絵地図と骨石 (1)


 須佐乃男すさのおの宿となったのは、筒乃雄つつのおの宮殿の近くに建てられた館だ。


 その舘は、高比古に充てられた小屋の数倍広いが、建物の造り方に大差はない。寝床の部分は土に木を敷いただけで、館の床の半分は土が見えていた。


 高比古がそこへ着いた時、須佐乃男の仮宿には、すでに数人がいた。


 奥には悠然とあぐらをかく須佐乃男がいて、その正面には、矢雲やくもという名の須佐乃男の従者が座っている。矢雲の隣には、狭霧。木床から外れた土の上には、矢雲より位の低い従者が一人控えていた。


 さきほど高比古を呼びに来た狭霧は、須佐乃男のそばでちょこんと正座をしていたが、高比古が現れるともじもじと顔を向けて、恥ずかしそうに微笑んだ。


 目を逸らせば、奥の上座にいる須佐乃男と目が合った。須佐乃男は、唇の端を上げて意味ありげににやりと笑っていた。


(なんなんだよ、この爺さんと孫)


 二人からの目配せが照れ臭くて、近付きながら、何度も胸で文句をいった。


 狭霧が、妙に恥ずかしそうにしている理由は、なんとなくわかった。


 きっと、さっき桐瑚きりこといるところに出くわしてしまったからだ。狭霧は、夜が明けて早々に祝福に訪れた精霊と同じように、桐瑚が高比古の大事な娘だと勘違いしているのだ。


 須佐乃男のほうも、昨夜、高比古が桐瑚と過ごしたことに気づいているはずだ。


(――だよな。桐瑚をおれのところにさし向けたのは、この爺さんだもんな)


 思い返せば、桐瑚は昨晩、渋々とこんなことをつぶやいた。


『宴の場でわたしを呼んだ須佐乃男様が、ここへ……あなたのもとにいけと』


 その言葉を耳にした瞬間、高比古は、須佐乃男から命令されたと思った。この娘と一晩過ごせ――と。


(これでいいんだろう? なんなんだよ)


 仏頂面を見せつけつつ須佐乃男のそばまで進み出て、空いている隙間に腰を下ろす。


 それから、何食わぬふうに取り繕って挨拶をした。


「遅くなりました」


「いや、よろしい」


 須佐乃男は小さく吹き出したが、それ以上はいわない。さっそく話を切り出した。


「さて。せっかく荒海を超えてきたのだ。我々は、しばらくここに厄介になろうと思う。それで、だ。ただのんびりと過ごすのもつまらん。……狭霧や」


「はい」


 名を呼ばれると、狭霧は祖父に笑顔を向ける。素直に返事をする孫娘に、須佐乃男は頬を緩ませてうなずいた。


「おまえは薬師くすしの卵だ。この島の山を歩いて、野草を見て回りなさい。出雲にはない草花がここにはたくさんあるだろう。土も見てきなさい。たとえば……出雲の山には、染め具になる赤土が出る。それに代わる珍しいものがないか、その目で見てきなさい」


 須佐乃男はのんびりと命じたが、高比古は内心思った。


(それって、ただの道楽じゃ……)


 高比古の耳にそれは、珍しい野山を歩いて物見遊山に興じてこいといっているふうにしか聞こえなかった。


 祖父から命じられる言葉に一つひとつうなずいていた狭霧は、目を輝かせて首を縦に振った。


「わかりました、おじいさま」


「よろしい。では矢雲、狭霧を案内してやってくれ。できれば、宗像の薬倉も見せてやりたい。どうにか話をつけられんか」


「やってみましょう」


 須佐乃男から次に命じられたのは、矢雲という青年。齢は二十五。


 でも、彼をよく知っている高比古にとって、その命令は思わず閉口したくなるようなものだった。


 矢雲は、高比古が出雲王の名代という立場で王の全権を預かって戦に出向くのと同じく、須佐乃男の名代に似た役を負っている。従者を従えて異国へ出かけては、須佐乃男の名をもって異国の王たちと話をつけてくる、いわば、出雲きっての御使いだ。


