天の弓矢 (2)


「と、いうわけだ。大国主が呼んでいる。いくぞ」


 佩羽矢ははやのもとへ伝えに戻った高比古は、返事を求めなかった。だから佩羽矢は、まず文句をいった。


「はあ、大国主? なんで俺が」


 でも、高比古に相手にする気はないらしい。


「おれは相談した覚えはないんだよ。いいから、いけ。大国主を待たせるな」


「相談した覚えはないって、命令したってことかよ? なんで俺があんたに命令されなきゃなんねえんだよ。俺はまだ出雲に従うって決めたわけじゃ……!」


「おまえの意見は聞いていない。今後だろうが、出雲と関わる気が多少なりともあるなら、大国主に逆らうな」


「でも俺は、まだ……。ただすこし大和が信用ならなくなってるだけで……!」


「わかってる。ちゃんとそう伝えてあるよ。大国主はただ、おまえに会いたがってるだけだ」


「……ほんとかよ」


 佩羽矢は了承したが、ぶつぶつといった。


「大国主に逆らうなって……そんなにあるじが大事かよ。賭けてもいいぜ? あんたの主は、あんたをそれほど信用してねえよ。なにかまずいことが起きれば、すぐにあんたを切り捨てるね」


 佩羽矢は八つ当たりをするようだった。


 それを咎めたのは、高比古のそばで二人のやり取りを見守っていた狭霧だ。


「そんなことないわ。高比古は……」


「高比古は、なんだ? こいつは出雲に栄華をもたらす宝か? けっ、うさんくさい」


 口を挟んだ狭霧を、佩羽矢は牙を剥く小獣のような暗い笑みを浮かべて睨みつける。皮肉をいいつつ、いまにも襲いかかるふりをして、彼は狭霧を脅そうとした。


「下がってろ、狭霧。佩羽矢、おまえも、いい加減に身の上をわきまえたらどうだ。自分より弱い相手にだけ吠えるのか? とんだ小物だな」


 佩羽矢は、かっと頭に血を上らせた。


「なんだと……? やっぱり、てめえとだけは仲良くできそうにない。そのお姫様は、あんたが守ってんのか? ……しっかり守っておけよ。隙をつくったら、あんたに襲いかかる代わりに、そのお姫様をめちゃくちゃにしてやるから」


「そんなことをしてみろ。おれより先に、大国主がおまえの四肢を引きちぎって、そのうえ八十やそに引き裂くよ。剣なんか使わずに、手ずからな。……とにかく、いってこい。大国主を待たせるな」


 背に匿われた狭霧からは、脅し返した高比古の顔が見えなかった。でも、高比古がいい切るなり、佩羽矢の顔は悔しそうに歪んでいく。いい合いは高比古の勝ちで、彼は言葉よりまず気迫で佩羽矢を屈したのだろう。


 渋々と遠ざかっていく背中を見送ると、狭霧は高比古を見上げた。


「庇ってくれてありがとう」


「おれはなにもしてないよ。大国主の名を借りてあいつを脅しただけだ」


「でも――。高比古は、とうさまのことが本当に好きなのね」


「え?」


 いったいなにを訊くんだ? とばかりに高比古は怪訝顔をした。


「だって、さっきの言葉には、心がこもっていたもの。ううん、いまだけじゃないわ。いつも高比古がとうさまのことを話す時は、なんていうか怖い目をするもの。わたしがとうさまの悪口でもいおうものなら、必ず叱られてしまいそうな感じなの」


 そこまで告げると、高比古は納得したようで、ああ……とうなずいた。


「あんたのとうさまのことは、そりゃあ、尊敬してるよ。実の娘のあんたとは、想いの種類がちがうだろうけどな」


「想いの種類?」


 狭霧は反芻した。それから、目を伏せて足もとの土を見つめた。


「想いにちがいなんかあるのかな。それに、なにがちがったって、血がつながったわたしより、高比古のほうがとうさまの本当の御子に見えるわよ。とうさまのそばにいるのはわたしより高比古だし、それに、もともと出雲には血筋が関係ないんだもの」


