火王の大宴 (3)


 のけぞるようにして背後を振り返った黒い影は、高比古と似た背格好をしていた。おそらく影の正体は、彼と齢が近い若者なのだろう。


 その人の衣服は、暗がりの中でもじんわりと闇を跳ね返す白色。高比古も身にまとう出雲服と似ていて、手首まで覆う袖があり、帯の下には袴もはいている。とにかく、隼人風の衣装ではなかった。


 髪型もそうだ。青年の髪は両耳のそばで角髪みづらに結われていて、隼人風ではない。出雲風でもなく、狭霧が見慣れたものより、結い方も髪飾りもいくぶん優雅だ。


 腰には出雲では見かけない形の剣を佩き、背には美しい弓矢も担いでいた。


 その若者の身なりをたしかめるなり、狭霧は、はっと眉を寄せた。


(この姿は、もしかして……)


 高比古に襟を掴まれた若者は何度となく背後を振り返ったが、自分を捕まえているのが高比古だとわかるなり、さらに身をのけぞらせた。


「い、出雲の……げげ」


 いうなり、彼は渾身の力で高比古の手を振りほどいて、ぱっと身を翻した。若者は一目散に逃げようとしたはずだった……が、高比古のほうが速かった。


「……す、みな……よ」


 高比古が小声でなにかをつぶやいた、次の瞬間。逃げ出そうとしていた青年は急に足をもつれさせて、その場に倒れてしまった。


「わ、この……てめえ、なにをした……足が……!」


 暗い地べたに転がった若者は高比古を睨み上げたが、恨みがましい目つきは自分を転がした犯人は高比古だといわんばかりだ。


 高比古は若者を見下ろしていたが、ぴくりとも動かない冷やかな真顔は、若者からされた誹りを拒もうとしなかった。そのとおり、おまえを冷たい地べたへ転がしたのは自分だ、と。


「そこでなにをしていた。……さっきも道で会ったな。おまえは何者だ」


「……偉そうにしやがって。てめえなんかに答えると思ってるのか」


 若者は引きつった笑顔を浮かべている。その笑顔にあるのは揺るぎない拒絶と、奇妙な技で彼の足を止めた高比古への侮蔑だった。


 でも、高比古が態度を変えることはなかった。


 帯に提げた小袋を探った高比古は、中からなにかを取り出した。次に高比古が手のひらを差し出した時、そこには干からびた草がのっていた。


 高比古の動向へ目を光らせる若者へ、高比古は冷えた声で尋ねた。


「これに見覚えは?」


「なんだ、その草。ねえよ、干し草に見覚えなんか」


「なら、この花は?」


 次に高比古が小袋の中から取り出したものも、干からびた白い花だった。


 若者は頭上高い場所にある高比古の手のひらを見上げるが、しだいに苛立って声を荒げた。


「知らねえよ。わけわかんねえことしてねえで、さっさと妙な術を解けよ。なんなんだよこの野郎、ふざけんな!」


 地団太を踏むように暴れ始めた若者は高比古を睨みつけるが、その目は怒りに満ちている。次に身体が自由になった瞬間には、必ず高比古へ飛びかかって恨みを晴らす、そういう顔をしていた。


