大陸の羽娘 (1)


 朝が来て、意宇おうへ戻る支度が済むと、狭霧は杵築きつきの王門のそばに座り込み、門をくぐり抜ける人々を見てはため息をついた。


(高比古、帰ってこないな。会えなかったな)


 昨夜、心依姫の侍女に呼ばれて雲宮を出た高比古は、まだ雲宮に戻っていなかった。


(まだ離宮にいるのかな。もしかして心依姫の具合が悪いっていうのは、ひどいのかな)


 妻の離宮へ夫の高比古が出かけたのだから、無粋な真似はしてはいけないと思い、狭霧はそこで、太陽がしだいにのぼっていくのをじっと待っていた。


 意宇まで遠乗りをするために長袴をはき、旅装束姿になった狭霧のそばには、立派な鞍がつけられた馬が数頭と、それにまたがる武人が二人。そして、意宇へ移り住むことになった侍女の恵那えなも、旅装束を身につけてそこにいた。


 恵那は、人が出入りをする王門や、そこから彼方へ続く大路をちらちらと見て、心配げにつぶやいた。


「その、高比古様という策士様はいつ戻られるのでしょうかねえ。でも、姫様。そろそろここを発たないと、日があるうちに意宇へつけませんよ」


「うん、そうだね――じゃあ、いこうか」


 太陽は、すでに朝とは呼べない高さまで上がっている。


「ねえ、遠回りをしてもいいかな。高比古の奥方の具合がどうしても気になるの。高比古が戻ってこないなら、もしかしたらとても悪いんじゃないかと思って」


 出発を遅らせて従者たちを待たせたうえに、寄り道をしたいと告げるのは申し訳なくて、声は弱々しくなった。でも、応えた恵那はさらりと笑った。


「かまいませんよ。遅くなって道を進めなくなったら、杵築と意宇のあいだにある駅屋うまやに泊ればいいんです。いいですよね、みなさま」


 恵那の齢は母と同じくらいで、いまは三十半ばだ。恵那の身体は細くて骨ばっていて、若い娘にあるような色気や華は失われつつあったが、その代わりに、少々のことでは動じない貫録じみたものが顔を覗かせている。


 苦笑する武人たちに同意を求めた恵那のいい方は、当然の話をもちかけるようだった。


「駅屋って?」


「早馬の中継地ですよ。いくつかあったはずです。そこには宿になる場所もありますし、平気ですよ。恵那は何度も使ったことがありますから」


「恵那が、その駅屋を? どうして」


 すると、恵那は細腕を気丈に振り回して昔話をした。


「あなたの母君、須勢理すせり様が使ってらっしゃったんですよ」


「かあさまが?」


「ええ。あの方は、気が向いたら最後、どこへでもいってしまわれましたからね。とくに、穴持なもち様のお妃がお暮らしになる離宮へは、たびたび訪れていらっしゃいました」


「離宮へ……」


「ええ。穴持様のお妃は、あちこちに住んでおいででしたからね。意宇だろうが神野くまのだろうが、山奥の里だろうが、あの方はおかまいなしでしたよ。恵那は須勢理様のお供で慣れていますから、どんとこいですよ」


 そういって恵那は逞しく笑って、狭霧の笑顔を誘った。





 いくと決まれば、急ぐべきだ。


 意宇までの道のりは長いので、疲れさせないように馬を走らせることはなかったが、人が歩くよりは速く、一行はのどかな野道を進んだ。


 心依姫の離宮へは何度か訪れたことがあったので、道は知っている。


 やがて、広々とした稲畑に、青々とした小さな茂みが見えてくる。それが心依姫の離宮を囲む林だった。その上のほうに見覚えのある屋根を見つけて小さな門をくぐると、下男か侍女の姿を探して、来訪を告げた。


「大国主の娘、狭霧です。心依姫の具合が悪いとうかがってお見舞いに来ました。姫君のお身体はいかがですか。お会いすることはできますか」


 慎重に尋ねているうちに、狭霧は、遠くから名を呼ばれることになった。


「狭霧様……姉様!」


 門と大舘のあいだには、小さな馬屋や炊ぎ屋や、侍女たちが過ごす小屋に囲まれた庭がある。その向こう、舘の入り口に、心依姫は姿を現わしていた。それどころか、きざはしを下り、狭霧のもとへ歩み寄ろうとした。


