夜明けの海 (2)


「今がいい機会だ。その目で見ておいで、狭霧」


 大国主と同じで、狭霧にとって須佐乃男は、ついていけば間違いのない人だった。


 おじいさまがいうなら、そうしたほうがいいのだ。


 そう感じた狭霧は、その場で阿多行きを決めてしまった。


 でも、大国主はいい顔をしなかった。


「狭霧を阿多へ? いったい今度は、何を考えているんですか……」


「そういわずに、いかせてやれよ、穴持なもち。狭霧が自分でいくといったんだぞ?」


「……あなたがいわせたように見えましたが?」


「なーに、大丈夫だ。軍を従えたおまえと一緒にいくんだ。戦にしにいくわけでもないんだし、物見遊山にはもってこいだ。なあ、狭霧。宗像むなかただけじゃつまらんよなあ、他もいってみたいよなあ?」


 狭霧の父、大国主は、はた目には傍若無人とうつるほど意地を通す人だが、須佐乃男にだけは弱かった。思い通りにいかなくても、須佐乃男が相手なら、早々と折れる。


「……あなたのそういうのは、怪しすぎる」


 父はぶつぶつといったが、黒眉をひそめつつも最後には了承した。とはいえ不機嫌で、かなりの渋面をしていたが。


「だいたいあなたは、高比古のことも……」


「高比古がなんだ? あいつが阿多にいくのに不都合はなかろう? 宗像でしばらく見たが、あいつの石頭はなかなかだぞ? あいつを仕上げるなら、あちこち引っ張り回して、自分の目と耳で覚えさせないと……」


「阿多がどうのと誰がいいました? そうではなく、雲宮の……」


 その後も大国主はため息を吐きつつ睨みつけたが、須佐乃男は陽気な笑顔を浮かべて、のらりくらりとそれをかわす。


「何がそこまで気に食わんのだ? ただわしは、雲宮の居心地も知ったほうがいいと助言しただけだ。あの石頭が彦名ひこな譲りなら、なおさらな。……そうくなよ、穴持」


(高比古が何か? 雲宮のって?)


 狭霧は聞き耳を立てたが、二人とも、肝心なところは口にしない。


 でも、どうやら須佐乃男と大国主の間で、高比古がどうこうという話はひそかに交わされていて、しかもそれは、その時に始まったことではなさそうだった。






 出航の日の夜明け前。


 まだ、天に星空が広がる暗闇の中、狭霧は小さな船の上にいた。


 出雲一、いや、近隣諸国一の規模を誇る神門かんどの港には、船へ乗り込めと命じる武人の声が騒々しく響いていた。


「急げ! 夜明けとともに出るぞ!」


 前に巻向まきむくへ戦に出かけた時ほどではないが、そこで準備を急ぐ兵の数は、武王の一行を護衛するに相応しく大勢いた。そのすべての兵が乗り込むために、神門の砂浜に用意された戦船も、かなりの数があった。


「狭霧様、こちらです、こちら! こちらなんですが……」


 旅装束に身を包む狭霧を呼び寄せるのは、紫蘭しらん桧扇来ひおうぎという名の、事代ことしろと呼ばれる呪術者だった。裾の長い着物をたくしあげて細い膝を出しつつ、二人の事代はいそいそと狭霧を船の上へ呼び、甲板に山積みにされた籠や器の数々を指差した。