 愚痴をいうようにつぶやいた狭霧を、高比古は訝しげに見下ろした。


「本当の御子に見える? ……さあ。比べる意味がわからない。無意味だ」


「比べる意味がわからないって……」


 高比古は、狭霧がいったすべてを覆すようだった。狭霧が唇を尖らせると、高比古はいいなおした。


「あんたのいいたいことは、なんとなくわかるよ。おれも前はこだわっていたから。一度、あんたのとうさまにもいわれたことがあったけど、たしかにおれは、あんたのとうさまの息子になりたかったよ。大国主の血をひくあんたが羨ましいって思ってた。それは、うん、事実だ――。でも、あとで馬鹿みたいだと思った。いくらあがこうが、おれに大国主の血が流れる日は永遠に来ないよ。代わりに、別のやり方でならおれでも大国主を継げるって気づいた」


「とうさまを、継ぐ……?」


「それが力の掟だろ? 血ではなく、意思を継ぐ者を後継者とせよ――って」


 高比古は、そばにあった大岩に腰を下ろした。大国主のもとへ向かった佩羽矢を待つのに、彼はそこに腰を据える気でいるらしい。


 岩の上から狭霧を見上げた彼は、続けていった。


「おれはあんたのとうさまを尊敬しているし、あの人のものをすこしでもなにか継げるなら、命だろうが人生だろうが捧げるよ。……ああ、あんたは一つ誤解しているな」


「誤解?」


「ああ。おれはいま、あんたのとうさまの子になりたいと思ってるわけじゃない。おれはあの人に服従してるんだよ」


「……服従」


「そうだよ。だから、さっき佩羽矢がいっていたが、大国主がおれを信用しようがしまいが、いつか見放されようが、それは大国主の自由だ。おれにそれを咎めるすべはない。これが力の掟だよ。でも、あんたはそうじゃないだろ? なにが起きても、あんたは大国主の娘だ。それが、おれとあんたのちがいだろ?」


 狭霧を見上げる高比古の目はまっすぐで、瞳の奥にある意思は強く、揺らぎもしなかった。


 おれはそう信じているが、あんたにはなにか信じるものがあるか――?


 彼のまっすぐな目から、詰問された。そんなふうにも感じた。


 なにより彼の目にいい負かされた気がして、狭霧はそれ以上やり取りを続けることができなくなった。言葉に詰まると、狭霧は気づいた。


(さっき佩羽矢さんが高比古にいい負かされたのは、きっといまみたいに、高比古の意思に負けたんだろうな。佩羽矢さんだけじゃないわ。前に高比古と口喧嘩をした盛耶もれやも――)


 高比古が胸に秘める重い意思に対峙できるものなど、狭霧にはなかった。きっと佩羽矢たちも、狭霧と同じように感じたのだ。そして、いまのような高比古から直視されることに耐えられなくなったのだ。

 





 やがて、ほどなく狭霧は、前方に建つ小さな館からふらりと出てくる人影を見つけた。その人が身にまとう衣装は大和風に見えた。


「佩羽矢さんだ。とうさまと佩羽矢さんの話は、もう済んだのかな。早かったね」


「こんなもんだろ。大国主の言葉は、いつも短いよ。あの人が口にする言葉はどれも必要不可欠で、最低限のことだけだ。……それにしても、いったいどうしたんだ、あいつ」


 高比古が見つめる先の佩羽矢の様子は、たしかにおかしかった。


 そこへ向かう時にはかっかと肩をいからせて、まるで敵地にでも乗り込んでいくふうだったのに、いまは真逆だ。佩羽矢は奇妙な歩き方をしていて、腰が抜けたようにふらついていた。そうかと思えば彼は、舘の壁に手をついて立ち止まり、うずくまった。


