呪女の山宮 (2)


 はじめて訪れた異国の神殿だろうが、そこに漂う風に神気がすみわたっていることは、狭霧にもわかった。


 南の地のいきいきとした木々に囲まれた宮は大きく、広々とした敷地の中にはいくつもの大屋根がそびえていた。それらの屋根は、阿多の王宮と同じように細かな文様で彩られている。でも、雰囲気はしばらく滞在した阿多の王宮とはすこしちがった。


 その理由を話したのは鹿夜かやだった。


「舘に描かれている文様がちがうでしょう? この宮はさ、隼人みんなの神殿なんだ」


 鹿夜へ興味深げな目を向けたのは、高比古だ。


「隼人、みんな?」


「ええ。隼人はね、住んでいる場所によってすこしずつちがうの」


「それって、阿多族と大隅族が、べつの王宮をもってべつの国をつくっているってことか?」


「そうよ。阿多と大隅だけじゃなくて、ほかにもあるの。薩摩とかね。でもみんな、祀る神や聖地は同じなのよ。だから、遠いおやは同じで、昔はどこかで一つの国をつくっていたかもしれないって話よ。それがどこかは、あたしたちにもわからないんだけど」


「……祀る神が同じ?」


「そうなの。聖地は、笠沙かささ。そこでは、鹿葦津姫かやつひめっていう女神を祀るのよ。大地と闇の神様なの」


 高比古は、ぼんやりと反芻した。


「大地と、闇……」


 その時、一行は神殿の前の庭にいて、火悉海ほつみが戻ってくるのを待っていた。


 彼は一行の主として、ここで暮らす巫女の主のもとへ挨拶に出かけていた。


 やがて戻ってきた火悉海はさっぱりとした笑顔を浮かべて、ここまで一緒に旅をしてきた一行の中から佩羽矢ははやを探し出す。見つけると、彼は豪快に冗談をいった。


「大和の奴はどこに……あぁ、そこにいたのか。おまえ、道中は静かだったよなぁ。てっきり、どこかに置き忘れてきたかと思ったぞ」


 それから彼は、出番を告げるような強い目配せを佩羽矢へ送った。


「望みどおり、隼人一の呪女のもとへ連れてきてやったぞ。大巫女はおまえに会ってくださるそうだ。……いけよ。死者の行方を尋ねてこい」


 阿多から一緒に旅をしているというのに、佩羽矢のことを気にしたのは、狭霧にも久しぶりだった。いわれてみると、旅のあいだに彼の姿が目に入った覚えはなく、たしかに彼は気配を消し去ったかのように静かに一行に紛れていた。


 久しぶりに見た佩羽矢の顔は、真っ白になっていた。恐怖にかられて血の気が引いたというふうで、青くなった唇は「中へ入れ」と促されても、ぴくりとも震えない。返事すらできないというほど、脅えて見えた。


(それは、そうよ……。佩羽矢さんは、かあさまやとうさまや妹が、本当に死んでいるかどうかをたしかめるためにここへ来たんだもの。家族の死を、自分で認めるために――)


 呆然として震える佩羽矢は、彼自身がすでに亡霊のように見えていた。そのうち彼はほろりと涙をこぼし、それを慌てて腕でぬぐった。


「はい、いきます」


 佩羽矢は火悉海へ応えたが、その時の彼は、力強い握りこぶしをつくって腿のそばに垂らしていた。


 そして、促されると、火悉海の背を追って山宮の奥へと進んでいった。






 やがて、時が過ぎて。山宮の入り口となった小さな門に人影が現れる。そこへ入っていったのは火悉海と佩羽矢の二人だったのに、いまに限って姿は一人分しかなかった。


 門前で待つ一行のもとへ戻ってきたのは、火悉海だけだった。


「あれ、佩羽矢は?」


「あいつなら、奥で暗くなってる」


 宮門に寄り掛かりつつ、火悉海は顎で背後を……門の奥に続く渡殿わたどのを指している。


「落ち込んで、歩くのもしんどそうだったからさ、もともとここで宿を借りるつもりだったし、先に寝床にいかせた」


 答えた火悉海のいい方は、あっさりとしていた。でも、聞くなり狭霧はきゅっと唇を噛んで、火悉海を見つめてしまった。


 足取りもおぼつかなくなるほど、佩羽矢が落ち込んでいるということは――。


「隼人の大巫女の霊威を借りて、佩羽矢さんは家族に会えたんですか? それって、つまり――」


「ああ。故郷にいたはずのあいつの家族は、とっくに殺されていたらしいよ。俺は大巫女のもとまで案内しただけで、そばでやり取りを聞いてたわけじゃないから、詳しい話は知らないけど」


