火王の大宴 (1)

 火悉海ほつみについて向かった宮殿は、華やかに飾られていた。


 建物はどれもが染め具で彩られていたし、景色をなにより色で染めていたものは、そこを闊歩する人々の色鮮やかな衣装だ。


 火悉海と同じく、ここまで来るあいだに見かけた阿多の人は、肩布を片方の肩から膝のあたりまで垂らして身に巻きつけていた。黄、白、茶色に、黄みの強い赤や、血の色のような濃い赤など――それぞれが鮮やかに染められていたが、とくに赤には何種類かあった。そのせいで、衣装はどれも赤みを帯びて見えた。


 だから狭霧は、こんなふうに思って吐息した。


(赤の都だ……)






 狭霧と高比古が案内されたのは、似たような小屋がずらりと並ぶ通りだった。


 おそらく、異国から訪れる客人のためにつくられた仮宿の連なりだ。


「宗像みたいなつくりだな」


 高比古が感想をいうと、火悉海は悪びれる様子もなくいった。


「ああ、あそこの真似をしたんだ。客人用にこういう棟があると便利だなぁって」


 二人を宿へ送り届けると、火悉海は近くにいた侍女を呼び寄せる。そして彼はせわしなくそこを離れた。


「あとのことは、侍女に任せてるから。俺はいくよ」


「ああ、ありがとう。用があったのか?」


「用があったっていうか、いまからあるんだ」


 にっと笑った火悉海が踵を返すと、彼に従ってついてきた護衛の若衆もそれに倣う。彼らを引き連れて立ち去るそぶりを見せながら、火悉海は別れ間際に教えた。


「今夜、大宴がひらかれる」


「宴? あぁ、大国主を招く……」


 異国からの客人が着けば、まずは歓迎の宴をひらくものだ。


 今夜おこなわれる宴をいまから自慢するように、火悉海の立ち姿は堂々としていた。


「そうだ。なにしろ、倭国に名を轟かせる出雲の武王を招く宴だよ。賑やかにするつもりだ。悪いことはいわないから、始まるまで昼寝でもしておけよ」


「昼寝? どうして」


「決まってる。宴が朝まで続くからだ。じゃあな」


 豪快にいいきって、火悉海は若衆を引き連れて去っていく。


 遠ざかっていく堂々とした後姿を見送りつつ、高比古はあきれ顔をした。


「朝まで――」


 高比古の様子は、がっくりとうなだれて見えた。


「どうしたの、高比古」


 気遣った狭霧へ、彼はぼそりといった。


「気をつけろ。あいつは酒癖が悪い」


 二人の唇が閉じると、火悉海から世話を任された侍女がにこにこと近づいてやってくる。


「出雲の姫様、策士様。長旅、まことにお疲れさまでした。湯浴ゆあみはいかがですか? お支度が済みましたら、宮中の出湯いでゆをご案内いたしますが」


「えっ、出湯? 出湯があるんですか?」


 出湯というのは、湯の泉。大地から溢れだす天然の湯だ。


「ええ。阿多は、火の山に抱かれた火の国。温かな泉はあちこちに湧いております。浸かれば、きっと疲れがとれますよ」


 さあ、と手のひらを掲げて侍女は二人を導こうとしたが、それを遮る声がある。声は、その場を去りかけた二人の足を止めるようだった。


「す、すこし待ってくれ、侍女どの! お久しぶりです、狭霧様。あぁ、高比古もいた」


 王宮の奥のほうからやってくるその声は、いやに親しげだった。二人を呼びとめたのは青年で、赤、黄、茶という明るい染めの肩布を左肩から右脇へ斜めに渡して、広帯で結んでいる。その人は阿多の身なりをしていた。


(誰だろう。阿多の人に知り合いがいたっけ)