「心依姫、無理をしちゃ……! 具合が悪いんじゃないの」


 鞍から下りると、庭を横切って心依姫のもとへ向かう。


 慌てて駆け寄って、自分のものより華奢な肩を支えたものの、心依姫の笑顔はまぶしいほど明るくて、病に伏していたとはとうてい信じられないほどだった。


(あれ? 昨日は、文凪あやなぎさんがあんなに青ざめるほどだったのに)


 病のことを尋ねると、心依姫は恥ずかしそうに笑った。


「もう治りました。兄様が、治してくださいました――」


 狭霧をじっと見上げるつぶらな瞳は、熱をもったように潤んでいた。


「高比古が? ……さすがね。腕利きの薬師で、事代ことしろだものね」


 高比古なら、そういうこともできるのかもしれない。たぶん――と、首を傾げつつ彼を褒めるが、それには心依姫は、くすくすと笑うだけで答えなかった。そして。


「どうぞ、姉様。広間でお休みください」


 狭霧の手を引っ張るようにして、一つ年下の小柄な姫は、狭霧を自分の舘へ誘った。





 心依姫のための舘は、それほど大きくない。


 でも、齢若い姫の居場所らしく、広間は華やかに飾られている。故郷である宗像むなかたから運んだ大陸風の壁掛けは、出雲では馴染みのない色糸で贅沢に仕上げられていたし、間仕切りにされた布も、床に置かれた器も、どれも珍しい品ばかりだ。とくに器は玻璃はりでできていて、向こう側が透ける青色をしていた。それはまるで、虹を映した水をかためてつくったような、ふしぎな器だった。


 広間の床には、衣がきれいに広げられていた。


 狭霧を招き入れるなり、慌てて床にうずくまった心依姫の指先は、その衣を大事そうに畳んでいく。それは、娘のものにしては大きかった。


「すみません、散らかしていて。ちょうど、兄様の寝着をしまおうとしていて」


 手早く畳んで、部屋の隅に坐していた文凪へ手渡すと、心依姫は狭霧を広間の中央へ座らせた。


「お待たせしました。どうぞ、姉様」


「ありがとう。高比古は?」


「朝早くに出られました。雲宮に、お役目をたくさん残してきたからと」


「……そうなの?」


「ええ、お忙しい方ですから」


 にこりと笑う心依姫に、狭霧は驚いた顔を見せるのをどうにかこらえた。


(朝早くにここを出た? 雲宮へ? わたしが気づかなかっただけで、戻っていたのかな)


 きっとすれちがったのだ。そうか、残念だな――。そう思っていると、目の前で正座をする心依姫が、じっと狭霧を見つめているのに気づく。


 南国生まれのすこし陽にやけた肌に、濃い眉、つぶらな瞳。胸の下まである黒髪は故郷から運ばれた織布で飾られ、胸元には大きな宝玉のついた御統みすまるが垂れている。それも宗像の造りで、出雲ではあまり見かけない形だ。


「あの、姉様……。私、どうしても姉様にお話したいことが――」


 心依姫は照れ臭そうに頬を赤らめている。こんなふうにもじもじとしているということは、きっと話というのは高比古のことだ。


「うん、聞くわ。どうしたの?」


 微笑して向き合うと、心依姫は恥ずかしそうに腿の上あたりの裳の布地を何度か指でいじった。それから、消え入りそうな小さな声を出した。


「あの、姉様、実は、兄様が……」


「うん、高比古がどうしたの」


「はい、あの、昨夜……その、とうとう――」


 そこまでいうと真っ赤になって、目を逸らした心依姫は手のひらで両の頬を覆ってしまう。


(とうとう?)


 きょとんとして、心依姫の仕草を目で追った。それから、ああ、と思った。心依姫が狭霧へ話そうとしているのは、昨晩、高比古とのあいだで起きたなにかだ。こんなふうに心依姫を喜ばせるような、仲睦まじいことだ。


 心依姫は、唇までを真っ赤に火照らせていた。顔をあげて、狭霧を見つめた澄んだ瞳は、しだいに力を帯びていった。そのとき、恥ずかしそうに頬を覆っていた手のひらは、下へ――心依姫のお腹のあたりにぴたりと添えられた。


「私、わかるんです。ここに、兄様の御子が宿ったんです。兄様の子を授かることはないとおっしゃった大巫女様の先視さきみは、間違いだったんです……!」


 心依姫の愛らしい黒目には、厄介な相手を跳ね除けるような力強さが宿った。


 その相手に、狭霧は思い当たった。


 その相手とは、神野の大巫女。心依姫とは、前に一緒に神野へ赴いたことがあった。そこで、出雲の大巫女との謁見を果たしたが、そこで大巫女は、心依姫に呪いをかけるような言葉を予言として告げた。