「……佩羽矢さん、かわいそう」


 狭霧は白い頬を震わせるが、火悉海の話し方は、やはりなんでもないことを口にするように淡々としていた。


「そんなに気にするな。いくら同情してもどうしようもないだろ」


「でも……」


「この大乱の世で、命を落とす奴なんか腐るほどいる。同情して、死んだ奴が生き返るなら俺だってどれだけでも泣いてやるけど、そうじゃないだろ。あいつが落ち込むのは自由だが、狭霧まで落ち込むことはないよ」


 泣いても喚いても、一度死んでしまった人が生き返るなどない――。


 たとえ蘇ったとしても、姿はまるでちがうものに代わってしまうだろう。狭霧の大切な幼馴染が、古びていくだけの髪飾りに姿を代えたように――。


 それは、狭霧自身も涙が枯れるほど泣いて、自分も後を追ってしまおうと苦しんで、その末に理解したことだった。


 当たり前のようにいい切る火悉海に、狭霧はうつむいて、唇をとじた。


「そうですけど……はい、そうです……」


 大勢の人を従え、大勢の生き死にを見下ろす王族という立場にあるせいか、火悉海には佩羽矢の不幸への関心が薄いらしい。


 佩羽矢の話を終わらせると、火悉海は顔を上げてぐるりと一行を見渡した。


「それで、だ。出雲から来ている客人がいるって話したら、ぜひ会ってみたいって大巫女がいっているんだけど、どうする? いいよな」


「それは、もちろん。断る理由はないよ」


 応えた高比古に、火悉海はにっと笑う。そして彼は、さっそく背を向けて先に一歩を踏み出した。


「じゃあ決まりだ。奥へいこう。……あ、いっておくけど、全員では会いにいけないから」


「……どういうことだ?」


「大巫女への謁見は一人ずつって決まってるんだ。大巫女になった女は、一生この宮を出ることがないんだけどさ、一度に大勢と会ってはいけないって決まりもあるんだ。霊威が薄れてしまうとかでさ」


「霊威が薄れる? ふうん」


「あ、信じてないな?」


 興味がなさそうな相槌あいづちをうつ高比古に、火悉海は振り返って文句をいう。睨まれると、高比古は辟易というふうにいいわけをした。


「そうはいってない。ただ、巫女っていうのはどこも決まりが多いのかと思っただけだ。出雲の一の宮も、おれにはよくわからん決まりだらけだ」


「へえ、そうなのか? たとえばどんな決まりだ」


「さあ。おれにはよくわからんから、覚えていない」


「……高比古らしいな。まあいいや、ついてこいよ。それで、大巫女に会うのはどっちが先がいい? 狭霧? 高比古?」


 くすりと笑った火悉海は、ふたたび背後を振り返る。返事を求めて、彼は狭霧と高比古を見比べるが、それと目が合うなり狭霧は首を横に振ってしまった。


「わたしは、後で……。だって、その大巫女様は初めて出雲の人に会うかもしれないわけでしょう? わたしより、高比古のほうがしっかりご挨拶できるわよ。わたしは……」


 自信なさげに身を引く狭霧に、隣を歩く高比古は呆れた。


「だからって、おれにふるなよ……。まあ、いいけど。火悉海、おれが先でいいよ」


「わかった。なら狭霧は、高比古が大巫女と会っているあいだは近くで待っていてくれ。じゃ、いくか。大巫女の庵へ」


 そういって火悉海は、どこか遠くを目指すように意気込む。だから、狭霧は彼の背中へ尋ねてしまった。


「大巫女の庵? あの、火悉海様……。大巫女様は、この宮にいらっしゃるのではないんですか」


 笠沙の山宮と呼ばれているので、てっきり狭霧は、この宮の主がその大巫女だと疑わなかったのだが。


 火悉海はすぐに答えた。


「いや、大巫女はここで暮らしてるよ。俺がいったのは、つまり、俺たちがいるここは大巫女の居場所ではなくて、笠沙の山宮を訪れる客人用の場所ってことだ。大巫女の庵は、この先……あの庭の奥だ」


 そういって火悉海は、顎で行く手を軽く示す。


 その時、一行の行く手には広々とした庭が見えていた。南国の春の温かな陽射しが真上から射しこみ、甘い花の香りに溢れるのどかな庭。その両端には、かしぎ屋らしき小屋や井戸など、ここでの暮らしに必要なものが並んでいる。