 遠くを見るのに目を細めつつ、高比古は訝しげにいった。


「……吐いてる?」


 それで、狭霧もたしかめてみた。木壁に両手をついた佩羽矢は背を丸めていて、胃の腑の中のものを吐き出している。彼の仕草に気づくなり、狭霧にはぞっとした寒気がこみ上げた。


「もしかして、とうさまが佩羽矢さんにひどい仕打ちを……」


「さあ、どうだかな。いまにわかるよ」


 大岩から腰をあげ、腕組みをしてすらりと立つ高比古は、静観していた。


 やがて、高比古と狭霧のもとへ、佩羽矢はよろけながら戻ってくる。


 佩羽矢の顔は、血の気が引いたように真っ青になっていた。お互いの声が届きそうな場所まで彼が近づいてくると、狭霧は手を貸そうと細腕を差し出した。目に入っていないのか、差し出された狭霧の手に、佩羽矢が目を向けることはなかったが。


「ど、どうしたの……?」


「どうしたもこうしたも」


 戻ってきた佩羽矢は、恐ろしい化け物を見たといわんばかりに青い顔をしていた。正面に差し出された手にようやく気づくと、彼はその表情のままで狭霧を凝視した。


「あ、あんたの親父は、いったい何者だ」


「え?」


「い、いやっ、お、大国主の御子姫に向かって、とんだ失礼を……!」


 佩羽矢の態度は急変していた。さっきは「高比古の代わりに襲いかかってやる」とばかりに、死肉を漁る獰猛な小獣のような目つきで狭霧を睨んだのに。


 ぽかんと唇をあける狭霧の足もとに、佩羽矢は平伏した。そのうえ、堅い地面に指でしがみつきながら、ぶるぶると背中を震わせた。


「……怖かった、冗談抜きで、ほんとに怖かった。なんなんだあいつら……」


 いま佩羽矢が出かけていた先は、狭霧の父、大国主が仮住まいをする客人用の舘だ。そこへ呼ばれた佩羽矢は、たった一人で武王と会って来たはずだ。


 彼はひどく脅えていたが、怖がっている相手はどうやら大国主らしい。それはわかった。でも――。狭霧は首を傾げた。


「あいつらって?」


 あいつら、というからには二人以上を指すだろう。


 尋ねてみるが、佩羽矢の脅えがおさまることはなかった。


「あいつらだよ。大国主も怖かったが、後ろにいた男の目も怖かった……」


「とうさまの、後ろ?」


 大国主のそばにいる男というと、狭霧には一人しか思いつく人がいなかった。それは狭霧の父代わり、そして母代わりとして、幼い頃から温かく見守ってくれている青年だ。


「それって、安曇? 安曇が怖い? そんなことないよ。とっても優しい人よ」


 狭霧の声は、佩羽矢の耳には届かなかった。彼は恐怖を語り続けて、挙句の果てに悲鳴をあげた。


「大国主にはど真ん中をぐさっと剣で突かれて、後ろにいた男からは全部からめ取られた気分だった。調べられたっていうか、試されたっていうか……ああー、めちゃくちゃ怖かったぁぁ!」


「……安曇が?」


 狭霧はまだ納得がいかずにいたが、そのうち耳には高比古の声が降ってくる。


「怖いよ、安曇は」


 彼は、佩羽矢に賛しているようだった。


「……そういえば、高比古も前に、切れた安曇が一番怖いっていってたね」


「切れなくてもあいつは怖いよ。大国主と安曇が揃っての『大国主』だよ」


 ひそひそとしたやり取りを狭霧と高比古がかわす頃。震えあがっていた佩羽矢の息はじわじわと落ち着いてきた。力が入らないというふうに地面に腰を落としたままで、そのうち彼はぽつりといった。


「俺、約束しちまった」


「約束って、どんな」


「大和に帰る気かと尋ねられて、まだわからないと答えたら、出雲にくればどうだといわれた。出雲に血の色は無用。力がすべてだって。そう決めた時は、知っていることを洗いざらい教えれば、住む場所を与えるって」


