大地を描く指先 (3)
「
「あ、はい。
「そっか。俺は隼人の集落にいたもんな。宗像じゃ、いるあいだは市とそこを行き来するだけだったし、会わなくて当然か。船旅はどうだった? 女の身じゃ、ここまで来るのはしんどかったろ」
「それは、平気です。毎日楽しかったので、着くのがあっという間でした」
「それはすごいな、うん、すごいよ」
一つ話が終わると次、そしてまた次へと、話はひっきりなしに変わりゆく。
火悉海の眉は太く、顔つきは彼の性格を想像させるように頼もしく精悍で、男気に溢れている。緻密な模様で覆われた色鮮やかな肩布から伸びる腕にはしなやかな筋肉がついていて、おそらく肩幅は、二人のすぐ後ろを歩く高比古よりも広い。
野性的な雰囲気をもっているが、火悉海の目はきらきらと期待で輝いていた。好奇心旺盛な人のようで、彼は狭霧のことをあれこれ知りたがった。
「あんたって、大国主と須佐乃男の血を引く娘なんだろ? ってことは、出雲一のお姫様だよな。出雲ではどんなふうに暮らしてるんだ? 住んでるのは、すごい王宮? なあ、あんたの話をきかせてよ」
だから狭霧は、少し困ってしまった。
(わたしの話を聞かせてっていわれても、いったいなにを話せば……)
目を輝かせて言葉を待つ異国の王子を楽しませられるような暮らしを、狭霧はしていなかった。
大国主と須佐乃男の血を引くとはいえ、力の掟に従う出雲では、狭霧はそこまで贅沢な暮らしをしていたわけではない。それどころか狭霧は、大国主の娘であることが苦手だった。
「えーと、その……」
狭霧は、前を向いたままで黙りこんでしまった。
でも、隣を歩く火悉海はますますにこやかに笑って、狭霧の横顔を覗きこんでくる。
「ああ、なに?」
だから狭霧は、せっつかれている気分だった。
(なにを話せばいいんだろう……。最近わたし、なにをしていた?)
ここしばらく狭霧を支配していたものといえば、胸に忍ばせたお守りだ。
それは、大好きだった幼馴染が狭霧に残したものだった。そしてその幼馴染はもともと敵国の人質で、すでに死んでしまった――。
(だめだめ、こんなことを話すような雰囲気じゃないわ)
想っていた幼馴染は、狭霧の目の前で死んだ。それからの狭霧は、彼が残したお守りを肌身離さず持ち歩いて、彼の幻に守られていた。そして――彼の面影を探しているうちに、大和の王子に浚われた。そして、戦が起きた――。
狭霧の胸はどきどきと脅えていった。
火悉海のわくわくとした視線は、まだ狭霧に注がれている。でも、好奇心に溢れたこの青年に話せる話が、狭霧にはどうしても思い当たらなかった。
仕方なくて、彼からされた質問にただ答えることにした。
「その……とうさまの王宮で暮らしてはいたけれど、そこまで優雅な暮らしをしていたわけではないの。かあさまが武芸が得意な人だったから、幼い頃から毎日兵舎に通って、弓を引いたりして――」
「えっ、弓? 俺の幼馴染と同じだ」
「あなたの幼馴染?」
「ああ、
火悉海がしげしげと覗きこんでくるので、狭霧は真っ赤になって手を振った。
「あの、ちがうの。弓矢の扱い方はわかるけど、ものすごくへたくそなの……!」
火悉海は、くしゃりと笑って頬になだらかな丘をつくった。
「へえ……なんかいいよ。大人しそうだから、てっきり深窓の姫君だと思ってた」
「し、深窓の? そんなことないわ。木登りだってするし、それに、そう、土いじりが趣味なの!」
土いじりは、前に
それが盛耶のいうように、本当に血筋のよい姫君のすることではなく、位の低い者の手仕事でしかないのなら、こういいさえすればきっと火悉海もわかってくれるだろう。そう思った。狭霧は深窓の姫君などではなくて、極上の血や名にそぐわない、ただの娘だと――。