 駆け寄ってくる青年の顔を狭霧はじっと見つめたが、あるときはっと気がついた。身なりは記憶にあるものとかけ離れていたが、青年の明るい声や表情には覚えがある。


 青年は出雲の御使、矢雲やくもという人。宗像で世話になった相手だ。


「や、矢雲さん?」


「はい、矢雲です。会えて良かった。挨拶をするなら今しかないと、探していたんですよ。狭霧様、長旅お疲れさまでした。ご気分は大丈夫ですか?」


 よく見れば顔は間違いなく矢雲だが、身なりは阿多風なのだ。彼は髪まで出雲風の角髪みづらを解いて三編みにして、胸もとへ垂らしていた。


「はじめ、誰だかわかりませんでした。その格好はどうしたんですか?」


「郷に入っては郷に従えというじゃないですか。たった数人で異国を訪れているとですね、自分の身なりが不格好に見えるものなんですよ? ここに来て早々に出雲服をやめて、隼人の服をいただいたんです。この姿のほうが居心地がいいし、楽ですよ」


 矢雲は須佐乃男が手塩を込めて育て上げたといわれる若者で、いまや須佐乃男の名を負って国々を訪れ、国の王たちと話をつけてくる出雲きっての御使だ。


 彼が語るのはおそらく御使としての心得や、こつのようなものなのだろう。


 矢雲は、高比古へも軽い挨拶をした。


「やあ、元気そうだね」


 でも、高比古と向き合うやいなや、矢雲にあった朗らかな表情はするりと消えていく。


「高比古、ちょっと……」


 矢雲は高比古の腕を掴んで狭霧から離れたが、そのときの矢雲の目にさきほどまでの底抜けの明るさはない。道化に扮していた人が奇妙な面を脱ぎ去ったかのように、彼の声には真剣味が増した。


 狭霧から数歩遠ざかった場所で、矢雲は高比古へ小声で話しかけた。


「久しぶり、高比古。ちょっと、伝えておきたいことが」


 おもむろに話を始めた後で、矢雲はいっそう声をひそめて高比古に耳打ちをする。


 矢雲から耳元で囁かれるあいだ、高比古は眉をわずかに寄せていた。


 二人が小声の話をしたのは、わずかなあいだだった。高比古の耳元から矢雲が唇を離すと、高比古は小さく顎を傾けて目配せを送った。


「……場所は?」


「南だ。ここからさらに船に乗っていく。……という場所だ。どうする?」


 矢雲はいっそう声を低くする。


 そこまで話が進むと、高比古はちらりと狭霧を見やった。


(え、なに……?)


 秘密の会話らしきものの最中に様子をたしかめられるので、狭霧はきょとんとして高比古の動きを追ってしまった。


 でも、彼が狭霧を気にしたのは一瞬だ。眉を寄せたままで彼は唇の端をあげ、儚げに笑った。


「……なにもしない。おれの一存では決められない」


 それで、二人の話は済んだらしい。矢雲は高比古から遠ざかった。


「わかった。一応、耳に入れておこうかと」


「……ありがとう」


「じゃあ、そういうことで。あ、狭霧様、侍女どの、お邪魔をしてしまい、すみませんでした!」


 最後にはもう、矢雲はもとの雰囲気を取り戻していた。気さくな御使という道化じみた顔を――。







 火悉海は、宴が始まるまで昼寝でもしていろといい残したが、昼寝でもしていなければ暇を持て余してしまうほど、宴が始まるのは遅かった。


「お待たせしました。宴の広場にご案内します」


 松明の灯りを手にした異国の侍女がやってきたのは、じゅうぶんに日が暮れて、あたりが真闇に沈みきってからだった。


 用意された仮宿から一歩踏み出し、真っ暗闇の夜の世へと進み出る。でも、ふしぎなことに、そこはとても明るかった。太陽の光などひと筋すら残されていないはずなのに。


「こちらです」


 松明を手にして侍女は先をいくが、後について進むにしたがって、松明の灯りは意味を為さなくなる。


 夜だというのに、行く手には夕陽じみた強烈な灯りがあった。


 沈みかけた太陽が途中で射とめられて、最後の光を残したまま動きを止めたように。行く手の闇には、ぽっかりと光が浮かび上がっていた。


「すごい、明るい……」


 狭霧と高比古の足は宮殿の中央を貫く白砂の大路を進んでいたが、やがて宮殿の門を出て、その向こうにある大きな広場へとたどり着く。


 夕日の残照に見えた強い光の源は、そこにあった。広場にはいたるところに木を組んでつくられた巨大な焚き台ができていて、台そのものが火芯となってあかあかと燃えていた。八方を、焚き台という巨大な松明で囲まれた広場はそれだけでも明るかったが、中央にはひときわ大きな焚き台もある。狭霧たちが招かれたのは、その巨大な焚き台のそばだった。


