火王の大宴 (2)
「こ、これ、阿多の美しい娘たち。桟敷にまいって武王のおそばへ。桟敷に華を添えてくれ!」
ぴりぴりとした空気を一掃しようと、
こわごわと桟敷へあがってきた阿多の娘たちはふわりと裳をなびかせて、武王を取り囲むように姿勢よく座った。
「ど、どうぞ、大国主。こちらは延命酒といって、大陸で人気の品なのですが……」
その機嫌を取るように、娘たちのたおやかな手から酒が振る舞われ始めると、安曇はこそこそと狭霧のそばへ寄って耳打ちした。
「狭霧、桟敷を下りていいよ。……この調子じゃ、あなたの姿が目に入るほうが父王は荒れそうだから」
安曇は高比古の耳へも口元を寄せて、内緒話をするように理由を付け加えた。
「高比古、狭霧を
高比古は、狭霧に先立って立ちあがった。
「わかった。狭霧、いこう」
「う、うん」
高比古を追って桟敷から地面へと降りながら振り返ると、少々よそよそしくなったものの、二人の王の宴はつつがなく続いていた。
王の宴席には着飾った娘たちがずらりと並び、いっそう華々しくなったが、桟敷の下の地面でも宴は盛り上がりを見せていた。
その、壮麗な火宴には出雲からやってきたすべての兵が呼ばれていた。
広場には彼らと、出雲の兵をもてなそうとやってきた阿多の若者たちがあちこちで輪をつくっている。
舞手の姿は消えていたが、楽師たちは先ほどとかわらず賑やかな調べを響かせている。きっとその音色は、朝まで途絶えることがないのだ。
ふいに名を呼ばれた。
「高比古、こっち」
高比古を呼んだのは、火悉海だ。彼もいつのまにか桟敷を下りたらしい。
『あの娘は、必ずやおまえの后に……』
そんなふうに父王から命じられた火悉海だが、高比古を誘った彼は、同年の友人に誘いかけるような素朴な笑顔を浮かべていた。
「こっち来いよ。幼馴染を紹介するから」
火悉海が指をさしたのは、広場のなかでもひときわ華やかな輪をつくっているあたりだった。
高比古ははじめ、渋面をした。
「おまえのそばは、さっきの今だと、ちょっと――」
そして彼は、背後をたしかめた。彼は、大国主の血走った目を気にしたのだ。
高比古は、狭霧を守るように広場の雑踏を進んでいたが、二人が去った桟敷はすでに遠い場所にあった。いま二人が立つ場所と桟敷のあいだには太鼓を打ち鳴らす楽師や広場を行き来する人が大勢いて、
高比古は、ふうと肩で息をした。
「まあいいか。わかった。いこう、狭霧」
「うん」
火悉海の背を追って酒器を手に賑わう人の波間を抜けながら、高比古と狭霧が向かった先には、桟敷の上とそうは変わらない豪奢な宴の場があった。地面には異国風の敷物が敷かれて、品のいい身なりをした若者が大勢集って輪をなしている。輪の中には酒器や、馳走が乗った数々の器が所狭しと並んでいた。
「若王がいらっしゃった。おい、席をあけろ」
そこにいた若者たちは、火悉海に気づくなり人の輪を少しずつ詰めあって隙間をつくる。
三人分あけられた場所へ狭霧と高比古も火悉海に倣って腰をおろすが、自分の隣に座った相手をたしかめた火悉海は、なぜだか唇をとがらせた。
「なんだ、俺の隣は高比古かよ……」
たしかに、右端に腰を据えた火悉海の隣には高比古があぐらをかいていて、狭霧はさらに隣に席をとっていた。
高比古はさらりと返した。
「狭霧を隣に侍らせたいなら、代わろうか?」
火悉海は大げさに手を振った。
「は、侍らせる? そ、それはまだ早い……! ただ俺は、狭霧に一言いいたかったんだよ」
居心地悪そうに逞しい肩をひそめた火悉海は、背中を丸めて身を乗り出した。それから、高比古の胸越しに狭霧の顔を覗きこんだ。