 庭の奥には、こんもりと茂った手つかずの林があった。その林を背にして、小さな庵がぽつんと建っていた。


 そこにあるのは平穏な庭に建てられた質素な庵だ。客人用だという舘と同じくその庵は、屋根や壁や、いたる部分が隼人風の文様で覆われている。


 その小さな庵を目にした瞬間に、狭霧にはぞくっとした戦慄が走った。それから、奇妙な錯覚をした。


(風が吹いてる……)


 庭は、敷地のなかに井戸や炊ぎ屋がつくられるほどではあるが、そこまで贅沢な広さはない。たとえば、炎の大宴がひらかれた阿多の都の広場とはくらべものにならないほど、慎ましい庭だ。それなのに――。なぜかそこには、広大な大地を吹きとおすような強い風が行き来しているように感じた。


 しかもその風は、ただの風ではない。風に、見えない目や口がついている。そういう錯覚を起こさせるような奇妙な風だった。


 誰だ。いったい誰がやって来たのか――。


 狭霧の黒髪の上や肩、頬のそばを通り過ぎていくたびに、風は見えない目で狭霧たちを見つめて、そのうえひそひそと囁き合っている。そんなふうに感じて、得体の知れないふしぎな感覚にぞくりと身が凍る――そういう奇妙な気配が、その庭には溢れていた。


(なに、ここ……。隼人の、聖地――)


 庭の入り口までたどりつくと、火悉海は高比古へ一人で先に進むように促した。


「高比古。いっていいよ。……狭霧はここで俺たちと待とう。この庭から先は、一人ずつしか入れない」


 彼がいうのはこの山宮の決まりだが、特別な決まりをすんなり鵜呑みにしてしまうほど、その庵の周りには不思議な気配が漂っている。


 狭いのに広大で、静かなのに騒がしい。その庭は、時が止まっているかのように穏やかなくせに、絶え間なく揺り動いているようで複雑だ。


 奥に建つ庵へ向かって遠ざかる高比古の背中を見つめながら、狭霧は胸が脅えてたまらなかった。


(次はわたしの番だ。高比古がここへ戻ってきたら、次は、わたしがこの庭を横切らなくちゃならないんだ。一人で――)


 遠ざかって小さくなった高比古の後姿は、奥にたたずむ庵の向こうへと消えていった。ゆっくりと遠ざかっているあいだも、庵へ入っていく時も、彼の背中はいつもどおりに平然としていた。


 こういうふしぎな場所に慣れているのか、それとも、胸の内を顔や仕草に出さないだけか――。狭霧に、理由はわからなかったが。






 やがて。固唾をのんで見守る狭霧の視線の先で、庵の入り口を閉ざすこもは再びひらいていき、そこに高比古が姿を現す。


 春風に吹かれてのどかになびく庭の春草を踏み分けて、高比古の足はゆっくりと戻ってくる。その時の彼の顔にあったのは、いつもの無表情とはいいがたかった。彼は眉をひそめて、苦虫を噛み潰したような渋顔をしていた。