 でも、高比古は冷静だ。彼は冷笑を浮かべた。


「まだ答えを聞いていない。おまえは何者だ。いま、そこでなにをしていた」


「あのなあ、答えるわけがねえだろう? こんな真似をされて……絶対に答えねえ!」


「なら、仕方ない。身体に訊く」


「はあ?」


「殺しはしない。ただ、尋ねたことを教えてくれればそれでいい」


「なあ、身体に訊くって、それ……」


 青年にあった憤怒のわななきが、じわじわと薄れていった。そして彼の顔には脅えじみたものが顔を覗かせる。


 高比古は構わず、背後の狭霧へ声をかけた。


「狭霧、しばらく向こうをむいていろ。耳も塞げ」


 凍てつくような声に、狭霧には震えがこみ上げた。


「ねえ、高比古、それって……」


 青ざめた狭霧以上に脅えた人がいた。高比古の足元で地面を這う姿勢で転がされていた若者は、自由にならない身体をよじってじりじりと後ずさりを始めた。


「なあ、おい……」


「……場所を変えようか。この上は宴の桟敷だ。宴の場が悲鳴で汚れるとまずい。……林へ」


 高比古の声は淡々としていた。そのうえ彼は、若者に悩む時を与えない。いうが早いか若者の足首を掴んで、勢いよく引っ張った。


「おい!」


 問答無用とばかりに地べたを引きずられる形になった若者は、大声を出す。が、声にさきほどまでの威勢はない。自由にならない足のかわりに腕や背中をよじらせて抗いながら、人の気配のない闇へ向かう高比古へ、嘆願のようなものを始めた。


「ちょ、おい、やめろよ……なにをする気だ。痛いのは嫌いなんだよ」


「安心しろ。肌に傷をつけるつもりはない。ちょっと苦しい思いをするだけだ」


「ちょっと苦しいって……なあ」


「死にそうになったらやめてやる。……どれだけもつかな」


「……おい、なあ。俺になにをする気だ……」


 結局、桟敷の影から引きずり出されてしばらくいったところで、若者は悲鳴をあげた。


「わかったよ! 話す、話すから!」


「ふうん」


 高比古が若者の足首を掴んでいた手を放したのは、火宴の影が落ちる桟敷と、林の暗闇のちょうどあいだ。呆然と立ちつくす狭霧のそばだった。


 そこは大宴の炎の明かりがほのかに届いていて、真っ暗闇ではない。目が慣れてくると、お互いの顔もわかるくらいの明るさはあった。


 高比古の手が離れると、青年は腰が抜けたふうに地べたに尻もちをついた。


「なんなんだよ、この野郎……」


 文句をいうものの、声には疲れや脅えが混じっている。


 腰を落として若者と目の高さを近づけると、高比古は尋ねかけた。


「聞こうか。おまえは何者だ。いま、そこでなにをしていた」


 それは尋問でしかない。答えなければそれでいい。すぐさま足を掴んで、林へ向かう。そういう脅しが、淡々とした言葉には混じっていた。


「おまえは何者だって……答えを聞いてからじゃ遅いんだぞ? 俺は、てめえなんかに手ひどく扱われていい身分じゃないんだからな。聞いて驚くな、俺はな、てめえと同じく御使いの一行だ。いや、その主だ。俺は、その……や、やま、やままま……」


 重要なことを口にするのをためらうように、若者の声は震えた。


 結局若者はその言葉を口にできなかったが、彼を見下ろす狭霧には、それだけで彼がいおうとしている言葉が弾けた。


(やっぱり……)


 悟るやいなや、きゅっと心の臓を掴まれた気分だった。彼の身なりに妙な見覚えを感じた時から、その答えに気づいていたのだ。


 それは高比古も同じようだ。若者がいい終わらないうちから、高比古はふんと鼻を鳴らした。


「大和だろ、はっきりいえよ」


「……いちいちうるさいな。そうだよ、大和から訪れてる御使い一行の一人だよ。いや、俺こそが勅命を受けた使者、一行の主だ。出雲と敵対してる東の大国の、女王の名代だ。どうだ、びびったか!」


「……まったく」


 まるで動じない高比古に、若者はもとの威勢を取り戻したふうに鼻息を荒くする。


「すこしは驚けよ……! 今の無礼は、絶対に上役にいいつけてやるぞ。阿多王にもだ!」


 でも、高比古の態度は変わらない。彼は訝しげに首を傾げた。


「でも、本当に大和の者か? さっきの草を知らなかったのに」


「いちいち腹が立つ奴だな。あんな干し草がいったいなんだってんだよ」


「おまえは術者だろう?」


「は?」


「そうだろう? 霊威を身に従えて、ふつうの人にはできないなにかをすることができるだろう?」


「……なぜ、それを」


 若者は、きょとんと目をみひらいた。


 若者の仕草は、高比古がいったことを自分で認めていた。それをたしかめつつ、高比古はやはり首を傾げる。それから、手の上の干からびた花をもう一度差し出してみせた。


「本当にこれを知らないんだな?」


「……知らねえよ」


「おまえは、前に狭霧を浚った連中の残りじゃないんだな?」


「は、狭霧?」


 若者はぽかんと口をあけている。狭霧の名にも、高比古がいった言葉にもさっぱり覚えがないといいたげだ。


 狭霧は二人のやり取りをじっと目で追っていたが、そこで高比古から問い詰められている若者よりは狭霧のほうが、よほど状況を理解しているようだった。


(わたしを浚った連中の、残り……?)