「……狭霧! さっきの親父の話なら、気にするなよ? うちの国は、出雲を英雄のいる国だって気にいってるんだよ。その出雲の武王みずからが娘のあんたを連れてやってきたんで、親父もほかも舞い上がっちゃって……。ごめんな、はるばる来たのに、妙な雰囲気になって。あんまり居心地が悪かったら、いい加減にしろって俺からも親父にいうから――」
火悉海がしたのは、狭霧への気遣いだった。狭霧ははにかんだ。
「いえ、いいんです。ちょっとびっくりしたけど……。こちらこそ、父がすみませんでした。あなたの父王に向かって大声を出したりして――」
「いいよ、うちの親父のことなんか。そうやって狭霧がまた笑ってくれるなら、俺はいいんだ」
そのときにした火悉海の笑顔は、胸の底からわき上がったような爽快さに溢れていた。
だから狭霧は、さきほど桟敷の上で急に持ち上がった縁談よりも、火悉海の笑顔に驚いてしまった。
(こんなにきれいに笑う男の人がいたんだ――。
すがすがしい笑顔につられたように、狭霧はくすっとはにかんだ。
でもその時、火悉海の背後からは彼をからかう声が上がる。
「若王、こちらが例の出雲の姫君ですか? 清楚な感じでかわいいじゃないですか。よかったですね、奥方になる人が美人で、若王……!」
冷やかしにきた同族の友人たちへ向かって、火悉海は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「しーっ、しーっ! てめえら、いま、せっかく……!」
(お、奥方……)
いつのまにか狭霧は、火悉海の奥方にされてしまった。
清楚だの美人だの、とってつけたような美辞麗句と同じく、いまのはきっと他愛のない冗談だ。それはわかっていたけれど、勝手に奥方などと呼ばれるのはいくら冗談とわかっていても恥ずかしいものだ。
それで狭霧は頬を染めてすこしうつむきかけたのだが、そのほんの短いあいだに目の前の光景は様変わりした。
「や、やめ……若王!」
情けない声が聞こえたと思ったら、火悉海の腕が背後にいた一人の腕を掴んで敷物の上に引き倒していた。そうかと思えば、引き倒された若者の背中には火悉海の膝が乗り、起き上がれないように押さえ込んでいる。そしてその時には、火悉海の腕はすでに二人目の首根っこを掴んでいた。
「痛い、重いです、若王!」
押さえつけられた青年は泣きごとをいうが、火悉海は目もくれない。彼が頬を赤らめて気にしたのは、狭霧だった。
「ちがうから、狭霧。こいつらは妙な冗談をいってるだけだから! だからふつうに、いつもどおりにな……!」
火悉海は照れ臭そうにいいわけをする。
いまのがただのからかい文句で、冗談だというのは狭霧もわかっていた。でも、その冗談に対して本気に見える制裁をくだす火悉海を見ていると、よけいに狭霧の頬は赤らんでいく。
「は、はい。わたし、気にしてませんから……」
おずおずと応えた狭霧を遮って、火悉海に茶々を入れる声が飛んだ。
「ふつうに、いつもどおりにってさあ……。馬鹿みたいに舞いあがって、出雲のお姫様を気にしてるあんたが一番ふつうじゃないんだよ、わかってんの?」
敵なしにも見える若王を、有無をいわせぬふうに諌めたのは、艶やかな姿をした娘だった。
狭霧の左隣で身を乗り出していたその娘の髪には、色とりどりの尾長鳥の尾がいくつも編み込まれていた。緻密な刺繍がなされた肩布の下には、細い腰のくびれがあらわになっている。すらりとした二の腕に巻きつけられた飾りの先には小さな貝が連なっていて、娘が身動きをするたびに、しゃらん、しゃら……と涼しい音色が鳴った。
狭霧は、すぐに気づいた。
(さっきの人だ。火悉海様と、一緒に舞を踊っていた……)
つい、じっと見つめてしまった。