「姫様、上座へどうぞ」


 侍女が誇らしげに手のひらで指す場所には、一段高くつくられた桟敷さじきがある。


 桟敷には敷物が広げられて、異国の酒器や器がところ狭しと並んでいる。酒器を境にして向かい合う二人の王の姿もあった。一人は狭霧の父、大国主。対して、大国主の正面であぐらをかいているのは、隼人風の身なりをした男。おそらくは阿多族の王で、火悉海の父王だ。


(名前はなんだっけ。たしか、火悉海様と似てた。そうだ、火照ほでり……)


 胸の内側で記憶を転がしながら、狭霧はいざなわれるままに桟敷へと続く段をのぼる。


「狭霧姫様がいらっしゃいました」


 侍女がそう告げると、桟敷にいた面々がちらりと狭霧を向いた。

 

 そこで、まず狭霧が気にしたのは、わざわざ背後を振り返る形になった父の目だった。


 男盛りの父には、娘の狭霧から見ても奇妙なほどの存在感があった。意思の強そうな黒眉や、鋭い光を忍ばせる目などはとくに強くて、森深い暗がりで眠っていた神獣の目を覗きこんでしまったような気分になり、目を合わせてしまったことをたちまち悔やませる。


 大国主は、狭霧を一瞥しただけだった。すぐに前へと顔を戻した父の背後には、狭霧に笑いかける青年がいた。安曇だ。


 狭霧の父代わりとして世話を焼いているとはいえ、いまの安曇は父の側近という役目に徹している。安曇がわざわざ狭霧へ声をかけることはなかったが、にこりと笑んだ穏やかな目は、狭霧に話しかけてきた。


 来たね、狭霧――。


(安曇がいた……)


 頼もしい相手がいたことにほっとすると、狭霧の頬の強張りはじわりと溶けていく。


 そして、笑顔になった狭霧は、ほかにも自分を見つめる目があると気づいた。それは、父と向かい合ってあぐらをかく異国の王だった。


「ようこそ、姫君」


 男の眉は太く、目は鋭い。野性的な雰囲気があるにもかかわらず、その人は親しみやすい笑顔を浮かべていた。


 だから、丁寧に頭を下げて王に応えながら、狭霧は胸で思った。


(火悉海様にそっくり)




 



 高比古はここでも、狭霧の守り人という扱いを受けることになった。


 桟敷の上に席を設けられたものの、名乗る機会もなく狭霧のそばに腰を下ろす高比古が、狭霧は気になって仕方ない。


(わたしなんかよりずっとすごい人なのに。策士で、出雲一の事代ことしろで……)


 でも、ぷくりと膨れた泡がぱちんと音をたてて弾けるように、狭霧は我に返った。


 桟敷は、広場の中央に焚かれた火を真正面に見据えるようにして建てられていたが、桟敷と焚き台のあいだには広々とした隙間がある。そこには阿多の楽師がずらりと並んでいたのだが、あるとき楽師たちはいっせいに大きな音を立てた。壮大な火宴の始まりにふさわしい、太鼓の音を。


 ダン! はじめのひと打ちで広場を一薙ぎして、ざわめきを静寂に代えてしまった後には、小気味よい細かな打音が刻まれる。


 ダ、ダダ……! 太鼓を腹の前にくくって奏でる楽師たちは、面を打つ木の棒だけではなくて、脚や身体までを見事に動かした。楽師でもあり、舞手でもあるかのように、炎を背にした彼らは流れるような足さばきを披露する。それは狭霧の目に、巨大な炎から生まれた火の粉の精のように見えた。


