2話:雲の切れ味

若き王子の髪飾り (1)



 酒宴の賑わいほど、耳にうるさいものはない。


 館の隅で寝たふりを通すものの、歌声やら手拍子やらが、高比古たかひこは耳障りで仕方なかった。


 これなら、悲鳴や恨みごとを耳元で聞きつけるほうがよっぽどましだ。そっちなら、簡単に無視できるというのに。


 とはいえ、起き上がって、今すぐやめろというわけにもいかない。なにしろ、そこで大声で歌い、踊っているのは、老年の王、須佐乃男すさのおという男なのだから。


「わーしの孫~は娘の薬師くすし、あーら、よいよい」


(いったいなんなんだ、その歌は)


 その歌は須佐乃男が即興でつくったようだが、節はいい加減で、歌声は豪快。しかも、あまりうまいというわけでもない。


 耳障りだ。なぜ目のように耳は閉じないんだ。不便だ。いいから、寝かせろよ。


 耐えかねて、伏せていた頭をもたげて館の中央を見た。笹の葉先に似た涼しげな目を細めて、責めるようにも見つめた先は、老齢とはいえ、肩も腕もがっちりとした巨体を誇る老王だ。


 一国の主、出雲王という位は退いたとはいえ、須佐乃男は、出雲連国を今の姿にまとめ上げた偉大な老王であり、賢王と呼ばれて、今の出雲王である彦名ひこなや、武王である大国主おおくにぬしからも一目置かれる存在である。


 高比古たちが夜を過ごしていたのは、出雲を出た旅先の地。そこを訪れた異国の老王のための仮の宿りとして、近隣の海民から案内されたのは、高床の立派な館だった。


 ただし、少々狭い。


 十人も座ればいっぱいになるほどで、もともと狭苦しい上に、空いた場所には宴の酒器が置かれ、海民たちからふるまわれた食べ物も並んでいる。


 そのうえ、壁に背をくっつけて座り込む従者たちの真ん中では、須佐乃男が床を踏みならして踊っている。


 大声をあげて宴に興じる老王を見やって、大げさなため息をついた。


(いい加減にしてください。邪魔です。寝かせてください)


 訴えるような言葉も、喉もとまでこみ上げた。


 いや、ここに集っている連中のうち、この老王へ苦言を呈することができるのは、立場的な面を考えても自分のほかにいない。それならいっそのこと……と息を吸ったが、唇がためらっているうちに、目が驚いてまばたきをした。


 その時、高比古の視線の先で、腕を振り上げて踊っていた須佐乃男と目が合った。


 高比古を向いて豪快に笑う須佐乃男という名の老王は、からかうような目をしていた。そして、文句をいった。


「おお、起きたか、高比古。ほれ。おまえも手拍子をせい」


 ぎっ、と奥歯を噛みしめて、眉をひそめた。


(……わざとだな?)


 高比古のあからさまに不機嫌な目線に、その老王は気づいているはずなのに。


 相手が格上だろうが、高比古は、自分が納得しなければ頑としてうなずかないほうだ。


 夜の気配に似合う黒の瞳は、不満を訴えるように須佐乃男を静かに睨み、薄い唇は一文字にかたく結ばれている。


 不満を隠すそぶりもみせず、心のままに老王に抗う青年、高比古の性格は、それなりに周囲に知れ渡っている。


 おかげで、狭い館には幼い抵抗に苦笑するような雰囲気が満ちた。


 小さな舘の中で、須佐乃男の舞に合わせて手拍子を打っていたのは、事代ことしろと呼ばれる呪術者数人と、従者たち、それからもう一人、須佐乃男から一番近い場所に、年の頃十五ばかりの若い娘がいた。


 ほかと同じく、高比古の不満に気づいたらしいその娘は、須佐乃男の上衣の裾をそっと指でひっぱった。


「おじいさまったら、いきなり歌い出したりして。とっても妙な歌だったわ。それに、まだ手当ての稽古の途中だったのに」


 その娘は須佐乃男の孫で、名は狭霧さぎり


 照れくさそうに頬を赤らめた孫娘から諌められると、須佐乃男は急に背を丸めて、狭霧のそばに腰を下ろした。


「おお、すまん、すまん。悪かった、狭霧」


 瞳など見えなくなるほど目を細めて、頬を緩ませて。


 須佐乃男は、孫娘にいわれるがままに手首を差し出してみせるが、そこには細く裂いた布が巻かれている。それは、薬師や医師と呼ばれる匠が怪我人を癒すのに使う品だ。


 狭霧の細い指には、その細く裂いた布が巻きつけられていて、目の前に須佐乃男の手首が戻ってくると、そこへ布を巻きつけていった。手つきは、それなりに慣れている。孫娘の手さばきを見下ろす老王須佐乃男は、満足げに笑った。


