時じく香の実 (2)

『ここに……阿多へ嫁げばどうだ』


 まさか、高比古からもそんな話をされるとは思わなかった。


 火悉海本人や、彼の父王、それから彼の幼馴染の鹿夜かやや、彼の従者たち。彼らはどうやら狭霧と火悉海の祝言を望んでいるようだった。でも、火悉海に関わる人だけでなくて、高比古からもそんなふうに思われていたとは――。


 高比古は、遠賀を出てからいままでずっと狭霧の一番近くにいた人だ。そばにいることにすっかり慣れたいまは、高比古は狭霧にとって一緒にいて一番疲れない相手だ。


 彼には恋心も嫌悪も抱いていないから、もっとそばへいきたいとか、少しでも遠ざかりたいとか、一緒にいることでなにかを想うことがほとんどなかった。でも、いま……きゅうに狭霧は、彼が遠ざかった気がした。


 狭霧が高比古を見つめる目は、訴えるように険しくなった。


「嫁ぐって、火悉海様のもとにっていうこと?」


「ほかに誰かいるか」


 高比古はやれやれというふうにいい、戸口と寝床の上の狭霧を見比べる。仕草は、話を終わらせて立ち去るべきか、このままここに留まるべきかと迷ったふうだ。


 狭霧は、彼を引きとめるように身を乗り出した。


「高比古は、わたしが出雲に戻らずに、このまま阿多に残るべきだって思うの?」


「そうしたほうがいいと、おれは思う」


「それは誰の考えなの? とうさまじゃないでしょう? とうさまは、わたしを阿多に嫁がせるのを嫌がっていたもの――。あなたの主の、彦名様のお考え? 出雲ではそういう考えがあるの?」


「……ちがうよ」


「じゃあ、誰? 高比古の考え? 出雲の王になる人としての意見?」


「どうしたんだよ。おれはあんたを怒らせる気なんかない」


 珍しく食いかかった狭霧を宥めるように、高比古はふうと肩で息をした。


 それから彼は、立ち去るのを諦めた。さきほどいた場所……狭霧の寝床の枕元にあぐらをかいて腰を据えると、狭霧と目の高さを合わせた。狭霧を見つめる彼の目は真剣だった。


「おれの意見だよ」


「高比古の? わたしが火悉海様に嫁いだほうが、出雲にとっていいの?」


「そうはいってない。おれがそう思うのは、ここが一番安全で、落ちつけるからだよ」


「……安全?」


「そうだよ。大乱の火の粉も、ここまでは飛ばない」


 高比古は、狭霧から目を逸らした。


 狭霧に向けた彼の横顔は、やけに苦しそうだった。でも狭霧に、高比古の表情を気にかけるような余裕はなかった。高比古と同じく、狭霧も苦しげに顔をゆがませていた。


(高比古から、出雲に戻らなくてもいいっていわれた――。わたしはやっぱり出雲の姫にはなれないんだ。どんなにそうなりたいって願っても、わたしにはやっぱり、できないんだ……)


 すべての道を閉ざされたような気がして、狭霧は目の前が真っ暗になった幻を視た。すると耳には、すこし前に狭霧へ笑いかけた大巫女の純真な声が蘇って、ゆらりと闇を告げた。


『あなたは明かりのない暗い暗い場所にいるのに――』


 狭霧には、薬師になりたいという想いがあった。大切な幼馴染と引き換えに選んだ道なのだから、自分はどうにかして出雲の姫らしくなるべきだという想いも。でも、薬師としてはまだ道なかばで、出雲の姫らしくというほうは、そうなりたいと思えば思うほどよくわからなくなっていた。


(出雲の姫って、いったいどういう人なんだろう。武人は、出雲では強ければ強いほど力を得るし、事代やまつりごとにかかわる人は腕しだいで力を得る。でも、じゃあ、わたしはどうすればいい……?)