(この男を、山歩きの道案内につけるだぁ……? 宝の持ち腐れ以外の何物でもないじゃないか)


 目をしばたかせるが、その時も、須佐乃男の孫娘を見る目つきはでれでれとしていた。


「狭霧や。矢雲がいれば怖いものはないぞ。こいつはもう何度も宗像に来ておるから顔が知れているし、なにかあってもこいつが宗像を説き伏せてくれる。存分に頼って、薬師の道に励みなさい」


「ありがとう、おじいさま! よろしくお願いします、矢雲さん」


「矢雲でいいですよ。狭霧様」


 矢雲は精悍な笑みをたたえて、自分を振り仰いだ小さな姫に軽く頭を下げた。……が。高比古は頭を抱え込みたい気分だ。


(おいおいおい。出雲一の交渉役に、下っ端の侍従みたいな真似をさせるなんて……)


 出雲は力の掟を掲げた実力主義の国で、血筋の良さなど無用のはずだ。


 それなのに、いま高比古の目の前で繰り広げられているのは、爺様が、地位を理由に孫娘に過分な贅沢をさせようとしている光景にほかならない。


 これまで高比古が同行した戦の旅では、大国主おおくにぬしだろうが、出雲王の彦名だろうが、諸国の小王だろうが、こんな真似はしなかったというのに。


(力ある者が上に立つんじゃないのかよ。出雲に血の色は無用じゃないのかよ!)


 戸惑う高比古を置き去りにして、どうやら話はまとまったらしい。


 気のいい笑顔を浮かべて矢雲はさっそく腰を上げ、狭霧をいざなった。


「まずは美しい場所から。島で一番眺めのいい場所へご案内しますよ」


(やっぱり物見遊山じゃないかよ……)


 高比古など目に入らないとばかりに、浮き足立った狭霧も、跳ねるように矢雲の後を追った。


「本当ですか? 楽しみです!」


 連れだって館を出ていく二人を見送る須佐乃男も、上機嫌だ。


「楽しんで来い。気をつけてなあ!」


 そして、館の入口にかかった薦は二人を送り出したのちに閉まり、館はしいんと静まり返る。


 そこには、にんまりと笑った須佐乃男と、訴えるように唇を噛みしめる高比古が取り残された。


 須佐乃男の顔は陽気に笑ったままだった。老王は、高比古の渋面を無視して話を続けた。


「さて……おまえは。わしと遊ぶか?」


「はあ? 遊ぶ?」


 それにはさすがに、素っ頓狂な声を出すしかなかった。





木舞こま、あれを広げい」


 目を丸くした高比古の前で、須佐乃男に名を呼ばれた従者が木床に広げたのは、寝床の敷物ほどはあろうかという大きな白布だった。


 布の地色は白だが、そこには、墨や朱色で大きくなにかが描きこまれている。


 その模様を見たのは初めてだが、おのずと目が見入って、高比古はすぐに、その布がいったいなんなのかを悟った。


「これは……西方の絵地図ですか? 筑紫の南から宗像のある海、それから韓国からくに、大陸に至る……」


 地図など、そうそうお目にかかれるものではない。


 地図を描けるほど異国を行き来する人はそう多くないし、行き来したからといって、まるで天上から俯瞰する鳥になったかのような目線で、冷静に大地や海岸線の姿を絵にしたためられる人はそういない。


 だから、地図は貴重だ。とくに、噂話を頼りにしてつくられただけではない、確実な地図は。


 まばたきもせずに地図を凝視する高比古に、須佐乃男はにやりと笑った。


「そのとおりだ。黒で示したのは大地や島の形。筑紫の島がいかに大きく、南に伸びているかがわかるだろう? 宗像へやってくるのに我々が見た筑紫の陸は、北東の端でしかない」


 須佐乃男は、筑紫の島と呼んだ西方の大島の輪郭をそうっと示すと、次は、その上に描かれた海へと指をさまよわせた。その海には、飛び石のように顔を出す島がいくつか描かれている。老王の指は、それらをひとつひとつ指差した。


