時じく香の実 (3)


「その子、宗像の奴婢だったみたいでさ、その子をそこから逃がしたいからって、俺、あいつから相談されたことがあってさ……」


「宗像の、奴婢……」


 唇の奥で、狭霧は反芻した。心当たりがあったのだ。


 宗像で、高比古は想い人ができたはずだ。気高い華のある、目鼻立ちが整った美しい娘で、性格はどことなく高比古に似ていた。その娘のことを、狭霧は高比古の双子の姉か妹のようだと思ってしまったくらいだ。


「その人って、リコさんっていう名前じゃないですか? その人なら、わたしも宗像で匿った覚えがあります」


「あ、狭霧も知ってたんだ? リコ……? そんな名前だっけなあ。たしか、桐瑚きりこじゃなかったかな」


「え?」


「まあいいや。リコも桐瑚も響きは似てるし、同じ子だろう。とにかくその子は、俺には桐瑚って名乗ってたよ」


 名のちがいについて、火悉海は決着をつけてしまったが、狭霧もそれ以上は気にならなかった。それよりも、もっと気になることがあった。


「火悉海様、その人はいまここに……笠沙かささにいるんですか」


「ああ。ここにいるって高比古がいうから調べてみたら、本当にいたよ」


「……高比古が?」


「ああ、俺は高比古から頼まれて、宗像から逃げたその子を隼人の浜里に匿おうとしたんだが、その子が阿多にいきたいっていうからさ、一緒に連れてきたんだ。その子はもともと巫女の修練をしていたって話だから、ひとまず都の神殿に預けたんだが……。まさか、ここの巫女になってるとはなあ。俺も知らなかった」


 しんみりと、狭霧はつぶやいた。


「そう、ですか」


 それが、火悉海は気にいらなかったらしい。彼は、ふてくされたような渋面になった。


「高比古が女に会いにいったのが、いやなのか」


「……え?」


「なんか、つまらなそうにしてるからさ。ほら、狭霧と高比古は昼も夜も一緒に過ごしてるんだろう? そういうのって、どうなんだ。やっぱり、相手のことが気になったりしないのか。その……あいつのことを男として意識したりさ、実はあいつが、ひそかに手を出してきてたり……」


 嫉妬するようにぶつぶつという火悉海に、狭霧は吹き出してしまった。


「それはないです、火悉海様」


「……本当に?」


「それはそうですよ。わたしと高比古はそんな仲じゃないし……」


「でも、ずっと一緒にいたら、だんだんそういうふうにならないものか?」


「なりませんよ。どちらかといえば高比古は、わたしにとって出来のいいお兄さんみたいな存在なんです。……うん、本当にそう。わたしは迷惑をかけてばっかりです」


「でも……落ち込んでないか? あいつの女の話を聞いたからじゃないのか」


「ちがいますよ。高比古がまたリコさんと会えたなら、よかったなあって思ったんです。だけど――」


「だけど?」


 火悉海の熱い眼差しから責めるように見下ろされるのは、居心地が悪かった。焦った狭霧はいいわけを探してしまった。


「その……出雲に、高比古はお妃がいますから。すこし複雑な気分になっただけです」


「妃? あぁ、宗像の筒乃雄つつのおの孫娘か」


「はい。心依姫ここよりひめっていうんです。とってもかわいくて、高比古のことが大好きな子なんです。わたしとも仲良くしてくれて、わたしのことを姉様って呼ぶんです」


 久しぶりに心依姫の名が話にのぼったせいか、狭霧はますます緊張してしまった。


 ぎこちなく笑って、狭霧は火悉海から目を逸らした。


「だから……高比古がリコさんとまた会えたのは嬉しいけれど、前みたいに仲良くなって欲しくないなあって。だって、高比古は出雲に――」


「ふうん、ならいい」


 火悉海は渋々と狭霧を許した。でも、狭霧はふしぎな気分だった。いったいなにが「ならいい」なのか。彼のいい方ではまるで、狭霧が彼のもののようではないか。


 むしょうに怖くなって、狭霧は顔をそむけるようにうつむいた。


「あの、火悉海様。わたしは……」


 寝床に座ったままだった狭霧の目に入ったのは、自分の脚を覆う掛け布だった。隼人風の染めがほどこされた色鮮やかな布は、狭霧の脚のかたちに合わせて弛み、柔らかなしわを寄せている。それを意味もなく目で追いながら、狭霧は身を強張らせた。