 彼が一行が待つ庭の端へ戻り来るなり、狭霧は声をかけた。


「どうしたの。大巫女様に、なにかいわれた?」


 すると、高比古は背後になった穏やかな庭をちらりと振り返った。仕草は、疎ましいものをいぶかしむようだった。


「気味悪い……。妙な洞穴ほらあなみたいだ」


「洞穴?」


 狭霧は目をしばたかせた。そこに広がる庭のことは狭霧も、狭くて広大、静かで騒がしいと奇妙に感じていたが、洞穴とは――。


 高比古は、しらばっくれるようにそっぽを向いた。


「なんでもないよ」


「……大巫女様はどんな人だった? なにかいわれた?」


 次にこの庭を進むのは狭霧だ。


 このふしぎな庭を横切った先で、いったいなにが起きるのか――。


 おずおずと高比古を見上げる狭霧を見下ろして、高比古はふうと吐息しつつ薄い唇をひらいた。


先視さきみをされた」


「先視? それって、この先に起きることを予言するっていう、霊威の……?」


「そうだ。……おれは、巫王になるそうだ。このさき千年に渡って力を顕す、偉大な巫王らしいよ。その決め手となる場所は、御津みいつ、だそうだ」


「巫王になる? その決め手となる場所が、御津……」


 ぞくり、と狭霧の身体の芯あたりが震えた。


「それ、どこかで聞いた。たしか――」


 忘れ果てていたはずなのに――。重いものがぬるりと這って姿を現すように、記憶はすぐに蘇った。


 狭霧が思い出したのは、出雲の一の宮、神野くまのから高比古を追いかけてやってきた日女ひるめが、遠賀おんがの野で高比古に付きまとっていた時の光景だ。


『大巫女はあなたが巫王になると予言を。御津という地にその鍵があると……』


『だから、御津ってなんなんだ?』


 鬱陶しいものから逃げるように遠のく高比古を、日女は執拗に追いかけまわしていた。


『わからないんです。津というからには水と関わりのある場所だと思いますが。だから慌ててお伝えにまいったのです。それが出雲ではない地にあれば厄介だと』


(御津って、聞いたことがある。日女がいってた場所の名だ……。ううん、それだけじゃない。高比古が巫王になるっていう言葉は、ほかの人からも聞いた――)


『そなたの夫は……いまに必ず事代主ことしろぬしとなる。巫王の呼び名として、事代主の名を大八嶋おおやしまに知らしめるだろう。大国主おおくにぬしという呼び名が、武王の意味をもって知れ渡ったようにね』


 思い出すなり、狭霧はくらりと気が遠のきかけた。その言葉を狭霧へいった人の冷やかな目が、脳裏に蘇ったのだ。まるで蛇が獲物を睨みつけるようにして狭霧を見つめたその人は、出雲の大巫女。その女性の目は、華やかなものも汚れたものもいっしょくたにしてさらさらと流れゆく、冷たい川の流れじみていた。


 絶対に繋がりなどないと疑わなかったものどうしや、過去といまが繋がるのは、とても不気味な気分だった。


 恐ろしい化け物を見てしまったように、狭霧の目は脅えた。


 そのあいだ、高比古はじっと狭霧を見つめていた。


「いまおれがいったことを、あんたも覚えてる?」


「うん……! それ、日女が……ううん、日女だけじゃないわ。わたしね、心依姫ここよりひめと神野へ出かけたときに、出雲の大巫女の口からも……」


 なぜだか恐ろしくて、狭霧は知っていることをどれもこれも吐き出したくてたまらなかった。でも、高比古は目配せでそれを止める。


「先視は信じないつもりだったけど、偶然がこう続くと……へんな気分だ。まあいい。おれは信じないことにする」


「……信じないの?」


 こんなに狭霧は脅えているのに。あっさりと拒んだ高比古へ聞き返すと、彼は小さく笑った。


「あんたの親父が、信じるなといってた」


「……とうさまが?」


「すこし前だが、神野からよくない先視をしたと告げられて、どうするべきかと雲宮で揉めたことがあった。その時に大国主がいったんだ。『神の戦などありえない。あったところで、神やら霊やら呪いやら、動けという時に動きもせぬものに頼って、人の戦をふいにする気はない』って。おれは、納得した」


 それは、狭霧の知らない言葉だった。それを高比古に教えたのは、実の父だというのに。


「神の戦……人の戦……」


 高比古はまだ苦々しい顔をしていたが、むりにそれを封じたふうに笑った。


「信じないものに惑わされてぼんやりするくらいなら、忘れるよ」


 狭霧との話を終わらせると、高比古は同じ場所で壁に寄りかかる青年に声をかけた。


「火悉海。今日はここで休むんだよな? なら、先に宿へいっていていいか。おれにここは合わない。その……へんな意味はないんだが、おれは一応異国の神官で、長くここにいるのが――」


 彼は、いまにもここを離れるようないい方をした。それには狭霧が大声をあげていた。


「お願い、ここにいて……!」


 高比古のように、狭霧は踏ん切りがつけられずにいた。


 これまで狭霧を脅かした出雲の大巫女や、不気味な予言や、狭霧にとっては得体の知れない神や、先視というものや――。ほかにも、狭霧が認め切れずに困っているものはたくさんあった。


「置いていかないで。お願い、わたし、一人じゃ……」


 狭霧は泣きじゃくりたい気分だった。


 隼人一の聖地だというこの場所にのこのこと入ることができたのは、出雲一の事代ことしろである高比古が一緒だったからだ。彼のもつふしぎな力の影に隠れたいと、ひそかに頼りにしていたからだ。