 狭霧は、高比古が若者を尋問した理由に気づいた。それはきっと――。


 息を飲む狭霧の前で、高比古はふうと肩で息をした。仕草はいくらか落胆して見えた。


「なんだ。こそこそやってるから、なにかを聞き出せるかと思ったのに。やっぱり小物か」


 それは、若者を無能扱いする言葉だ。


 もちろん若者は激昂して、いいわけをするように喚いた。


「小物小物と……本当にむかつく奴だな。仕方ねえだろうが。俺は術者一族の裔(すえ)だけど、大和の術者じゃねえんだから」


「大和じゃないって、どういうことだ」


 高比古を睨みつける若者は、ぎらりと目を光らせた。それは高比古だけでなく、べつの存在を憎むようだった。


「大和なんて国は、もともとあの地になかったんだ。俺は、伊邪那いさなの術者だ」


「伊邪那……」


「ああ、そうだ。あの地はもともと伊邪那で、大和なんていう名じゃなかった。それが、突然やってきた女王の軍に丸ごと乗っ取られたんだ。前の王もおざなりだったが、新しい王になった女王よりはましだった。奴ら……武具をもって里を回って、忠誠を誓えと脅してきた。だから……。父さんが正しかった。女王に従うふりをしなかったら、家族全員が捕まって、あっという間に殺されてた」


 若者が話すのは、彼の国で新しく王者となった女王への責め文句だった。


 ここ数年のうちに大八嶋おおやしまに名を知らしめた大和という大国は、もとは伊邪那という国だった。


 若者はその地で生まれ育ったようだが、どうやら大和という新しい国が興った時には、すくなからず乱が起き、恐怖と混乱が蔓延したらしい。


 憤りとして吐き捨てられた若者の言葉に、高比古はなぜか首を傾げた。


「……父さん?」


「ああ、父さんだよ。いるだろ、あんたにも」


 若者は馬鹿にするような目で高比古を見上げた。


 狭霧もふしぎに思った。これまでのやり取りの中で「父さん」という言葉が出たのは、いまが初めてだ。なぜ高比古がそこにこだわるのかは、狭霧にもわからなかった。


 高比古の声はいよいよ慎重さを増していく。これまでにしたどの問いかけよりも静かに、高比古は若者へ問いかけた。


「その女王の乱で、おまえの親父は死んだのか?」


「はあ? 生きてるよ。父さんの機転のおかげで、うちの一家は助かったんだから。仲間からは裏切り者扱いされたけど、早々から伊邪那を裏切って、女王軍に加わったおかげでうちは生きながらえた。父さんは毎日いってたよ。裏切り者と罵られるより、家族の命を守ることのほうがずっと大事だって」