するとその娘も、狭霧をじっと見返した。
「こんにちは、出雲の姫様。名は、狭霧姫だよね? あたしは
広場に焚かれた炎の明かりを浴びて、鹿夜の頬は熱っぽくきらめいていた。もともと大きな黒い瞳は、長いまつげに飾られるとなお麗しく見える。意思の強そうな太めの眉。すっきりとした鼻に、すこし厚みのある艶やかな唇。娘の風貌は明るく、いきいきとしていた。
「おい鹿夜、馬鹿ってなんだ、馬鹿って……!」
すかさず火悉海は文句をいうが、その時には鹿夜の手から小刀が飛んでいる。
「うるさい。いまはあたしが話してんの」
「あ、あぶねーっ!」
革袋に入ったままの小刀を中空で受け止めつつ火悉海は文句をいったが、鹿夜と名乗った娘は相手にしない。
「いつまでのぼせてる気? あんたがそんなふうにどぎまぎして騒いでるから、姫様が困るんじゃないの。すこし頭を冷やしてきなよ。あぁ、あなたは出雲の策士様ね。名は、高比古様。火悉海から聞きました」
威勢良く火悉海にまくしたてた鹿夜は、そのまま高比古を向いて手を差し出す。
高比古と鹿夜が狭霧の胸の前あたりで握手を交わすあいだも火悉海は喚いたが、鹿夜はそれを無視し続けた。
「鹿夜、いい逃げする気かよ……」
「それにしても、高比古様っていいづらいわね。火悉海みたいに、高比古って呼んでもいい? あたしは鹿夜でいいから」
「ああ、いいよ」
「姫様もいい? 狭霧さん? 狭霧ちゃん?」
「狭霧でいいです」
「鹿夜、てめえ、話を聞けよ!」
火悉海はまだいったが、鹿夜はぴしゃりといって口を閉ざしてしまった。
「あんたこそ、見てわかんないの? あんたに答えられる口があると思う? あたしはいま、高比古と姫様と話してんのよ。すこしくらい待ったらどうなの、この直情馬鹿!」
「俺、あいついやだ。おい高比古、あっちにいこうぜ。うるせえったらもう……」
火悉海は高比古を誘って腰を浮かし、鹿夜とは反対側に座す阿多の若者の集まりへ混じりにいってしまった。
すごすごと去っていく火悉海を見やって、狭霧ははにかんだ。
「火悉海様って、どんどん印象がかわっていきます。はじめに見かけた時は、勇ましくて話しかけづらそうな人かと思っていたんですが……」
鹿夜はけらけらと笑った。
「火悉海様って、そんな柄じゃないからさ、あいつ。火悉海でいいよ」
「でも……」
「だってあいつ、頭が軽いし」
そこまでいうと、背中を向けていたはずの火悉海のほうから手のひら大の小袋が飛んでくる。
「頭が軽いって、なんだと、鹿夜……!」
中空でそれを受け止めた鹿夜は、手のひらの中を覗きこんでくすりと笑い、そのまま腰に結わえつけた。どうやら先ほど火悉海に投げつけたものが、ふたたび宙を飛んで戻ってきたらしい。
物を投げつけられても、鹿夜はくつくつと笑っていた。
「頭はともかく、耳はいいんだけどね」
狭霧は、くすりと笑った。
(きっと火悉海様と鹿夜さんは、いつもこんなふうなんだろうな。とても仲がいいんだ)
そう思ったのだ。
しばらくすると、高比古を誘って向こうの若者たちの輪に入った火悉海は、話に熱中したのか狭霧と鹿夜を振り返ることもなくなる。
でも狭霧も、遠のいた火悉海と高比古が気にならないほど、鹿夜と話し込んでしまった。
鹿夜はとても明るく笑う娘で、はつらつと喋った。厚みのある唇や艶っぽい目もとなど、風貌の色っぽさを、話しているうちに忘れさせてしまうほどだった。
だから狭霧は、出会ったばかりの気丈な娘に憧れすら抱いた。
(こんな女の人がいたんだ――。すてきな人)
「さっきの火悉海様と鹿夜さんの舞、とてもすてきでした。かっこよかったです」
