呪女の山宮 (1)


 佩羽矢ははやたちと合流して白砂の道をいき、浜に着くと、火悉海ほつみはのびやかな大声で周りの船乗りへ命じた。


「一番いい船を用意しろ! 出雲一の姫と策士を案内するんだ」


 ここでも火悉海の権威は絶大なようで、命じられるなり、大きな肩で海風を浴びつつ働く船乗りたちはまっしぐらに船へと走った。


「はい、若王」


 彼らは、火悉海のために働くのを喜ぶようだ。


 一行の人数に見合った数の船を一艘、二艘……と、いまにも漕ぎ出せるように支度をするが、船乗りたちがちらりと火悉海の姿を覗くとき、彼らの目は崇めたてまつる尊いものを見るようだった。


 彼らは若王が客人として連れる高比古と狭霧も気にしたが、とくに火悉海がみずから背を押して案内する狭霧は、大勢から顔を覗かれることになった。


「あれが、出雲一の姫君……大国主の――」


 そんなふうにいって、ため息をつくものまでいた。


 うっとりとした噂声を聞きつけるなり、狭霧はぎくりとしてうつむいた。それから、ようやく気づいた。


 火悉海や、彼の従者たちが気さくなのでうっかりしていたが、この遠出はただの物見遊山ではないのだ。これは、出雲一の姫君として見られる旅だ。


 狭霧は、火悉海の影にこそこそと隠れてしまった。


「あの、火悉海様、わたしはあんなに立派な船じゃなくても……」


 でも、いまさらどうにもならない。


 浜にずらりと並んでいた船のなかでも一番大きく、もっとも色鮮やかに彩られた船へと狭霧は案内された。船の豪華さもさることながら、そこへ向かう浜の光景が目に照れ臭くて、狭霧はなかなか顔をあげることができなかった。


 砂浜には、先駆をなした火悉海の従者たちがずらりと並んで槍の先を空へ向けていた。彼らは、みずからの身で主の道筋を飾ったのだ。


 それは、出雲であれば大国主か彦名を見送るときに見かけるような光景だ。武王の娘として生まれたものの、狭霧は血筋だけが理由でひざまずかれる暮らしを知らない。恥ずかしくてたまらなくて、狭霧はかあっと頬を赤くした。


(わたしは、こんなふうに見送られるような人じゃ……)


 狭霧の戸惑いとは裏腹に、火悉海にかしずく従者たちは、誰よりも狭霧を恭しいものとして扱う。


 武人の身でつくられた道の果てには、これから乗り込む船があった。そこでまず船に案内されたのは火悉海だったが、彼が船へ乗り込んでしまうと、彼の従者が前へ進み出てそっと片膝をつく。その人は、狭霧を見上げてにこりと微笑んだ。


「どうぞ、狭霧様」


(どうぞ……?)


 意味がわからなかった。でも、にこやかに笑むその従者と目を合わせているうちに、すこしずつ意味を解していった。彼がそこで片膝をついたのは、その膝を狭霧のための踏み台として差し出すためだ。


「あの……!」


 ひざまずく従者は、火悉海の護衛のなかでもとくに豪奢な衣装を身につけていた。そうとう高い位を得ているにちがいない。


 躊躇した狭霧へ、若い従者は精悍な笑みをたたえた。


「若王の大切なお客様なら、我々にとっては王族の姫君同然。どうぞ」


 人の……しかも、異国の位ある若者の腿を、船に乗る踏み台として踏みつけるなんて――。


 ためらって足を止めていると、今度は先に船に乗った火悉海から声がかかる。


「どうした。それでも高いか? なら、俺が抱き上げて運ぶけど……」


「そんなんじゃ……!」


 用意された船は、丸木船に波避けの壁をつけたつくりで、たしかに船縁にはちょっとした高さがあった。


 とはいえ、いつもの狭霧なら、これくらいの高さなら自力でよじ登るのだ。


 でも、若王の大切な客人、出雲一の姫君と扱われて、浜中の人々から惚れ惚れするような視線を集めているいま、女童めわらわのようなはしたない仕草をするのは、きっと不似合いだ。


 追い立てられるように、狭霧はぎゅっと目をつむった。それから。


「す、すみません。膝をお借りします……!」


 狭霧は、白砂に片膝をつく青年の腿に、とうとう足をかけた。




 まさか、異国で出雲の姫君として扱われることが、こんなに心苦しいとは。


 いくら阿多が、王族の権威が絶対の国とはいえ、それにしても――。



 