「こんなところ、一人じゃいけないよ。お願い、ここにいて……!」


 いつのまにか狭霧の指は、高比古の白い袖を掴んでいた。


 高比古ははじめ、奇妙なものを見るように首を傾げた。でも、渋々というふうに笑った。


「わかったよ。あんたが戻るまでここで待つ」


「……よかった」


 身体中の息を出しきったと思うほど、狭霧の身体からは力が抜けていく。高比古の袖を掴んでいた指先もくたりと垂れて、そこから離れた。


 それを見届けるなり、高比古は狭霧を追いたてた。


「待ってるから、早くいってこいよ。そんなにびくびくしてたら、どうせいつまでたってもいく気にならない。いまいけよ。すぐだ」


「わ、わかった……!」


 不機嫌な声に無理やり追いやられるようにして、狭霧は小さな庭へと足を踏み出した。


 神気がすみわたる聖地の庭に怖気づきつつも、狭霧をそこへ追い立てる高比古の声に、焦りながら――。






 小さな庵は、遠目から見た時の印象と変わらず、質素な造りをしていた。


 戸口にかかる異国の染めがほどこされた堅薦かたこもの前で名乗り、粗い布地をそろそろとよけて中を覗くと――そこには、一人の女性の姿があった。


 庵の中は薄暗かった。でも、なぜか目がまぶしがるほど、そこにいた女性はふわりと温かな笑みを浮かべていた。


 庵の奥で姿勢よく座る女性は、隼人風の身なりをしていた。背中まである黒髪は火悉海や鹿夜のようには結われておらず、さらりと後ろに垂れている。濃い眉、大きな目、ふくよかな厚みのある唇。口もとや目もとには齢を示す皺があり、その女性の齢は、三十半ばほどに見えた。


 隼人の聖地、先視――。と、身構えてそこに入ったのだが、狭霧を出迎えたのは美しい微笑みだった。薄闇のなかで輝く淡い太陽のように、女性はやってきた狭霧へ笑いかけた。


「まあ……遠いところをよくいらっしゃったわね。わたくし、ずっと待っていたんですよ。さあどうぞ、お入りになって。こちらへいらっしゃい。わたくしの前へ」


「は、はい……」


「ここ、すこし薄暗いのよね。あなたのお顔が見たいわ。どんなお顔をなさっているの。……まあ、愛らしい。出雲の娘は肌が白いのね。目もとも細くて、凛として……ふふ、異国の顔ね」


「は、はあ」


 恐ろしいものを想像していただけに、狭霧は拍子抜けしてしまった。


(この方が、隼人の大巫女様? 出雲の大巫女様みたいな方かと思って、びくびくしちゃった……)