 目を合わせていなくても、火悉海が狭霧を向いているのがわかった。しかも、なぜか目に見えない熱を浴びている気分だった。それに一緒に熱せられてしまったように、狭霧の頬はかあっと血がのぼったように熱くなった。


 ここにある気配が変わった。なにかが始まった――。


「狭霧、こっちを向いてよ」


 しらばっくれるような沈黙をやぶった火悉海の声には、甘い痺れがあった。ほんの端っこが耳の鼓膜に触れるだけで胸が焦って早鐘を打つような。これまで感じたことのない甘い痺れが。


 手もとを見つめるだけで、結局横顔を向けたままの狭霧へ、火悉海はため息をつく。


「もう、わかってるだろ? 俺、狭霧が好きだ」


 彼がしたのは、恋心の告白だった。


 でも、そんなものを聞いてもなにもできない。いったいどうするべきなのかもわからず、ただ黙って、がちがちに身体をこわばらせるしか狭霧にはできなかった。


「なあ、頼むよ。こっちを向いて……」


 耳に届く前に胸が震えるほど、火悉海の声には異様な艶があった。妖しい術にかかったように、じわじわと顔を傾けていくと、そこにはまっすぐに狭霧を見つめる真剣な目がある。


 ぎこちなくかたまる狭霧に、火悉海も緊張したふうにつぶやいた。


「なあ、狭霧。頬に触れてもいい?」


 問われるものの、狭霧にはなにもできなかった。


(どうしよう、どうしよう……)


 胸だけは脅えて、焦りの言葉が駆け廻っていたが、答えを見つけることはもちろん、首を振ったり、笑ったり、なにかを目で伝えることすらできない。


 無言のまま、凍りついたように狭霧はじっとしていたが、火悉海は返事を待たなかった。


 彼の大きな手のひらは恭しく宙を滑って、狭霧の頬へ――。指先と頬が触れ合うなり、びくりと震えた小さな肩すらいとしげに見やって、彼はぼんやりとした。


「小さな、きれいな顔だ……。俺は、狭霧の目が好きだ。澄んでいて、見ているとこっちまで心が澄んでいく。どれだけでも見ていたくなる。唇も、きれいだ。眉も、鼻も、みんな――」


 そんなふうに、顔を褒められた覚えなど狭霧にはなかった。だから、狭霧は、頬をそむけて彼の手のひらを押し返そうとした。


「あの、火悉海様……」


 でも、火悉海の手のひらはそこを離れようとはせず、そうはさせまいとばかりに、反対側の頬にも手を伸ばした。狭霧の頬は、火悉海の両手に包み込まれる格好になってしまった。


 懸命に目を逸らす狭霧を熱っぽい眼差しでからめとるようにして、火悉海は眼差しと甘い声で想いを囁いた。


「人の娘じゃないみたいだ。こんな気分を味わったのは初めてだ」


「あの……」


「俺、狭霧をそばに置きたい。抱きしめたい。もっと触れたい……」


「火悉海様、その……」


「いまも、俺……」


 目を合わせまいと目を伏せているのに、火悉海の眼差しを痛いほど感じた。


 そのうち彼は、親指を浮かせると指の腹でそっと狭霧の唇をなぞった。彼の指はゆっくりと動いて、狭霧の赤い唇のかたちをたしかめる。唇のあいだのわずかなすき間や、下唇のぷくりとした膨らみや――。