 尋ねた高比古へ答えると、佩羽矢は寂しげに笑った。


「怖くて、俺、つい『はい』っていっちまったんだけど……いったら、妙にすっきりした。一番うさんくさいと思ってた大和に、決別する用意ができた気がした」


 そこまでいうと佩羽矢は、地べたから高比古を振り仰いだ。高比古の静かな目を見上げる佩羽矢の目には、涙がにじんでいた。


「だって、あんただっていってたじゃないかよ。俺の親は、もう死んでんだろ?」


 高比古は首を横に振った。


「大事なことだ。自分で認めたいと思える時まで、認めなければいいよ」


「いや、わかってるんだよ。実は、うすうすそうじゃないかと思ってたんだ。そういう血はもってんだよ」


 佩羽矢がぽつりぽつりと始めたのは、彼の身の上話だった。


「これでも俺は、術者一族のすえなんだ。あんたみたいに自在に霊威を示す力はないけど、勘はよく当たるから、里では占師うらしの一族っていわれていて――」


 力が抜けきったふうにだらりと垂れていた腕をわずかに動かして、佩羽矢は手の甲で目もとをぬぐった。それから彼は高比古を見上げたが、その時の佩羽矢の顔は、吹雪に洗われた後の雪原のようにすがすがしく見えていた。


「俺、火悉海ほつみ様のいうとおりにするよ。隼人の聖地って場所まで、真偽をたしかめにいく。俺の親は、本当にもう殺されているのかどうか――。そこで真実を知ったら、大国主に従うと約束する」


 佩羽矢がしたのは、決意だ。彼の故郷を裏切るという――。


「わかった」


 重大なものを受け止めるように、高比古は丁寧にうなずいた。それを見届けると、佩羽矢は儚い微笑を浮かべる。それから彼は、ゆっくりと立ち上がった。


 背を伸ばしてすっくと立つと、佩羽矢の立ち姿にはなかなかの華があった。


 だから、狭霧はまじまじと佩羽矢を見つめてしまった。これまで狭霧が見た彼は、どちらかといえばやられっぱなしのところばかりだった。そのせいで、姿勢よく立つ佩羽矢の姿はなんとなく目に奇妙だったのだ。


 彼が身にまとうのは大和風の衣装だ。華美な文様がほとんどない白の服は、出雲服とすこし似ていた。


 実は、髪型もそうだった。大和の人も、出雲と同じく角髪みづらに結う慣わしがあるらしく、結い方や髪飾りのつくりが異なるものの、佩羽矢の大和風の髪は高比古のするものに近かった。すくなくとも隼人の人や、越や宗像むなかた、狭霧が出会ったほかの国の人々と比べると。それに――。


(あれ……?)


 暗いものを振り切ったかのようにすっくと立つ佩羽矢と、彼に並んで腕組みをしてたたずむ高比古を見ているうちに、狭霧はやたらと妙な気分になった。


 錯覚をしたり、幻をみたりした気になって、ごしごしと目をこすったくらいだ。


(高比古と佩羽矢さんって、似てる……?)


 二人の背格好はほとんど同じだった。似たような肩幅、ほどよく筋肉のついた細身の身体、手足の長さも、二人はほとんど変わりない。それに顔も、どことなく似かよっていた。


 ふしぎなものに見入るように狭霧はじっと二人を見つめてしまったが、やがて、本人たちも違和感を覚え始めたらしい。


 ほとんど同じ高さにある高比古の顔をしげしげと見つめながら、佩羽矢は憮然としていった。


「なんか俺たち、似てないか? 鏡を覗いたみたいで、すげえ気持ち悪いんだが」


「……気持ち悪いってなんだよ。冗談じゃない、似てないよ。屈辱的だ」


 高比古は忌々しげに拒んだが。狭霧の目から見ても、二人の見た目はたしかに似ていた。


(似ている人って、いるものなのね。出雲じゃ、高比古に似ている人っていなかったからなぁ。高比古はもともと出雲の人じゃないし……)


 しみじみと思ったが、そこで狭霧ははたと目をしばたかせた。大事なことを思い出した気がしたのだ。


 出雲の策士という地位を得ているとはいえ、高比古は出雲の生まれではない。そのせいで彼の顔つきは生粋の出雲風ではなかったが、狭霧はその理由をほとんど考えたことがなかった。


(そういえば、高比古の故郷ってどこなんだろう)


 出雲生まれでないなら、どこで生まれたんだろう。


 彼の故郷はいったいどこなんだろう――?


