時じく香の実 (1)


 火悉海に案内役を命じられた巫女は、狭霧のための寝床を用意することも忘れなかった。


「いま、お支度をするのは一人分でよろしいですか」


 客人用の寝屋に着き、同じ場所で高比古も眠ると伝えると巫女がそのように尋ねたので、高比古は答えた。


「ああ、この姫のぶんだけでいいよ。ありがとう」


「では、失礼いたします。なにか御入り用のものがあれば、なんなりと」


 深くお辞儀をした巫女は、間の入り口にかかる薦をよけて外へと出ていった。


 ぱさり、と戸口の薦が落ち、寝屋には二人きりの静けさが訪れる。


 自分のために用意された寝床を眺めると、狭霧はぽつりとつぶやいた。


「本当に、つらいわけじゃないんだけどなぁ……」


 病人扱いをされるほど抗うような狭霧を、高比古はせかした。


「熱はあるよ。苦しいってことに気づかないのは、わかって苦しんでるよりよっぽどまずいよ。寝てろ」


 高比古は先に枕元へ向かってあぐらをかく。仕草は、狭霧を見張るようだった。


 仕方なく、狭霧は寝床に寝そべることにした。静けさのなかに、身にまとう衣装が布とこすれる音を響かせつつ、敷布と掛け布の隙間に足を滑り込ませていると、高比古はなにかを思い出したように手のひらでそれを止めた。


「すこし待て」


 彼の手のひらが伸びた先は、狭霧の目の上。額だった。


 額の丸みに手のひらを添わせると、高比古は目をつむる。そして次には、息や脈動すら止めたのではないかというほど、じっと動かなくなった。


「熱は……まあまあ。やっぱり風邪だよ。すこし休め」


 離れゆく手のひらをぽかんと目で追いながら、狭霧はそばであぐらをかく高比古をじっと見上げてしまった。


「いまの、なに……」


「なにって」


「なにをしていたの? 熱をみただけじゃなかったでしょう?」


「熱をみただけだよ」


 高比古はいうが、狭霧は信じられなかった。


 問い詰めるような真顔をする狭霧へ、高比古はくすりと苦笑した。


「本当に熱をみただけだよ。あと、すこしだけあんたの身体を診たけど」


「身体を診たって、どうやって……。高比古は目を閉じただけだったじゃない。ふしぎな力を使ったの?」


「まさか。そんなものを使うまでもない」


「じゃあ、どうやって。それに、身体を診たって……高比古って、医師でもあるの?」


「医師は刃物を使うよ。おれは刃物を扱ったことはない。せいぜいできるのは、薬師の真似くらいだよ」


「薬師……。いまのは、薬師の技なの?」


「そのはずだよ」


「あなたが薬師のようにする時には、高比古は本当に霊威を使わないの?」


「いちいち使わないよ。必要ないし」


 質問攻めにする狭霧に、高比古は呆れたふうに笑っていた。


 彼のその顔から、狭霧は目が離せなくなっていた。


 高比古は出雲随一の力を誇る事代ことしろおさで、そのうえ策士。出雲王の名代として王の全権を預かり、戦に同行する人だ。それだけでも、この若さで……と周りから珍しがられることなのに、高比古はそれだけではない。


(高比古は医師の知恵をもっていて、そのうえ薬師なんだ……)


 そういえば狭霧は、高比古から薬草の手ほどきを受けたことがあった。星読みが薬師の技だと教えられたこともある。


 策士や事代として務めを果たすことが多いので、これまでに高比古を薬師と見たことはなかったが、彼はおそらく薬師としても一流のはずだ。


 寝転がろうとする途中で動きをとめたので、狭霧は寝床に座ったままだった。そのまま狭霧は高比古をじっと見上げた。


「薬師になるのに、ふしぎな力はいらないの? 頑張れば、いま高比古がやったことは、わたしにもできるようになるのかな……」


 狭霧は、薬師を目指し始めたばかりの新米だ。師匠をみるように高比古を見つめる狭霧へ、高比古は吹き出すように肩を揺らした。高比古の顔にあるのは、いつもの鉄面のような無表情ではなかった。狭霧を見下ろす薄い唇の端はわずかに上がっていて、そこにはほのかな笑みがあった。


