天の弓矢 (1)


 きっと阿多での王族の権威というのは、相当なのだ。


 肩を抱かれたまま火悉海ほつみのそばに腰を下ろして、狭霧はぼうっと目の前の光景を見ていた。


 さきほどまでとは打って変わって雄々しく振る舞う火悉海は、差し出した盃になみなみと酒をつがれている。ふしぎなことに、彼の横柄な態度に狭霧は違和感を覚えなかった。その代わりに、宗像むなかたではじめて火悉海を見かけた時のことを思い出していた。そのことを高比古に話した時に、彼とした会話も。


『わたしが見かけた時はいつも、なんていうかとても勇ましくて、そばにいっちゃいけないような雰囲気があったから、てっきり、もっと怖い人なのかなって――』


『いや、そっちのほうが正しいっていうか、いまのあいつは鼻の下を伸ばしてるだけっていうか……』


 そういって、その時の高比古はあきれ顔をしたが。彼にそんな顔をさせるほど、これまでの火悉海のほうが、きっと普段の火悉海らしくなかったのだ。


(これが、本当の火悉海様なんだ……)


 自分の持ち物をそばに置くようにして狭霧の肩を抱くいまの火悉海は、それを当然として疑う素振りを見せなかった。


 でも、それは長くは続かない。火悉海に酒を注いだ若い従者が、主がそばに侍らせる狭霧へ従順な目配せを送ると、火悉海ははっと我に返った。


「御酒をどうぞ、若王。狭霧様もお召しになりますか?」


「狭霧? あ……!」


 火悉海は、狭霧の肩を強引に抱いてそばに寄せていたことをいまさら思い出したらしい。それまでの勇壮さは一気に飛び去って、火悉海は顔を赤くした。


「悪い、狭霧、つい……! 肩なんか抱いて……」


 でも、実のところ狭霧は、肩を抱かれたことなど気に留めていなかった。狭霧の目から見れば些細なことに感じた無礼を理由に佩羽矢ははやを取り囲んだ火悉海の部下たちの剣幕や、それを決して許そうとしなかった火悉海の気迫に飲まれて、それどころではなかった。


「い、いえ、いいんです、その……!」


 血相を変えて謝った火悉海へ狭霧が手を振ると、彼はぱっと顔を輝かせた。


「え、いいの?」


「え――?」


「じゃあ、しばらくこのままでもいい?」


「え……」


「なんか、すごくいい気分だ。狭霧を……大国主の娘をそばに侍らせているなんて、なんだか偉いやつになった気分だ」


「……火悉海様は、もう偉い人じゃないですか」


「そういうのじゃなくて。……ああ、いい気分だ」


 火悉海は幸せそうにしみじみといって、浸るようにまぶたまで閉じた。


 これだけ幸せそうにされてしまえば、いまさら「やっぱり放してください」というのも気がひけるというものだ。


 肩を抱かれて、火悉海の肩に寄り添うように座りながら、狭霧はもじもじとしてしまった。


(どうしよう……)


 侍らせると火悉海はいったが、たしかにこの格好では、周りから狭霧は、彼の恋人か深い縁のある娘のように見えているはずだ。


 狭霧と火悉海は、決してそういう仲ではないのに――。


 でも、それを咎める声があった。高比古だ。


「おい、火悉海……頼むから、そいつから離れてくれ。おれが大国主に殺される」


 高比古は、仲睦まじく隣り合って座る二人を隠すように正面に立って見せた。彼が気にしたのは背後……桟敷さじきの方角。そこには大国主と火照王ほでりおうが坐しているはずだ。