 そして、出番を待っていた楽師たちが次の音色を奏でる。つぎに夜闇を彩ったのは、鋭い笛の音だった。


 笛の音色は、舞の始まりの合図になる。


 火明かりに煌々と照らされた場所には、着飾った若者が華々しく躍り出た。


 朱で塗られた仮面で顔を隠していたが、その舞手は、筆頭の舞手にふさわしく豪奢な姿をしていた。


 若者は髪に尾長鳥の美しい羽をいくつも飾り、逞しい首や二の腕には、振りまわすたびに茜色の風になびく染め紐を垂らしていた。腰には狐など、尾の長い獣をかたどって細長く形をととのえられた毛皮が垂れている。毛皮の細かな毛は、炎にあぶられると金色に染まったので、彼は黄金をまとっているかのようにも見えた。


 舞手が手にしているものも、実に華やかだった。若者の手にあったのは槍だが、その槍は狩りや戦には不向きだ。染め紐や毛皮や羽、金のかけらなど、さまざまなもので飾られたその槍は、おそらく重さも相当なものだろう。でも、それを軽々と扱う舞手は、飾り槍の重さなどを感じさせなかった。


 若者が披露したのは、狩りか戦をあらわすような勇壮な舞だった。


 太鼓の打音に合わせて虚空を突きさしたり、振り回したり、若者は一人で場を盛り上げる。


 舞の始まりを見届けると、阿多の火照王は舞手の名を伝えた。


「あれはうちの長子で、名を火悉海というんです」


 それを耳にするなり、狭霧は驚いてしまった。


(え……? あれが、さっきの、火悉海様……?)


 火宴の主、火照王はさらに説明を加えた。


「それから、次に舞うのがわしの妹の娘、鹿夜かや。我が王族では古くから伝わる一族の舞を覚えるのが習わしで、大祭では、このように先手を務めます」


 火照王の妹の娘、鹿夜――と、その名が出るなり、火悉海が勇壮な舞を披露する炎の明かりのもとに、ひらりと躍り出る娘の姿があった。


 娘のほうも仮面で顔を隠していて、首の後ろでまとめられた長い黒髪には尾長鳥の羽や染め紐を垂らしている。肩布で胸元は隠していたが、くびれた細い胴の肌は炎の光に晒されていた。


 娘の細腕や華奢な胴を見せつける艶めかしい姿とはいえ、鹿夜という名の娘がしたのは、決してたおやかな舞ではなかった。娘が手にしていたのは、真っ白な大弓。炎の赤い光を浴びたいま、娘の手にあった白弓は金色に輝く飾り弓となっていた。対になる飾り矢を手にして、娘は細い手足をしなやかに伸ばして大地の上を舞っている。


 ともに王族であるという火悉海と鹿夜、二人が揃うと、二人は舞を揃え始めた。揃えるとはいえ、同じ動きをするわけではない。火悉海は槍を手に、鹿夜は弓矢を手にして、舞手にふさわしい軽やかな身のこなしで闘い合うようなふりを始めた。


 広場には阿多の人々も詰めかけていたが、熱気の高まりは尋常ではなかった。


 大祭の先手として舞を捧げる王族の子らに熱狂して、集った人々は楽師が奏でる太鼓の音に合わせて足を踏みならし、手で拍をとる。


 狭霧は、力強い大祭の始まりにぽかんとしてしまった。小さく唇をひらいたまま、炎の前で舞い踊る火悉海と娘に目を釘づけにさせていたが、それは狭霧だけではなかった。


「これは、見事な……」


 大国主の吐息を聞きつけた火照王は、説明を続けた。


「あれは山と海の狩りの舞で、山の幸と海の幸をともに喜ぶものです。あの舞には阿多がたどった時の流れと、古来の技が詰まっているといわれています」


「山と海の狩りの舞? なるほど――勇壮な舞だ。しかも、舞手があなたの長子とは恐れ入った。あの舞を、おれは気にいった。……見事な舞だ。しかし、舞手の力は並々ならぬものがあろうな。あれほど自在に身体を動かすには、そうとうの鍛錬が要ろうな」