 そんなふうに、勘違いを恥ずかしく思うほどだった。


 でも、安堵はそこまでだった。大巫女はふわりと優しい笑顔をしたままだったが、狭霧を目の前に座らせると、まぶたを閉じて、じっと耳を澄ますような仕草をした。


「あなたに、とても会いたかったの。さっきの青年にもよ。風たちがざわざわと噂をしていたから。それに、女神も――ふふふっ」


 隼人の大巫女は、無邪気な女童めわらわのように笑う。でもしだいにその笑みが、狭霧は恐ろしくなった。


 ふいに蘇ったのは、出雲の聖地で会った、出雲の大巫女の強い眼差しだ。


『神を人の世に呼び下ろす依巫よりましには、童をよく使う。事代たちも、幼い子供のような心を持つ者がほとんどだ。……なぜだと思う? 強いからだよ。無垢は強い』


 狭霧の目の前で微笑む隼人の大巫女は、娘とは呼べない齢の女性だった。でも、笑顔は――。それは狭霧に、無垢な女童を彷彿とさせる。


「ご挨拶が遅れました。わたくしは笠沙の主、岩長比売いわながひめ。あなたは出雲の大国主の御子姫で、狭霧様ね」


「は、はい、狭霧です。お目にかかれて光栄です。すみません、わたしこそご挨拶が遅れました。緊張していて――」


「いいのよ。気にしないで。……それにしても、あなたは本当に――」


 大巫女はまぶたを閉じたままだった。目を閉じて、瞳を使わずになにかを感じようとしているふうだ。


「わたしが、本当に……あの、なんでしょうか」


「ごめんなさいね、あなたみたいな珍しい娘さんに訪れてもらったことが、わたくし、嬉しくて」


 小さく肩をすくめて、大巫女は愛らしい笑顔を浮かべる。でも、次に大巫女が口にしたのは、狭霧の胸をじわじわと凍らせるような言葉だった。


「本当に、珍しい娘さん――。行く先がまったく視えないわ。先視ができない」


「……行く先? 先視?」


「ええ。気を張り詰めて、こんなに霊威を使っているのに――。まったく視えないわ。ふしぎな娘さんだこと」


 くすくすと大巫女は笑うが、狭霧にとっては青ざめる話だ。隼人の大巫女は、すでに霊威をはたらかせて、先視を始めていたようなのだから。それに――。


「あの、視えないって……」


 その言葉も、狭霧はどこかで聞いた気がした。その時、目もとにちらついたのは出雲の大巫女の蛇に似た目だったが、それがむしょうに怖くて、狭霧はしきりにまばたきをした。


「出雲の大国主……国津神くにつかみ地祇ちぎに守られた武王の、娘姫――名は、狭霧。あなたに、決まった道はひとつすら視えないわ」


「あの、それって……」


「きっと、どの道をいっても正しいのでしょう。好きな道を選んで、心ゆくままにおいきなさい。大地の母神に守られた娘よ」


 大巫女が口にするのは、おそらく先視と呼ばれるもの。この先に起こることを告げる予言だ。


 それはわかったけれど、どうしても狭霧は問い詰めたかった。


「だから、それって……」


 すると、大巫女は静かにまぶたをあけていく。そして、神秘的な黒の瞳で狭霧をじっと見つめた。


「あなたには、いろいろな道が伸びて視えます。あなたが生を終える場所は、出雲でしょうか。それとも南の地でしょうか、それとも北の都でしょうか。あなたは出雲の象徴、軍旗たるものです。旗がどの風に吹かれようが、旗は旗。好きになびくがよいのです」


「それって、つまり……」


 狭霧が生を終える場所は、出雲か。それとも南の地か、それとも北の都か――。


 そういわれて狭霧が思い出すのは、異国の青年たちの顔だった。なぜか、代わる代わる狭霧に妻問いをした青年たちの――。でも、そんなふうに、急によく知らない青年たちから近づかれることになったのは、流れる血のせいだと狭霧は疑わなかった。


(それは、わたしが軍旗のようなものだから。とうさまを象徴すると思われているから)


 大巫女の言葉には、納得できるものとそうでないものがあった。


 いや、実のところ、大巫女がいったどの言葉も狭霧は理解していた。でも、どうしても納得したくないことがあった。


(いやだ、未来が決まっているなんか。でも……未来がなにも決まっていないのも、いやだ。怖い……!)


 顎をあげてじっと大巫女を見つめると、狭霧は震える声で語りかけた。


「でも……わたし、困っているんです。いったいわたしはどうすればいいのかって」


「困る? あなたが?」


「だって……どの道も正しい、好きな道を選んでいいといわれても、混乱するだけです。いったいどうすれば正しいのかっていうことがわかるほど、わたしは賢い娘じゃないんです」


「……あら。まあ」


「お願いです、隼人の大巫女様。先視ができるなら、どうか教えてください。わたしはいったいどうしたらいいんですか? わたし、怖いんです。だって、みんながわたしを宝物のように扱うけれど、わたしは決してそんな娘じゃないんです」


 正直に胸の内を打ち明けながら、狭霧の目の裏には、ここしばらく住みついていた夢の幻が蘇っていた。暗い夜の庭で、どこでもない場所を目指して必死に駆ける幼い裸足のつま先が――。


「わたしを妻にといってくれる人が何人もいます。でも、みんなはわたしが欲しいわけではなくて、わたしに流れる血が欲しいんです。でもわたし、その血に見合うような娘ではないんです。そんな娘ではないって、わたしはいつも、苦しくて――」


 いつか、狭霧の目は潤んで、頬には涙がこぼれていた。


「どの道を選んでもいいっていうなら、わたしが選ぶのはきっと、誰のものにもならない道です。わたしは、とうさまの軍旗になれる気なんてないんです。だから、無理です……とうさまやかあさまみたいなことは……わたしには……」


 そこが、たった二人のためだけのひそかな場所だったからか。しんと静まり返った暗がりで、狭霧はほろほろと涙をこぼしてしまった。


 静かに泣きじゃくる狭霧をぼんやりと眺めて、大巫女は悠長に吐息した。


「あら、まあ」


 おそらく、隼人の大巫女の齢は狭霧の父と同じくらいだ。老いてなお少女のような雰囲気をたもつ大巫女は、ふわりとした笑顔を浮かべて狭霧をじっと見つめた。彼女が口にしたのは、慰めの言葉ではなかった。