 火悉海は文句をいった。


「ええー? せっかく狭霧がいいっていったのに。もうすこしだけいいだろ?」


「もうすこし?」


 桟敷を気にして姿勢を変えつつ、高比古が渋々とうなずくと、火悉海はにんまりと笑って気分よさそうに盃を唇へ運んだ。


「ああ、いい気分だ。酒もうまい」


 高比古は呆れたが。


「おまえって、単純だな」


「まあ、そういうなよ。そういえば高比古、さっきのやつはなんだったんだ? あいつはどこへいった?」


「そいつなら、ひとまずここにいるが」


「そうなのか? ふうん、なら話くらい訊いておこうか。さっきのはいったいなんだったんだろうな。おい、誰か、天若日子あめのわかひこに盃を持ってきてやれ」


 さっきは、目を血走らせて脅したくせに。火悉海の変わり身の早さは見事なものだった。あっという間に火悉海は佩羽矢を近くへ呼び寄せて、宴の輪へ加えてしまった。


「おまえ、すごいな……」


「なにがだ、高比古。あぁ、盃が来たな。酒をついでやれ。これもなにかの縁だ。飲もうぜ」


 騒動など忘れたといいたげに快活にいった火悉海は、みずからの盃と佩羽矢の盃を合わせてみせた。


 とはいえ、佩羽矢はそうではない。宴の輪へ混じったものの、それは火悉海の従者から力ずくで連行されたようなものだ。いわれるがままに坐し、盃を口元へ運ぶものの、佩羽矢はおずおずと声を震わせていた。


「い、いただきます……」


「ああ、遠慮するな。で、さっきのはなんだったんだ。そうだ、どうして狭霧は泣いてたんだ。狭霧、あいつに泣かされたわけじゃないんだな?」


 火悉海は上機嫌だったが、腕の中の狭霧を覗きこんだ時だけはぎらりと目を光らせる。


 獣が獲物を探そうと唸り声をあげたようで、狭霧が犯人の名をいおうものなら、すぐさま鉄槌をくらわせにいきそうだった。


「ち、ちがいます、火悉海様。わたしがあの時泣いていたのは、高比古が……!」


「高比古? おまえが泣かせたのか!」


「ちがう。話は最後まで聞け」


 高比古は、苦虫を噛み潰したような渋面をする。


 そして――。高比古と目配せを交わしたのちに、狭霧は火悉海へ話すことにした。佩羽矢があの時、異国の若王を相手にしてまで暴れた理由を説明しようと。


「実は――」


 それは、すこし長い話になった。


 佩羽矢が国に残してきた家族が、すでに死んでいると高比古が透視とうみをしたこと。


 それから、高比古がなぜ佩羽矢を目ざとく見張っていたのか。高比古は佩羽矢をなんらかの霊威をもつ術者と見抜いて、前に狭霧を襲った賊の残りと怪しんだのだ。


 阿多からの使者を待つのに寄った港、遠賀おんがで狭霧が大和の術者に襲われたことや、それをきっかけに戦が起きたことも。


 そこまで話すと、火悉海は新しい存在を覚えたように、ある青年の名をじっくりと反芻した。


「大和の、邇々芸ににぎ……」


 それは、大和の世継ぎと狭霧へ名乗った異国の青年の名だ。


 その名が出ると、ため息をついたのは佩羽矢だった。


「邇々芸様……。女王の御子です。まつりごとにも戦にも長けた才能ある若御子で、邇々芸様がいれば大和の先は明るいと、栄華の世をもたらす宝と呼ばれています。あの方が、遠賀へ――」


「ふうん……遠賀。そいつに味方したのが、隼人だっていうんだな」


 苦いものを噛みしめるようにいった火悉海へ、応えたのは狭霧だった。


「はい、火悉海様。邇々芸様がいらっしゃったのは、遠賀のなかでも大隅隼人おおすみはやと族がつかさどる浜里でした。同じ隼人という名がつきますが、大隅と阿多ってちがうんですよね?」


