二人の子

 その日を境に、高比古の刺々しい眼差しはほんの少し緩んだ。気に食わないことがあっても、だれかれ構わず食って掛かるようなことはなくなり、笹の葉先のような涼しげな目には余裕めいた穏やかさもにじみはじめる。


 とはいえ、彼は策士。出雲王でもある意宇おうの主、彦名ひこなから、戦における全権を預かる高比古の言葉には、相変わらず無駄がない。


 兵舎で狭霧と顔を合わせると、高比古は狭霧を庭の木陰へと誘った。狭霧へ、五佐波いさなみ姫のたどった道を伝えるためだ。


 高比古の話によると、輝矢が殺された日からわずかに二日後、五佐波姫は供の武人とともに出雲を追い払われたのだそうだ。


「もともとそういうつもりで……はじめから罠だったんだ」


 木陰で片膝を抱え込む高比古の声は、詫びるようでも誇るようでもなかった。


「出雲の狙いは、伊邪那いさなの混乱だ。伊邪那の領地は大半を天照あまてらすという娘に奪われて、国の名を大和とあらためている。伊邪那の王は北の離宮に逃げ込んで都へ戻る時期をうかがっているが……出雲がいま目論むべきは、伊邪那と大和のさらなる争い。敵同士の潰し合いなんだ」


 高比古がいうには、伊邪那王が逃げ込んだという離宮があるあたりは、力の強い豪族たちが幅を利かせている地帯なのだそうだ。


 豪族たちは新しく興った大和と伊邪那……つまり、天照という女王と伊邪那の王のどちらにかしずくべきかと目を見張らせている。そこに、輝矢を殺されたことで出雲を恨む五佐波姫が戻れば……。


 大和か、出雲か、はたまたいまのうちに力を誇示しておきたい豪族たちか……。


 伊邪那は対する敵がいくつにも分かれて、おそらくばらばらになって勢いが弱まる。そしていずれ、みずから力を失う……と、そう目論んだのだ。


「戦わずして滅ぼせるなら、と彦名様が仕組んだ。筋書きはいくつかあるが、まずは大和という国を興した女王のお手並み拝見だ。伊邪那に亀裂がはいれば、出雲はその隙を狙って攻め入る。それを見越して、伊邪那まで手を伸ばして騒動を鎮めてみせるだけの手腕があるのか、または切り捨てる気でいるのか。……出雲もいずれ争う相手だろうから、いまのうちにその女の裁量を見たいのさ」


「いまのうちに……。滅びてもかまわない相手がいるうちにっていうことね」


 狭霧も膝を抱え込んでいた。


 高比古が話してくれるのは、武具ではなくて思惑で攻め合う裏の話。少し前だったらさっぱりわからなかっただろう黒い話だ。


 でもいまは驚くほどすっと耳に馴染む。それが狭霧には気味悪いくらいだった。


 でも、姿勢は前より美しくなった気がする。目の前に起きていることを受け入れて、凛とした眼差しで見つめている気がする。……輝矢のように。


「彦名様が仕組んだっていうことは、輝矢のかあさまを捕らえる話だって、意宇も知っていたはずよね。でも輝矢のかあさまは、とうさまの独断だって決めつけていたわね……」


「彦名様が表の王だからさ。表向きには意宇の王は温厚だ。政と神事を司る出雲王は大国主のように戦に出ることもなく、戦が終わったあとは『申し訳なかった、ひどいことをした』と敵に詫びをいれるのさ。……散々殺し合ったあとでも、支配しやすいように」


「それで……。だから、とうさまは死神だなんて呼ばれていたんだ。とうさまは悪役なんだね。ほかの国にとっては」


「表向きにはね。実際は……出雲のなかでは軍神、英雄だよ」


 そこまでいうと、高比古はふうと息をついた。


 それから隣に腰掛ける狭霧をちらりと見やると、真顔を向ける。


「聞きたくない話だったら、無理に聞かせて悪かった。ただ、あんたには知らせたほうがいいかと」


 高比古の無表情は、思いつめているというよりは不器用な真顔だ。狭霧が思うに、高比古は、笑ったり泣いたり喜んだり……そんなふうに心のうちを素直に顔に出すことに慣れていない人だった。


