあ。お邪魔しました~!」
背を向けると、狭霧の後姿は逃げるように遠ざかっていく。
そして、そこには、ぽかんとしてそれを見送る高比古と、そのそばで不思議そうに真顔をする桐瑚が残る。
手のひらは、桐瑚の胸倉を掴んだままだった。それは、見ようによっては、桐瑚をそばに引き寄せているようにも見えるかもしれない。
なんとなく、癪だ。
さっきの苛立ちを思い出すと、乱暴に桐瑚を突き飛ばした。
足がふらつくほどの強さで押しやられて、桐瑚はむっと顔をしかめたが、見ないふりをしてそれを無視する。
桐瑚は、なにかいいたそうに自分を睨んでいた。その顔に背を向けると、高比古は、すでに小さくなった狭霧の後姿を追うことにした。
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