『残念だけど、そなたが彼の御子を授かることは、一生ないね。そなたの夫は、血を分けた妹のようにそなたを大事にするだろう。そなたは彼の家族になれるが、妻にはなれない』


 そのときから、心依姫は人知れず思い悩んでいたはずだ。


 心依姫の離宮で高比古が過ごすことはときたまあっても、二人は深い仲ではなく、「一生――」と、心依姫に呪いじみた託宣を告げた大巫女の言葉どおりの暮らしを、二人はしていたのだから。


(高比古と心依姫の御子――。そっか、そうよね。そっか……)


 狭霧は、真顔をしていた。


 でも、やがて目を細めると、ふわりと笑った。


「おめでとう、心依姫。よかったね」


 すると、心依姫の緊張した顔は見る見るうちにほころんで柔らかくとけていく。


 狭霧はにこやかに笑って、祝福をした。


「足りないものや、必要なことがあったら遠慮なく使いを送ってね。高比古はそういうのにあまり気づかないだろうし、高比古が相手だと、きっと心依姫はいいづらいでしょう? 大事なお妃様へ気遣いのできない、困った旦那さまね」


 冗談めかして高比古を責めると、心依姫はそんなことはないとばかりに、笑顔のままで首を横に振った。


「兄様には、まだ伝えていないんです。自分の身体のことだし、私は巫女なので、今朝にはここにべつの命があるとわかったのですが、兄様がお出かけになるときには、まだ勘違いかもしれないと思っていて――」


 心依姫は大切なものを愛でるように自分の腹のあたりを見下ろし、そこに置いた手のひらでそっと撫でる。狭霧より一つ年下だが、きゅうに年上の貫録を得たような、ゆったりとした仕草だった。


「いまは間違いないとわかるのですが、自分の口でお伝えしたいので、次にいらっしゃったときに、お話したいと思っています」


「うん、そうよ。直接教えてあげればいいわ」


 心依姫は、肩の荷が下りたようにほうと息をついた。満足そうに目をつむると、もう一度丁寧に自分の腹を撫でた。


「狭霧様……いえ、姉様。今日、立ち寄ってくださってありがとうございます。私、誰かに話したかったんです。そうしたら、一番話を聞いてほしかった姉様がいらしてくれた」


 それから、心依姫は不安も口にした。


「そういえば、姉様。兄様は、ほかのお妃は娶られないのでしょうか。私のほかに、誰かが嫁いでくるという話を耳にされたことはおありですか」


 狭霧は、首を横に振った。


 しばらく意宇にいたが、高比古のそういう話は聞かなかった。


 聞いたといえば、阿多の火悉海ほつみのもとに腹ちがいの妹姫が嫁ぐという話だけだ。


「いまのところは、聞いていないけれど」


「そうですか」


 心依姫は肩で息をして、唯一無二の味方にすがりつくように、いっそうぎゅっと手のひらで自分の腹をおさえた。


「いま、兄様に嫁いでいるのは私だけですが……。またもし賢王様や彦名様から、ほかの姫を娶れと命じられたら、あの方は了承なさるのでしょうね。だってあの方は、私のことも、そのように命じられたから妻にしただけですもの」


 きゅっと噛まれた赤い唇が、小さく震える。白い頬には、ぽろりと涙の粒がこぼれた。


「そんな日が来たら、私――」


「心依姫……」


 狭霧は、じっと見守るしかできなかった。


 それは高比古の話だ。それに、まつりごとがからむとしたら、狭霧には手出しができないことだ。


 心依姫は切なく笑い、白い指先で涙をぬぐった。


「いえ、仕方のないことです。それに、私は兄様の御子を授かることができました。これで、もう怖いものなんか――」





 心依姫は離宮の門まで出て、狭霧たちの一行が意宇へ向かうのを見送ってくれた。


「姉様、杵築にいらっしゃるときは、またぜひ立ち寄ってくださいね」


 そういって高い声を張り上げる心依姫は最後まで手を振っていたが、片方の手のひらは、大切なお守りに触れるようにずっとお腹の上にあった。


 お守り。そう思うと、お腹の中に宿った命が、心依姫の心の支えになっているんだろうなあと、心底、よかったねといいたくなった。同じように、胸にお守りを抱いたことは、狭霧にもあったのだから。