 それから狭霧は、もう一つ思い出した。


 そういえば、高比古という名は、出雲の王であり、彼の主でもある彦名(ひこな)が自分の後継者候補へみずから与えた後名のはずだ。いきさつは詳しく知らないが、狭霧はそのように聞いていた。


 と、いうことは――。出雲へ来る前の彼は、別の名を名乗っていたということだ。


(高比古の本当の名って、どんなのだろう……)


 高比古と狭霧は、出会ってから一年近くが経ち、いまは姫君とその守り人として共に過ごす仲だ。それなのに狭霧は、彼の故郷も、本当の名前も、過去も、なにも知らなかった。







「じゃあいこう。すぐいこう。さっそくいこう」


 遠出にはしゃぐ童のように、火悉海は早々に笠沙かささという隼人の聖地へ旅立つ日取りを決めてしまった。


 出発の日はすぐに訪れ、その日の朝、狭霧は火悉海たちと港へ向かったが、途中で火悉海は思い立ったように寄り道をした。


「狭霧、ちょっと来てくれよ。そういえばそこに、見てほしいものが……」


 港へ続く白砂の道を外れた主へ、彼の護衛の若衆は不満の声を漏らした。


「ええっ、若王、まっすぐ港へいかないんですか? 荷物、重いんですが」


「いいだろ、すこしくらい。どうせ大和の奴はまだ来てねえんだし。荷が重いなら、ここに置いていけよ。盗られるのが怖いなら、番を置けば済む話だ」


「平気ですよ、若王。王家の荷に手を出すようなやからは阿多にはいません。荷はここへ置いていきましょう」


 そのように部下と話をつけて、意気揚揚と火悉海が向かった先は、白砂の道を外れてすこし森の奥へ入ったところにあった。


 そこには、突然森の木々がなくなってひらけた場所があった。都から海へと注ぐ川が流れていて、さらさら、さわ……と、涼しげな音色を響かせている。


 朝のまばゆい陽射しのもとで、きゅうに狭霧の目の前にあらわれた野は明るく、輝きを溜めこんだ光の海のように見えた。いや……そこは野ではなく、農地だ。光を浴びて輝いて見えるのは、一面の土が白いせいだ。


 異国の広大な農地の風景に、狭霧は頬をきらめかせた。


「わあ……」


 でも、そばで狭霧を見下ろす火悉海の目には憂いと呼べるものがあった。一歩を踏み出した彼は白砂の農地の端にうずくまり、足もとの土を一つかみした。


「狭霧、ここが前にいってた場所なんだけど」


「はい?」


「畑だよ。見せたかったのは……この土。見た目はきれいなんだけど、この白い土って、農地には向かないらしいんだよ」


「この白い土が、農地に向かない?」


「ああ。うちは、船でほうぼうを行き来するから、中継地代わりの港や里をあちこちにもってる。そこにつくった畑と比べると、ここは段違いに実りが悪い。同じ種を蒔いて、同じように水を引いて、同じように世話をしても、ここではうまく作物が実らないんだ。とくに米は育ちが悪い。米をうまく育てるには、黒い土がないといけないらしい」


「黒い土……」


 落胆したようにゆっくりとつぶやく火悉海のそばに、狭霧もうずくまって、指先で土をすくってみた。


 阿多の地を覆う白土は目に美しく、触れてみてもさらさらとして指に優しい。ぱらぱらと指の隙間からこぼれ落ちていく砂を見つめると、狭霧はじっと考え込んだ。


 出雲の土は、そういえば黒っぽい色をしていた。とくに稲を育てる畑には水を多く引きこむので、土はどろりとして暗い色になる。でも、いま狭霧の足もとに広がる白みを帯びた土は、いくら水を流してもなかなかそうはならなそうに感じた。