「我々はいま、ここにいる。宗像の都がある島――壱岐という島だ。そして、もう一つ浮かんでいる大きな島が、倭国から大陸へ渡る海道の門の役目を果たしている。――どちらの島も、宗像一族が支配している」


〈倭国から大陸へ渡る海道の門〉と須佐乃男が説明したとおりに、海の上にぽつぽつと浮かぶ島々は、まるで船へ海の道を示すように、筑紫から大陸まで繋がっていた。


 高比古は、息を飲んだ。生半可な気持ちでいては許されないものを見せられている気分だった。


「墨で描かれているものは、このとおり大地の形を表した線だ。赤の線は――潮の流れ。または、船の行き来する海の道だ」


 須佐乃男の指が次に示したのは、海岸線のそばに滑らかにひかれた赤の曲線だった。


 高比古は、早鐘を打とうとする胸を懸命に鎮めた。


 なにかが始まる。須佐乃男はなにかを始めようとしている。そういう予感が、たまらなく焦らせた。


(落ち着け。絵地図を見ろ。……須佐乃男に合わせろ。呼吸も、目線も。――それにしても)


 須佐乃男に合わせろ――そう信じて、老王の顔をじっと見つめているうちに、高比古は背中に冷たい汗を感じた。


 須佐乃男は、高齢とはいえ、もと武人らしく立派な体格をしていた。肩も胸も胴周りも太く、身にまとった出雲服は、内側にある筋肉の太さを見せつける。肌も、年の割につややかだ。白髪が混じった髪は丁寧に角髪みづらに結われ、品のいい紫色の髪飾りがついている。そして、何より齢を感じさせないのは、目と表情――。


 老王は穏やかに笑っていた。その笑顔は老いも若さも感じさせないもので、柔らかいが、人の温かみが感じられない、朝もやか霞のような印象があった。


(この人の笑顔は、胸の内の企みを覆い隠す品のいい霞のようなものだな。――なんなんだよ、この、狸じじい)


 ごくりと息を飲みつつ、挑みかかるように老王の笑顔を見つめ返した。


 老王は、くすりと笑った。


「模擬戦をしよう、高比古」


「模擬戦?」


 模擬戦というのは、実戦に見立てた盤の上で互いに駒を操り、勝敗を競うものだ。戦の前に地形や両軍の規模を把握したり、策がうまく働くかどうかを試したりするのにおこなわれることもあるが、たとえば戦の旅の夜の暇つぶしとして、武人たちの遊びとしておこなわれることのほうが、出雲では多い。


 須佐乃男のそばで膝をつく木舞という従者は、胡桃くるみほどの大きさのなにかを、須佐乃男の手のひらにいくつか握らせた。胡桃ではないものの、同じ程度の硬さがあるようで、老王の手の中で擦れ合って、ころころと音を立てている。


「それは……?」


「これか? 名は詳しく知らんが、わしらは骨石と呼んでいる。大陸の彼方、奥地にある勇猛な一族が使っているものらしい」


 ころん、と硬い音を立てて、それは須佐乃男の手のひらから絵地図の上に落ちた。布の上に転がった骨石というものは、胡桃と違って角ばっていて、面は、色で塗り分けられていて、面によって表の色が異なっていた。塗られた色の中には、目に馴染みのない鮮やかな色もある。須佐乃男はその骨石が大陸に由来するものだと説明したが、その珍しい色が、異国からやってきた品だという証だった。


 骨石のうちの一つを指でつまみあげると、須佐乃男は軽く説明をした。


「これは、もともと獣の背骨の一部という話だ。これを振って、出た色に合わせて駒を操る。戦に運はつきものだと、そういうわけだ」


 高比古は、緊張で拳を握り締めながら、老王の穏やかな眼差しを跳ね返すように真顔をしていた。


 高比古と目と目を合わせて、須佐乃男は微笑んだ。


「では、はじめようか。駒の操り方はやって覚えろ。まず、おまえは出雲軍。わしは……北筑紫の国にしようか。互いの敵から、宗像を守ろうぞ」




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