 大勢に見送られた船が沖へと漕ぎ出し、青波を乗り越えて揺れるあいだ、狭霧は遠くなる浜をぼんやりと眺めた。


 ぐらり、のたりと海原を泳ぐ青波は、船を運んですり抜けるたびに、波そのものが海の生き物であるかのように姿かたちを変えていく。


 絶え間なく姿を変えて動き続ける青波を眺める狭霧の目には、いつか、幼い裸足のつま先が重なっていた。


 耳は、涙で震えた幼い声も聴いた気がした。その涙声は、童の齢の自分のものだ。


『いっちゃいやだ、かあさま……!』


 涙声につられて浮かび来るのは、暗くて静かな真夜中の庭。


 どこまでも続くかのような暗闇と、冷たい土。


 駆けても駆けてもなかなか近づいていかない、狭霧に安らぎをくれる誰かの居場所。


 それは、母が死んだ時の夢を見るたびに、怖くなっては泣きじゃくって寝床を抜け、外へ飛び出した時に見た風景だった。


『安曇、どこにいるの。一人にしないで。安曇……!』


 真昼の光を跳ね返す海の水面はきらめきに溢れていたはずなのに、狭霧に視えたのは真っ暗な夜の庭。


 狭霧は、そこを走り続ける裸足のつま先を、こんなふうに思った。


(どこへいけばいいのかわからなくて泣いている、迷子の子供みたい――)


 ぼんやりと過去を想う狭霧を呼び戻したのは、火悉海の頼もしい声だ。


「狭霧、どうした。ぼうっとして」


 彼は、狭霧の前の腰かけを陣取って座っている。


 狭霧から見ると、彼の向こう側には青い海があった。荒々しく雄大な海原を背にする火悉海の姿はいやに似合って、狭霧の目にうまくなじんだ。


(海の若王……。それはそうよ。阿多は、南海の富を運ぶ交易の国。火悉海様は、そこの若王なんだもの――)


 見とれるように呆ける狭霧の目の前で、火悉海は何度か手のひらを振った。


「おーい。平気か?」


「……平気です」


 慌てて笑顔をつくると、火悉海はぽかんとして狭霧を覗きこむ。でも、すぐに笑った。


「いい風が吹いてるんだ。帆をあげるから、しばらく揺れるかもしれない。縁をしっかり掴んでいろよ?」


 彼の目は、目に見えない海風の行方を追うのに夢中になっている。海風を見つめてさわやかに笑う火悉海は、海の幸運にはしゃいでいた。


「風さえ捕まえれば、笠沙かささなんかあっというまに着くよ。おーい、野郎ども。この船なら速さが出せるだろ? 阿多最高の技を使って、阿多の船の速さを狭霧と高比古に見せてやろうぜ!」


 火悉海は、船の中央で帆を張る船乗りの青年たちに声をかけるが、その時の彼の目は、懸命にいたずらに励む少年のようだった。


 でも、後舷からは彼を咎める声も飛ぶ。


「ちょっと、火悉海。調子に乗って隠れ岩にでもぶつかったら、おおごとになるからね!」


 そこにいたのは、鹿夜かや。火悉海の幼馴染だ。


 笠沙という聖地へ向かう一行には、彼女も混じることになったらしい。


 笠沙という地は、阿多の港がある吹上浜ふきあげはまからも見える場所にあった。火悉海がいっていたように、その地はもともとそう遠くない場所にあったが、海風に恵まれると到着はいっそう早まった。