「この砂、水を吸わないんだ……」


「ああ、そうなんだ。水路を工夫すればましになるかと思って試したこともあったんだが、大もとはこの土にあるみたくてさ」


 火悉海は重い息を吐いた。


 彼の憂いに満ちた横顔に、狭霧は、似たような深刻な横顔を見せた阿多の王族の娘、鹿夜かやを思い出していた。


「鹿夜さんもいっていました。阿多の土はやせていて、交易でしか生きられない国だって……」


「ああ、そうさ。きれいなだけで、なにも生まない貧しい土だよ。……厄介だ」


 投げやりに嘆いた火悉海を、狭霧ははっとして見上げた。


「そんな……。土がいろいろあるのなら、緑だっていろいろあります。たしかに、この土は稲を育てるには向いていないかもしれないけれど……ここで育ちたい作物はきっとあります。それを探せばいいんです」


「ここで育ちたい作物? ……あるかな」


 火悉海の真顔を見つめ返してから、狭霧はふたたび足もとへと視線を戻した。それから、さきほど触れたあたりの土をさらさらと撫でたり、一つかみしたりして、記憶をたどるように目を閉じた。


「出雲の山にも、こういう砂地の場所があった気がします。そこにはたしか芋や豆が実っていたような……ううん、ほかにも必ずあります。緑だって、ただ生えているわけじゃないんです。のびのびと茂っていける場所を探しているんですよ。この土と性が合う緑を見つけてここへ呼んであげさえすれば、きっとここは豊かな農地になりますよ」


 狭霧が熱心に訴えると、火悉海はくすりと笑みをこぼした。彼がそれ以上地面を見ることはなく、いまや彼が気にしているものは、ひたむきに砂や緑を見つめる狭霧だった。


「緑は住む場所を探しているから、性が合う緑をここで呼んであげればいい、か……。狭霧は草を、人みたいにいうんだな」


「え……?」


「狭霧って、本当に巫女かなにかみたいだ」


 とつぜん微笑まれたことに戸惑ってぽかんとする狭霧へ、火悉海は目を細めてくすくすと笑う。


「いまの狭霧の顔、きれいだった」


「え……?」


「……なんでもない。いいよ、いこう。狭霧をここに連れてきてよかったよ。おかげで、どうにかなる気がしてきた。気が晴れたよ」


 そういってすっくと腰をあげると、火悉海は手を差し伸べてくる。火悉海につきあって地べたにしゃがみ込んだ狭霧が立ち上がるのに、手を貸そうとしているのだ。


 でも、狭霧は思ってしまった。


(立ち上がるくらい、一人でも……)


 でも、いやに頼もしい微笑を浮かべた火悉海から見つめられると、狭霧の手は差し出された大きな手のひらへおずおずと向かってしまった。


「あ、ありがとうございます」


 それから――。その時の火悉海の顔には、えもいえぬ品格のようなものがあった。それに見とれるように、狭霧はじっと彼の笑顔を見つめ返してしまった。


(王者の顔だ。火悉海様は、この国を背負っていく若王なんだ……)


 二人の背後、すこし離れた場所には、火悉海と狭霧から目を逸らすように海の方角を見つめる高比古がいた。


 それから、高比古の手前には、火悉海の護衛をつとめる若者たちが地べたにしゃがみ込んでいる。護衛の若衆は、主と狭霧が手を取り合って立ち上がったのを見つけると、出番を待ちかねたふうに顔を向けた。