「できるよ、あれくらい」


「じゃあ、どうやるの」


 問い詰めるような狭霧へ、高比古はすぐに応えた。でも、返事は頼りなかった。


「どうやる? さあ、どうやるんだろうな」


「……教えたくないの? そうだよね。いまのわたしが学ぶべきことじゃないよね。まだまだだもんね」


 彼から狭霧は、「星読みを覚えるのはまだ早い」と釘をさされたことがあった。それを思い出すと狭霧の声は暗く沈むが、高比古の様子はその時とはちがっていた。


「そうじゃないよ。薬のことなら、あんたはもうわかってるよ。今なら、おれより詳しいんじゃないのか」


「高比古より詳しい? まさか……。じゃあ、どうしてさっきのを教えてくれないの」


 高比古は、人をおだてたりするような人ではないと思っていた。彼は、酷い言葉であろうが歯に衣着せずにいって、相手を傷つけることをいとわない。その半面、心にもない褒め文句を口にして、相手を嘲るような人ではない、と。


 そんなふうに思っていた相手から褒められると、狭霧は馬鹿にされたような気がしてたまらなくなった。


 狭霧は、肩を落としてうつむいた。でも、目を逸らした狭霧を咎めるようにも、高比古も居心地悪そうに続きをいった。


「仕方ないだろ? おれは望んで薬師の知恵を身につけたわけじゃないんだ。人からじかに教えられたことがないから、おれは薬師の技をどうやって教えていいかわからない」


 でも、狭霧は納得がいかない。顔をあげて高比古を見つめながら、狭霧は目で意地悪を責めてみた。


「でも、誰かからは教わったでしょう? 薬師のことだって医師の知恵だって、高比古はいろんなことを知っているのに」


「そうじゃない、国々のことと事代の技以外は、おれはほとんど誰からも教わっていない」


「じゃあ、どうしてあんなにいろんなことを知っているの。武芸は? 馬術は?」


「それは――」


 高比古はいいにくそうに言葉を濁した。そして、結局彼がそれ以上その話を続けることはなかった。


「いいよ。なら、教えてやるから」


 渋々といい、高比古は唇を横に引いたり、うつむいたり首を回して天井を見上げたりしながら、しばらく黙った。それから心を決めたように狭霧を向くと、ゆっくりと唇をひらいていった。


「そうだ、こうすればいい。草をみた時に、強い草と弱い草の見分けはつくか」


「強い草と弱い草?」


「たとえば、強い効き目をもつ薬草と、そうではない草との見分けとか、世話をしなくても育つ力をもつ草と、手塩をかけて育ててやらないとまずい草のちがいとか。どうだ?」


 高比古がいう言葉を丹念に飲み込みながら、狭霧はゆっくりとうなずいた。


「うん、すこしは。葉の艶とか、茎の硬さとか、そういうものをじっくり見たら、わかるようになったかも。それくらいなら……」


「それでいい、そういうことだよ。数を見て、もっと慣れていけば、ぱっと見ただけでわかるようになるよ。それから、あんたが次に覚えるのは、薬のつくり方だと思う」


「薬のつくり方……」


「ああ、薬師の奥義というか、ひととおりのことを学び終えた薬師が学ぶことだ。それぞれの薬草がもっている効き目を覚えて、どれとどれを組み合わせると相性がいいとか、たとえば、毒の力を打ち消す薬のつくり方を極めるとか」


 腕のいい薬師は、薬草を自在に組み合わせて、より多くの種類の薬をつくることができる。彼が教えるその話は、狭霧にもわかった。薬師として学び始めてから、薬師はこういう仕事をする人だという話は耳にしたし、草にも人と人のように相性があるということは、なんとなくわかってきていた。


 こくりと狭霧がうなずくと、高比古はほっとしたように息を吐いて、続けた。


「薬のつくり方と人の病の見方は、ほとんど同じだ。弱ってる奴を見慣れたら、どこが弱っているのかがだんだんわかるようになる。薬っていうのは、身体の中の弱ってる部分をもとに戻してやるものだろう? まず、なにが足りないのかを見つけてやらなくちゃ駄目だ。見つけたら、足りないものを薬として飲ませてやればいいし、身体を弱らせている毒を打ち消したほうが早いと判断したら、そのための薬を飲ませる。毒を身体の中から出すために、毒を殺すための毒を飲ませることもある。正しい薬をつくって、どう飲ませるのか、もしくは塗るのか、洗うのかを見極めて、弱った奴の身体をもとに戻してやるのが薬師だよ」