「……なら、母親は死んだのか」


「はあ? なんなんだよ、不吉なことばっかりいいやがって。生きてるよ。父さんも母さんも、妹もいる。みんなで俺の帰りを待ってるはずだ」


 若者がけちをつけると、高比古はそっと唇を閉じた。


 それから――彼は眉をひそめて、若者をいたわるような目をした。


「おまえの両親も妹も、生きていないよ、たぶん」


「はあ?」


「いや、そうじゃないかもしれないな。両親に似た、近い存在かもしれない。そういう仲間はいるか? 両親に齢が近い血縁や、妹と齢が近い幼馴染や……」


「なんの話なんだよ。……いねえよ。父さんが裏切ったのは、一族すべてだ。従兄弟たちはみんな女王に逆らって、軍に殺された」


「なら、やっぱりそれはおまえの両親と妹か。……そうなんだな」


「辛気臭いこというなよ。いい加減怒るぞ? なんなんだよ、ぼうっとして。せめてこっちを見ろよ。目を合わせろ!」


 若者が唸りをあげたように、その時、高比古が視ていたのは若者ではなかった。高比古の目が追うものは、若者の顔を外れた場所。その周りや、背後にある暗闇だった。


 若者の周りや、背後にある暗闇……。それに気づくと、狭霧は背筋が凍った。


 高比古には、人並み外れた霊威がある。彼の目はふつうとはちがい、ふつうの人は視えないものを難なく視ることができる。だからきっと、彼の目が暗闇に視ているものは――。


(もしかして、もしかして……)


 悲しみと脅えで、狭霧の小さな顔はいつか蒼白になっていた。


 若者は、がくがくと震える狭霧のほうも不満げにちらりと見やった。


「なんなんだよ、二人して」


「答えろ。おまえの親父は齢が三十半ばで、髪はあんたと同じ角髪みづら。首に緑の玉飾りをつけている。それから、おまえの母親は……唇のそばにほくろがある。それから……」


「おい、なあ……」


 高比古は淡々と続けたが、彼の目はなにかを見ながら、見たものを口にして伝えているようだ。


「妹は、齢の頃十四、五。母親と同じで、口もとにほくろがある。合ってるか?」


 高比古の仕草に、若者は焦りを見せ始めた。いつか、若者の真顔からは血の気が引いていく。


「どうして、それを――」


 高比古と若者は、ほぼ初対面に近い。見ず知らずの相手のことのくせに、若者の父がどう、母がどうなど、高比古は絶対に知りえないことをすらすらと口にしていく。


 脅えた目と視線が合うと、高比古は寂しげに目を細めた。


「三人とも、みんなおまえのそばにいて、大和に戻るなっていっているよ。国で、おまえの家族は殺されたんだ、きっと――」


「おい……」


 若者は青白くなった顔にこわばった笑みを浮かべて、高比古を罵った。


「いい加減なことをいうなよ。冗談じゃねえよ。……取り消せ。冗談じゃねえよ!」


「じゃあ取り消す。なかったことにしろ」


「てめえ、ふざけんな」


「おれからなにをいわれようが、信じたくないことなら信じなければいい。……おれの用は済んだ。手間を取らせた」


 わずかに顎をさげてうつむき、口元に指先を当てた高比古がなにかを小さくつぶやくと、若者の足をからめ取っていた術のようなものは解けたらしい。


 でも、足が自由になったというのに、青年はそこから動こうとしなかった。


「いこう、狭霧」


 狭霧の背を押した高比古は、あっさりと若者に背を向ける。でも、狭霧は背中に回った手のひらを拒むように押し返してしまった。


「でも、高比古……!」


 打ちひしがれたように身体を折り曲げて、冷たい地面に拳を押しつける若者の哀れな姿から、狭霧は顔をそむけることができなかった。


 高比古をいかせまいと足を止めようとしたのは、狭霧だけでなかった。


 地べたから若者は高比古を見上げて、涙声で呼びとめた。


「おい、待てよ……。待て、待てよ!」







 若者は佩羽矢ははやと名乗った。


 高比古は、もう彼に用はないといいたげに狭霧を連れて宴へ戻る道をいったが、佩羽矢はそれをふらふらと追ってくる。


「妙なことばっかりめちゃくちゃいいやがって、てめえのいうことなんか信じるか! くそ野郎!」


「だから、信じたくないなら信じなければいいだろう?」


「うるせえんだよ、さっきのは間違いで、勘違いさせてすまなかったって、てめえの口から聞かない限り、俺は……」


「さっきのは間違いだ。勘違いさせてすまなかった。これでいいか」


「ふざけんな、くそ野郎」


 高比古など信じないといいつつも、佩羽矢は食らいつくように後を追ってくる。


 それを避けるように高比古は早足になっていたが、彼に背を押されて小走りになる狭霧は目に涙を溜めていた。


「高比古……! ちゃんと説明してあげて。さっきのでおしまいだなんて、ひどいよ。佩羽矢さんだって、心配になるにきまってるじゃない」


「説明? おれは視たものを教えたまでだ。それを信じる信じないはそいつの勝手だろ。おれが知るかよ。信じられないし、信じたくもないからどうにかしろっていわれても、筋違いだな」