 いとしいものを撫でるように、指は狭霧の唇を行き来する。諦めるようなため息を吐いたあとで、火悉海はぽつりとこぼした。


「狭霧が、俺を好きになってくれればいいのに……」


 とんでもないことを聞いてしまったと、思わずぎくりとするが、やはり焦るだけで、答えようがなかった。けっして目が合わないように、どこでもない虚空を見つめるしか――。


 そのうち狭霧の耳は、人の足音を聞きつけた。足音は、狭霧の寝所となった部屋の前の回廊を、門の方角からやって来るようだ。山宮に仕えている巫女のものか、それとも、ここへ用事のある誰か……鹿夜や、もしかしたら高比古か。


 火悉海から両頬を包み込まれているいま、狭霧と火悉海は、はたから見れば愛を語り合う恋人同士かなにかに見えるだろう。狭霧に、彼への恋心はないというのに。


 火悉海の指から唇を放そうと、狭霧は強い仕草で横を向いた。


「あの、火悉海様。人が来ます。戸口の薦があけっぱなしだから、誰かがそこを通れば、見られてしまいます……」


 たどたどしく拒む狭霧に、火悉海は苦笑した。


「ああ、離れる」 


 彼はそっと手をひき、狭霧の頬に添わせていた手のひらを放した。


 狭霧に近づくために、彼は身を乗り出して寝床に膝をついていた。その膝も退かせて、彼はもとの場所にあぐらをかく。でも、手だけは狭霧に触れたままだった。


 腿のうえでこわばる狭霧の指を探した彼の手のひらは、そのこわばりを溶かそうとするようにそっと両手で包み込んだ。


「本当は、抱きしめたくてたまらないんだけど、これで我慢するからさ。だから……」


 火悉海は、それ以上の言葉をいわなかった。でも、わずかに顔をあげた狭霧の目に、彼は眼差しで続きを囁いた。


 お願い、手に触れることを許して……。


 でも――。切ない願いごとに応える方法が、狭霧はわからなかった。


 誰かに手を触れられるくらい、狭霧は気にならない。だから、今ももちろんかまわない。


 でも、熱心に狭霧を見つめる火悉海の眼は、たんに手に触れることを望んでいるわけではなさそうだ。手に触れることがなにを意味するのか。わからないなりに、必ず別の意味があると、彼の眼差しは狭霧に教えた。


 でも、手に触れられるくらいなら――。


 どちらかといえば狭霧は、いい断り方が思いつかなかった。だから、つい、ほだされるようにじわりとうなずいてしまった。


 火悉海は嬉しそうに笑って、両手に包みこんだ狭霧の小さな手を、自分のそばへ引き寄せた。






 手を取ったままで、火悉海は話を続けた。


 彼がしたのは、阿多で次に狭霧を連れていきたい場所の話。でも、ほとんどその話を覚えていられないほど、狭霧は手が触れ合っていることに緊張していた。


 胸はどきどきと高鳴ったままで、触れ合ったままの手と手のことを考えるたびに、なぜかとても悪いことをしているような気になった。彼の好意を裏切っているような――そういう。


(わたしは、火悉海様に嫁ぐのかな。高比古はそうしろって――)


 火悉海と狭霧を結びつけようとする鹿夜や、火悉海の従者たちからだけでなく、高比古からもそんなふうにいわれると、たとえ狭霧自身がそうは思えなくても、そうしたほうがいいのではないかと思えてくる。でも――。


 胸の迷いをたしかめるように、狭霧はちらりと火悉海の顔を見上げてみた。


 いまの火悉海は、これまでとちがったふうに笑っていた。笑顔はとても幸せそうで、これまでに彼が何度か見せた、少年のような顔をしている。大切なものに触れて喜んでいるふうな、安堵を思わせる笑みだ。