 高比古がいうのは、薬師の心得だ。薬師は薬草を見極めて、薬をつくって、それを病人やけが人に与えて、災厄を追いやるものだ――と。


 そこまで理解すると、狭霧の胸はきゅうに焦り出してしまった。


(わたし、薬をつくったことがない。わたしはいままでなにをしていた? 薬草を育てていただけよ。そんなの、薬師じゃないわ。農婦と同じよ)


 胸の焦りに追い詰められると、狭霧の唇は弱音をこぼした。


「どうしよう、高比古……。わたし、まだそこまでいってない」


「時間がかかるよ。あんたは一年でよくやってるよ」


「でも……。わたしがちゃんと薬師になれていたら、いまだって自分に足りない薬がわかるはずでしょう? でも、わたし――」


「たいてい人は、自分のことが一番わからないものだろ」


「……わたしに足りない薬が、あなたにはわかる?」


 じっと見上げる狭霧へ、高比古は小さく吹き出した。


「心配しすぎだよ。いまのあんたの病は、休めば治るやつだ。いちいち薬なんかいらないよ。……そうだ、いいものやるよ」


「いいもの?」


 立ちあがると、高比古は狭霧に背を向けて、寝床から数歩遠ざかった。


 彼が向かった先は、寝屋を囲む木の壁。そこには高窓がついていた。ぼんやりとした外の光をたたえる明かり取りの木窓だ。その木窓は、高比古の目の高さについていた。木窓の縁に手をかけられるほど近づくと、高比古はそこから窓の外へ向かって腕を伸ばした。


 高比古の姿を追う狭霧は、ぽかんとそれを見つめた。


 いったい彼がなにをしようとしているのか、それも気になったが、なにより狭霧の目を呆けさせたのは、彼の表情だった。


(高比古、笑ってる……)


 外へ腕を伸ばす高比古の横顔は、別人かと見まがうほど優しい微笑を浮かべていた。とても気が知れた相手――家族や、それに近しい誰かがそこにいるような、安堵しきった微笑みを。


 でも、その木壁の向こう側にはなにもないはずだ。


(たしかこの舘は、山林を背にして建っていた……。この向こうに建物はないはずだし、森の木々しか、そこにはないはず――)


 高比古の横顔を見つめていると、いつかその笑顔は狭霧を向いた。目がふしぎがるような高比古の優しい笑顔と正面から向き合うと、狭霧は胸がぎゅっと締めつけられる想いがした。


(やっぱり、別の人みたい……。高比古って、こんな顔もするんだ)


 いまに限って彼の目は、幸せな童のように澄んでいた。いつもなら、冷酷な役目を負っても目の色ひとつ変えずにやってのけそうな、鉄面のような無表情ばかりをしているのに。


 高比古は片腕を中空へ掲げていて、その手のひらは大切なものを包むように丸まっていた。指の隙間から覗くのは、赤い実。それは、狭霧が見たことのない果物だった。


「それは……」


「もらった」


 彼はそういうが、高比古は木窓の向こうへ手を伸ばしただけだった。


 しかもそこには、誰かがいそうな舘も、道も庭もない。自然のままに生い茂る森の木々しかないはずだ。


「もらったって、誰に」


 こわごわと尋ねると、高比古はふわりとした笑顔を浮かべたままで答えた。


「木に頼んだ。あんたの調子が悪いから、滋養のある実をもらえないかって」


「え――」


「効くんだよ? ……おれは、これ以外に風邪の看病の仕方を知らないんだよ」


 そこで、高比古の童のような笑顔はぱっと消えてしまった。まるで、そんなふうに笑っていたことをいまさら思い出して恥ずかしがるようで、彼は真顔を取り繕うもののどこかぎこちなく、ふてくされたように見えている。