火悉海は笑うのをやめて、ぽかんと狭霧を見つめた。
「土いじり?」
「そうなの。最近していたことっていったら、畑を耕したり、薬草を育てたり、薬にしたり、そういうことばかりなの」
「薬? ……あんたって、巫女?」
「そんなのでもないの、ただ……」
それしかできないの。なにもできないの――。
名や血筋に負けっぱなしの自分を伝えようと、狭霧は彼の目をじっと見つめた。
でも火悉海が、前に盛耶がしたように狭霧を嗤ってけなすことはなかった。
彼がしたのは、真摯な相談だった。
「薬の知恵があるんだ、すごいな……。うちじゃ、薬を扱えるのは巫女だけなんだぜ? それに、土いじり――。なあ、落ち着いたら一度畑に来てくれないか。作物がうまく実らなくて困ってるんだ。うちの土を見てくれよ。どうにかならないかな」
「それは、うん……」
前に盛耶からされたように、馬鹿にされるかもしれない――。そう覚悟をして薬師としての暮らしを話したのに、話は思っていたのとはちがうふうに進んでいく。
度肝を抜かれて、きょとんと火悉海の顔を見上げた狭霧へ、彼は爽やかに笑った。
「じゃあ、頼むよ。今度」
それから彼は、また別の話を始めた。
彼は誰かと話をするのが好きなようで、二人の足が王宮にたどり着くまで、会話が絶えることはなかった。いまは狩りの話に移っていたが、彼はそれを面白おかしく話してみせる。
「でさ、すんげえでかい獣を見つけてさ。夢中になって追っかけてたから、海際の崖まで来てることに気づかなくてさ、そのまま崖から落っこちてさ」
それは彼の武勇伝だったが、狭霧を笑わせるための冗談付きだ。
「そのままバシャーンって海に落っこちたから、結局獲物に逃げられるところを水の中から指くわえて見るしかできなくてさ。そばで見てた奴からもさんざん笑われてさ」
火悉海は、自分の情けない話を笑い話として気さくに話す。そのうえ、さっき初めて名乗り合ったばかりなのに、まるで昔からの友人を相手にするように笑いかけてくる。
狭霧はくすくすと笑った。
「それは災難でしたね。狩りか……。わたしがかあさまみたいだったら、あなたと一緒に狩りができたかもしれないです」
「かあさま? ああ、武芸が得意だってさっきいってたな。でも、あんたもそうなんだろ? 弓が引けるって、さっきいってたじゃないかよ」
「だ、だからそれは、ただ使い方を知っているっていうだけで、得意じゃ……!」
「いいじゃないかよ、腕の善し悪しなんか。今度一緒に狩りに出かけようぜ? 森の穴場を案内するよ」
そこまでいうと火悉海は、後ろを振り返って高比古に笑った。
「なあ、高比古、いいだろう?」
もちろん、突然話を振られた高比古が了承するはずはなかったが。彼は眉をひそめた。
「いいって、なにがだ」
「一度、狭霧を狩りに連れていきたいんだけど」
「はあ? 狩り?」
「心配ならおまえも来いよ。おまえが一緒ならいいだろ? ていうか、一緒に来てくれ。二人っきりだと、俺……頼む!」
「なんだそれは」
顔を赤らめ始めた火悉海から懇願されると、高比古は呆れた。
「時と場合による。危険なところへそいつをいかせるわけには……」
「危険じゃないって。森を案内して、眺めがいい場所に連れていくだけだから。狩りはついでだって。……いいじゃないかよ。おまえには女がらみの貸しがあったろ?」
火悉海の言葉の最後あたりは、文句をいうような低い小声だった。
そこまでいわれると、高比古は渋々というふうに目を逸らした。
「わかったよ。でも、場合によっては断るから」
「決まりだ!」
気分良さそうに喜ぶ火悉海は行く手へと顔を戻してしまったが、彼につられて背後を振り返っていた狭霧は、仏頂面をしたままでうつむいた高比古から目が逸らせずにいた。
(女がらみの貸し?)