 いきたい場所は見つけた気がするけれど、いつのまにかいき先を見失い、方向もいき方もわからずに途方に暮れている。狭霧はしばらくそういう気分で、たしかに隼人の大巫女のいうとおり、真っ暗闇のなかで右往左往しているようなものだった。


 まだ狭霧は、闇の中にひとつすら道を見つけられていなかった。それなのに――。


 いまの高比古の言葉は、真っ暗闇のなかで狭霧の腕を強く引くようなものだ。ここはおまえのような娘が来るところではない。さっさとどこかへいけと、無理やりそこから追い出されているような。


(やっぱりわたしは、どこへもいけないのかもしれない。いくべきところもわからないし、ここがどこかもわかっていない……)


 狭霧は、迷子になった童のように泣き喚きたくなった。けれど、喉が詰まったようになって、泣きたいのに泣き声はつきのぼってこない。だから、熱い涙をほろほろとこぼしながら、狭霧は静かに頬を震わせた。


 狭霧を見下ろす高比古は、黒眉をついと寄せた。


「泣くなよ……」


「でも……」


 静かに泣きじゃくりながら、狭霧は手の甲を何度も目もとにいききさせて、熱い滴をぬぐい去る。


 でも、涙ごしに高比古の困り顔を見つけるやいなや、妙案を思いついたふうに狭霧の涙は止まり、頭にのぼった熱はすうと冷めていった。


 狭霧は、悩みを打ち明けるのに、このうえない相手を見つけたと思った。


 きっと話したとしても、胸の中で渦巻いている苦しさをうまく言葉にして正しくすべてを伝えることは、いまの狭霧にはできないだろう。それでも、大きな想いの端っこでも構わないから、いまはなにかを口にしたほうがいい。そうすれば、勘のいい高比古なら、もしかしたら狭霧のなかで膨らみ続ける暗い想いを、うまくまとめてくれるかもしれないから――。


(いましかない。いまをのがしたら、きっともう二度と次は来ない)


 狭霧は、言葉を胸の奥底からひねり出そうと唇に力を込めた。


 唇から出ていったのは、これまでの話とは脈絡のない問いだった。


「ねえ、高比古。わたし、すこしは成長したかな」


 狭霧はその時、人が変わったように目に鋭い力を溜めて真っ向から高比古と対峙していた。その眼差しに、きっと彼はなにかを感じ取ったのだ。


 突然妙な問いかけをされても、高比古が真剣な態度を崩すことはなかった。


「成長? いつと比べてだよ」


「高比古に初めて会った時よ。前は、馬鹿だのなんだのと罵って、わたしのことを毛嫌いしていたじゃない。わたしはあの頃より、すこしはましになった?」


「そりゃあ……」


「ねえ、わたしをどう思う? わたしはどうすればいいと思う?」


 高比古はしかめっ面をしたが、そこには、斬り込むような問いを続ける狭霧に緊張したふうな色が帯び始めた。


「どうすれば? だからおれは、火悉海に嫁げばと……」


「でも、それじゃ駄目な気がするの。だって、なんだか途中で逃げ出すみたいで――」


「逃げ出す? なにから」


「それは、わからないんだけど……そんな気がしてたまらないの。それに、そんな自信はわたしにないの。だって、火照王ほでりおうが火悉海様の后に欲しいのは武王の娘よ。わたしはそれに見合う娘じゃないのに――」


「見合うもなにも、あんたは大国主の実の娘だろう」


「それは、そうなんだけど、そうじゃないの。火悉海様がわたしに興味をもっているのは、わたしが武王の娘だからなの。それがわたしは、怖くてたまらないの」


「……? 誰だってそうだろう。おれだってそうとしか見てないよ」


「うそ。高比古はちがうよ。あなたはわたしをいじめるじゃない。あなたはわたしを褒めたりおだてたりすることもないし、血筋に負けっぱなしの、ふつうの娘だって見抜いているでしょう?」