「これらはすべて、手土産の薬なんです。その……申し訳ないのですが、遠賀(おんが)の港に着くまで、こちらの世話を、そのー……」


「世話ね? もちろんいいわ。任せてね」


 うなずくと、狭霧は山の形に積まれた籠や器の周りをぐるりと歩んで、一つ一つを覗き込んだ。


青梻あおだも甘野老あまどころに、黄肌きはだ一葉ひとつば……うん、みんなわかる。運ぶのに気をつけなくちゃいけないのはあるかな?」


 尋ねられると、紫蘭と桧扇来は肩を狭めて、もともと肉付きの少ない細身の身体をさらに小さくした。


「こ、これが、その……日差しに弱いので、必ず黒布で覆っておかなくてはいけなくて――」


「布で陽を遮っておけばいいのね? うん、わかった」


 紫蘭の手から最後におずおずと渡されたのは、墨染の布でくるまれた小さな土師器の壺だった。


「これね? 大丈夫よ、ちゃんと面倒をみるから。紫蘭と桧扇来はこの船に乗らないのね。どの船に……?」


「私たちは、その……あちらに、高比古様と同じ船に……」


「高比古?」


 紫蘭と桧扇来につられて視線を向けると、その方角には、立派な船が影になっているのが見える。


 縁に波よけの板を打ち付けた大舟で、周りの小舟と比べるとかけ離れて大きく、今のように暗い影になっていると、浜辺に突き出た大岩のようにも見える。


 舳先と帆柱には、出雲軍を示す軍旗がゆるい海風にたなびいていた。夜明け前の薄闇の中では、軍旗も暗い影になっていたので、旗の色はろくに見えない。でも、その船で揺れる旗の影は、ほかの船についたものより大きかった。それは王の旗で、その船が、船団の主の居場所だと知らしめているからだ。狭霧の父、大国主が乗る船だ、と――。


 目を凝らせば、父らしき武人の影は遠目からもよく見えた。豪奢な戦装束で身を装う父、大国主や、父に仕える高位の武人たちの影も――。


「高比古もあの船に乗るのね。そうよね、策士だもんね……」


 策士というのは、出雲王である彦名の名代であり、気ままに国を出ることができない出雲王から全権を預かって、旅に同行する者に与えられる地位だ。


(……そうよね、高比古は策士なんだ。いずれ彦名様の後を継いで、大勢の人を従えるんだ――)


 狭霧の目が大船の影からしばらく離れなくなると、そばにいた紫蘭と桧扇来は、血相を変えてうろたえ始めた。


「やっぱり無理だよ、紫蘭! 積み荷の世話なら私がするから、狭霧様にはあちらの大船に乗っていただこう。だから、高比古様にそう伝えて……」


「で、でも、桧扇来――高比古様は、事代はすべてあの集まるようにと……。大事な話があるからって――」


「そうだけど、でも無理だよ! 杵築きつきの姫様に、下っ端の薬師みたいな真似をさせるなんて……!」


 ひそひそと小声で話す二人は、杵築の姫を積み荷の世話係にさせてはいけないと思っているらしい。それに気づくと、狭霧はぷっと吹き出した。


「なにをいってるのよ。わたしはたしかに、下っ端の薬師じゃないの」


「でも、姫様……」


「生まれながらの姫君なんか、出雲にはいないの。ほら、いっていって! 忙しいんでしょう?」


 結局狭霧は、二人の背を押して、甲板から追い出してしまった。 


 砂浜へ押しやられた二人の事代はぺこぺこと頭を下げて、何度も振り返りながら遠ざかっていく。狭霧はそれを笑顔で見送っていたが、二人の後ろ姿が、王者が乗る大船へ向かって小さくなり、兵の雑踏にまぎれてしまうと、えいと腕を振り回して気合いを入れた。


 出雲には、力の掟があった。


『力あるものが上に立つ。出雲に血の色は無用』


 血筋がどれだけよかろうが、出雲では、意味を為さなかった。王と呼ばれる者に必要なのは血筋ではなく、力だけ――それが、その掟の意味だった。


(力、か――)


 再び大船を見つめて、狭霧はぼんやりとした。


 その船に乗る武人たちが、港に集う大勢の兵の中でも格段に高い地位についていることは、彼らの姿を見るだけでよくわかった。全身が黒い影になっている今ですら、彼らが身にまとう鉄鎧が、狭霧と同じ小舟に乗る兵たちの身を守る簡素な戦装束とはかけ離れて見事で、薄暗い早朝の闇の中ですら、くまなく磨き上げられているとわかった。


 そうかと思えば、大船に乗る武人たちの影は、ある時、突然きらきらと輝き始めた。


 思わず狭霧は、背後をたしかめた。海とは逆の方角で、そこには、出雲の海を見守るなだらかな山々がそびえている。


 大船や、そこに乗る武人を輝かせたのは、大地に届き始めた朝の光だった。山際から薄明が始まり、真っ暗だった世界を、あっというまに光の色に染め上げていく。夜明けが来たのだ――。