 風を捕まえた帆はばざばざと力強い音を立てて、大海をいく阿多の小船を運び、昼過ぎにもなると船は陸地へ吸い寄せられるように海の道を進む。


「あそこだよ。近いだろ」


 船が目指したのは、岬の付け根にあった入り江だった。そこは港として使われていて、緑の丘のふもとに現れた白砂の浜には船がいくつも並んでいる。


 着岸すると、上機嫌の火悉海は狭霧と高比古を浜に下ろす。それから彼は、颯爽と片腕をあげて、頭上高い場所で緑の稜線をつくる美しい丘を指さした。


山宮やまみやはあの丘の頂きにあるんだ。すこし登るよ。さあ、いこう」






 火悉海たちが山宮と呼ぶ巫女の居場所へ続く道は、難所と呼べる急な坂はほとんどなく、なだらかだった。


 それほどきつい道ではなかったせいか、連なってのぼる列のどこかでは必ず話声がして、笑い声がとだえることもない。


 とくに火悉海は、時おりわざわざ大きな声を出した。


「ああっ、狭霧、見ろ、あんなところにすももの木がっ!」


 大仰な仕草で彼が指差す場所にはたしかにすももの老木があり、瑞々しい赤紫色をした丸い実がついている。


「おい、誰か、一番立派な実を狭霧へとってこい。ついでに高比古にも」


 いそいそと部下へ命じた火悉海に、高比古はあきれ顔をした。


「……こんな道中に要らん」


 狭霧のそばを歩いていたのは鹿夜だった。狭霧の世話を焼きたがる火悉海を遠目に見て、鹿夜は忍び笑いをもらしつつ狭霧に話しかけた。


「火悉海ね、あなたの気を引きたくてたまらないみたい。それにしても、すももなんて……馬鹿ねぇ。もうすこし色気があるもので誘えばいいのに。悪い奴じゃないんだけどね」


 鹿夜は火悉海をからかったが、相変わらずなんだかんだと擁護する。


 そのうちにも、部下にもいでこさせたすももを手にすると、火悉海は狭霧が追いついてくるのを待つように歩みを遅めた。


「狭霧、疲れないか? ほら、す……」


 狭霧に代わって断ったのは鹿夜だった。


「疲れないかって、いまさっき歩き始めたばかりじゃないの。そのすももは山宮でいただくわよ。それまでもってなさい」


「おまえにとったんじゃねえよ。俺は、狭霧に……」


「そうよね、狭霧? だいいち、そんなものを齧りながらじゃ前へ進めないわよ。いまはいらないわよねぇ?」


 鹿夜は少々強いいい方をしたので、覗きこまれると狭霧は勢いに飲まれてしまう。


「は、はい、いまはまだ……」


「ほら、聞いた? あっちにいきなさいよ。しっ、しっ」


「えぇ……。じゃあ、これはどうだ? 元気が出るぞ」


 部下の手にすももを戻すなり、火悉海は別の従者へ目配せを送った。眼差しでなにかを命じられた若者は、背負っていた積み荷の中から小さな袋を探し出す。それを受け取った火悉海は、自信たっぷりの目で鹿夜を牽制しながら、袋の中身を取り出した。


「険しい道を歩く時には、甘いものが効く。どうだ、石蜜いしみつ!」


「え、石蜜?」


 鹿夜は、きょとんと目を丸くした。と思いきや、鹿夜は食い入るように火悉海の手の中を覗きこみ、素っ頓狂な大声を出した。


「ああーっ、火悉海、それ、母君の……群星むるぶし姫の薬倉の中の……! あんたまさか、薬倉を暴いたの!」


 ぱちくりと目をしばたかせる狭霧の前で、火悉海はしらばっくれた。


「母上の薬倉? あそこの石蜜なら蟻に食われてて、あとかたもなかったぞ」


「蟻ぃ? なんであんたがそんなことを知ってるのよ。薬倉に入ったんでしょ?」


「母上の薬倉は南海からの品の宝庫だぞ? 俺だって勝手に入れねえよ」


「じゃあ、なんで石蜜が蟻に食べられたってわかるのよ。それに、そうじゃないなら、あんたの手の中の石蜜はいったいどこから……」


「さあ、知らねえって。なら鹿夜は食うなよ。俺は狭霧に……」


 火悉海と鹿夜が騒々しくいい合いをするもとになったのは、火悉海の手のひらに収まるほどの大きさの茶色い塊だった。


 ちらりとそれを覗きこんだ狭霧は、柔らかな土を思い出した。


(粘土?)