 混乱しているくせに、高比古と問答を続ける狭霧の目は高比古を貫くように鋭くなった。


 いつもとはちがう気配をもって攻めるような狭霧に、高比古の目には焦りじみたものが顔を出す。


「……どうしたいんだ? 悪いが、さっぱりわからない」


 ふう、と高比古は肩で息をした。


「相手が火悉海じゃ、いやなのか」


「そうじゃないの……ただ……」


「それとも、出雲に戻らずにここに残れといったのが気に食わなかったのか?」


 彼はうつむき、狭霧と目を合わせないままでゆっくりといった。


「でも、阿多を出て出雲に戻れば、それもできなくなるかもしれない。大国主は今後いっさいあんたを出雲の外に出さないといっているし、あとであんたが火悉海のもとへいきたいといったところで、あんたの親父が許すかどうか。それに――」


 そこまで話が進むと、高比古は顔をあげて狭霧と目を合わせた。


 笹の葉に似た涼しげな目もとや、黒い瞳はあやうげに揺れていた。いつもはほとんど表情をもつことのない彼の目は、狭霧を思いやっていた。それに、なにかに脅えるようでもあった。


 沈黙を経てから、彼は決意したように薄い唇をひらいていった。


「……わかった、いうよ」


 いい方は、大事な秘密を狭霧へ話すようだ。


 彼の目と言葉に脅されて、狭霧はじっと彼の目を覗きこんだ。その目と慎重に目を合わせながら、高比古は重い秘密を告げるように慎重にいった。


「いっておくが、彦名様と、すくなくとも須佐乃男は、あんたをしばらくどこにも嫁がせる気がないはずだ。なぜだかわかるか。安曇は必ず気づいている。……大和だ」


「え――」


「あんたを浚うほど、邇々芸ににぎとかいう大和の若御子は、あんたを后に欲しがっている。いつか出雲が大和と和睦する日が来るなら、必ずあんたが必要になる。だからだ」


「……やま、と?」


 狭霧に訪れた衝撃は、阿多に嫁げといわれた時とは比べ物にならなかった。


(大和に嫁ぐ? わたしが? 出雲と大和が和睦するために……?)


 敵対する出雲と大和は、大八嶋をの国々をそれぞれの友国につけ、いまや倭国をほうぼうで二分させている。


 出雲と大和が戦を終える日が来れば、倭国に起こっているすべての戦が消えるかもしれない。そこかしこで起きている戦をしずめて、武具を不要のものにして、数えきれないほどの人の命と幸せを守ることになるかもしれない。


 もし狭霧が本当にその役を負うことになれば、責の重さは、武王の娘として火悉海に嫁ぐのとは比べ物にならない。


(それを、わたしが……?)


 血の気がひいたように青ざめる狭霧を見つめる高比古の目は、いたわるようだった。


「どうなるかはまだ読めない。でも、じゅうぶんに起こりえることだ。だから、その前にここに嫁げ。火悉海はいい奴だし、阿多は安全だ。大乱の火の粉も、ここまでは飛ばない」


「でも、それって――」


 高比古が望んだ役目は、どちらも狭霧には大きすぎた。


 自分には似つかわしくないと嘆いてやまない身の上、武王の娘として火悉海のもとへ嫁ぐことも、倭国にはびこる戦を終息させるべく、東の大国、大和の若御子に嫁ぐのも――。


 どちらにも狭霧は、「絶対にわたしにはそんな真似ができない」と嘆きたかったが、別の苦しさもこみ上げた。


 高比古が狭霧に望んだのは、どちらも后となりに異国へ嫁げということだった。


 彼が、狭霧に出雲の姫になれと望むことは、わずかたりともなかった。


 ぽろぽろと涙が溢れていく目でじっと見つめて、狭霧はぼやけていく彼へ向かって声を震わせた。


「出雲にいても、わたしができることはない? 最後まで大和への切り札としてとっておかれるしか、できることはない? わたしは安全な場所に隠れるか、待つしかできない?」


「そうはいってない」


 高比古は、気まずそうに真顔を歪めた。


「でも、たとえば出雲に残ったとして――。出雲の誰かに嫁ぐなら、あんたの相手になりそうなのは、いまのところ盛耶もれやかおれくらいだよ。どっちもいやだろ。それに、そのまま独り身でいたら、あんたがどういう想いでいようが、それは切り札として匿われているって状況になるだろ?」