「あ、若王、もういきますか?」


「ああ、いこう。……それよりさ、おまえら、もうちょっとしゃきっとしろよ。出雲の姫の前だぞ」


「あ、すみません。つい、いつもの癖で……」


 照れ臭そうに笑いながら立ち上がる彼らは、主である火悉海に自然な笑みを見せている。主従関係にあるとはいえ、きっと彼らは、友人まがいの気さくな仲なのだ。


 隼人風の艶やかな身なりをする護衛の若衆は、そそくさとそばの野で休ませていた武具や荷を背負い始める。


 木や布が擦れあうざわめきが立ち込めると、その向こうに立っていた高比古は背後を振り返って舌打ちをした。


「あいつら、やっと来やがった……」


 高比古が見つめる先には、すこし遠ざかった白砂の道がある。そこには、火悉海の一行が休む場所を目指してやってくる三人の青年の姿があった。いずれも大和風の身なりをしていて、一人は佩羽矢。もう一人は小山と見まがうような巨体を持つ若者、もう一人はやせ細っていた。おそらく彼らは、佩羽矢と共に大和の御使いを任された面々だ。そして、よく見れば彼らは、狭霧たちが阿多へ着いたその日に道端で高比古が睨みつけた若者たちだった。


 大和の三人組は大きな声で喋りながら歩いていたので、彼らが近づいてくるにつれて、賑やかな話声も近づいてくる。彼らの声には、愚痴をいい合うような棘があった。


「あぁ、あんなところにいたよ、火悉海様の一行は」


「寄り道をするならそういってくれよなあ。佩羽矢の勘がこっちっていわなかったら、俺たち、浜までいっちゃってたよなぁ」


「それにしても、本当にいくのかよ、佩羽矢」


「笠なんとかっていう隼人の聖地はともかく、出雲にいくかもしれないって……おまえ、大和を裏切る気か?」


「だって、大和に戻ってどうするんだよ? おまえらだって、とくに用はねえだろ?」


「まあなぁ。俺たちの中で親兄弟が生き残ってたのは、佩羽矢、おまえだけだもん。俺たち、みんな親なしだし」


「そうだよ。そうじゃなきゃ、こんなところまでいかされねえよ。……しっかし、この国にはなんもねえなあ。大和の上役は大嘘つきだよ。なーにが、『喜べよ、おまえたちが向かう先は豊穣の地、豊葦原とよあしはら千秋長五百秋ちあきのながいほあき水穂國みずほのくにだ』だよ。水穂なんか……豊かな農地なんか、どこにあるっつうんだよ、くそったれ」


「しーっ、三熊さんくま。声がでかい! あっちに聞こえる!」


 最後、佩羽矢は人差し指を口もとに当てて仲間の口を閉ざしたが、少々騒がしい彼らのやり取りは、すでに狭霧たちのもとへと聴こえていた。


 佩羽矢が仲間を諌める前から、火悉海はわなわなと拳を震わせていた。


「奴ら、やっぱり腹じゃうちの国のことをぼろくそにいってたんじゃねえかよ。いくら作り笑いしててもなあ、見え見えだっつうの……!」


「ほ、火悉海様、抑えてください!」


 いまにもみずから罰をくだしにいこうと拳を振り上げそうな火悉海の腕に、狭霧は思わず飛びついた。


 火悉海は、彼の暮らす国や、その国を治める彼の一族に誇りをもっている。そして、その誇りを傷つけられることをなにより嫌う。なんとなく狭霧は、火悉海のそういう性分を覚え始めていた。


「怒っては駄目です。いま火悉海様は、大和の本音を聞いたんですよ? 大和の人は阿多を、水穂がたなびく緑豊かな大地だって想像しているっていうことです。いいことじゃないですか。それに、本当は水穂がなびいていなくたって、阿多は豊かで、いい国です。そうでしょう?」


 狭霧から熱心に宥められると、火悉海は照れ臭そうに真顔を歪めていった。


「……狭霧、俺……」


 なにかいいたそうに口ごもったものの、火悉海の唇は結ばれて、しばらくひらくことがなかった。


 それから彼は、宥められるままに振り上げかけた腕から力を抜いていくと、代わりに、狭霧の華奢な背に手のひらをそっと置いた。


「その、ありがとう。……いこう」



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