 光の到来と同じ速さで、命令を伝える声が響き始めた。


「夜明けだ、船を出す。全員船に乗れ!」


 そして、神門の砂浜は、男たちの勇壮な叫び声で一気に満ちていく。


 狭霧が乗り込んだ船でも、櫂を手にした兵たちが慌ただしく持ち場についた。


「姫様、もっと真ん中へ。揺れますよ!」


「せーい、や!」


 雄々しい掛け声。船の奥には腰まで水に浸かった兵がいて、彼らは船壁を力いっぱい押している。


「いいぞ、乗れ、乗れー!」


 砂底を離れた船へと勢いよく乗り込む、ずぶ濡れの漕ぎ手たち。水をしたたらせた漕ぎ手はすぐさま櫂を操るので、小舟はすぐに動き始める。そして、岸を離れるやいなや、水際を進む小舟の群れは、見事なまでに列を為した。


 船の漕ぎ出し方といい操り方といい、手際は鮮やかで、たび重なる稽古の賜物に違いなかった。


 一糸乱れぬ船団の動きに目を見張りつつ、狭霧はそっと胸元を押さえた。


 手のひらの奥、上衣の合わせには、大切なお守りが忍ばせてあった。幼馴染が遺した、髪飾りだ。


 衣越しにわずかな形を感じるだけで、「あぁ見つけた。ちゃんとここにあった」と、胸がほっと安堵する。


 手のひらでそれを包むと、狭霧はそっとまぶたを閉じて、熱心に想いを込めた。


 輝矢かぐや、いくね――。


 まだ全然うまくできないけれど、頑張って薬師になるよ。


 すると、狭霧は、誰かがそばでくすりと笑うのを感じた。涼しげな声が、耳もとでぼんやりと響くのも、たしかに聴いた。


『そうだよ、狭霧。狭霧は出雲の姫だからね』


 幻の声だ。でも、それはたしかに輝矢の声で、輝矢の気配だ。


 実は、こういうことは時々起きた。だから、狭霧は、その髪飾りには輝矢が宿っていると信じていた。


 その髪飾りには、何か優しいものが宿っていると、前に高比古が教えてくれたことがあった。


 でも、実は、彼の言葉を聞く前から、狭霧はそうと信じ込んでいた。


 絶対に輝矢は、まだここにいる。


 幻の姿になってお別れをした後、彼は天高い場所にある美しいところへいってしまったけれど、彼のうちのいくらかは、まだ、ここに――。


 きゅっ――。手のひらの奥の髪飾りを押さえると、狭霧はきつく唇を結んで、前を向く。そして、再び想いを込めた。


 ……あなたの姿をこんなお守りに代えて、あなたと引き換えに選んだ道だもの。立ち止まってなんかいられないわ。


 そうだよね? 輝矢。


 じん、と目もとが熱くなり、ついには目が潤む。いつもなら、人前で泣くのは嫌だと気を張るのだが、今は、手のひらを胸元から離すことができなかった。今なら、そこに輝矢がいる気がして……。それに気付きながら、輝矢から遠ざかろうとは、とても思えなかった。


 輝矢は絶対にそこにいて、自分を見守ってくれている。そう信じて疑わなかったし、疑おうと考える意味すらわからなかった。


 それが本当の輝矢かどうかなんて、ひどく馬鹿げた問いだ。


 だって、そこに輝矢がいるのに――。


 今も、耳を澄ませば、輝矢の優しい声が聴こえる。


『大丈夫だよ、狭霧。僕が守るから』


 幻だろうが、たとえそれが悪霊と呼ばれるものだろうが、それが輝矢なら――こんなふうに彼の声を聴けるなら、狭霧はそれでよかったのだ。






 海の上には、武人の声がこだまのように響いている。


「水門を出るぞ。全船、寄れ、寄れー!」


 時が経つにつれて、背後に連なる山際に色づく光は、だんだんと色濃くなっていく。


 船は、夜明けの光に照らされた波の上を進み、海へと続く道をいく。命令に従って細い列を為す船団は、今や、出雲の港を出ようとしていた。



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