「おそらくそれが、王族みずからが技を伝えよという教えのゆえんなのでしょう。時の流れをその身で覚えて、また、怠けて身体を弱らせるなと」


「ますます気にいった。美しい教えだ。そして、素晴らしい出迎えだ。よくぞこれほど壮麗な炎の宴の場を用意して、王家の技で出迎えてくださった。この大国主、心から感謝する」


「いえ。大八嶋おおやしまに名を馳せたあなたを都に迎えるなら、当然のこと」


 力強い目配せと笑顔を交わし合ったのち、火照王は目を逸らして虚空を睨んだ。


 それから、火照王はいにしえの世を憎むようにして淡々と語った。王が話したのは、阿多という国が長い年月をかけて見守ってきた筑紫の大島の歴史だった。


「大八嶋を獣の世から人の世に代えたのは出雲だと、我が国の長老は伝えています。古来、この世には戦が溢れているが、昔はさらにひどかったとか。敵と殺し合った末に虐殺の血の祭りがひらかれ、敵国の生き残りが邪神に捧げる生贄にされたこともあったとか。倭奴わぬが台頭してからは、またひどくなった。人はすべて品物として扱われ、敵国の民は大陸へと浚われた。そもそも大八嶋に大乱が生まれたのは、大陸のくろかみあかがねを求めた倭奴が、引き換えに渡す奴婢を欲しがったためだ。その流れを断ち切ったのが出雲と越だと、長老は伝えています。大国主――あなたの国は、鉄の代償に奴婢ではなく、倭人の技を大陸へ渡し始めた」


 大国主と火照王の手には、盃があった。二人が手にした盃に酒が注がれると、火照王は初めて会った武王を敬愛するように見つめて、真摯にいった。


「この世に秩序をもたらしたのは、あなたの国、出雲だ。わしの代で、阿多の民が出雲の武王と相まみえられたことを、誇りに思う」


 火照王の熱心な歓待に、大国主も応えた。


「南の地に、勇猛果敢にて清廉潔白な一族ありと、おれは何度も耳にしてきた。おれの代でこの都を訪れられたことを、嬉しく思う」


 そして、目を逸らすことなく見合ったままで、二人はともに盃を仰いだ。







 

 火照王が山と海の狩りの舞と呼んだ舞が終わりを迎えると、焚き台の前で並んだ火悉海と鹿夜は、共に仮面を外して顔を見せた。


「若王、鹿夜様!」


 広場で連呼される二人の名と熱気を煽るように、楽器の音色はますます大きく高揚する。


 熱気の渦の真ん中で、二人は外した仮面を地面へ落とし、足で踏み割った。それは、舞の終わりを示すらしい。


「これで舞は終わりました。二人は久遠の時を移ろう幻の舞手から、若王と姫へと戻りました。……火悉海をここへ! 大国主へお目通りを」


 火照王が大声をあげると、桟敷の下にいた従者たちによってそれは火悉海へと伝わったらしい。やがて、桟敷へのぼる段には火悉海の姿が現れるが、彼の肩は大きく上下していた。さきほどの舞の勇壮さや優雅さは、そのように見せるための激しい身動きがあってこそのものなのだろう。ゆっくりと桟敷へあがった火悉海の若々しい顔には、誇りに溢れた笑顔があった。


 彼が父王のそばであぐらをかくと、火照王は長子を大国主へと引き合わせた。


「大国主、これがわしの長子、火悉海です。いずれはこれが、わしの後を――」


「素晴らしい舞だった。よろしく」


「こちらこそ。会えて光栄です」


 握手を交わしつつ、やがて火悉海の手に乗った盃で、酒を酌み交わしはじめ――。火の大宴は、つつがなく進んでいった。


 若王と姫の舞で幕あけた炎の前の広場には、いまやひっきりなしに舞手が現れ、それぞれの舞を披露している。男たちによる武人の舞に、娘たちの愛らしい舞、齢を経た翁たちの風流な舞――。