 それは、土の器のもとになる土の塊に似ていた。


「あの、どうしたんですか。それは?」


 答えたのは鹿夜だ。


「石蜜よ」


「石蜜?」


「南から渡ってきた超貴重品。おいしいんだよねー。というわけで、ひとかけもらうよ、火悉海」


 いうが早いか、鹿夜は火悉海の手の上にあった茶色の塊をひょいと手につかんで、端をぽきりと折ってしまった。


「なんでおまえが……!」


 火悉海から文句をいわれつつ、鹿夜は手にした小さな塊を手もとでさらに折って、一口大になるように形を整える。そして、そのうちの一つを狭霧へ差し出した。


「どうぞ、狭霧。食べてみて」


「鹿夜、てめえ……! 狭霧は俺の客人だぞ。俺が渡そうと思ったのに……!」


「火悉海は高比古に渡せばいいでしょう? 高比古だってあんたの大事な客人なんだから」


 狭霧へそれを手渡す役をめぐって、二人はいい合いを続けた。でも、鹿夜はすぐに口喧嘩を終わらせた。


「冗談よ。高比古にはあたしがもってるぶんを渡すから、火悉海は狭霧のぶんをつくってあげなよ」


 鹿夜はくすくすと笑っていた。


 鹿夜は高比古の隣へ向かおうと列を抜けたが、狭霧のそばを去る間際にちらりと狭霧を見た。目が合った時、鹿夜の笑顔は、狭霧へと語りかけた。


 ね? あいつ、あなたのことが好きでたまらないって顔をしてるでしょう? ――と。


 鹿夜は、相変わらず狭霧と火悉海を結びつけたがっているらしい。


 でも、それは狭霧を戸惑わせる。そういう雰囲気を感じてしまうと、かえって狭霧の身はすくんでしまった。


(わたしは火悉海様に嫁ぎたいって思っているわけじゃないのに。優しくて面白くて、立派な人だと思うけれど……)


 いつのまにか、隣には火悉海が並んでいた。


「狭霧、これな、石蜜っていうんだ。口に入れてみろよ。甘くてうまいから」


 狭霧を見下ろす火悉海の笑顔は澄んでいて、狭霧を笑顔にさせようという彼の想いがにじみ出ている。


 火悉海は手を差し出したが、そこには、さきほど狭霧が土のかけらと思ったものが乗っている。近くで見てもそれは、乾いた粘土にしか見えない。もしこれが舘の中に落ちていたら、土のかけらだと思って迷わず外へ放り出すだろう。


「これ、食べ物なんですか?」


「ああ。おれの母上の故郷から届いた特別な品なんだ」


「あなたの母上の故郷?」


流求りゅうきゅうっていう。海の向こうの島国だよ。そんなことはいいからさ、ほら、食ってみろよ」


 目を輝かせた火悉海からせかされるので、茶色の塊を手にした狭霧は、こわごわとそれを口へ運んでみる。ぱくりと唇の中にいれると、見た目のわりに土っぽさはまるでなかった。むしろ舌触りは、口の中に入れた雪がじわじわと溶けていくように滑らかだ。そのうえ――。


「甘い……」


「だろ? うまいだろ? 俺が一番好きな食べ物なんだ。だから、どうしても狭霧に味わってほしくてさ」


 火悉海の目はまっすぐに狭霧を向いていた。


 ほら、とっておきのいいものをあげるよ。狭霧だから、特別だよ――。


 そんなふうに、眼差しで語りかけられている気すらして、恥ずかしくなった狭霧は思わず目を逸らしてしまった。


「あの、とてもおいしいです。わたしも、今まで食べたものの中で一番おいしいと思いました」


「だろ? うまいよな!」


「あの、火悉海様……」


「ん、なんだ?」


「どうしてこんなに親切にしてくださるんですか」


「え?」


「さっき、鹿夜さんといっていたじゃないですか。これはもしかして、母君の倉からこっそり持ち出してくださったんじゃないんですか? たいへんなことをしたんじゃ……」


「ああ、その話? 薬倉は関係ねえよ。あそこにあったぶんは、もともとなかった。とっくに蟻に食われてたよ」


 にやっと笑う火悉海は、さっきのいい分をいい張る。でもそれは、狭霧にも嘘に聞こえた。


「どうして。いいだろ? 俺は狭霧に石蜜を味あわせたかったんだよ。たぶん出雲にはないだろうし、阿多のいいところをちゃんと見せたかったっていうか」


「でも……」


 きっぱりといい切る火悉海のまっすぐな目が、まだ狭霧には不安だった。


 胸の底からこみ上げたのは、吐き気に似た気味悪い想いだった。


(わたしは、そんなふうにしてもらえるような娘じゃないんです……。大国主と須佐乃男の血をひく娘といったって、わたしはその血に見合うようなことはなにもできないんです)