 表情に戸惑いの色はあったが、いっていることはさすがに冷静だ。


 でも、狭霧はそういうまともなことが聞きたいわけではなかった。狭霧はふたたび目に力を宿して尋ねた。


「わたしは、誰かに嫁がなくちゃ駄目なの?」


「……そう望まれるのは仕方ないだろ? あんたの血は、出雲の縮図みたいなものだよ。手に入れたがる男はごまんといるし、あんたを宝の駒として扱いたい連中も多いだろう」


「出雲の、縮図……。とうさまの軍旗っていうことね――」


 そんなものになれている気は、まるでしないのに。高比古もやはり、そういうものとして狭霧を扱った。


「わたしがとうさまの軍旗みたいなものなら……わたしが盛耶の奥方になったら、彼はほんとうに諏訪から戻ってこられるの? 彼は武王になる?」


「……たぶん、そうなるだろうな」


「あなたの妻になったら、あなたが武王になる?」


「たぶん――」


 狭霧の目の涙は、とまっていた。だからその時、狭霧の目に高比古はぼやけることもなくすっきりと見えていた。笹の葉を彷彿とさせる涼しげな目や、ともすれば娘にも化けられそうな白い肌や、彼が身にそなえるふしぎと気高い雰囲気。そういったものをじっと見つめながら、狭霧は最後の問いをした。


「あなたは、武王になりたい?」


 問われると、高比古は唇を結んだままでしばらく動かなくなった。それから、狭霧と視線をじっと合わせたままで、答えた。


「おれは武王にこだわっていないし、意宇おうの王になら、あんたなしでもなれる自信がある」


 その瞬間、狭霧は頭をがつんと殴られたような気になった。


(わたし、高比古にへんなことを訊いちゃった。それに――)


 いまの問いには、解釈しようとすればそうできるような裏の意味があった。


 それは――高比古は、武王になるためにわたしを妻にしたい? ……そういう意味だ。


 でも、狭霧はべつにそういう問いをしたかったわけではなかったし、おそらく高比古も、そうは意味を解さなかったはずだ。


 狭霧は、もっと深いことを尋ねたはずだった。


 高比古は……いずれ出雲の王になるあなたは、どう思う? わたしは出雲にいたほうがいい? それとも――。


 その問いに、高比古は答えた。「おれは要らない」と――。


(突き放された……)


 足場をすくわれた気になって、狭霧はうつむいてじっと下を見つめた。でも、しだいにそれすらつらくなって、寝床に肘をつくと、とうとうそこへ横たわった。


「……ごめん、へんなことを訊いた」


 敷布に頬を寝かせて、床を見つめながらつぶやくと、頭上にある高比古の気配がぴくりと震えた。彼は、いいわけをするように話しはじめた。


「そうじゃない。あんたには、あんたにしかできない役目があるよ。あんたは下に慕われるほうだ。事代も薬師も、あんたを好きな奴が大勢いるし、それに、前にいってたろ? 薬師を育てる仕組みをつくりたいって。出雲でそういうものをつくれるのは、いまのところあんただけだろうし――」


 でも狭霧にそれは、どうしてもいいわけにしか聴こえない。


 だから目を合わせることもなく、床を見つめ続けた。


「じゃあ高比古は、出雲で切り札として待ったほうがいいって思ってるのね」


「誰がそういったよ。だからおれは……。……阿多に残れ。そして、阿多と出雲を繋げ」


「でも――」


 気だるげな返事しかしなくなった狭霧に苛立つように、高比古は声を荒げ始めた。


「そうしないと、大和に嫁ぐ羽目になるんだぞ? あんたは、あんたの大事な王子と同じ身の上になるかもしれないんだぞ。あの王子がそんなものを望むと思うか。あんたはそれでもいいのか」