「おまえの母は女ながらに武将になったが、その娘がまさか、薬師になる道を選ぶとはなあ! いや狭霧、おまえは実に勇気がある。勘もいい!」


 頬を緩ませて褒めそやす須佐乃男は、出雲連国を築き上げた偉大な賢王というよりは、もはや、孫娘にでれでれとしているただの爺様だ。


 白けた眼差しをちらりと向けて、ふうと肩で息をした。


 目を逸らしていても、まぶたのような覆いを持たない耳は、須佐乃男と狭霧のやり取りを聞きつけて高比古に教える。


「お? 間違えたぞ、狭霧。やり直し」


 過ちを咎める時も、須佐乃男の声は甘い。それに応える狭霧の声も、孫娘のものだ。賢王須佐乃男に対する畏怖はなかった。


「間違えたって、ほんの少しよ? 爪の先ほど布を巻く場所がずれただけで……」


「順序が一つでも違えば、うまくいかないこともある。修練は丁寧にしなさい、狭霧」


 爺様と孫娘の甘ったるいやり取りを、眠いのをこらえてまで無理やり聞かされるのは勘弁だ。


(抜け出そう。こんなところ――)


 須佐乃男の舞が終わり、舘に集う者はめいめいが隣の男たちと話し始めている。今のうちだ、と高比古は思った。


「ちょっと用足しに……」


 そばにいた須佐乃男の従者に小声で告げて、膝を立てた。


 小さな舘に隙間を奪い合うようにして腰を下ろす男たちの大きな図体を避けながら、足場を探して戸口へ向かう。背後では、爺様と孫娘の会話がまだ続いていた。


「おお、それでいい。おまえは実に筋がいい。ではもう一度だ。手が覚えるまで続けなさい」


「繰り返してやれば、上手になる?」


「なるとも。正しいやり方を覚えなさい。正しくない時に奇妙なことが起きていると、おのずとわかるようになるまでな。いや、狭霧は賢い!」


 さして賞賛すべきことでもなさそうな些細な成長を喜んでは、孫娘を褒めちぎる老王の言葉が、ばかばかしくて耳が痒い。


(……勝手にやっててくれ)


 せめて胸の中で苦言を漏らして、高比古は舘から地面へと続く階段きざはしを降り、夜風のもとへ出た。





 出雲の港を出てから、四日が過ぎた。


 そのうち二日は、船を漕ぐこともなく、この海辺の集落で過ごしている。


 高比古たちが目指す地は、西の海の要所、宗像むなかた


 その地の都は、倭国の西の島・筑紫と、大陸の間に横たわる海に浮かぶ、壱岐いきという島にあり、また、その島が浮かぶ海は、少々気が荒い。そのため一行は、都のある島へ渡らせてくれるいい風が吹くのを、数日の間待っていた。


 動かずにぼんやりと何かを考えて過ごすのは嫌いではないが、賑やかな場所にいるのが、高比古は大の苦手だ。本気なのか、ただおだてているのか。爺様と孫娘の胡散臭い愛情劇を見せつけられるのも、もうたくさん。


 火明かりの揺らぎを背に、賑やかな舘から早足で遠ざかると、高比古の目の前には、暗い夜の海が広がる。その景色が目に入るなり、高比古は胸で懇願した。


(早く吹いてくれよ、風)


 行きつくべき海上の都へ連れていってくれる、風さえ吹けば。生温かくて胡散臭い光景の中に身を置くという拷問のような時を終えられるのに。


 舘は、潟湖のほとりの岩陰に建てられていたので、少し歩けば、海と繋がる小さな湖の岸へといきつく。湖とはいえ、海が目と鼻の先にあるせいで、そこを吹きすさぶ風は海の香りがした。


 風待ちの退屈を紛らわすような宴が催された舘からは遠ざかったが、湖畔の砂地までたどり着いた高比古の目には、湖を包み込む夜闇も、また賑わって見えた。


 陸と海のはざまの浜辺には、精霊や、死にとらわれた人の霊がよく集まる。


 それは普通、人の目には見えないが、普通は見えないものでも難なく視てしまう高比古の目には、夜の浜辺の喧騒もなかなかのものとして映った。


 でも、精霊や死霊の声はひそやかで、それを耳にできる高比古にも、囁き声としか聞こえない。


(これくらい静かなら、ざわめきも心地いいのに)