 狭霧は思わず、きゅっと唇を結んでしまった。


(本気なのかな。火悉海様は、本当にわたしを好きになったのかな――)


 彼はさきほどそのように恋心を伝えたが。狭霧はうまく信じ切れなかった。


(だって、会ったばかりなのに――。火悉海様もきっと盛耶もれや邇々芸ににぎ様みたいに、武王の娘を手に入れたいだけよ。……当然よ。さっき尋ねた時も、火悉海様はわたしを大国主の娘としか見なかった。そもそも、好きって、どんな想いだっけ――。忘れちゃった)


 でも、火悉海の真摯な眼差しは、これまでに狭霧へ妻問いをした青年たちのものとはかけ離れて真面目だ。


 騙したり、都合よく扱ったりしようとする気が彼にないということは狭霧にもわかる。これまでにも彼は、狭霧を笑顔にしようと懸命な姿を見せていた。


 火悉海は信頼できる人で、そのうえ、これから国を背負っていく若王の名に恥じない高貴な風格を身にたずさえている。自信に満ちていて、父王がもつものに似た難を寄せつけない奇妙な存在感や、無言のうちに他を威圧する華すらもちあわせている。


 でも――。若王として完璧に振る舞う火悉海は、狭霧にはまぶしすぎた。彼から、たった一人の大切な娘を見るように見つめられるのも胸は苦しがった。


 そのうち、耐えられないほど苦しくなって、とうとう胸の内を打ち明けた。


「火悉海様、お願いですから、そんなに優しくしないでください。わたしは名前ばかりで、なにもできない娘です。火悉海様のそばにいるにはふさわしくない娘です。役不足で……」


「役不足? なにいってんだよ」


 火悉海は、狭霧の指を包んだ彼の指にきゅっと力を込めた。


「恥ずかしいのは、大国主の娘を相手にこんな真似をしてる俺のほうだ。大国主は、俺が相手じゃきっといい顔をしないだろう」


「大国主の娘……って……わたしは、その名に不釣り合いな娘です。火悉海様、あなたはとても立派な方です。あなたにはわたしより、もっと賢いべつの姫のほうが似合うと……」


「不釣り合い? なにがだよ。狭霧は狭霧だろう?」


 火悉海とのやり取りは、なんとなくうまく噛み合わなかった。


 それはきっと、狭霧と火悉海が育った国にある掟のちがいのせいだ。血の色は無用という力の掟に従って、血筋による身分の継承を認めない出雲と、王族の権威が絶対の国、阿多――。


 気づいた狭霧は唇を閉じてしまったが、火悉海はますますつむじを曲げる。


「とにかく、俺は狭霧がいいって思ったんだ。もう、狭霧じゃなくちゃいやだ……」


 いっそう甘い眼差しで狭霧を見つめて、けっして力を込めようとしない細い指を包み込む手に力を込めて――。


 その時。狭霧は布がこすれるような音を聞きつけていた。音がしたのは、部屋の外の回廊のあたり。はっとして顔をあげると、そこには人影があった。こすれたのは、その人が身にまとう袴の布地だ。


 さっと隠れてしまったが、そこにいた気配は間違いなく――。


(高比古だ……見られた)