 それに、しだいに小さくなる離宮と、その門前で見送る心依姫を振り返るたびに、狭霧は自然と笑顔になった。狭霧をじっと見つめる幼い姫の顔は、うらやましいと感じるほど幸せそうで、可愛らしかった。


(恋をする女の子って、本当にかわいい。心依姫、幸せそうだったな。本当におめでとう。高比古と仲良くね)


 馬上から大きく手を振り返して、狭霧も心依姫が見えなくなるまで、何度も背後を振り返った。


 そして――。とうとう道がくねって林の中に入り、離宮が見えなくなると、ぼうっとした。


 さっきまで大仰に手を動かしたり、大きな声で別れを告げたりしていたのがうそのように、身体の半分が重くなって、頭も心も、やけに動きが鈍くなった。


(どうしたんだろう。ぼんやりとする。熱でも……)


 思わず、額に手を当てた。でも、熱はない。


 代わりに、同じようにそこに触れた青年の手のひらを思い出した。


 額をまるごと包み込むような大きな手のひらのくせに、その人の手は冷えていた。


 その青年のことを想うと、やはりぼんやりとして、身体も頭もうまく働かなくなる。自在に動くためのなにかが突然消えてなくなったような、胸にぽっかりと大きな穴があいたような――。


(なにこれ、苦しい。やっぱり、熱があるのかな。でも、さっきまでは元気だったのに)


 狭霧が寝床につくのを見張るような青年の目も、なぜかふいに蘇った。


『熱はあるよ。苦しいってことに気づかないのは、わかって苦しんでるよりよっぽどまずいよ。寝てろ』


 でも、何度額に手のひらを当ててみても熱くはない。それどころか、前にそこに触れた手のひらの冷たさを思い出して、気が遠くなるほど頭は冷えていく。


 そして、小さな氷の塊が天から胸の底に降るように、ぽつりと思った。


(なんだか、寂しい。どうしてだろう。わたし、もしかして、高比古が心依姫と仲良くするのが、いやなのかな)


 思うなり、すぐに吹っ切るように頭を振った。


(へんなの。あんなに幸せそうな心依姫を心から祝えないなんて――わたしは、いやな人だ)


 唇をきゅっと一文字に結んで、手綱を力強く握り締めた。


 悔しくてたまらなくなって、自分の心の狭さを責めてみる。でも、なぜか心は反発した。


 胸の底のほうに生まれた小さな棘のような想いは、自分に苛立つ狭霧をばかにした。


 それくらい、仕方ないじゃない。


 恋をするくらい、いいじゃないの。


 胸にそんな文句が湧くので、狭霧は自分で、自分の胸に目を丸くした。


(恋?)


 きょとんと目をしばたかせて驚くほど、それには納得がいかなかった。


 狭霧が高比古に抱く想いは、恋ではない。それは、高比古と心依姫が仲睦まじい晩を過ごしたと聞いてから、きゅうに寂しくなった今も、そうではないと断言できた。


(やっぱり、わたし、おかしいな)


 熱はないけれど、奇妙な病に冒された気分だった。


(高比古のことは大事だし、好きだけど、恋? ……ちがうなあ)


 狭霧が、あれは恋だったと自信をもっていえるのは、相手が輝矢かぐやのときだけだ。


 そのとき、狭霧は毎日輝矢のことを考えて、考えるといてもたってもたまらなくて、人の目を盗んでは彼のもとに忍び込んだ。そうして、こっそりと会って彼のそばにいると、抱きつきたくてたまらなくなった。輝矢のほうもそれは同じで、狭霧が訪れると彼は嬉しそうに笑って、当たり前のように狭霧を自分のそばに座らせて、肩を抱いた。


 人の目もはばからずに手をつないだり、好きだといい合ったりしていたのは、きっと狭霧と輝矢が幼馴染同士で、素直に想いを口に出したりして態度に示すのに、なんの抵抗もなかった頃からそうしていたからだ。


 高比古に対する想いがそれと同じだとは、まったく思えなかった。


(困ったことがあったらつい頼ってしまうし、高比古が困っているとどうにかしてあげたくなるけれど――。恋ではないと思うなあ。大事な人だけど、やっぱり、お兄さんみたいな人なのかな)