「古いおやは同じっぽいけどな。でもちがうよ」


 狭霧の問いにきっぱりと答えた火悉海は、彼の左肩が抱く狭霧の華奢な肩をますますそばへ引き寄せた。


「大和の邇々芸に、大隅、か。狭霧を欲しがってるのは、うちだけじゃないってことだな」


「え?」


「い、いや、なんでもない。なんでも……」


 訊き返した狭霧へ、火悉海はぽっと頬を赤らめて話をうやむやにした。それから彼は、前でぼんやりとする佩羽矢へ新しい話をもちかけた。


「で、おまえはどうするんだ」


「え?」


 佩羽矢は顔をあげるが、彼の顔は生気を抜かれたふうで目はうつろだ。


 火悉海はいくらか同情するようにいった。


「おまえの留守に家族の命を奪うなんて、おまえが大和から御使いとして阿多へやってきたのは、いったいなんだったんだろうな」


 話しかけられたものの佩羽矢はぼんやりとしたままで、答えなかった。


 でも、火悉海も返事を待ったわけではなさそうだ。


「もしかして、おまえが阿多への使者を引き受けたのは、家族の命と引き換えだとか、そんなふうに脅されたからじゃないのか」


「え……」


 佩羽矢はきょとんと目をしばたかせる。仕草は、図星だといいたげだ。


 佩羽矢の表情を目で追った火悉海は、せせら笑った。


「大和ねえ――。天若日子あめのわかひこと名乗る御使いがはるばる阿多まで訪れて、友朋になりたいと願い出たが……どれだけごまかそうが、真意なんか透けて見えるもんなんだよ。悪いが、俺はな、着飾ったおまえが王宮に現れた瞬間にうざってえと思った。俺だけじゃない。親父も、祖父もだ。その証に、この火宴を見ろよ。おまえがやってきた時の歓迎の宴はどんなもんだった? うちは、手土産をたずさえて武王みずからがやってきた出雲は歓迎したが、大和は正直、うさんくさいとしか思わなかった」


 勇ましくあぐらをかき、不敵な笑みを浮かべた火悉海は、頬を炎の明かりで炙っていた。その顔は炎の化身かなにかのように雄々しく見えている。


 火悉海は、言葉と突き刺すような厳しい眼差しで、そこで縮こまる佩羽矢を責める。それから、狭霧の肩を抱いたままですこし身を乗り出した。


「実のところ、そうだったんだろ? おまえは出雲の大国主どころか、矢雲(やくも)以下、いや、これまでうちを訪れた中でも最低の御使いだ。はるばるやってきただけで、ただ居座っていただけ。おまえはなにもしていない。天若日子っていうたいそうな名も、どうせ使者になってから付けられた名だろ?」


「え――」


「どうせ、真名まなじゃないだろ? 見かけ倒しの、偽物の飾りのようなものだ。天若日子ねえ……。小物が身を飾るには、立派すぎる名じゃないか」


 馬鹿にするようにいった火悉海に、佩羽矢は唇を一文字に結んでそっと視線を逸らした。


 火悉海は、それを慰めた。


「勘違いするな。俺はおまえを責めてるわけじゃない。おまえ程度をうちへ送りこんだ大和が気にいらないだけだ。うちは大和になめられたんだよ。くそ野郎が」


 手にしていた盃をぐびりとあおった火悉海は、からになった盃を脇へ差し出す。すると、待ちかまえていたようにそばで酒器を手にする従者が酒をつぐ。無言のうちに大勢をかしずかせる火悉海は、この国の若い世継ぎの風格を身に備えていた。


 ふたたびいっぱいになった盃を唇へ運んでいるあいだも、火悉海は佩羽矢から目を離すことがなかった。そのうえその目はぎらりと光る。ひとつの国を背追う者としての、重々しい光が――。


「ところで。大隅には誰がいった」


「え……」


「大隅隼人の都へ出かけた大和の使者だよ。出雲相手に一緒に戦をするくらいなんだから、使いくらい送ってるだろ? そいつはおまえより有能か、無能か」


「……有能、だと思います。大隅には、すでに移り住んでいる人がいると聞いていますし、大隅の都には、邇々芸様みずからが何度もお出かけになっていると――」


 とつとつと答える佩羽矢に、火悉海はふたたび酒をあおった。


「邇々芸……大和の宝か。けっ。そらみろ。阿多によこしたのはおまえ程度なのに、大隅には大和の宝みずからが出かけてるんだ。阿多をなんだと思ってやがるんだ? 胸糞悪い」


 みたび盃をからにした火悉海は、器をそばへ差し出した。


 盃になみなみと酒が注がれると、とくとく……と、柔らかな水音が鳴った。


 そのかすかな音が耳に届くほど、狭霧は火悉海の手に近い場所にいた。いまや狭霧は、火悉海の片腕に抱きすくめられるようにして彼の胸元に頬を添わせていた。佩羽矢から目を逸らそうとしない火悉海が狭霧を気にすることはなかったが、狭霧を抱く彼の左腕には、いつのまにか強い力がかかっていた。


(あの、もうすこし、力を弱めてください。あの……)


 そう訴えたくて、見上げると、狭霧は彼が身にまとう華やかな衣装ごしに火悉海の横顔を見た。


 目の前にあるものをまっすぐに睨みつける火悉海の顔は、炎の照りにいろどられていた。彼は笑っていたが、目は炎のようにぎらついている。火悉海は、阿多の誇りを傷つけた大和に激怒しているふうだった。