 狭霧は火悉海の手を振り払ってしまった。こんなふうに、火悉海と寄り添っているところを見られたのが、たまらなく恥ずかしかった。


 手を振り払われると、火悉海はゆっくりと背後を振り返る。その時、姿を隠すように高比古は戸口から手足が見えないように隠れていたが、火悉海は身を乗り出して外を覗いた。


 逢瀬を覗かれたというのに、火悉海は冷静だった。


「高比古? もう済んだのか。早かったな」


 呼びかけられると、高比古はあきっぱなしの戸口に姿をあらわした。中を覗くような仕草をするが、彼も冷静だ。儚げな微笑を浮かべて、彼は現れたことを謝った。


「ああ、助かったよ。邪魔をして悪かった。まだ二人で話すなら、すこし外を回ってくるよ」


 高比古は、ここを立ち去るような身振りをする。それを狭霧は、身を乗り出して引きとめてしまった。


「ううん、もういいの! もう……」


「……そうなのか?」


 戸口から中を覗く高比古は、真っ赤になる狭霧と、そのそばでため息をつく火悉海を見比べた。


 そこでようやく、狭霧ははっとした。


 いまのはまるで、火悉海とはもう一緒にいたくないといってしまったようなものだ。


 火悉海の顔を探すと、彼は切ない微笑を浮かべていて、やはりじっと狭霧を見つめている。それから、離れてしまった狭霧の手を手で探すと、約束を交わすようにそっと握った。


「いいよ。伝えたいことは話したから。……狭霧、俺とのこと、すこし考えてよ。どうして狭霧が迷っているのか、俺も考えるからさ。……おやすみ」


 そして――。別れの挨拶を終えると、中に足を踏み入れるのを控えるふうに戸口で立ちつくす高比古と入れ替わるように、火悉海はその部屋を後にした。







「なんでここ、空いてんだ? 閉めるぞ」


 火悉海が、狭霧を気遣ってあけたままにしたこもを、高比古はあっさりと下ろした。


 ふぁさり……。柔らかな音を立てた薦は宙を降りて戸口を覆い、部屋を閉ざす。


「火をつけるよ。もう暗い」


 いつのまにか夜が忍び寄っていて、木窓からにじむ光は薄れていた。高比古は細い松明を手にしていて、それを掲げたままで部屋の隅へ向かう。そこには、小さな火皿が置かれていた。そばには、松明を立てる台もある。火皿へ火を移すと、高比古は松明を台に立てた。


 手慣れたふうに薄暗い部屋にぎらりとした火の光を与えていく高比古の背中を、狭霧はぼんやりと目で追った。


 高比古は、火悉海とのことをなにも尋ねなかった。


 ここを去る前に火悉海は、意味深な言葉を狭霧へ残した。そのことにすら高比古は触れようとしない。訊きづらいことに触れないようにしているふうでもなく、夜半の湖面のように静かな彼の背中は、火悉海と狭霧のことなどまったく気にしていなかった。


 彼の仕草を目で追っていると、狭霧には、突き放された……と寂しくなった、さっきのやり取りが蘇って胸がつらくなった。


(わたしがどうなろうと、高比古はいいんだ。……そうじゃないか。火悉海様のもとへ嫁いだほうがいいって、高比古はいっていたっけ。火悉海様とわたしが仲良くしているほうが、高比古は安心するのかな)


 高比古の背中を見つめながら、狭霧はため息をつく。


(それにしても高比古、なにをしてるんだろう。さっきから動かないけど……)


 狭霧がふしぎに思うほど、松明を台に据えてからというもの、高比古はぴくりとも動かなかった。松明のそばに立ち、片手を松明の上にかざして――。いや、彼はそこで、なにかを燃やしている。松明の上にかざした手には、小さな飾りのようなものがあった。


 目を凝らしてみると、高比古が手にしているのは出雲風の髪飾りだとわかった。しかもそれには、見覚えがある。


 記憶をたどるうちに、狭霧は思い出した。それは、前に高比古の耳元にあった髪飾りだ。たしか宗像にいた頃に彼が髪につけていたもので、いつ頃からか見かけなくなった。


「その髪飾り、高比古の? どうしたの。燃やしちゃうの?」


 狭霧は彼の手元をじっと見つめた。でも――やがて、そのまま目が離せなくなった。ふしぎなものを見た気になったのだ。


 高比古の手元で、出雲風の髪飾りはじっじっと音を立てて燃えていた。でも、燃え方がふつうではなかった。松明の火に炙られて、髪飾りは下の方から焦げて黒くなっていたが、燃えているというよりは、消えていくというふうだった。ふつうであれば灰になって床へ散ったりするのに、その髪飾りからは灰はおろか、煙も出ない。じりじりと火に炙られると、すこしずつ姿が削れて、消滅していくようだった。