 本気の声だった。


 声につられて顔をあげると、高比古の黒目は本気の熱を帯びて静かに揺れていた。


「いましかないんだ。出雲へ戻ってしまえば、あんたは切り札として匿われる。そうなったら……盛耶をそそのかして、あんたを襲わせたいくらいだ」


 やはり高比古は、息苦しそうにしていた。


 だから、いまの狭霧は、血がほとばしるような彼の言葉よりもそちらが気になってしまった。


「どうして、そんなに苦しそうにいうの」


「苦しそう?」


 はあ……と息継ぎをしつつ、彼は自分の焦りにようやく気づいたようにはっとした。高比古は、ぶっきらぼうに吐き捨てた。


「さあ。おれはいま、大国主を裏切ったようなものだからじゃないか? あんたを火悉海へやるなと、おれは厳命を受けたのに」


「裏切る……」


 大国主に服従しているんだと、前に彼は狭霧へいっていた。それなのに――。


 高比古は渋面をしていた。


「大国主だけじゃない。おれはいま、彦名様と須佐乃男も裏切ったようなものだ。彦名様と須佐乃男が、あんたを対大和の切り札にしようと考えていると、おれは気づいているのに……。でも、もういい。おれも正直、どうすればいいのかわからないが、彦名様たちが考えているようには、あんたを大和へやりたくない。それがおれの意思だ」 


 いい切ると、高比古は話を終わらせてしまった。


「もういいか? ほかに訊きたいことは?」


 もうこの話はおしまいにしていいな? と、高比古の声は脅すようだった。


「ううん、もうない」


 狭霧もうなずいた。いいたいことはいったし、彼がいいたいこともすべてきいたと思った。


 ただ、二人の想いが噛み合わなかっただけで――。


 やり取りを終えると、高比古は黙り込んでしまった。狭霧もそうだ。けっして彼と目を合わせようとせずに、褥に頬を寝かせて木床を見つめ続けた。


 高比古のそばにいて、こんなふうに居心地悪く思うのは、出雲を旅立ってからはじめてのことだった。恋心も嫌悪も抱いていない高比古は、狭霧にとってもっとも一緒にいて居心地のいい相手、一緒にいて疲れない相手だった。それなのに、いまは――。


(どうして、こんなにぎくしゃくするんだろう)


 いまのやり取りを始めるまでは、狭霧は、いま一番自分をわかってくれているのは高比古だと思っていた。狭霧は彼を理解しているわけではなかったが、頭が切れて、勘の鋭い彼なら、きっと狭霧をわかっていると――。でも、いまは痛烈に思う。


(勘違いしていた?)


 寝所に立ちこめる、冷たい喧嘩をしたあとのような重々しい雰囲気が気味悪かった。


 酷い態度をとったような気がして狭霧の胸は悔やんでいた。でも、いったい彼にいったどの言葉がそれほど酷かったのかがわからないので、謝罪の文句は浮かんでこない。でも、謝らなければならないと胸は疼いた。


(こんな時って、どうすればいいんだろう。謝ればいいのかな。でも、謝らなくちゃいけないことを、わたしはなにかいったっけ――)


 なにかをいいかけてはやめて、でも……と、話しかけるのをためらうように、狭霧は胸のざわつきに躍らされていた。


 それは、高比古も同じだった。


 長いため息を吐いた後で、彼はとうとうぎこちなくいった。


「おれ、外に出てくるよ。あんたは、ここで休め。それとも――」


 彼がいいやめた言葉の続きを待って、狭霧はそろそろと顎をあげた。


 高比古はさきほどからぴくりとも姿勢を崩さずに、狭霧を見下ろしていた。


 そして、ふたたび彼と目が合うと、狭霧の胸はびくりと震えてしまった。


 高比古は、とても寂しそうな目をしていた。打ちのめされたように弱って倒れ伏す狭霧の姿に戸惑って、救いの手を差し伸べようか、どうしようかと迷っているふうな――。とにかく、いつもの鉄面のような無表情がいまの高比古にはなく、とくに彼の目はとても表情豊かだった。