「でも……」


「ふざけんな、てめえ。絶対に間違いだって認めさせてやるからな……! じゃあ、名を当ててみろ。俺の妹の名はなんだ!」


「名?」


 いつか、三人の足は、ぎらついた炎の輝きのもとへ戻ってきていた。


 敷物の上や地べたで円をつくり、酒を酌み交わす大勢の身体を避けつつ、高比古は早足で進んでいた。ある時ひたりと足を止めると、彼は佩羽矢の頭の後ろあたりの虚空を振り返る。


 それから、高比古はじわじわと唇を動かした。仕草はまるで、そこにいる誰かの唇の動きをそっくり真似るようだった。


「え、る……ちがうな。て、る……。てる?」


 きっと高比古は、死霊から名を告げられたのだ。佩羽矢の声を聴いて、その問いに応えた死霊の――。


 狭霧はぞっと背筋が凍った。


(きっと高比古には、本当に佩羽矢さんを守る死霊が視えてるんだ……。高比古の、ふつうは視えないものを視る力って、本物なんだ……)


 てる、と高比古の唇が発した瞬間に、佩羽矢は呪いの言葉を焚きつけられたように青ざめて、絶叫した。


耀流てる……! ちがう、嘘だ。まぐれだ……!」


「ああそうだ、嘘かもしれないし、合っていたとしても、たぶんまぐれだ。だから、おまえはこれまでどおりにしていればいいよ。役目が済んだら大和へ戻ればいい」


「……ふざけんな!」


 怒号を響かせながら後を追う佩羽矢を連れたままで、高比古と狭霧はもといた場所へと戻ってきた。


 高比古にまとわりつきながら大声で罵る異国の御使いの姿を見つけるなり、そこで宴席についていた火悉海ほつみ鹿夜かやたちは、奇妙なものを見るようにまばたきをする。


「その人、誰?」


「なにかあったのか? って、狭霧……泣いてるのか? いったいなにがあった。そいつが狭霧を泣かせたのか!」


 火悉海は、狭霧の目が潤んでいるのを目ざとく見つけたらしい。


 佩羽矢をその犯人と目星をつけた火悉海は、勢いよく立ちあがってさっそく腕を振り上げる。


 混乱した佩羽矢は、突然喧嘩を売ってきた火悉海へ真っ向から怒鳴った。


「うるせえ、関係ない奴は引っ込んでろ! 俺はこの子なんか知らねえし、泣かせてなんかねえよ!」


 しかし、それには火悉海のもとで宴の輪をつくる若者たちが黙っていない。


 機嫌良く盃を交わしていたのが嘘のように、彼らの身体の周りには怒気が吹き上がる。彼らはすぐさま立ち上がり、数歩踏み出すとみずからの身体で壁を為す。主の尊厳を守ろうと、彼らは火悉海を背に庇った。


「若王に向かって、無礼な……。すぐさまひざまずけ!」


「引きまわしてやる。名乗れ!」


 広場の一角に不穏な気配が立ち込めると、宴に酔っていた人たちも手を止めて目を向ける。


「いったい何事だ」


「若王に、なにかが?」


 ざわめきは火宴に広がりゆき、賑やかな宴の雰囲気は、陽射しが雲に隠れるように、さーっと薄れていく。騒動に、彼らが崇める王の長子が関わると気づくなり、助太刀を買って出ようと腰をあげるものも現れはじめた。


「若王に無礼を働いた奴がいるのか? どこの馬の骨だ。俺もとっちめてやる」


 見る見るうちに騒ぎが大きくなるので、狭霧にはそれまでとちがった脅えがこみ上げた。


(止めなくちゃ)