「高比古……なにか力を使ってる? 燃え方が、ふしぎ……」


「ああ、こんなふうにしたのは初めてだったけど、この世から消えてなくなれと念じたら、そのとおりになってくれた」


「この世から、消えてなくなれ?」


 高比古は、じっと手元を見下ろしている。彼が見ているのは、手もとで闇に消えゆく髪飾りだ。まばたきもしない目は、眼差しで火にふしぎな力を送るようだった。


「その髪飾りは? どうしてそんなふうに燃やしているの」


 尋ねると、彼は苦笑するふうに唇の端をあげてわずかに笑った。でも、高比古の目は決して手もとの火から離れない。


「……突き返されたから」


「突き返された?」


「これは、ある奴にもたせていたんだ。でも、もういらないそうだ」


 高比古がいった人に、狭霧はすぐに思い当たった。


「それって、リコさんでしょう? リコさんに会ってきたんだってね。リコさん、元気だった? 会えてよかったね」


 反応をうかがうような狭霧へ、やはり高比古は苦笑した。


「火悉海がいったのか?」


 彼が答えたのは、それだけだった。


 火悉海は、その娘の名はリコではなく桐瑚だと狭霧へ教えたが、正しい名を教えようとするような素振りは彼になく、なぜ彼女が笠沙にいるのかという話も、彼はしようとしなかった。その娘は、かつて高比古と恋仲になった娘のはずだ。その娘と会って来たのだから、いきさつくらい聞き知っているはずなのに。


 唇に笑みを浮かべていたが、じりじりと闇を焦がす炎を見下ろす高比古の目は、ふつうではない色を帯びていた。まるで黒い雲の隙間から闇夜を覗く天の目のようで、これが霊威を示す時の事代ことしろの目なのか――。そんなふうに狭霧を脅えさせるほど、いつもの淡々とした目とはちがっていた。


「怖い目……」


 つぶやいた狭霧に、高比古は短く答えた。


「……べつに」


 会話になっているのか、そうでないのか。でも、彼は狭霧に応えていた。


 詳しいことはわからないが、どうやら高比古が手にしている彼の髪飾りは、リコのもとにあったらしい。それを、「もういらない」と突き返されたということは――。


 もしかしたら高比古は、リコに別れを告げてきたのかもしれない。


 だって、こんなふうに髪飾りを燃やしているのだから――。


 いまの彼の目は、なにかに決別しているようだと思った。だから狭霧は、次を尋ねた。


「苦しい?」


 すると、くすっと笑みをこぼすように、高比古は白い頬を震わせた。それから、はじめて火から目を逸らして、寝床に座ったままの狭霧を見下ろした。


「苦しいよ」


 高比古の切ない笑顔と目が合うと、どきりと狭霧の胸が震えた。彼の秘密を覗いてしまったようで、見てはいけないものを見てしまったような気分だった。


 慰めるように、狭霧は話を続けてしまった。


「……リコさんに二度と会えなくなるのが、寂しいから?」


 それには、高比古は首を振った。


「そうじゃない」


 それから彼は、手もとで消えゆく髪飾りへ視線を戻すと、じっと見下ろした。


「苦しいのは、自分がたどってきた足場を、一つ一つ壊していく気分だから。すべてを終わらせてきたから、これでもう、おれがあいつのそばに戻ることはない。出雲の高比古でいるしか……次へ進むしか、もう道はない」