「泣いても、どうしようもないわ。だって、そうなんだもの」


 乙女のような純真な笑顔に、突き放された。そう思うと、狭霧は敵を見るような目で睨みつけてしまった。


「そんな……!」


「だって、わたくしに先視を……真実を変える力はありませんもの。でも、あなたを助けることはできますよ?」


 どれだけ狭霧が無礼な視線を送っても、狭霧を見つめる彼女の穏やかな目に敵意が宿ることはなかった。


 決して崩れることのない優しい笑顔にいい諭されたように、狭霧の目の強張りはじわじわと溶けていった。


「わたしを、助ける――?」


「ええ、そうです。まずは、ひとつ教えましょう」


 にこりと笑った大巫女は、息継ぎをするようにゆっくり息を吸う。それから、じっと狭霧を見つめた。


「すこし、休みなさい。いいこと? おやすみ――。それから、あなたはすこし、幸せになる方法を探したほうがいいわね。人がなにかを選ぶ時に大切にするものは、正しいかそうでないかということだけかしら? あなたはまず、自分だけの幸せを探してみなさい。それは、決してわがままなことではないの。ね?」


「……」


「あなたは、遠くばかりを見ようとしているみたい。あなたは明かりのない暗い暗い場所にいるのに、そんなに遠くは見えないわ。それよりも、ひそかな灯りをともして、まずは手もとを照らしなさい。それから足もとを。それから、あたりを見渡してごらんなさい。あなたがいまいる場所がどこで、いきたい場所がどこなのか」


 狭霧の頬にこぼれ落ちた涙は、すでに乾きかけていた。


 まばたきも、息をするのさえ忘れて、狭霧は隼人の大巫女のする童女のような笑顔に見入った。


「見るべきではない場所を見ているのに、なにも見えないと思うのはどうかと思うわ。まずは、近くから。わたくしがいうこと、わかるかしら」


 穢れを知らない乙女のように純真な笑顔を浮かべて、隼人の大巫女は狭霧を癒した。でも、それだけではなかった。彼女の無垢な笑顔は狭霧を癒しもしたが、それは同時に、狭霧を刺し貫きもした。


「それでも道が見えないと思うなら、みずから道を閉ざすというのも、一つの道なのでしょう。さっきあなたがいったのも、この先に起こりえるうちの一つです」


 大巫女の無垢な笑顔は、さきほど狭霧が泣きながら口にした暗い願いを認めていた。


『どの道を選んでもいいっていうなら、わたしが選ぶのはきっと、誰のものにもならない道です。わたしは、とうさまの軍旗になれる気なんてないんです。だから、無理です……』


 それを、大巫女は鋭い一言でいい換えた。それでも道が見えないと思うなら、みずから道を閉ざすというのも一つの道だ……と。


 本能的に狭霧は、その言葉の意味を読み取った。そうするなり、焦った。


(わたしはそんなことまでは考えていなかった。ただ、誰のもとにも嫁ごうと思えないっていうだけで――。みずから道を閉ざすって、つまり……)


 導き出された恐ろしい考えは、ふたたび狭霧の芯をぞくりと凍りつかせる。


 青ざめた狭霧に、大巫女はにこりと微笑んだ。そして、ふわりとした無垢な笑顔はそれすら許した。


「わたくしは、それも構わないと思いますよ? だって、あなたに決まった道は一つすら視えないんですもの」





 


 謁見を終え――。やがて、ふらふらとさまよい歩くように庭を横切り、高比古たちのもとへたどり着いた時、狭霧の目はぼんやりとしてほとんど前を見ようとしなかった。


「狭霧?」


 腕組みをした高比古は壁に寄り掛かっていたが、狭霧のふらついた足取りに気づくと黒眉をすっとひそめる。高比古の声に異変を感じて、火悉海と鹿夜も寄り掛かっていた木壁から背中を離した。