 何度も盃をあおるうちに、火照王と大国主の顔は赤らんでいった。


 そのうち、機嫌よく笑った火照王は、背後に控えていた従者を呼び寄せた。


「おい、あれをもってこい。とっておきのあれを」


「あれ、といいますと?」


「あれだよ。延命酒、大陸向けの。大国主にぜひお味見を――くっくっ」


 頬を赤らめた火照王は、いたずらでも企むように陽気に笑っている。


 それを遠くから見ていた高比古はそっと膝を進めて、安曇のそばへ寄ると耳打ちした。


「延命酒っていうのは、極度に強い酒のことだ。へたにあおらないようにと大国主へ伝えてくれ。一気に回るから」


「ふうん、わかった」


 火照王との談笑を続ける大国主の背後でこそこそと話し終えると、高比古は狭霧の隣へと戻ってくる。


 ふたたびもとの席についた高比古が盃を手に取ったのをみはからって、狭霧は小声で尋ねてみた。


「そんなにすごいお酒なの? でも、どうして高比古がそんなものを知っているの」


「そりゃあ、前に火悉海にやられたから」


「火悉海様に?」


「いまの火照王とおんなじ顔をして、おれにこっそり飲ませてきた」


「えっ、高比古もそのお酒を飲んだの?」


「そうだよ。で、きつい酒に苦しがってるところを泣かれるほど笑われた」


 口では苦い思い出を語るふうにいったが、高比古の目は笑っていた。


 だから狭霧は吹き出した。


「きつい酒に苦しんだっていっても、本当は面白かったんでしょう? いまの高比古、楽しそうだもの」


 すると高比古は、愉快そうにますます目を細めた。


「ん? ああ、面白かった」


 高比古の笑顔を見ると、狭霧の胸はどうしてかすっと和んでいく。


 彼のことはそこまで知っているわけではないけれど、きっと昔はこんなふうに笑うことができない人だった――そんなふうに思った。そして、高比古がいろんな笑顔を覚えていくのが、なぜか幸せでたまらなかった。


(よかったね。こんなふうに笑えるようになって――)


 狭霧と高比古はしばらくにこやかに笑い合ったが、それを眺めてむっと黒眉を寄せる男がいた。


 談笑する二人を見つめつつ、にがいものを口にするかのように盃を唇へ運んでいたのは、阿多の主、火照王だ。火照王は、ちらちらと高比古を見やりながら大国主へ毒づいた。


「大国主、彼はなんだ? あなたの御子姫の隣にぴったりとついている、あの若者だ」


「高比古か? あぁ、お目通りさせよう。高比古、来い」


 高比古のことが話にのぼるなり、大国主は太い腕を掲げて呼び寄せる。


「呼ばれた」


 短くいって狭霧との話を終わらせた高比古は、すっくと腰をあげて大国主のそばへいく。やってきた高比古をたしかめて、大国主は酒に焼けた頬を火照王へ向けた。


「彼は、高比古。出雲王の彦名ひこなが育てた弟子で、いまは彦名の名代として大八嶋を飛びまわっている」


「はあ。彼が、出雲王の名代……この若さで?」


 目を丸くした火照王は、そこでうつむく高比古をまじまじと見つめる。でも、まだ気は晴れないようだ。酒に赤らんだ火照王の目は訝しげなままだった。


「その、大国主、この高比古という若者は、あなたの御子姫の婿になる男ではなかろうな? さきほどから見ていれば、宴が始まる前から彼はずっと姫君のそばに――」


「ああ、ちがう。わけあって、こやつに娘の守り人をさせている」


「娘姫の守り人? なんだ、よかった」


 火照王はほっと胸をなでおろす。


 でも、やり取りを見つめる狭霧は首を傾げるしかなかった。


(よかった?)


 きょとんと真顔をした狭霧や、しだいに眼差しを険しくしていく大国主に気づくと、火照王は勢いに乗ったように大国主の目をじっと見つめて、真剣な声を出した。


「大国主、ぜひお願いが。遠い南に位置する阿多隼人と、出雲がとうとう出会ったのだ。これもなにかの縁。どうかあなたの御子姫を、我が長子の后にくださらぬか」


 突然はじまったそれは、王と王による妻問いだった。


 火照王は長子、火悉海の妻にと狭霧をねだった。


 でも、突然のことに、当の狭霧はよく意味が飲み込めずにいた。


(え?)