 じり、じっ……。ひそかな音を立てて、彼の手もとで髪飾りは消えゆく。焦げ目は、すでに彼の指がつまんでいるあたりまで到達している。燃えているのだから、熱ものぼっているはずなのに、霊威が働いているせいなのか、高比古の指が躊躇することはなかった。臆することもなく手もとを見つめる目は、やはりまばたきをせず、妙な力を宿しているふうにふしぎな色がある。でも、表情はとても穏やかだ。別れゆくものへの未練は、すでに消えているとばかりに――。


(出雲の高比古でいるしか……次へ進むしか、もう道はない、か)


 じっ、じっ……。最後の音を響かせて、高比古の指の中で髪飾りは消滅してしまった。


 煙一筋、灰ひとつこぼさず、手の中にあったはずの髪飾りが消えてしまうと、高比古はくすりと笑って、からっぽになった手のひらを狭霧へ広げてみせた。仕草は、道化が「ほら、なくなったろう?」と奇術を披露するふうだ。


 狭霧は、高比古の静かな笑顔をじっと見つめてしまった。


「強いね……」


 高比古は広げた手を結ぶと、何事もなかったように腿のそばに垂らした。


「そんなことないよ。あいつはおれの目の前で死んだわけじゃないし、ただ別々に暮らすことを選んだだけだ。あんたの髪飾りとはわけがちがうから、あんたはそれを大事にしてやれよ。まだ胸に持ってるんだろう?」


 彼が気にしたのは、狭霧の胸元に匿われた髪飾り。狭霧の目の前で息絶えた幼馴染が狭霧に残した、たったひとつの残り香だ。


「うん――」


 それは、狭霧の大切なお守りで、いまでも日に一度は胸に手を当てて、ありかをたしかめている。でも、そのお守りを高比古から気にされるのは、ふしぎな気分だった。


(出雲の高比古でいるしか……か)


 なんとなく、さっきの彼の言葉を想うと、狭霧はひとつを思い出した。


 高比古という名は、そういえば彼のもとの名ではない。高比古が「出雲の高比古」になったのはここ数年のことで、それは、彼が力を顕した末に掴み取った称号に近い。対して、狭霧は生まれた時から「出雲の狭霧」だ。


 彼が「出雲の高比古」として振る舞うことは、狭霧が「出雲の狭霧」として振る舞うこととは、まるでちがうのではないだろうか――?


「そういえば、高比古って、もとの名前は?」


「……ん?」


「高比古って、彦名様がつけた名前でしょう? だから、高比古って呼ばれる前は、どんなふうに呼ばれていたのかなあって、気になって――」


 気後れしつつ尋ねた狭霧を高比古はじっと見つめて、苦笑した。


「……いわない」


「……内緒のこと?」


 それならそれでよかった。高比古は、自分のことをあれこれ話すほうではない。わざわざ詮索する気など、狭霧には起きなかった。


 高比古はくすっと笑った。穏やかな笑みをたたえたが、彼は強い眼差しで狭霧を見据えて、いい切った。


「そういうわけじゃないよ。ただ、もう消したから。ないんだ」


 結局、狭霧は彼のもとの名を聞くことができなかった。でも、高比古の意思という答えをもらうことはできた。


(もとの名前は、もう消した……。さっき、あとかたもなく消し去った髪飾りと一緒で、高比古に、過去に戻る気はないんだ)


 それに気づくなり、狭霧は彼とのちがいを思い知ってしまった。


(わたしは、高比古みたいにできない――。高比古みたいに、すべてを変えていけるほどの強い意思がないもの)


 しだいに、胸元に忍ばせた大切なお守りが重くなっていく。それは、捨てられそうにない過去への想いだ。


 高比古はそれを「捨てなくてもいい。大事にしてやれ」といってくれたが、そんなふうに過去を想うことのない人から慰められたのだと気づくなり、憂鬱になった。


 それから、思った。


 高比古は相手が誰だろうが、ひとたびそうと感じれば手厳しく文句をいう人だ。でも、実は、まずいことをしはしないかと彼が誰よりも動向を見張って、厳しく律している相手は、きっと彼自身だ。



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