 話はめぐって、火悉海はさっき口にしたのと同じ問いをした。


「で、おまえはどうするんだ。大和へ戻るのか」


 佩羽矢は、蛇に睨まれた蛙のように、敷物に両の手のひらをつけている。


「と、もうされますと……」


「故郷に戻っても、いいことはないんじゃないのか、といったんだ。考えてもみろよ。うちに大和を受け入れる気はないんだぞ? 話が決裂したあとでおまえが大和に戻っても、うちを大和の友朋に引き入れる役目を果たせなかったと責められて、殺されるだけじゃないのか?」


「……そうでしょうか」


 弱々しく反芻する佩羽矢に、火悉海は馬鹿にするふうにいった。


「家族を質にとって、無理やりおまえを阿多へ来させたんだろ? そのうえすでに家族が殺されてるんじゃ……。はじめからおまえの一家を生かす気がなかったのか、おまえの家族がなにかしたのか、大和でなにがあったかは知らないが、戻ってもいいことはないだろ」


「でも、俺は……」


 佩羽矢は頬をぴくりと揺らして、一度言葉を飲み込んだ。それから、肩で重い息をした。


「でも……家族が死んだなんて、俺はまだ信じられないんです。そこの出雲のやつにいわれただけじゃ、俺はそんな恐ろしいことを認められません。俺は、大和へ帰ります……。本当に両親と妹が死んでいるなら、骸を見るまでは――」


「無駄だと思うがねえ」


 火悉海は天を仰いだ。でも、火悉海が唇を閉じて沈黙が訪れると、あたりには佩羽矢の嘆きがしんみりと染みた。佩羽矢の肩は嗚咽に震え、うっ、うっ……という悲しい声も聞こえ始める。


 大勢の輪の中で泣き咽ぶ若者の姿を見やると、火悉海はしばらく黙って、なにかを考えるような素振りをする。それから、いいことを思いついたとばかりに唇をひらいた。


「そうだ。なら、もう一人に尋ねたらどうだ」


「……あの、すみません、火悉海様。もう一人とは」


 涙を拭きながらわずかに顔をあげる佩羽矢に、火悉海はにっと笑ってみせた。


「高比古みたいに霊威をもつやつなら、阿多にもいる。大巫女に透視とうみをしてもらって、死者の声を聞けよ。そうだ、それがいい」


「……あの」


「阿多から南に下ると、阿多の聖地がある。阿多の……いや、大隅も含めて、隼人の聖地だ。そこには、隼人一の巫女が住まっている。巫女に、死者の口寄せをしてもらえばいい。そうしろよ。笠沙かささの巫女のうらは、よく当たるから」


「笠沙……?」


「ああ、その聖地の名は、笠沙という」


 そこまでいうと火悉海は、情けない顔をぼんやりと上げた佩羽矢へと強く笑いかけた。


「そこにいって親の死を認めたら、出雲に手を貸したらどうだ」


「出雲に……?」


「大和のおまえを、出雲なら歓迎するんじゃないのか。おまえが故郷で見聞きしたことを洗いざらい大国主かそいつに伝えれば、それと引き換えに身くらい守ってもらえるだろう? なあ、高比古。どうだ」


 自信に溢れた火悉海から目配せを受けた高比古は、いつもより暗めの真顔をしていた。さきほどと同じく、火悉海と寄り添う狭霧の姿を桟敷の方角から隠す壁になろうと、彼はそこに突っ立っていた。


「すんなりとはいかないだろうが、問題ないだろう。出雲は血筋や生まれより、力を信じる国だ」


「なら、決まりだ。どうだ、高比古。こいつと一緒に笠沙にいかないか?」


「おれが?」


「ああ。あそこの景色はいいし、狩りをするにもうってつけだ。ほら、狩りにいこうって話を前にしたろ?」


「景色に狩りだぁ? 火悉海、おまえ、いったいそこになにをしにいく気なんだ」


「おれ? こいつの付き添いだよ。ついでに、気晴らしだ。物見遊山だ」


「あのなあ」


「なにか問題があるか? 笠沙なら、出雲から来てるおまえらを案内するにはちょうどいい場所だよ。それに、こいつの話を大国主にすれば、そのための同行ならここを離れる許しも得やすいだろ。それに、俺は狭霧と出かけるなら高比古、おまえがいないと……!」