 またたきを忘れてぽかんとしていると、視線の先にあった父、大国主の背中から火が出た――という幻を視た。


「狭霧を后に、だと――?」


 大国主は激昂していた。唸り声をあげる武王のもとへ、さっと膝を進めたのは安曇だ。


 主の背後にぴたりと寄り添いながら、彼は小声で叱咤する。


「穴持様、抑えてください。お気に召さないなら、笑顔でかわすくらいの真似はしてください……!」


 でも、ひとたび牙を剥いた武王の耳にそれは届かない。大国主は、猛獣が咆哮するようにして真っ向から火照王を拒絶した。


「今のは、寝言だな? もしくは幻を聴いたのだ。わかったならそうだといえ、いまなら間に合う。狭霧はどこへもやらん。出雲に囲って、とこしえにおれのもとに置く……!」


「いや、その……」


 気迫におされて、火照王はいいよどむ。火照王を庇うように武王に応えたのは、王の背後に控えていた側近たちだ。


「すみません、大国主。いまのは火照王の寝言です、幻です!」


 同じく主を背に隠すように、安曇も前へ出た。


「いえ、こちらこそすみません! この人は愛娘のことになると、歯止めが効かなくなるんです!」


 でも、当の大国主はいまにも剣を抜きそうなほど目を血走らせている。それを安曇は睨み上げて、冷やかな眼差しで縛り上げた。


「いい加減にしてください、穴持なもち様。宴の最中に、度が過ぎます。あなたは阿多の地までいったいなにをしに来たんですか? 戦をしにきたんですか? 友朋となりにやってきたんじゃないんですか!」


「それは……でもな、安曇」


 納得がいかないというふうな大国主を、さらに安曇は鋭い視線で絡め取る。


「でもじゃありません。狭霧を連れてくればこうなるということくらい、もとから考えはついたでしょう? あれはいやだ、これもいやだと子供のようなわがままをするのは、おやめください!」


 阿多の火照王は、武王の勢いにおされたのか腰を抜かしたようになっていた。姿勢を起こしていきながら、火照王はおそるおそるというふうに笑みを浮かべる。それから王は、折衷案を口にした。


「なるほど、大切な御子姫なのですね……お怒りはごもっとも。でも、わしはどうしてもあなたの御子姫を長子の后にしたいのです。では、どうです? 当人同士に任せるというのは。大国主、あなたが阿多の都にいるうちに、我が長子とあなたの御子姫が、たとえば心をかよわせ――」


「――るわけがない!」


 はあ、と荒い息を吐いて、大国主は異国の王を怒鳴りつける。それを抑えたのは、やはり安曇だった。


「だから、穴持様。すこしは落ち着いてください!」


 にこやかに酒を酌み交わしていたはずの王と王が喧嘩を始めると、桟敷の周りはざわざわと騒々しくなった。


 人声の喧騒にまぎれるようにして、火照王はひそかに火悉海を呼び寄せていた。そして王はこそこそと息子へ耳打ちする。


「いいか、火悉海。おまえにかかってる。武王がなにをいおうが、おまえとあの姫が恋仲になってしまえばこっちのものだ。出雲との繋がりはなんとしても欲しい。あの娘は、必ずやおまえの后にしろ!」


 しかし、興奮したのか、火照王の声はいささか大きかった。


 その声は酒器を挟んで大国主側にも届いていたので、激怒した大国主は娘の守り人を呼び寄せた。


「高比古、来い!」


 渋々とそばへ寄った高比古へ、大国主は大地を伝う地鳴りじみた低い声で命じた。


「いいか、高比古。その身を賭けても狭霧を守れ。この地で、狭霧が誰かに汚されるようなことがあってみろ。なにかあれば、きさまの――」


 厄介な揉め事に巻き込まれてしまったと、高比古の真顔はあきれ顔に近かった。


 でも彼は、さきほどまでと変わらず従順に目を伏せてそばに従い、うなずいた。


「御意」


 いまの大国主に反論は無謀だと、彼は知っていたのだ。




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