「おれがあんたのそばを離れるあいだ、あいつと……火悉海と話すか?」


「え?」


「おれはすこし、この宮に用がある。その用が済むまで、誰かにあんたの護衛を頼むつもりでいる。あんたさえよければ、あいつに声をかけてみる。どうする? あいつと話すか?」


 狭霧は火悉海に嫁いだほうがいいという考えを、高比古は変えていないようだった。


 彼は火悉海をそばに呼んで、狭霧と二人の場をもたせようとした。話して互いのことがわかれば、狭霧の気も変わるだろう。そうもくろんでいた。


 結局、狭霧の心の整理はつかないままだった。


 自分はいったいどうしたいのか。どうすればいいと思っているのか。


 大和に嫁ぐという新しい選択を目の前に突きつけられたいま、狭霧にはゆっくりと落ちついて考える余裕などなかった。


 でも、高比古のいたわるような眼差しに説得されると、うなずいてしまった。


「うん……」




 


 高比古に呼ばれてやってきた火悉海は、ひと目でそうとわかるほど浮かれていた。


「じゃあ、頼んだ」


「喜んで頼まれてやるよ。ごゆっくり」


 火悉海と入れ替わるように寝所を出ていこうとする高比古を、火悉海はにんまりと笑って見送る。


 別れぎわに二人は、二言三言、言葉を交わしたが、火悉海は高比古にちょっかいを出したがっているふうで、対して高比古はあまり触れられたくないという様子だった。


「場所はわかるのか? それにしても、よくこんなところのことを嗅ぎつけたなあ」


「有能な知り合いがいるからな」


 狭霧はしばらく寝床に横になっていたが、火悉海がやってくると身を起こして、姿勢を正していた。


 やがて、高比古が寝所から出ていって、そこにいるのが狭霧と火悉海だけになると、狭霧は火悉海へ尋ねた。彼はまだ戸口あたりに立ったままだった。


「高比古がどこにいくのか、火悉海様は知っているんですか」


「ん? ああ、さっき、あいつから聞いたから」


「そう、ですか」


 高比古はこの宮に用があるといっていたが、狭霧は彼の用事を聞かされていなかった。


 それを思い知ると、狭霧はさっきの喧嘩じみたやり取りを後悔するような、胸が締め付けられるような想いを感じた。


「彼の用事を、高比古はわたしには教えてくれませんでした。わたしは、高比古に信用されていないのかもしれません。って、当然ですね。わたしは高比古とちがって、なんにもできないし――」


 いまにも涙をこぼしそうなほど寂しげにうつむく狭霧に、火悉海ははっとして慌て始めた。


「ど、どうしたんだよ? そんなんじゃないよ。高比古が狭霧にいわなかったのは……ていうか、あいつが俺に教えたのは、その……まあ、いいじゃないか!」


 結局、火悉海は無理やり話を終わらせた。


 でも、狭霧の心は晴れないままだ。唇を閉じても、胸の中は痛いほど大声をあげて悔しがっていた。


(……そうよ。高比古が、わたしを信用するわけがない。やっぱり、一緒にいてほっとするとか、一番わたしをわかってくれていると思っていたのは、わたしだけだったんだ。……当たり前じゃない。わたしの守り人を命じられたのを高比古はもともと嫌がっていたし、お荷物になっていたに決まっているんだから)


「狭霧? おーい、どうした」


 黙り込んだ狭霧を火悉海は呼んだが、彼の声は相変わらず狭霧から遠い。


 部屋にいるのは二人だけだというのに、火悉海は戸口から動こうとしなかった。彼の足は狭霧に近づこうとはせず、それどころか戸口を向いて、火悉海は狭霧に背を向けた。


(なにをするんだろう。火悉海様も、どこかへ出かけるのかな)


 ぼんやりと火悉海の動きを目で追っていると、そのうち火悉海は腕を掲げた。そこには、床につくほどの長さの薦が垂れていて、回廊と寝所を隔てている。火悉海の手は薦へと伸び、それからかき寄せて、たくしあげてしまった。