 だから、無表情とはいえ、その奥にはなんらかの想いが隠れている――とくにいま、そこにあるのは自分への気遣いだと、狭霧はわかった。それで狭霧は、微笑んで見つめ返した。


「ううん。ありがとう、教えてくれて」


 視線と視線が合わさると、高比古はぎくっと肩を揺らして狭霧から遠ざかろうとする。人から笑いかけられることにも、どうやら彼は慣れていないのだ。でも無表情の向こう側では、ひそかに喜んでいるような気もした。


 たぶん、嫌がられてはいない。


 それで、狭霧は十分満足だった。これまで高比古からはずっと、近づくな、関わるなと散々いわれてきた。それに比べれば――。


 狭霧は、もう一度笑いかけた。


「じゃあ、ありがとう。いかなきゃ」


 そういって腰を上げようとすると、高比古の眼差しの先は狭霧の笑顔を追って動いた。


「いくって、どこへ?」


「王門よ。今日は紫蘭しらんたちと山へいくから、そこで集まることにしているの。薬草が生えている場所を教えてもらうのよ」


「山へ? 紫蘭と誰とだよ? 桧扇来ひおうぎと、ほかは?」


「それだけよ。紫蘭と桧扇来とわたしの三人で。……おかしい?」


 高比古が眉をひそめるので、狭霧は首を傾げておく。すると高比古は説教でもするように目を細めた。


「剣もろくに使えないやつだけで山に入るってのか? あんたは出雲の狭霧姫なんだぞ。あんたを浚って、大国主に一泡吹かせてやろうって賊がうろついてたらどうする気なんだ。少しは気をつけろよ」


「……血筋に驕るなってわたしに怒鳴ったのは、高比古のくせに」


 狭霧が肩をすくめると、高比古はばつが悪そうに目を逸らした。それから、


「そうだな、謝るよ。おれが悪かった」


 あっさりと詫びると、高比古は自分も膝を立てて腰を上げた。


 立ち上がると、彼の姿はたちまち陽光を遮って狭霧の頬に涼しい影を落とす。


 高比古の顔を見上げたときの顎の角度が、輝矢を見上げたときとは違うので、狭霧はついぼうっとした。輝矢もいつのまにか狭霧より背が高くなっていたけれど、高比古の背は輝矢よりもまだ高かった。


 狭霧を見下ろすのは、相変わらず不器用な無表情。でも、笹の葉に似た涼しげな目元の向こうからも、高比古は狭霧をしっかりと見つめていた。


「護衛におれもついていってやるよ。あんたが悪党に襲われでもしたら、見送ったおれが責を問われちまう。あいつらよりよっぽど薬草にだって詳しいしな」


 笑っているのかそうでないのかわからない程度の笑みを浮かべて、本気なのかそうでないのかわからない下手な冗談をいうので。狭霧はぷっと吹き出してしまった。


 高比古はむっと顔をしかめる。


「なにかおかしかったか」


 狭霧はくすくすと笑ったままだ。


「あなたって、真面目ねえ」


 ふてくされた高比古はますます機嫌を損ねるが、狭霧は気にしない。不器用な高比古にも、からかわれるのが苦手な高比古にも、ずいぶん慣れていたのだから。


 兵舎の庭には午後の陽光がさんさんと降り注いでいた。狭霧と高比古は連れ立って歩きながら、温かな日差しを掻き分けて兵舎の庭を横切った。王門へ続く大路を目指したのだ。


「薬師になってどうするんだ。戦にでもいく気か?」


 やっぱり高比古の口調は淡々としているが、つい狭霧は微笑んでしまう。声の向こう側には、ちゃんと人らしい温かさがあると気づいたからだ。いや、それをかたくなに隠していた壁のようなものが消えていると感じたから。