「でしょ? あたしもあの舞は気にいってるんだ。実は阿多じゃ、めったに見られない宝扱いの舞なのよ。異国の人にも気にいってもらえて嬉しいわ。でも、あたしのことは鹿夜でいいよ? そうしないと、あたしがあなたを狭霧って呼びづらくなるじゃない」
「でも……鹿夜さんの齢はいくつですか?」
「あたし? 火悉海の一つ下。十八よ」
「なら、三つも年上だもの。やっぱり鹿夜さんって呼ぶことにします」
「三つも年上って、じゃあ狭霧の齢は十五?」
「はい。でも、もうすぐ十六になります」
「ふうん、もうすぐ十六……そっか。それにしても、しっかりしてるわね。こんなに幼い、かわいい顔してるのに」
すると、鹿夜が狭霧の白い頬を両手で掴みこんでくるので、狭霧は抗っておいた。
「そのー、やめてください……」
「いいじゃない。ほら、火悉海がうらやましそうにこっち見てるし」
鹿夜が気にしたのは狭霧ではなくて、一つ向こうの輪で酒を酌み交わす青年だった。
若者どうしの話に夢中になっていたはずなのに、火悉海は背後を振り返っている。じっとこちらを見つめる目は、なぜか少々恨めしげだ。
「うらやましそう?」
「これでどうだ。えい」
いうが早いか、腕を伸ばした鹿夜は狭霧に抱きついてくる。
「きゃっ」
咄嗟のことに驚いて狭霧は声を出すが、それより大きな声で咎めた人がいた。勢いよく立ちあがった火悉海だ。
「鹿夜、いい加減にしろ。狭霧は俺の……!」
が。火悉海の反応を待ち構えていたように、鹿夜はさっきも宙を飛んだ小刀を彼に向かって投げつけた。
「よく聞こえなかった。狭霧はあんたのなんだ?」
火悉海は耳まで顔を赤くした。それから。
「……てめえなんか嫌いだ」
受け止めた小刀の袋を投げ返しながら、すごすごと背中を向けた。
でも、赤くなったのは狭霧も同じだった。
いまの雰囲気では、火悉海はまるで、自分の恋人かなにかを鹿夜から守るようだったのだから。
「も、もう……火悉海様ったら、父王に惑わされすぎです。気にしすぎですよ。鹿夜さん、さっきね、ひどいんですよ。桟敷にいる時に火悉海様の父王が、わたしが阿多にいるうちに恋仲になっておけって火悉海様にいってたんです。火悉海様はそれで……」
火悉海は、狭霧を特別な娘として世話を焼こうとしているように見えた。だから狭霧もいいわけをするように告げるが、ふしぎなことに、鹿夜の艶やかな風貌からは、さばさばとした明るい笑みがいつのまにか薄れていた。
じっと狭霧を見つめて、鹿夜はさきほどまでそこにあった威勢がすっかり消えうせたような、いたく丁寧な声を出す。
「うん。火悉海はあなたを気にいっているみたい。あなたの近くにいきたくて、そわそわしてるのがよくわかる」
「だ、だから鹿夜さん、それは父王が……」
狭霧は焦って両手を振った。でも、狭霧が慌てれば慌てるほど、鹿夜の笑みは穏やかになっていく。鹿夜はいっそう真面目に狭霧を見つめた。
「ちがうよ。火悉海はあなたが気にいったの。……ねえ、狭霧。あいつのこと、どう思う?」
「え――どう思うって……」
「火悉海はあのとおり、ちょっと単純なところがあるから。あなたみたいに落ち着いた女の子がそばにいてくれたら、ちょうどいいと思うの。あなたはうまくあいつを扱ってくれそうだし――。あなたに褒められたらあいつは調子に乗って、なんでもかんでもうまくやると思う。ふふっ、そういうところも単純ね」
「あの……」
鹿夜までもが、桟敷で大国主へ妻問いをした火照王のように火悉海と狭霧の祝言を望んでいるふうだった。
鹿夜は、火宴の始まりに火悉海と舞った時の衣装を身につけたままだったので、鹿夜が身動きをするたびに、黒髪に編み込まれた色とりどりの尾長鳥の羽がひらりと風になびき、腕につけた貝飾りがしゃら……と響く。