いつのまにか火悉海と高比古は仲良くなっていたらしいが、どうやら彼らのあいだには狭霧の知らない貸し借りまであったらしい。
実のところ、狭霧にはよくわからなかった。でも、首を突っ込んでまで知りたいとも思わなかった。
高比古と火悉海は、なかなか親密な仲らしい。それがわかっただけで、じゅうぶんすぎるほど胸が弾んだ。
(高比古が楽しそう。よかったね……)
ぶすっと不機嫌そうにしたままで黙々と歩き続ける高比古を見ても、そんなふうに思う。
それで、微笑んだ狭霧も行く手へ目を戻した。
やがて、狭霧たちが歩く白砂の道は、それまで真横に沿っていた川のそばから離れるように弧を描いた。川辺から逸れた白砂の道は野の奥へ向かい、やがては質素な住居がいくつも点在する集落に達した。
そこまで来ると、火悉海は前方を指差した。
「見えたよ。あれがうちの王宮」
彼の指した先には大切な場所を守るように茂る林があり、その緑の奥には大きな屋根が見えている。屋根の立派さもさることながら、狭霧の目がまっすぐに吸い寄せられたのは、大屋根のそばで林の上に顔を出していた巨大なものだ。
「あれは……?」
「隼人の盾だよ。宮殿の中にあるものの中じゃ、あれが一番高さがあるんだ」
盾というのは武具の一つで、兵が剣や弓矢から身を守るために使うものだ。でも、火悉海が「隼人の盾」と呼んだものは、兵の身を守るにしては大きすぎる。宮殿の大屋根よりも大きなその盾を盾として使うなど、ふつうの身の丈をもつ人にはとうていできないだろう。
「隼人の、盾? でも、あれは……」
「ああ、あれは飾りだよ。うちが一番大切にしている武具は盾だから、あんなふうに大きくして、宮殿に飾ってるんだ」
「火悉海様たちが一番大切にしている武具が、盾?」
狭霧はじっと考え込んでしまった。
武具にはさまざまなものがある。出雲では剣や鉾、弓矢、それに盾、鎧や兜などをよく見かけるが、その中でも阿多の人々が大切にしているのが盾というのが、いまいちぴんとこなかった。
なにしろ、盾では相手を攻めることができないではないか。
(剣や弓矢のほうが、盾より強そうなのに――)
首をかしげる狭霧へ火悉海は笑ったが、その笑顔は誇りに溢れていた。
「うちが戦で一番に使うものは、盾って決まってるんだ」
「え……」
「阿多の男は武芸を磨くが、それは狩りで獲物をしとめるためと、喧嘩を売られたときに報復するためだ。こっちからどこかに攻め入る戦は絶対にしないんだ。それが阿多の誇りだ」
力強くいいきった火悉海の目には、揺るぎない自信があった。それが、彼の住まう国が古くから守り通してきた掟だと――。
狭霧の目は、いつの間にかそれまでと別の見方を覚えていた。
行く手でしだいに大きく見えていく巨大な盾には、阿多の人々の誇りや考え方が詰まっているように見えた。まるで、いにしえの昔から巫女や神官や、あるいは王族が代々守り継ぐ大切な神具のように。
遠くから見ると、その巨大な盾には不思議なほど美しい影があった。
近づいていくにつれて、狭霧はその影の正体に気づいた。
それは、緻密な細工だ。巨大な盾として建てられた木材の表には一面に細かい彫りがあって、そこには緻密な文様が描かれている。火悉海の身を飾る肩布にあるものに似た、彼ら独特の文様が――。
いつか、狭霧は感嘆の息をもらした。
「すごい、綺麗……」
火悉海はくすっと笑った。
「気にいった? なら、楽しみにしておけよ。後でもっとすごいものを見せるから」
「すごいもの?」
もっとすごいものがあるんですか――。と、狭霧はにわかには信じられなかった。
それほど大切なものを見せてもらった気分だったのだから。
でも、自信に溢れた火悉海と目が合うと、狭霧は信じた。彼がいうのだから、きっと彼のいう通りなのだ、と。
「はい、わかりました」
すっきりとした笑顔で見つめ返すと、火悉海は狭霧の背に手のひらを置いて、いざなった。
「宮殿の門が見えてきた。さ、中へいこう。案内するよ」
「はい」
狭霧はにこやかに笑んで、彼に応えた。――その時。
狭霧はぴたりと足を止めてしまった。背後からついてきていたはずの高比古の気配が、さっきまであった場所になかったのだ。