(やっぱり、悪い人じゃない)


 狭霧は、素直に問いに答えることにした。


「わたしで用が足りるならついていくわ。でもいまは、もっと薬師の数を増やすような仕組みをつくりたいなって思うの。だって紫蘭も桧扇来もあなたも、事代(ことしろ)ってみんな真面目で、自分のことに一生懸命だから、そういうことに関心がないみたいだし」


 ここしばらく胸にあふれていた想いを告げると、狭霧は照れ臭そうにはにかんだ。


「ほら、わたしってそこまで能がないから。事代になれるような力なんてもともとないし……みんなの小間使いに回ろうかな、なんて」


 高比古は面食らったように唖然とした。しばらく黙ってまじまじと狭霧を見下ろした。


 狭霧が口にした彼女の理想が、小間使いと呼ぶべきものではなかったからだ。


 『強いものが上に立つ』という出雲の掟どおりに、力あるものを見極めて、信頼して、いくべきところへ導いていくもの。それは、為政者と呼ぶのだ。


(想い人の王子が死んで、悲しんでるはずなのに)


 それを思うと、ますます……。高比古は恐れ入ったというふうな微笑を浮かべた。それから、


「あんたは、たしかに大国主の娘だよ」


 狭霧を励ますように声をかけた。






 微笑をこぼしながら兵舎を出ていく狭霧と、高比古の後姿を眺める眼差しがあった。


 庭の奥にひっそりと建つ館の回廊に腰掛けていた二人の武人、大国主と安曇(あずみ)だ。


 笑い方はいくぶん変わったものの、柔らかく微笑んで次の場所へ向かう狭霧を穴が開くほど見つめて、安曇はほっと胸を撫で下ろしていた。


 それに、大国主が茶々を入れる。


「よかったな、とうさま。狭霧が立ち直って」


 ……狭霧の実の父は、自分のくせに。


 からかわれたと悟るやいなや、安曇はそばであぐらをかく大国主を睨んだ。


「穴持(なもち)様、私はまだ、あなたを許したわけではありませんからね。輝矢様の望みとはいえ、あなたがわざわざ手をくださなくたって。それもあの子の目の前で……」


「では、どうすればよかった。名も知らぬ武人に輝矢の最期を任せるのはあまりに哀れだ。おれでなければ、輝矢の首を刎ねるのはおまえか高比古だった。……それは気がひけた」


 大国主は、渡殿にはりめぐらされた手すりに肘を預けてどっかりと座り込んでいる。彼は遠くを見やって苦笑していた。視線の先では、ずいぶん小さくなった狭霧と高比古の後姿が、兵舎の門をちょうど越えようとしているところだった。


 安曇は、大国主が目で追う先に視線を送るが。いつか、盛大にため息をつく。落胆して、呆れてもいるようだ。


「だからといって狭霧をあの場に引っ張り出すなんて。あなたは本当にやり方が荒いんです。……いえ、私はあなたの側近にすぎませんから。口答えなどはいたしませんが」


「散々いったくせに。おれはかまわんよ。いいたいことがあるならいえよ」


「じゃあいいますが」


「いうのか? 生意気なやつだ」


「からかわないでください」


 大国主が口にするのが冗談ばかりなので、安曇はさすがに腹を立てる。


 大国主は顎を傾けて小さく吹き出した。


「なぜだよ。狭霧は出雲の姫になろうとしていたんだ。狭霧がそう望むなら、そうさせてやるのがおれの役目だろう? ……狭霧の人生だ。あいつが自分で選べばいい」


 そこまでいうと、大国主も小さく息を吐く。兵舎の門を見つめるが、そこに狭霧の姿はもうない。角を曲がって大路へ抜けてしまったのだ。高比古と一緒に。


「おれは、狭霧が子供のままでもじゅうぶんだったんだ。それなのに高比古のバカが、無理やり狭霧の目を開かせたんだ。出雲の姫としての……。狭霧はこれから多くを知っていくだろう。そうなったあとで、狭霧がどんな娘に育つのか。とにかく、おれの知っていた狭霧は消えたんだ。……おれは寂しいぞ」