 最後の言葉を、火悉海は照れ臭そうに小声でいった。高比古は渋々と認めるものの、歯切れは悪かった。


「まあ、それはそうだが……」


 そのうえ、高比古は暗い目線で火悉海をじっと睨んだ。


 眼差しの険しさに、火悉海は首を傾げた。


「どうした。なにか気に食わないのか」


「佩羽矢や笠沙のことに異論はない。出雲にとっても、悪くはない話だ」


「佩羽矢? こいつのことか? じゃあ、なんでそんなに不機嫌なんだ」


「……おまえだよ」


「俺?」


 その時、高比古の暗い目は火悉海ではなく、彼が脇に抱く狭霧へ向かっていた。


「いい加減にしろよ。いつになったら狭霧を放すんだ? ただでさえこっちは、いつ大国主の目に入るかってびくびくしてんのに、おまえはいったいなにやってんだ?」


「は?」


 火悉海は、さっぱりわけがわからないとばかりにとぼけた。


 でも、彼のそばにいた狭霧は、ようやく助けが来たと思って、目の前で苛立つ高比古を見上げてしまった。


 その時火悉海は、肩にぐるりと回した手で、いっそうそばに狭霧を引き寄せていた。自分の胸元にしなだれかかるように強く抱き寄せた火悉海の手のひらは、そのうえ手癖のように狭霧の細い腕に触れている。


 こんなふうに大勢の目の前で、いかにも自分の持ち物のように青年の腕に抱かれることなど、狭霧は初めてだった。だから人知れず真っ赤になって身を強張らせていたのだが、高比古はそれに気づいたらしい。


 火悉海は我に返って、はっと狭霧を放した。


「あ、ご、ごめん、つい……!」


「い、いえ、いいんです、その……」


 逞しい腕から逃れるなり、そそくさと狭霧は火悉海から離れた。でも、赤くなって目を逸らすだけの狭霧を叱りつける声があった。正面で仁王立ちになった高比古だ。


「いやな時はいやだとはっきりいえよ。そんな中途半端な返事をしてたら、そいつが喜ぶだけだぞ」


「え、喜ぶ?」


 言葉の意味がわからなくて、狭霧は赤い頬を火悉海へ向けてみた。するとそこには、嬉しそうに目を輝かせる火悉海の顔がある。


 彼の顔は、「え、いやじゃなかったの? いいの?」と幸せそうににやけていた。


 それで狭霧は、さっきのことを思い出した。そういえばさっきも火悉海は、狭霧がつい「いえ、いいんです」といってしまうとその言葉を鵜呑みにして、狭霧をそばへ引き寄せた。


 だから、耳まで真っ赤になった狭霧は、咄嗟に拒んでしまった。


「い、いやです。お願いだから、もう触らないでください……!」


「……ごめんなさい」


 火悉海は、従順に謝った。







 狭霧と高比古を連れての遠出を誰より喜んだのは、火悉海だった。


「平気だよ。笠沙までは船で半日あれば着くから。そのあとすこし歩くがな。護衛はごっそり連れていくし、物見遊山にはちょうどいいぜ?」


 そういって笑う火悉海には、見かけるたびに必ず五人は護衛がついていた。いずれも阿多の武人で、頑丈な胸あてをつけて武装する若者たちの顔は一様に猛々しい。彼らは主の若王を守るために選ばれた手だれなのだろうが、鍛えられた腕や、頬には何度も戦を切り抜けた証のように、一生消えない傷がある者もいた。


「笠沙は景色もいいし、隼人の聖地だし、うん、おまえらを案内するにはもってこいだよ。楽しみだ、なあ?」


 阿多の若王みずからがそのように誘いかけてきたのもあり、佩羽矢の話も含めて、高比古が大国主へ遠出の許しを請いにいくと、武王はそれをすんなり許した。


 実のところ大国主のほうも、阿多の王、火照王に案内されていずこかへ出かける話がすでにあがっていたらしい。


 ただ、事情を話しにいくと、大国主は遠出の許しと引き換えにひとつを望んだ。


 大国主が興味をもったのは大和からの御使、佩羽矢だった。


「そいつに会いたい。そいつをここへ連れてこい」




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