手にしていた赤土の盃を唇へはこんでから、鹿夜は長いまつげに飾られた大きな瞳でじっと狭霧を見定めて、ふわりと笑った。
「あいつね、本当にいい奴なんだよ」
「え……」
「火悉海だよ。あの馬鹿」
さきほどまで罵倒していた相手を褒めるのに、鹿夜は照れ臭そうに笑った。笑顔は童のように純粋で、色っぽい雰囲気のある鹿夜の顔立ちをますます幼く見せた。
「あの……」
「あのね、狭霧。火悉海って馬鹿がつくくらい単純で、まあ、実際のところ馬鹿なんだけど、誰よりも正直で、誰よりも真剣にみんなを愛してる。戦になったら誰よりも前にいって勇敢に戦うし、誰よりも遠くまで見渡してみんなを助ける。本当に、いい奴なんだよ」
鹿夜の声には力がこもり、狭霧を見つめる黒い瞳は真心を込めたふうに潤んでいた。
「悪い奴じゃないからさ。あいつに嫁いでやってくれないかなぁ」
鹿夜がいった言葉よりなにより、瞳に説得されている気分だった。
(真剣な目――。誰かをこんな目をさせるくらい、火悉海様は人から好かれる人なんだろうな)
それから、もう一つ狭霧は気づいた。
それは、狭霧を見つめる鹿夜の目がとても可憐だったことだ。
(心依姫に似てる……。心依姫が、高比古のことをとても好きだっていっていた時の目と――。鹿夜さんは、火悉海様のことが好きなんだ――)
だから、そんな目で見つめられながら「彼に嫁いであげて」といわれるのが、とても奇妙だった。
「あの、鹿夜さん。……あなたは、火悉海様の奥方になりたいと思わないんですか」
慎重に尋ねてみるが、鹿夜は笑い飛ばした。
「あたしが、火悉海の奥方? まさか。なるわけがないよ」
「だって……。鹿夜さんは火悉海様のことが好きでしょう?」
さっきの目はそういう目だった。特別な相手を想う目だった――。
彼女がした眼差しの真意を問うように、鹿夜を見つめる狭霧の目も鋭くなった。
すると鹿夜はけらけらと笑うのをやめて、じっと狭霧を見つめる。それから、あはっ……と気の抜けた笑い声をこぼした。
「負けた。さすが、出雲のお姫様は鋭いね。……そうだよ、あたしは火悉海が好き」
「やっぱり。だったら、わたしに嫁いであげてなんていわないで、鹿夜さんが……」
「勘違いしないで。火悉海は誰より好きな男だけど、妻になりたいっていうわけじゃないから」
「……え?」
「大好きっていう気持ちと、恋人や妻になりたいっていう気持ちはちがうと思うの。あたしは火悉海が大事だから、彼がとても好きな相手と結ばれて幸せになってほしいと思う。……あなたに、そういう相手はいなかった? 好きな幼馴染とか、大切な友達とか――」
「好きな幼馴染とか、大切な友達とか――?」
その時、狭霧に浮かんだのは高比古の真顔だった。
高比古には恋心を抱いているわけではないけれど、彼が楽しそうに笑うのを見るのはほかの誰が笑うのを見るよりも嬉しいし、ほっとする。彼が心寂しく想ったり、苛立ちを抱え込んだりしないで、穏やかな日々を過ごしてくれればいいとも願う。
「なんとなく、わかる気がします……」
応えると、鹿夜はにこりと笑った。
「ね? あたしにとって火悉海は、そういう相手なの。それに、誰もが一番好きな相手に嫁げるわけじゃないわ。火悉海が娶るのは、必ず異国の娘じゃないと駄目なの」
「異国の娘? どうして――」
「阿多はね、交易でしか生きられない国なの。実りが少ないやせた土ばかりで、鉄や宝玉の山もない阿多には、海しかないの。一族に伝わる風と星の知恵を携えて海を越えて、物を運んで栄えてきたのよ」
鹿夜が話すのは、阿多という国がたどった時の流れだ。
火悉海と同じく王族の一人である鹿夜は、みずからの血や一族の歴史を誇るように重々しく語ったが、表情はいくらか沈み、声は寂しげだった。