「穴持様……」


 大きな肩を力なく手すりに預けてうなだれる大国主を、安曇はそっといたわった。


 降り注ぐ午後の陽光。兵舎に出入りする人影は絶えることがなく、武具の匠や武将や、意宇やほかの小国から訪れる使者や……大勢の人間の緊張であたりは慌しいはずだった。だが、それを包み込む温かい日差しは、そこにささやかな平穏を与える。


 緩やかな光景をぼんやりと眺めながら、大国主はつぶやいた。


「なあ安曇、おれは時々考える。親子の縁とはなにで決めるのだろうな。血の色は無用と声高に怒鳴りあうこの国で……」


 安曇に呼びかけはしたものの、それは独り言に近い。


 それに応えた安曇の声もずいぶん静かだった。


「力の掟にのっとって、血筋ではなく意思を継ぐものこそが子だとそうおっしゃれば、高比古が喜ぶのでしょうね」


「そうだな、それで力を保っていくのが出雲だ。おれも昔は、出雲のためにおれを受け入れろと須佐乃男へ本気でねだったし、そうするべきだと疑わなかった。いまでもそれが正しいと信じているが……でも、狭霧は……あの子はあの子で格別にいとしい」


 そこまでつぶやくと、大国主はふっと息を吐いて肩を揺らす。


「さあ、知らん。いとしいものはいとしいし、理由など要らんか。……だが、子供たちが仲良くするのは見ていて快いな。この国の行く末を見るようで」


 大国主はふたたび兵舎の門あたりを眺めた。彼が見ようとした狭霧と高比古の後姿はすでにそこにはなかったが、大国主の目は大路を並んで歩く二人の姿を見ていた。


 生い立ちも気性もまるで違う二人が、出雲という国を介して出会い、苦しみ合い、お互いを認めて、いまは傷を癒し合っている。それが大国主の目には希望と映ったのだ。


 だが、安曇はそれに水を差す。注意深く言葉を選びながら、彼はいった。


「でも実は、狭霧と輝矢様が仲良くする姿に私は希望を感じていました。この大乱の世にもいずれ、そういう日が来るのではないかと」


「そのとおりだな」


 大国主はそっと顎をあげる。鋭い両眼が見つめたものは、どこまでも広い空だった。


 吸い込まれていきそうな初夏の青空。青さは天の高いところまで澄み渡って、はるか高みには純白の雲がたなびいている。雲の流れは速く、そこに吹きすさぶ風の強さを教えた。地面に程近い場所では、温かい風が頬をやんわりと撫でるだけだというのに。


 人が感じることはできなくとも、そこでは強く激しい風が吹いている。穏やかに見えたところで、決して穏やかとは呼べない場所はいくつもある。


 清らかに、華やかに見えても実はそうでもないところ。


 一見なにもないように見えるが、見えない罠がそこらじゅうにはりめぐされていて、それを注意深く操りながらでしか生きていけないところ。


 大国主はそういう場所に身を置いていた。


 高比古はその意思を継ごうと、そこへ飛び込んできた。狭霧の手までを無理やり引いて。


 そして、輝矢も。輝矢は物心つかないときから、見えない風に翻弄されて生きてきた。


 それに気づいたところで、大国主にはその風を遮ってやることも、ここへ来るなといい聞かせることもできなかった。それほどに風は強かった。


 天高い場所で流れてゆく白い雲。大国主はじっとそれを見つめて、言霊を吐いた。


「許せよ、哀れな子」


 でも、しばらく強い眼差しを向けると目を逸らす。


「さあ、いこう。おれたちも」


 目尻で安曇を振り返ると、腰を上げた。






                     ...........2話「雲の切れ味」へ続く







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