 それから高比古は、照れ臭いのを隠すような不機嫌な横顔を見せた。


「いいから、食えよ。そのままかじればいい」


 荒っぽい足さばきで狭霧の枕元に戻った彼は、目も合わせずにその実を差し出した。


 果実は丸くて、すももより一回りは大きい。真っ赤に熟れた柿よりもまだ赤い深紅の色をしていて、目が醒めるようなその赤色は、真冬の雪野原に真っ赤な彩りを添える南天の実の色に近かった。


「ありがとう、食べてみるね」


 受け取った赤い果実を両手で大切に抱えると、狭霧はそろそろと唇を近づけた。白い歯をそっとあてがって、かじりとった果肉を唇の内側で味わうと、初めて手にした実だけあって、これまでに味わったことのない味がした。甘いが、すもものような爽やかさはなくて、もっと濃厚だ。たとえば、ここまでくる道中に火悉海から「南島からきた宝」として手渡された石蜜の味がもっと濃くなって、果実のかたちを得たような――。


「おいしい……」


「味はどうでもいい。人の身体を回復させる薬みたいなものだから、それを食って一晩休めば、風邪くらいすぐによくなるよ」


 高比古はまだ恥ずかしそうにしていた。


 いうだけいうと、彼はこの部屋を立ち去ろうとした。


「食ったら寝ろ。おれがいないほうが休めるだろ? おれは舘の外にいるから」


「そんなに急がなくてもいいじゃない」


 今度は、狭霧が吹き出す番だ。恥ずかしいところを見られた相手のそばからこそこそと逃げるような高比古に、狭霧はくすくすと笑った。


「ありがとう、高比古。この実は、出雲では見たことがないね。高比古が暮らしていたところでは、よく見かけた実なの?」


 高比古の故郷は出雲ではないはずだ。彼が生まれた場所は、こんなに甘い実がなるところだったのだろうか。


 彼の生まれ故郷を想像して、狭霧は赤い果実をきゅっと手のひらで包んだ。それから、無邪気に尋ねた。


「これは、あなたの故郷では有名な実なの? 高比古が熱を出した時、あなたのかあさまがこの実をもってきてくれたの?」 


 でも、次の瞬間。狭霧はそんな問いをしたことを悔やんだ。


 狭霧の言葉を聞きつけるやいなや、大股で部屋を横切って戸口へ向かっていた高比古の足はぴたりと止まってしまう。顔はさあっと青ざめていき、彼の目は冷ややかさを失う。なにが起きても顔色一つ変えない鉄面のような真顔や、彼にいつも備わる冷静さがすべて崩れ去ったあと、そこに残っていたのは動揺だった。


 高比古は狭霧に応えた。でも、いい方はやけにとつとつとしていて、話しながら話している事実に脅えるふうだった。


「おれの、母親? おれの親は、おれを疎んでた。おれが弱って熱を出すたびに、奴らは、頼むからそのまま死んでくれって神に願ってた。……思い出した。里をあげて、奴ら、祭りまでひらいてた」


「祭り……?」


 びくびくとしていた高比古の声は、しだいに熱を帯びていった。彼は憎いものを罵るように鼻で笑い、遠い場所にあるものを侮蔑した。


「おれが繋がれた岩屋にも、祭りの騒ぎは聞こえてきた。くそうるさい太鼓の音に、おれの死を願う祈りの声――。母親が、おれの看病? あいつが、そんなものをするわけがない」


 狭霧は、彼がする話の意味がよくわからずにいた。


「高比古が弱って熱を出すたびに、里の人がみんなで祭りをひらいた? あなたの死を願う祭りを……? どうして……」


「おれは、生まれた里の全員から気味悪がられて育ったから。奴らにいわせれば、おれは化け物がかあさんに悪さをして出来た子で、人の子じゃないんだとさ。なら、とっとと殺せばいいのに、おれを殺せば魔物から祟られるといって、おれは里外れの岩室に繋がれて育った。……おれは、あんたとはちがうんだよ」