 さきほどの奇妙な賑わいを忘れようとするように、夜の冷気に冷やされた砂地に掌をつき、腰を下ろした、その時。


 ひっそりと騒いでいた精霊たちが、いっせいに動きを止めた。そのうえ、精霊たちは、木陰や岩陰など、夜の闇よりもっと暗い場所へとあっという間に隠れてしまう。


 背後を振り返った。


 きっと、誰かがやってきたのだ。ここに、精霊という目に視えない先客がいると気づかずに、闇を踏み分けてやってきた人が。


 闇に紛れてやってくる人影は大きく、見覚えがある。老王、須佐乃男だった。


「須佐乃男様、どうされました?」


 まだ顔もろくにわからないうちから高比古が声をかけると、近づいてくる須佐乃男の気配は、陽気に応えた。


「用足しだよ。おまえこそ何をしている? 用が済んだなら館へ戻ればよかろう?」


「……いや、おれは」


「あ? もしかしてあれか? 一度に出切らんのか? それはおまえ、老体の病というものだぞ? 若いのに」


 須佐乃男は、ばかにしたような口調で冗談をいった。


 そういう冗談も、高比古は苦手だ。


 ええ、実はそうです。そんなわけはありません。どう応えていいものかと考えているうちに時が過ぎていくむなしさも、気味悪くて好きになれない。


 須佐乃男の出方を窺ううちに、無言のまま時は過ぎて、やがて、背後の草むらで用を済ませた須佐乃男は、高比古のそばにやって来た。


「宴が苦手なようだな」


 責めるような言い方ではなかったが、説教をされた気になった。それでつい、慎重にいい返す文句を用意した。


 そりゃあ、あそこまで賑やかなのは苦手ですが……ばかばかしくて。そう、ここぞとばかりに口に出していおうとしたが、先に、須佐乃男が次をいった。


「それとも、わしが孫娘と遊ぶのを見るのはいやかな?」


 須佐乃男に隙はなく、しかも、高比古の胸の内を見抜いてこっそり嗤っているようだ。


 高比古は、むっと顔をしかめた。


 老年のわりに逞しい肩を夜闇に誇らしげに晒して、老王須佐乃男は微笑んでいる。


 笑顔は柔和で、どちらかといえば人懐っこい。挑みかかるような笑顔を浮かべる大国主や、どこか冷たい彦名の笑顔よりは、温かい雰囲気を醸す王なのだが。高比古は、その笑顔がどうも気に食わない。


(苦手だ、この人)


 なにかをいわれても、一言でも応えるのを憚って身構えてしまう。高比古にとって須佐乃男は、そういう相手だった。


 でも、須佐乃男は、高比古のそういう態度を一笑に付す。


「なにをそんなに身構えている? 取って食いやせんよ」


(自分は安全だとみずからいう奴ほど、怪しいだろう)


 結局、何もいわずに黙りこんだ高比古を、老王須佐乃男は見下ろして、苦笑した。


 それから、突然話題を変えた。


「時に高比古、女は好きか?」


「……は?」


「抱けるか?」


(いきなり、なんだ?)


 もちろん、戸惑った。


「……なにをお聞きになりたいのです」


 須佐乃男はさらりとかわす。


「男同士の下世話な話ではだめか」


「はあ」


 どう応えていいのかわからずに、生返事をした後だった。


 ふいに、息を飲んだ。目を見張ったたった一瞬のあいだに、高比古を見下ろす須佐乃男の目の奥が、ひそかな鋭さを得た。


 そして、次の問いで、これまで須佐乃男から投げかけられた問いかけが、一連の繋がりを得た。


「宗像で、一人目の妻を娶る気があるか」


 須佐乃男は、ただ高比古をからかっていたわけではなく、反応を窺っていたのだ。


(一人目の妻だと?)


 冗談か、本気か。真意を探るように、高比古は須佐乃男の老獪な瞳を直視した。目が合ったまま、須佐乃男はにやりと笑った。その瞬間、高比古は覚悟をした。


(冗談じゃない。この人は、本気だ)


 緊張混じりの乾いた息を吐いてから、高比古はじわりと薄い唇を開いた。


「……相手は?」


「宗像の主、筒乃雄つつのおの孫娘だ。今は巫女として沖ノおきのしまにいるが、わしらが都に着けば戻るはずだ。娶れ」


 子供をからかうような冗談は、いったいどこまでだったのか。


 いつのまにか本題に移っていたのが気味悪い上に、しかも、須佐乃男の言葉は有無をいわせない命令のかたちだ。


 高比古は、軽く歯を噛んでおいた。


「それはあなたの意思ですか、それとも……」


 かろうじて訊ね返した高比古を見下ろす須佐乃男の笑顔は、はじめから変わらず柔和だ。まるで、はじめの一言からすでに話は始まっていたといいたげだった。


「おまえの主の彦名の意思。それとも、大国主の意思だといえば納得するか?」


「……」


「出雲の意思だ。もう一度いうぞ。娶れ」


 それは、すでに命令でしかない。


 耐えきれずに老王の眼から目を逸らした高比古は、言葉を絞り出すようにして、歯向かった。


「余裕がありません。おれは若年で経験も浅く、策士としても彦名様の名代としても力足らずで……」


「関係ない。娘を一人、出雲へ連れて帰ればそれでいい」


「でも、その娘に会ってもいないうちから、それでは……」


 訴えるように顔を上げた高比古に、須佐乃男は眉をひそめて嗤った。


「なにをごねている? わしや穴持なもちは大勢妻を抱えたが、わしらが、妻たちを残らず愛していたと思うか? 繋がりをつくればいい。情を交わすならなおいいが、それがあるかないかは問題ではない。いいな? 娶れ」


 拒むすべなど、高比古には見つけられなかった。


「……はい」


 胸に湧いた戸惑いを、もうむりだ、諦めろと宥めるようにゆっくりと返事をすると、すでに話は済んだことになったらしい。


 高比古がうなずいたのを見届けた須佐乃男は、にっと唇を横に引いて、高比古に背を向けた。


 そして、それ以上話すこともなく、賑やかな火明かりの元へと、来た道を戻っていった。




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