「だから阿多では、王になる長子の后は必ず異国の娘よ。その国と長く友朋になれるようにね。……火悉海に聞いたけど、越っていう国もそうだって」
「越……出雲の東にある、北の商国ですね」
「そう。火悉海が
鹿夜との話に真剣になるあまり、いつのまにか狭霧の耳からは宴の喧騒が遠のいていた。
狭霧の目には鹿夜の寂しげな顔しか映らず、囁き声のように小さな鹿夜の声を聞きもらさないようにと、じっと耳を傾けていた。
「商国って、たいへんなんですね。綺麗な船とか賑やかな市とか、たくさんの品物とか、そういうものしか知らなかったから、てっきり華やかな国だと思ってました」
しみじみと狭霧がいうと、鹿夜はぷっと吹き出した。
「そりゃ、まあね。でも、戦の国だっていろいろあるでしょう? あたしだって出雲のことは、剣と弓矢を担いだ武人がそこらじゅうでのっしのっしと徒党を組んでいそうな国っていうくらいしか知らないよ? あなたの国は、きっとそれだけじゃないでしょう?」
それは、みずから断ったとおりに鹿夜の正直な感想なのだろう。
それを聞くと、狭霧も吹き出してしまった。
出雲という国に育って、すこしずついろいろなことを覚えているから、鹿夜がいうのは間違いだとわかる。
出雲は戦の国といわれているが、決して戦一色なわけではないし、ならず者の集まりでもない。国に戻れば兵たちは毎日、船を動かしたり戦陣を組んだりと稽古に励んだり、武具の修理に追われたりしている。兵を大勢養うためにも、いかに水穂(みずほ)を実らせるかというのは大きな問題だし、狭霧のような、戦で傷ついた兵を癒す薬師(くすし)や、術師も大勢いる。
戦の国だろうが商いの国だろうが、遠くから眺めただけではとうていわからない実情があるのだろう。
気を許し合ったように微笑んだ狭霧と鹿夜は、その話を終わらせることにした。
(鹿夜さんも王族なんだ――)
話が次へ移って、くすくすと笑い合っているあいだ、なぜか狭霧の胸にはそんな言葉がぽつりと浮かび上がった。そうかと思えば、その奇妙な想いは胸の底のほうの四十万(しじま)へ……狭霧が生まれたときからそこにあり、これからもずっとそこにあり続ける唯一の場所へと落ちていく。
(鹿夜さんも? ううん、ちがうわ。出雲には鹿夜さんや火悉海様の一族みたいな王族はいないし、わたしだって、王族っていうか、たまたまおじいさまととうさまが二代続けて王をしているだけよ)
奇妙な感覚に戸惑いながらも、狭霧は鹿夜とのお喋りに花を咲かせる。
二人のもとに人がやってきて、狭霧を呼んだのはそんな頃だった。
「狭霧、ちょっと来い」
狭霧と鹿夜の前に立ち、向こうにあった巨大な焚き台の火明かりを身体で遮ったのは、高比古。急に目の前にそびえた人影を、狭霧は見あげた。
「高比古、どうしたの?」
「あんたにはなにもないんだが、一緒についてきてほしいんだ。あんたを一人でここに残していったのがばれたら、あとで大国主に殺されるから」
ちらりと桟敷の方角を見やった高比古は、ぶるっと肩を震わせた。
彼の意図はわかった。彼は、渋々ながらも引き受けた守り人の役目をまっとうしようとしているのだ。
だから狭霧は、いわれたとおりに従うことにした。
「うん、わかった。……鹿夜さん、また。お話できて嬉しかった」
「あたしも。あたしならここで待ってるから、用が済んだら戻ってきなね」
「うん、ありがとう」
にこりと笑って別れるものの、立ちあがって背を向けるなり、刺々しい声に呼び止められる。火悉海の声だった。
「高比古、どこにいくんだよ。ていうか、なんで狭霧まで一緒に連れてくんだ? 二人で宴を抜け出してなにする気だ」