 暗い想いに足をすくわれたように、狭霧は火悉海の目を見上げて問いかけた。


「あの、火悉海様。火悉海様は、わたしが武王の娘ではなかったら、わたしに興味をもちましたか」


 本人の口から聞いてもいないのに、火悉海が狭霧に興味をもっていると認めたように振る舞うのは、とても居心地が悪かった。


 でも、鹿夜からそれっぽいことを何度も囁かれたり、火悉海の部下から、まるで主の恋人の世話をするように恭しくかしずかれたりするのが続くと――。それになにより、火悉海から純粋な想いを告げるような目でまっすぐに見つめられると、いくら狭霧が「まさか」と疑っても、認めざるを得なかった。


 火悉海はどうやら、本当に狭霧が気にいったらしい。特別な相手として世話を焼きたがっているらしい――。


 尋ねると、火悉海は首を傾げた。


「うーーーん? 狭霧が、大国主の娘でなかったら?」


「はい。わたしが名もなき武人の娘だったら、こんなに優しくしてくれましたか」


 火悉海様、あなたが興味があるのは、わたしではないですよね?


 あなたが欲しがっているのはわたしではなくて、この血ですよね――。


 だってわたしは、その血に見合うような娘ではないのですから。


 卑屈になって、暗い気持ちを胸にくすぶらせたままで狭霧は火悉海を見上げた。


 でも、彼は首を傾げるだけ。狭霧が抱える迷いに気づいた気配はない。火悉海はあっさりといった。


「そんなこといったって、狭霧は大国主の娘だろ?」


「それは、そうなんですが」


 それは事実だ。間違いない。でも――。


 それ以上どう問えばいいのかが思いつかずに、狭霧は無言で山道を歩き続けた。でも、そのうちに狭霧はくらりと目まいを感じた。狭霧がふらりとよろけて立ち止まると、火悉海は血相を変えたふうに慌てた。


「どうした、狭霧!」


 咄嗟に、火悉海は抱きとめようと腕を差し出した。でも狭霧は、その手を避けるようにすこし遠ざかってしまった。


「大丈夫です。平気です」


 癖のように強がって、狭霧は火悉海から離れた。


「すみません、ちょっと高比古に話が――。石蜜をありがとうございました」


 早歩きをして火悉海のそばをすり抜けた狭霧が向かったのは、すこし前を歩く高比古のそば。


 近づいていき、「高比古」と声をかける。すると、いつもどおりの無表情が狭霧を向いた。


 愛嬌などいっさいなく、狭霧のことを好きでも嫌いでもない、淡々とした真顔。それと目があうと、狭霧の胸はほっと落ちついた。でも――。


「どうした?」


 彼から理由を尋ねられると、狭霧の頬は強張ってしまった。


 高比古のそばに来たものの、とくに用向きはなかった。火悉海の優しい目から見つめられるのが居心地悪くてたまらなくなって、逃げ出しただけだったのだから。


 下手な嘘をつくのが精一杯だった。


「ごめん……なにか話そうと思ったけど、忘れちゃった」


「ふうん? なら、思い出したらまたいえよ。あっちに戻れば?」


 見慣れた出雲服に身を包む高比古は、狭霧のそばでちらりと背後を振り返る。そこには、狭霧の行方をしきりに目で追う火悉海がいる。


「そうだね、そうしようかな……」


 頼りなくいったものの、胸は嫌がっていた。


(いやだ。ここにいたい。だって、火悉海様のそばにいったら……)


 それ以上目まいが起きることはなかったが、代わりに、頭の中にはびりびりと痺れるような疼きが生まれていた。胸には、迷子の子供じみた寂しさも居座ったままだ。


 口ごもる狭霧を、高比古は怪訝な目で見下ろした。


「狭霧? そんなに大事な話だったのか?」


 背後からは、火悉海の心配そうな声がする。


「狭霧、平気か? 山道を歩くのが疲れたんじゃないのか。そういう時こそ石蜜が効くぞ。それに、すもも……それとも、喉が渇いたのか? そうだ、すこし先に泉が湧いてるぞ!」


 火悉海を叱る鹿夜の声もする。


「そっとしておきなさいよ。狭霧、あんたがしつこくかまうから疲れたのよ」


「そ、そうなのか……?」


 鹿夜の鋭い叱声と、弱々しい火悉海の声。それを聞きつけてしまうと、狭霧はますます二人のもとへ戻るのが怖くなった。


(疲れてなんかいません。異国の若王からこんなに気前よくお世話してもらって、疲れるなんか……)


 でも、頭の内側の疼きは止まらずに、青空を雲が隠すように思考を覆ってしまうし、そのうち胸までもがどくどくと不気味に高鳴りはじめた。


(なんだろう、どうしたんだろう……。胸が苦しい。落ちつかなくちゃ)