 高比古は、彼を苦しめている膿のようなものを吐き出すようないい方をした。


 前にも狭霧は、彼の過去を訊いたことがあった。


 その時も狭霧は、彼には壮絶な過去があると気づいたはずだった。


 でも、その時のことを忘れて彼の思い出を尋ねてしまったのは、彼が幸せそうな笑顔を浮かべたのを見たからだ。安堵に浸る童のような、無垢な笑顔。あんな笑顔ができるのだから、きっとこの果実には、彼にとって幸せな思い出があるにちがいない、と――。


 手のひらの中に丸い果実を包み込んでいるのが、だんだん狭霧は苦しくなった。どうやらこの果実は高比古にとって、幸せの思い出だけがつまったものではなさそうなのだから。


 表情を隠すように横顔を向けてしまった高比古を見つめながら、狭霧は首を横に振っていた。


「でも、じゃあ、この果実は……。高比古が風邪をひいた時に、この果実を渡してくれたのは誰だったの」


「それは……森が」


「森?」


「森が、里の連中に怒ってくれた。弱ったおれを放っておくどころか、死を願うなんてとんでもないと、祭りがひらかれたあいだに、里の木をみんな枯らしてしまった。おれの居場所だった岩室の周りの木々は、おれに食事と薬を与えようとほかより豊かに実ったのに。おれの様子を見に来た奴が、花と果実に溢れた岩室を見て、顔を引きつらせていた。……悔しかったが、爽快だった。ざまあみろって」


 高比古の言葉を聞いているうちに、狭霧の目の裏には、彼の思い出の景色が生まれた。


 立ち枯れた木だけになった里のなかで、唯一豊かに茂ったふしぎな森。そこで生きて、森に育てられた高比古。もしかしたら幼い彼は、彼を人の子ではないと遠ざけた里の民からますます畏れられて、なおさら人の子の扱いを受けなくなったかもしれない。


(高比古の周りには、人が誰もいなかったんだ……)


 まさか。そんなはずはない。きっと一人くらいはいるはずだ。そうであってほしい――。


 そう祈りながらも、狭霧は目の裏に浮かんだ寂しい光景に目を潤ませずにはいられなかった。


 震えそうになるのをこらえながら、狭霧は高比古へ声をかけていた。


「じゃあ、どうしてあなたは、そんなに優しくなれたの」


「……なんの話だ」


 高比古は大仰に真顔を歪める。手を差し伸べかけた狭霧を、こっちへ来るなと威圧するような険しい表情だった。でもいまの狭霧に、あとに退こうとは思えなかった。


「高比古はとても優しいよ。幼い頃にそんな目に遭ったのに、どうやって相手を思いやることを覚えたの? ……きっと、あなたを愛した森が、心底あなたを愛していたんだね。森はあなたに、優しかったんだね」


「意味がわからない」


 高比古はそれを突っぱねた。それから、目を合わせるのも煩わしいとばかりに狭霧のいたわるような眼差しを振り切ると、止めていた足を浮かせて戸口を目指した。


「……喉が渇いた。水をもらってくる」


 彼がいうのは、きっと口実だ。


 彼は、彼を見つめ続ける狭霧から遠ざかろうとして去りゆくのだ。







 ぱさり。と、のどかな音を響かせて戸口の薦が床へ垂れると、そこには再び静寂が訪れた。


 高比古が外へ出ていってしまっても、狭霧はぴくりともそこを動けずにいた。


 高比古がそばからいなくなっても、狭霧に浮かぶのは彼の顔だけで、耳もとで響くのは幻の泣き声だけだった。さっきから狭霧は、高比古の幻の泣き声を聴いている気分だったのだから。


 手のひらの中には、ずっしりと重い果実がある。一口かじった痕のある、赤い果実だ。


 それを手のひらで丁寧に包み込むものの、指先には力がかよわず、唇に近づけてもう一度かじろうと思っても、なかなかうまくいかなかった。


 そして、赤い果実を見下ろす狭霧の瞳は小さく揺れていった。


(これは、高比古の大切な果実よ。それを、わたしにも分けてくれたんだ……。彼には、これしかなかったかもしれないのに)


 きっとこの果実は、高比古が幼い頃に受けた愛情のかたちだ。たとえそれが、人ではないものが彼に与えたものだろうと――。


 そう思うと、泣きだしたい気分だった。でも、こらえた。


(わたしが泣くことじゃない。高比古に失礼よ。泣いていいのは彼だけだわ。もしかしたら今頃、どこかで泣いているかもしれない……)