火悉海は、自分の大切な娘を連れ出す高比古に嫉妬して責めるかのようだった。
高比古は振り返るなり、いらいらといった。
「さっきから何度いったと思ってるんだ? おれは狭霧の守り人を任されてて、いやでも一緒にいなきゃいけないんだ」
「いやでもって、年頃の姫と一緒に過ごすなんて、いやじゃないだろ、ふつう」
「……おまえと一緒にするな」
火悉海はまだぶつぶつといったが、高比古は聞かないふりを決め込んだ。
「いこう、狭霧。急ぎたい」
「うん……」
背後ですねる火悉海も気にしつつ、大事な役目を思い出したかのような高比古の張り詰めた雰囲気にも気を取られつつ、狭霧はそそくさと高比古の後につくことにした。
炎の熱でぬるまった地面に腰をおろして酒を酌み交わす人たちをよけながら、高比古は早足で進んでいく。彼が目指したのは宴の熱気の外側で、夕陽の残照じみた光が薄れゆく場所。その方角へ向かって進むにつれて背後になった大きな炎が遠ざかるので、風は冷たく冷えていき、楽師たちが奏でる陽気な打音も寂しく遠ざかっていく。
やがて行く手には、ほとんど闇だけになった。火明かりに集まった人々の姿もなくなり、もとの暗い広場だけになる。
「高比古、どこへ――」
「しっ」
尋ねても、わずかに振り返った高比古は鋭い目配せをするだけだ。喋るな、と。
宴の場を外れはしたが、高比古は広場を抜けようとしたわけではなかった。人がまばらになった暗闇に紛れると進む方向を変えて、大回りしながら宴の場へ戻っていく。どうやら彼は、闇を掻い潜りながら、どこかへ外側から回りこもうとしているらしい。炎にあぶられながら一番の盛り上がりを見せる場所……出雲の武王と阿多の火照王が酒を酌み交わしている、桟敷の裏へ。
「高比古……」
声をひそめて呼びかけるが、振り返った彼は人差し指を口元にあてて合図をするだけ。眼差しは鋭く、「音を立てるな」と狭霧へ命じていた。
そういえば彼の足さばきは、静かなものにかわっていた。足音を消すかのように……いや、いまの彼は気配すら消しているように静かだった。
狭霧が思ったとおり、高比古が向かった先は桟敷の裏だった。
みずから上にあがっていた時は、そこに広げられた優雅な敷物や豪華な馳走に目がいって気がつかなかったが、敷物や松明に飾られる前の桟敷は、太い丸太を組み上げてつくった台座だった。
高比古が向かった桟敷の裏側では、丸太の木組みが敷物や明かりに隠されることもなく、あらわになっていた。地面に突き立てられた柱の丸太を支えるために斜めに渡された幾本もの木材や、桟敷の床になる丸太を横に寝かせるための支えの木組みは、雄々しく無骨。桟敷の上で見た表側の雰囲気とは、まるで真逆だった。
炎が照らしている表側とはうってかわって、影になった裏側は闇に沈んでいた。緻密に組まれた丸太がつくる陰影は、影より暗く見える。そしてその下には、丸太の影より暗いものがあった。
(なにか、ある……?)
影は、時おりじわりと動いた。そして、その動き方には見覚えがある。
(人だ――)
息を飲んだ狭霧を、高比古が振り返って、そっと手のひらを向けた。ここで待てと、彼の手と眼差しはいっていた。
眼差しで足を地に縫いとめられたように足を止め、息を殺す狭霧を置いて、高比古はそろそろと桟敷の下で蠢く人影に近づいていく。そして――。
一気に影に近づいて首根っこを掴むと、脅すようにいった。
「ここでなにをしている」
高比古に掴まれた影は、うずくまったままで飛びあがった。
「ぎっくう!」
心の臓を掴まれたかのようにその人は驚いたが、発した声は妙に間抜けだった。
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