振り返ると、高比古の姿は少し離れた場所にあった。
彼は歩みを止めていて、これまで進んできた白砂の道の端を睨みつけていた。
「高比古?」
彼の横顔も態度も、不機嫌でとげとげしい。
彼が睨みつけていた白砂の道端には、数人の若者がうずくまっていた。数えると三人いて、そのうちの一人はかなりの大男だ。
あるとき高比古は、三人の若者へ問いただした。
「なにか用か」
いい方は不義を責めるようだ。答えたのは、ほかの二人を庇うように一番の
「いえ、いえいえ! ただ目が合っただけです。なにもそんなに怒らなくても……!」
「でも、おまえたちは、こっちをじろじろと見ていた。それに、さっきから後をついてきていたろう?」
「異国の方がいらっしゃったと、珍しく思っていただけです。お気に触ったのなら謝りますから。この通りです」
そういって若者は、大きな身体を折り曲げて何度も頭を下げた。
「高比古、どうしたの」
彼に折れる気配がないので、狭霧は高比古のもとへと戻りいった。
やり取りからすると、高比古は、そこで頭を下げる若者たちから目で追われたのが気に食わなかったらしい。
でも狭霧は、なぜ高比古がそれほど腹を立てるのかわからなかった。
(じろじろと見られたって仕方ないわよ。わたしたちは異国の身なりをしているんだもの。珍しいに決まっているわよ)
いま狭霧たちが足を止めている白砂の道を、出雲の武王とその護衛軍が先に通っているはずだ。異国風の鎧に身を包んだ大勢が足を揃えて通りゆく光景は、足を止めて見入るほど珍しいものにちがいないだろう。
「いこう、高比古。もういいじゃないの」
狭霧は目くじらを立てる高比古を宥めてみるが、彼の鋭い眼差しはゆるむことがない。それどころか彼は狭霧を見やり、若者たちを咎めたのと同じ眼差しで狭霧を凝視した。
「え……?」
高比古の目は真剣で、狭霧までもを責めるようだった。
彼を宥めたから気分を害して、狭霧を怒っているのだろうか。
狭霧と高比古が足を止めると、その後ろからついてきていた火悉海の従者たちもわらわらと彼らを取り囲む。火悉海も、何事かというふうにゆっくりと踵を返した。
「どうした、高比古。そいつらがなにか無礼でも?」
「いや……」
火悉海までが騒動に加わると、高比古は肩で息をして、そこで縮こまる若者たちへと視線を戻す。
ふたたび高比古と目が合うと、そこで平謝りをする大男はへらへらとした作り笑いを浮かべた。
「ど、どうなさったんです。気のせいですよ。我々は本当に、異国の方がいると珍しいと思い、見やっただけで――」
大男の後ろには青年が二人いた。大柄なその男は、背後の二人をこそこそと隠しているふうにも見えた。
「いったいどうした? なにかあるなら、王宮にそいつらを呼ぶが」
そこまで話が進むと、高比古はため息を吐き、彼の足もとでうずくまる三人の男へ冷やかな視線を向けた。
「いや、いい。どうせ小物だ」
いい方は、そこでひざまずく若者たちを馬鹿にするようだった。
どうせ小物、と無能扱いするような言葉を吐かれると、若者たちの影はぴくりと揺れる。それを懸命に諭すように、矢面にたって高比古と対峙していた若者は、仲間を大柄の肩で隠した。
「は、ははは、はは……」
「止まって悪かった。いこう」
高比古は止めていた足を浮かして、狭霧と火悉海を促す。
「ああ」
促されるままにくるりと向きを変えたものの、火悉海はふと思い出したように背後を振り返った。
「あれ、いまの奴らって、たしか……」
「知っている人なんですか?」
火悉海のいい方につられて、狭霧も背後を振り返った。でも――。
そこには、港があった浜からえんえんと続く白砂の道が彼方まで伸びていた。
宮殿の周りに広がる里には家々が建ち並び、狭霧の目に珍しい異国の品々がそこかしこに溢れていて、華やかな身なりをした人が行き来をしている。
でも、高比古から睨まれていた若者たちは、忽然と姿を消していた。
彼らは厄介なことから逃げ出すように走り去っていて、後姿はすでに遠ざかっていた。
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