 狭霧は、ぽかんとして火悉海の身動きを追う。


(なにをする気なんだろう……)


 そのうち、回廊と部屋とを隔てる薄い壁となっていた薦は、火悉海の手で結ばれてしまった。壁を失った入り口からは、外の様子がよく見えた。


 そこまで終えて、ようやく火悉海は狭霧のもとへとやってきた。すたすたと歩いて枕元までやってくると、彼は軽快に笑った。


「このほうが……あけっぱなしにしておいたほうが、いいだろ?」


「え……?」


「いや、さ。ほかに誰もいない場所に閉じ込められたりしても困るだろ? いつ誰が近くを通るかわからない場所にいたほうが、狭霧は安心しないか?」


 彼のいうとおり、部屋の奥に座る狭霧から回廊が覗けてしまうように、回廊を通る人からも部屋の中の様子は丸見えだろう。


 どうやら火悉海が薦を結んでしまったのは、狭霧を気遣ってのことらしい。年頃の娘なら、若い青年と二人で部屋にこもるのが不安ではないか、と。


 火悉海のそういう気遣いは、狭霧にとって初めてのものだった。


 それまで狭霧のそばにいた若者といえば、二人でいることになんの不都合もなかった相手、輝矢かぐやと高比古や、狭霧を騙してまで無理やり手の内にしようとした邇々芸や盛耶。いまの火悉海のように、狭霧を年頃の多感な娘と扱った人に、これまで出会ったことがなかった。


 初めてのものに戸惑うように目をしばたかせた狭霧に気づくと、火悉海はぱっと身を引いていいわけをした。


「いや、俺はなにも……! へんな下心はないぞ? もし二人きりになっても、なにもしないぞ? だけど、狭霧はいやだろ……!」


 目に見えて慌て出した火悉海に、狭霧はじわじわと笑顔になっていった。


 火悉海は、まだ身の潔白をあかそうと奮闘した。


「ただ俺は、どうせ一緒にいるなら、緊張した狭霧より安心した狭霧といたいと思って……!」


 懸命な彼の姿は、狭霧の胸の奥に小さな笑顔を生む。それはまたたく間に狭霧の顔へとたちのぼり、いまに溢れ出してこぼれ落ちそうなほど、いつか狭霧に満面の笑みを浮かべさせた。


「はい、わかりました。ありがとうございます、火悉海様」






 逞しい武人の姿をして、そのうえ他を無言のうちに従える若王の風格を身に備えているくせに、狭霧の枕元であぐらをかく火悉海は少年のように爽やかに笑う。


「阿多はどう? せっかく笠沙に来たのに、ゆっくりできなくて悪かったよ。つぎはどこにいこうか。海? 山? 島?」


 火悉海がまずしたのは、出雲がどうとか、宗像がどうなど、当たり障りのない話だった。


 でも、それがひと段落すると、狭霧は火悉海へ尋ねてしまった。


「あの、火悉海様。高比古はいったいどこにいったんですか。高比古だけにいわれた大事な用事でもあったんでしょうか。そうだったらわたし、これからすこし気をつけなくちゃ。高比古にはずっと甘えっぱなしだったから……。わたしはなにもすることがないからのんびりしていればいいけれど、彼がそうでなかったなら、とても邪魔だったと思うんです、わたし――」


 肩を落として悔やむ狭霧へ、火悉海はきっぱりといった。


「そうじゃないって。あいつは自分の用事をしにいっただけだから」


 そのうち彼は、口もとを指先でおさえつつもごもごという。


「いいのかなあ、いっちまって。いいよなあ」


 火悉海は独り言のようにいって、そのあとでちらりと狭霧を見た。


「あいつは、女に会いにいったんだよ」


「……女?」


 それは、狭霧には想像もしていなかった答えだ。


 目を丸くして驚く狭霧を意味ありげに見下ろして、火悉海は続けた。


「宗像でいい仲になったやつらしいよ。その子をここで、見つけたんだってさ」








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