 そばを歩く高比古は、ふしぎそうに首を傾げている。


「なにかあったのか」


 でも、狭霧に答えられる言葉はなかった。なにしろ、自分でもよくわからなかったのだから。


 だから狭霧は、むりやり作り笑いを浮かべた。


「ううん、平気なんだけど、ちょっと……」


「ちょっと? ふうん」


 高比古は何度かちらりと顎を傾けて狭霧の様子をたしかめるが、それも終えると、顔を行く手に戻してしまう。


 それから、隣り合って歩く狭霧と高比古が目を合わせることはなかった。


 狭霧は、そうやって高比古と歩くのもしだいに不安になっていった。


(どうしよう、用がないのに高比古の隣に来ちゃった。なにを話そう……)


 大船に乗ったり、同じ天幕を使ったりして、狭霧は高比古としばらくずっとともに過ごしていた。阿多へ来てからも、昼間は火悉海たちと過ごしているが、夜になると二人で同じ仮宿で眠っている。


 だから、狭霧がいま高比古を探したのは、いつもどおりの安堵を求めてのはずだった。でも――いま、狭霧は思い知った。


 二人で過ごしているあいだ、高比古が狭霧を疎ましがることはなかった。でも、いまは――。


 高比古は、背後の火悉海を気にしていた。それから、自分のそばにやってきた狭霧をふしぎがっていた。どうしてここに来たんだ? おれのところじゃなくて、向こうへいけばどうだ? ――と。


 その理由も、狭霧は気づいた。高比古は、誰かと一緒に過ごすのが得意ではない人だ。高比古にとって、狭霧の世話は厄介でしかないはずだ。それでも彼が狭霧と過ごすあいだに嫌な顔をしなかったのは、きっと、主から命じられた以上は仕方ないと彼が諦めていたからだ。


 狭霧は、高比古のそばにいるのが不安になった。彼を困らせていると思うと――。でもいま、狭霧は火悉海のそばに戻るのも怖かった。


(だって、いまはうまく笑える気がしないもの。火悉海様はあんなにすがすがしく笑う人なのに――)


 狭霧の耳には、前に火悉海が舌打ちしながらいった言葉がよみがえった。


『どれだけごまかそうが、真意なんか透けて見えるもんなんだよ。作り笑いなんか浮かべたって……』


 その言葉のとおりに、本当の笑顔かどうかなどは彼はすぐに見抜いてしまうだろう。


 火悉海には野生の王じみた鋭い勘や、なにを隠してもすぐに見通してしまうような王者の風格が備わっているのだから――。


 そのうちに、狭霧のまぶたの裏にはふたたび裸足のつま先が浮かび、耳元には迷子の泣き声じみたものが響き始めた。


(これ、夢で見た……。あんな夢をいまになって思い出すなんて、本当にどうしたんだろう――。知らないうちに、疲れがたまっていたのかな)


 ぼんやりと思いながら、狭霧はとぼとぼと山道を歩いた。


 高比古はそばを歩くだけで狭霧へ話しかけようとしなかったが、ある時、背後を向いて火悉海へ問いかけた。


「屋根が見えてきた。山宮っていうのはあそこか?」


「ああ、あれだ」


 同じものをたしかめると、火悉海はうなずく。彼の従者や鹿夜たちも、やれやれと吐息した。


「着いたわね、ようやく」


「若王、じゃあ俺、ひとっ走り先にいってきます。すぐに巫女に会えるように話をつけてきます」


「ああ、頼んだ」


 火悉海の従者のうちの一人が大きな歩幅で駆けていく頃には、一行には旅の疲れをなぐさめ合うようなほっとしたざわめきが満ちていた。


 そこではじめて高比古は狭霧を見下ろし、声をかけた。


「着くぞ。平気か?」


 いちおう彼は、狭霧を気にかけていたらしい。


 そして狭霧は、彼から心配されていると気づくなりいっそう唇を噛んで、笑顔をつくってしまった。


「うん、平気。よかったね、着くね」


「……」


 高比古はいぶかしげに狭霧を見つめたが、それ以上応えることはなかった。


 高比古は狭霧に横顔を向けて、まっすぐに行く手を向く。


 そこには、南国の緑に覆われた丘の上にひっそりとたたずむ清雅な宮があった。



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