 そして、狭霧はむりに深呼吸をして、息を整えることにした。


 しばらくすると、寝所の入り口となった薦の向こうに再び人の気配が立った。


 中へ呼びかける声もする。それは高比古のものだった。


「狭霧、入るぞ」


「高比古?」


 さっきの様子では、しばらく戻ってこないと思っていた。


 顔をあげて、薦をたぐりあげようとする彼の手のひらの動きを目で追う。そうするうちに、狭霧は納得した。なぜ高比古が戻ってきたのか。


 戸口に現れたのは高比古だけではなかった。彼の背後には火悉海と鹿夜がいて、その奥には火悉海の従者までが揃っていた。従者に腕をつかまれる佩羽矢の姿もある。


「どうか、したの……」


 まるで、なにかが起きたかのようだ。


 彼らにある険悪な雰囲気を感じ取って、癖のように狭霧が尋ねた相手は、高比古だった。


 狭霧に問われるまで、彼はたしかに狭霧の手もとを見ていた。でも、彼はさっと目を逸らす。仕草は、狭霧の手が大事に抱える真っ赤な果実をなかったものにするようだった。


 彼は背後を向いて、そこにいた火悉海を促した。


「どうぞ。話なら直接しろよ」


 高比古がここへやってきたのは、火悉海が望んだかららしい。きっとどこかへ立ち去ろうとしているさなかに、彼は運悪く火悉海に出くわしてしまったのだ。


 火悉海は、高比古のそばをすり抜けて寝所の中へと足を踏み入れた。それから、狭霧の枕元を陣取ると、ゆっくりと腰をおろして雄々しくあぐらをかく。


 火悉海がそこに場所を得た頃、鹿夜と、佩羽矢の背中を押しながら中へ入った火悉海の従者たちも、入り口あたりにずらりと並んだ。


 狭霧はその寝所を、二人で使うにはとても広い場所だと思っていた。でも、これほど大勢が中へ入ると、きゅうに手狭に感じてしまう。


 狭霧は、枕元に座った火悉海の目を探した。


「火悉海様、いったい……」


 すると、火悉海は笑みを浮かべた。一国の若王らしい精悍な笑みだ。


「狭霧、身体の調子はどうだ」


「平気です。すこし休めばよくなるって、高比古も診てくれました」


「……無理するな。狭霧の気分がよくなるまで、どれだけでもここで休めばいい……と、いいたかったんだが」


 そこまでいうと、火悉海は表情を曇らせて深刻そうにため息をついた。


「すぐに都へ戻らなくちゃならなくなったんだ。だから明朝、ここを発つことになった」


「えっ、そんなに早く?」


 火悉海が狭霧たちをここへ連れてきたのは、眺めがいいという笠沙の地で狩りをして遊ぶためだといっていた。


 いま、すでに日は暮れかけている。明朝ここを出るとなれば、狩りどころか、ここからの景色すらろくに眺められないだろう。


 火悉海は狭霧の身を案じていた。


「まだ苦しかったら、山道はおれがおぶってくだるからさ、浜まで戻れるか」


 狭霧は慎重に唇をひらいた。それは、火悉海への返事をするためではなかった。


「なにかあったんですか」


 火悉海は、ゆっくりと肩で息をした。


「いま、俺の番がきて、大巫女と会ってきたんだが。大巫女から、言告ことつげをされたんだ」


「言告げ?」


「大巫女は先視さきみをしたんだ。……近々、この地の東で乱が起きるらしい」


「乱……。東で?」


「ああ、東。この東には、別の隼人の一族の領土がある。大隅(おおすみ)族の都へ向かう道もな」


「大隅……」


 大事なものを丁寧に飲み込むように、狭霧は唇の内側でその言葉を反芻する。


 ぽつりとつぶやかれた声の響きが途絶えると、火悉海はぎらりと目を光らせた。彼が睨んだのは、部下たちに連行された佩羽矢だ。


「俺の勘は、おまえが原因だというんだが。……なにか聞いていないか?」


「さっきからいってるじゃないですか。なにかってなんですか。俺は乱なんて……! 誤解です。俺はなんにも知りません」


「なら、いいんだが」


 厄介な事実を咀嚼するように、火悉海はゆっくりといった。


「正直、よくわからん。隼人同士で戦をすることはほとんどないが、山側にはしょっちゅう乱を起こすべつの一族の都もあって、大巫女の先視は、そいつらのことをいっているのかもしれない。よくわからんが、聞いたからには都へ知らせに戻らないといけない。……まあ、いまなら勇名を轟かせる出雲の武王が阿多にいるんだ。怖いものなんかないんだが」