 恋心はなく、友人というほど親密な仲ではないけれど、大事な人。


 だから、心依姫と仲良くなって、自分のそばを離れていくように思うのがすこし寂しいのだ。


 そのように結論づけると、胸は落ち着きを取り戻した。


(ほんとに、へんなの。心依姫がとても可愛かったから、もしかしたらわたしも心依姫みたいに恋をして、かわいくなりたいなあって、心のどこかで思っているのかもしれないね)


 むりやり理由を探してみるが、やはり腑に落ちなかった。


(かわいくなりたい? ……そんなふうに思ったの、初めてだ)


 狭霧に、自分の見た目を気にした覚えはなかった。


 動きにくいからと高貴な身なりをするのはもともと苦手だったし、父の軍について巻向まきむくへ旅に出たときなどは、衣が汚れようが裳が破れようが、肌に引っかき傷ができようが、さっぱり気にしなかった。


 宗像へいったり、阿多へいったり、出雲の姫として見られることが増えてからは、一応身なりに気をつけるようにはなったが、必要以上にきれいに見られたいと思ったことはなかったし、考えていたのは、貧相な格好をして父の名に傷をつけないようにということだけだった。


(もう、十六だしなあ。娘盛りらしいし。すこし大きくなったからかなあ)


 前に、恵那から説教をされるようにいわれた言葉も、ふいに思い出す。


(年頃の娘なら、着飾ったり、身なりに気をつかったりするべきなのかな。そうしたら、心依姫みたいにかわいくなれるのかな。恋をしなくても――)


 そうかもしれない、こうかもとはあれこれ思うが、どれも、かすかな心の変化を理由づけてくれるいい考えだとは思えなかった。





 心依姫の離宮を早々に後にしたせいか、一行は、どうにか宵のうちに意宇の宮にたどり着くことができた。


 まずは寝所へ戻ろうと、従者に馬を預けて本宮へ向かうが、そこはとても賑やかだった。


 恵那は首を傾げた。


「あら、今日はどうしたんでしょう。いつもは、びっくりするくらい静かなのに」


 たしかに、意宇の館衆は杵築の館衆よりも物静かだった。杵築のように武人が闊歩しているわけでもないので、杵築の勇ましい雰囲気に慣れた狭霧や恵那には、意宇の宮は味気ないほど静かだと感じた。代わりに、粛々とした気配があると――。


 ところがその本宮に、今日は娘の声が響いている。


「白ばかりより、華やかな色があるほうがいいわよ。お母様から、越の錦をたくさんいただいてきたの。ほら、この萌黄もえぎに桜色を合わせると、とてもきれい……」


 騒いでいる娘は、手にしたいくつもの絹織物をああでもない、こうでもないと重ねて、色合わせを楽しんでいた。整った顔立ちをしたきれいな娘で、とくに肌は驚くほど白くて、まるで雪のように美しい。


「だって、阿多の衣装って、とても色鮮やかで華やかなんでしょう? そこへ嫁ぐ姫が身にまとう衣が白一色だなんて、おかしいわよ。手を抜いたのかって思われたらいけないでしょう?」


 そこでおこなわれていたのは、婚礼用の衣装合わせだ。


 出雲風の祝言では、妻となる娘が身につけるのは白一色の出雲服だ。帯や上衣など、装飾品に色や織りが混じることはあるが、あったとしてもほんの一部で、たしかに出雲風の婚礼衣装は、よくいえば厳かで、悪くいえば簡素で地味。それを、娘はいやがっていた。


(きっと、瀧木たきぎ姫だ)


 おそらく、阿多の火悉海のもとへ妻として向かうことになった、腹ちがいの妹姫だ。その姫は、母親似の麗しい顔立ちをしているが、目元は父親の大国主を継いだのか兄の盛耶もれやと似ていて、眼差しは強い。身にまとっている雰囲気も、触れれば溶けてしまいそうな美しい雪の風情がある母君とは異なっていて、いきいきとしていた。


 本宮前の庭を通り過ぎながら、声をかけようか、どうしようかと迷っていた狭霧に、先に声をかけたのは瀧木姫のほうだった。


「待って、あなたはもしかして、狭霧様?」


 その姫は人を従え慣れているふうだった。身に当てていた何枚もの織り物を、有無をいわさずそばにいた侍女へ押し付けると、回廊へ出て階を渡り、庭へと降りてきた。


「狭霧様でしょう? きっとそうだわ! はじめまして、狭霧様。母の話だと、幼い頃に何度かお会いしているそうなのですが、申し訳ありません、私は覚えておりませんで――」