「狭霧、どうした。大丈夫か?」


 庵にもっとも近い場所で待っていたのは高比古だったが、それを追い抜いて、戻ってきた狭霧をまっさきに抱きとめたのは、火悉海だった。


 鍛え抜かれた武人の身体をもつ火悉海の頼もしい手のひらに肩を抱きとめられると、狭霧の小柄な身体はすっぽりと彼の姿の影におさまってしまう。


「へんなもんでも食ったか? はっ……! ま、まさか、石蜜!」


 火悉海は、自分がすすめた菓子の名を口にして慌てたが、隣から狭霧を覗きこんだ高比古は、それを否定する。


「ちがうよ、そうじゃない。……熱があるんだ」


 火悉海の横からそっと手のひらをさしのべた高比古は、それを狭霧の額にひたりと置いた。


 包み込むような温かさのある火悉海の手のひらと比べると、高比古の手のひらは冷たかった。


「え……熱、ある?」


「あるよ。さっきから調子が悪かったろ? ひどくなってる」


「……さっきから?」


 火悉海の脇に立って、そこから狭霧を覗きこむ高比古は、困ったものに唖然とするふうだった。


「自覚なかったのか? 山道を歩いていた時から、ぼうっとしてたろ」


「……だって、つらくないよ。ただ、へんな気分で……。やけにぼんやりとするから……てっきり、頭が悪くなったかと思ってた」


 正直に告げた狭霧へ、高比古はため息を吐いた。


「……熱があるんだよ」


 淡々という高比古を、火悉海はすぐさま咎めた。


「ていうか、高比古。熱があるって気づいてたなら、なんですぐに庇わないんだよ」


「それは、狭霧が自分で平気だといったから」


「……ったくもう、おまえは。とにかく休め、狭霧。ついていけなくてごめんな。次は俺たちの番だからさ」


 火悉海は申し訳なさそうにいって、ちらりと庭の奥を見やった。


 火悉海の視線の先を追いつつ、狭霧は力なく応えた。


「あぁ、火悉海様たちも大巫女様に会うんですね」


「ああ、来たからには、いちおうな。……おい、誰か!」


 山宮に仕える若い巫女を呼び寄せると、火悉海は案内役を託す。それからすぐに、狭霧はその日の仮宿となる場所へ案内されることになった。


 先に宿へ向かうことになった狭霧と高比古と、次の番を待つ火悉海と鹿夜、そして火悉海の従者たちは、ひとまずここで別れることになったが、別れ間際に、火悉海は高比古へ文句をいうのを忘れなかった。


「なあ。ほんとに、狭霧と同じ部屋で寝るのはおまえなのか……」


 火悉海が口にしたのは、嫉妬混じりの愚痴だった。


 高比古はいらいらとするだけで相手にしなかったが。


「くどい。さっきから何度訊けば気が済むんだ? おれは狭霧の守り人を……」


「それはわかった。でも、どうして隣り合って眠る必要があるんだ? いまは鹿夜もいるんだし、せめて夜のあいだだけは鹿夜に守り人の役を任せてさ、女二人が同じ宿を使えばいいじゃないかよ。鹿夜だって腕の立つ武人だぞ」


「腕の立つ武人でも、巫女じゃないだろうが? 無理だ。おれだって夜になったらすこしくらいは寝たいんだ」


「寝りゃいいじゃないかよ。俺と仲良く隣の寝屋で」


「だから、そうじゃなくて。眠っていれば、起きている時より鈍くなるから、すこしでも近い場所にいないとなにかあっても気づけないんだ。なにかあってからじゃ遅いんだよ。たまにはしっかり寝たいから、手首かどこかをひもで繋げて寝たいくらいだ」


「お、おまえ……! 狭霧を縛る気か!」


「はあ? おまえはいったいどんな妄想をしてるんだ」


 高比古は呆れ返ったふうにいい、火悉海はなぜか動揺して、顔を耳まで赤くした。


 高比古と火悉海のやり取りを終わらせたのは、鹿夜だった。


「あんたら二人、いったいなんの話をしてんの? 狭霧を休ませるんでしょうが。狭霧は熱があるんでしょう?」


 すると火悉海は、はっと我に返ったように鹿夜を向く。


「あ、そうだった」


 鹿夜が責めたのは火悉海だけではなかった。まつげに飾られた艶やかな黒眼で高比古のこともぎらりと睨みつけると、鹿夜は彼にも文句をいった。


「本当に男って……。高比古だって、狭霧の守り人をやるなら、もうすこし面倒を見てあげなさいよ。あたしにだってもうわかるわよ。この子は、放っといたら自分からは休みたいだなんていい出さないわよ。出雲からここに来るまで、高比古はずっと一緒に旅をしてきたんでしょう? そのくせに、どうしてそれくらいわからないのかしらね」


 つんと鼻を逸らしつつ、鹿夜は歯に衣着せぬふうに率直にいった。


 それから次は、火悉海をせっついた。


「それに火悉海、あんたは早く庵へいきなさいよ。大巫女がお待ちかねよ」


 その時、鹿夜は聖なるものを視界に入れるのを畏れるように、慎重に遠くを見つめていた。畏怖すべきものに対峙するように彼女が見つめたのは、海に突き出した岬の頂きで、いにしえの森に守られる小さな庵――。


 聖なる巫女の居場所であるその庵には、ともすれば人を阻むような神秘さが漂っていた。



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