 無我夢中で火悉海と佩羽矢の真ん中に躍り出ると、狭霧はぱっと手を広げた。


「火悉海様、お気を静めてください! 誤解です。わたしが泣いていたのはこの人のせいではありませんし、この人の気が立っていたのには理由があるんです。佩羽矢さんも、落ち着いてください。あなたは大和の御使いなんでしょう? 火悉海様はこの都の若王よ。あなたがたてついていい相手じゃないでしょう!」


 やっと我に返ったというふうに、佩羽矢は彼を取り巻く状況に呆然とした。


 そばで騒動を目で追っていた高比古は、呆れていた。


「放っておけよ、狭霧。こんな馬鹿、縄でも食らったほうがいろいろと覚える」


「高比古……! もとはといえばあなたが佩羽矢さんを煽ったくせに!」


 そのうちにも、頭に血がのぼったというふうな火悉海の従者たちはぞろぞろと佩羽矢を取り囲んで、威圧する。


「宴を汚すな。裏へ回れ。若王に罵声を浴びせたことは必ず悔やませてやる」


 いうが早いか、佩羽矢を取り囲んだ頑丈な手足は素早く佩羽矢の手首を掴み、無理やり連行するように背を押す。佩羽矢は背に弓矢を背負った武人の風体をしていて、身体は決して細くなく、背もそれなりに高い。でも、いかつい若者にわらわらと囲まれた今は、多勢に無勢。佩羽矢に勝ち目はなかった。


 この先に起きることを想像するなり、狭霧は気が遠のきかけた。


 宴を出て、人目につかないところへ連れていかれれば最後。佩羽矢は、主が受けた罵声の仇を討とうとする若者たちにどんな目に合わされるのだろうか。


 きっと「殺しはしない」と冷笑した高比古のように、彼らは佩羽矢を痛めつけるにちがいないのだ。いや、血が上った若者たちが大勢相手なら、なにかの拍子に命を奪われてもおかしくない。


 火悉海の腕に取りつくと、狭霧は悲鳴をあげるように懇願した。


「火悉海様、お願いです。あなたの従者にやめるよういってください。みんな誤解です。佩羽矢さんは悪いことはしていません。お願いですから!」


 火悉海は、闇の方角へ連れ去られようとする佩羽矢を見やって渋面をしていた。しばらく無言を貫いたが、しばらくすると彼は、ふうと肩で息をする。


「やめろ。そいつを放せ」


「……は」


 火悉海の命令に、若者たちは従順だった。


 従者たちの手が離れゆくと、佩羽矢はへなへなと地面に膝をつく。それを、火悉海はまだ気に食わないものとして見ていた。


「思い出した。おまえは、大和の御使いか。たしか、名を……」


 火悉海から視線で催促をされると、佩羽矢はひざまずいて答えた。


「は、はい。佩羽……いえ、あ、天若日子あめのわかひこです」


 でも、彼が答えた名は、狭霧たちへ名乗ったものとは別の名だ。


(天若日子? 佩羽矢じゃ……)


 眉をひそめた狭霧の目の前で、火悉海は渋々というふうにうなずいた。


「なら、天若日子。いっておくが、阿多では許されない失敗というのがいくつかある。その一つが、礼儀。とくに、王族への振る舞い方だ。阿多は、たいていの失敗には寛容だが、それは失敗しないように努めた末の場合だ。……俺を止めたのが狭霧じゃなかったら、おまえが異国の御使いだろうが、見せしめにした。今後は気をつけろ」


 佩羽矢を脅した火悉海は、仕留めた獲物を押さえこんだ凶悪な爪をそろそろと放していく獣のようだった。


 いまの火悉海に、先ほどまでの陽気な気配は皆無。いまの彼は、忠誠を尽くして仕える武人たちの長であり、阿多という、誇りを重んじる一族の若王でしかなかった。


 深々と平伏した佩羽矢の額に土がつくまで下がったのを見届けると、火悉海はふんと鼻を鳴らす。


 それから、腕にとりついた狭霧の肩を抱いて、もとの場所へと戻っていった。


「いい酔いが飛んだ。酒をもってこい」


 彼が部下へ背中で命じると、阿多の若者たちは火悉海を取り囲むようにして、もとの場所へと急いだ。


「は、ただいま」





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