 瀧木姫は強い口調でてきぱきといって、にこりと笑った。一つ年下とのことだが、同い年のはずの心依姫とも瀧木姫の雰囲気はちがって、どちらかといえば兄に似た勝気な物言いをした。


「お兄様からもお母様からも、あなたの話を聞いて、意宇にいったらぜひご挨拶なさいと申しつけられていました。お会いできて光栄です、狭霧様」


 幼い頃から高貴な姫君として大切に育てられたのか、瀧木姫には、高位の娘らしいえもいえぬ風格があった。


 狭霧は、苦笑した。


(この人なら、阿多に渡ってもうまくやっていけるだろうな)


「狭霧です、瀧木姫。わたしこそ、お会いできて嬉しいです。ごめんなさい、わたしも幼い頃のことをあまり覚えていなくて」


「仕方ありませんわ。私たちが遊んでいたのは、四つとか三つの頃らしいですもの。あっ……そういえば、狭霧様は阿多へいらしていたんですよね。その、阿多の若王は、どんな方でしたか」


「会ってみればわかるでしょうが、とても素晴らしい方ですよ。頼もしくて楽しい、すてきな美丈夫です」


「えっ、美丈夫? 本当ですか? ああ、よかった!」


 瀧木姫は浮かれたふうに喜んだが、異国へ嫁ぐことに対する不安のようなものは見られなかった。


(そういえば、越の姫君ってほとんどが異国へ嫁ぐんだっけ。なら、この姫が幼い頃からそういう話を聞いて育っていてもおかしくないね。そうだよね、ふつう、王族の姫ってそうよね)


 ちがいを見せつけられた気分だった。


 嫁ぐといわれている先が友国か敵国かというちがいはあれ、楽しそうに輿入れの支度に励む瀧木姫から、姫と呼ばれる者が異国へ嫁ぐのになんの問題があるのだといい諭された気にもなった。


(わたしがこの姫を助けられることは、なにもないな)


 この姫は、狭霧よりよっぽど自分の立場をわかっていると思った。


 だから、狭霧は挨拶をして、そこを去ることにした。


「すてきな衣装になりそうですね。お邪魔しました。また出会ったら声をかけてくださいね。どうか、お幸せに」


 火悉海様、あなたも、どうか――。


 瀧木姫のように見目麗しくて、王族らしい気品があって、そのうえはつらつとした娘なら、火悉海も火照王もきっと気に入るだろう。


 胸のつかえが一つ取れた。そう思うと、すんと風が通り抜けたように胸もとは涼しくなった。




 

 翌朝、狭霧が寝所にしている舘を訪れた恵那は、新しい髪飾りを手にしていた。


「おはようございます、狭霧様。疲れはとれましたか? 昨日はばたばたとして、渡しそびれていたんですが――」


 恵那の骨ばった手のひらの上に乗っていたのは、前にくれたものと同じ、組み紐のかんざしだった。前にもらったものは華やかな真朱色をしていたが、いま差し出されたのは、鮮やかな黄色をしている。


 出雲の軍旗ほど強い色でもない品のいい山吹色は、狭霧の目を吸い寄せた。


「きれい……」


 形は前のと同じで、真ん中に蝶と花を模した結び目がつくられている。


 色が真朱から山吹色に変わっただけで、こうもがらりと雰囲気がかわるものか。恵那の手の上の髪飾りにあったのは、派手なほどの華ではなく、明るい陽射しのような爽やかさだ。


 目を奪われたようにじっと覗きこむ狭霧に、恵那は満足そうに笑った。


「やっぱり! こっちの色のほうがお気に召されましたね。この色のものがあったことを思い出して、須佐へいく用事があった下男に、もってくるように頼んでおいたんです」


 その色は、まばゆいほどの赤よりもずっと狭霧の好みだった。


「恵那、それ、髪につけてみたい……」


 心からそう思ってつぶやくと、恵那はすぐに背後に回って、狭霧が自分で器用に結いあげた黒髪に、山吹色の組み紐飾りを挿していく。


 済むと、部屋の隅にあった小さな円鏡を手にとって戻ってきて、狭霧に見せた。


「ほうら、かわいい」


 やはり恵那のいい方は、馴染みのある若い娘のことならなんでも褒めたがる身内じみていた。でも、鏡を覗きこんだ狭霧は、前のようには拒まなかった。


「うん、かわいい。この髪飾り――」


 狭霧の顔立ちにも、頭の後ろで結いあげる髪型にも、その色の簪はうまく馴染んでいる気がした。





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