 火悉海は不敵な笑みを浮かべている。それから病床の狭霧を見やると、にこりと笑ってみせた。


「せっかく連れてきたのに、悪いな。そういうわけで、不穏な気がかりができちまったんだが、気にするな。なにか起きても、狭霧は俺が絶対に守ってやるよ」


 その目と目が合うなり、狭霧は、ここにいるはずのない誰かを見たような気になった。


 火悉海には、もともと難を寄せつけようとしない奇妙な華がある。


 いずれ起きるかもしれない乱を前にしたいま、火悉海の自信に満ちた目はますます華を得てぎらりと光ったが、その目は狭霧にとって、とてもよく知っているものだった。


(とうさまの目に、似てる――)


 阿多の若王という血によるものなのか、それとも、彼が苦労して身につけたものなのか。それはわからなかったけれど、狭霧は痛烈に感じた。


 その目は、王者のものだ。大八嶋に勇名を馳せる武王、誰もが大国の主と認める偉大な王、父に似た――。


 そう思うなり、狭霧の胸はどきどきと高鳴った。


 狭霧が父王に対して抱く想いは、畏怖だ。実の娘から見ても、父王は怖い男だった。


 でも、父に対しては、同時に抱く想いがあった。それは、憧れだ。


 あれこそが王。誇りに満ちて、才能に溢れて、他を圧倒する――。


 それは、同じ血を引いているというのに、狭霧に欠けたものだった。


 だから、父と同じ風格を備える火悉海から「絶対に守ってやる」と見つめられるのは、とてもふしぎな気分だった。父からそんなふうに見つめられた覚えは、なかったのだから。


 狭霧に心をひらいて胸の内を晒す火悉海は、父ほど近寄りがたい存在ではない。それどころか――。


 火悉海の熱心な眼差しに絡めとられたように、狭霧は彼の目から視線を外せなくなった。ふしぎなものに見入るようにじっと見つめる狭霧の目の前で、火悉海の片腕が掲げられる。にこりと笑ったままで手を伸ばした彼は、狭霧の小さな肩にそっと手のひらを置いた。


「そんなに気にするな。大丈夫だ。狭霧は俺が守るよ」


 狭霧がぼんやりとしたのは、乱を気にしたせいだと彼は思ったらしい。


 不安を宥めるような温かな眼差しで狭霧を見つめながら、火悉海はゆっくりと腰をあげていく。


「眠ろうとしていたところだったろ。邪魔をしたな。ゆっくり休めよ」


 そして――。狭霧を気遣う言葉と眼差しを残して、彼は従者たちを率いてその場を後にした。





 


 火悉海たちが立ち去ったあと、そこに残されたのは、狭霧と高比古。


 去りゆく火悉海の背中を見送って、高比古はぼんやりとしていた。


「棟梁の風格っていうか、なんていうか――。いい奴だよな」


 きっと高比古も、「とうさまに似てる……」と見つめた狭霧のように、いまの火悉海になにかを感じたのだ。


 狭霧は、うわごとのようにつぶやいた。


「うん……そうだね」


 高比古は一度ため息を吐いた。それから彼は、彼の考えを告げた。そしてそれは、狭霧にとって愕然とする言葉だった。


「ここに……阿多へ嫁げばどうだ」


 いったいなんの話になったのかわからなくて、狭霧はきょとんと目をしばたかせる。


「えっ――」


 高比古の真摯な目は狭霧を貫く。本心を告げているんだと、その目は狭霧をいい聞かせた。


「火悉海は、いい奴だ。きっとあんたを大事にするよ」






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