死の匂い (1)

 温かな陽射しが、出雲の野に立つ枯れ木立に春を告げる頃――杵築きつきの雲宮は、出雲の軍旗と同じ強い黄色をした飾り布で包まれた。


 土と雨と風に今年の豊穣を願う春の大祭、祈念祭としごいのまつりに先立って、別の大祭がおこなわれることになったからだ。


 それは、近隣諸国に名を馳せる武王、大国主と、賢王、須佐乃男の血を引く姫のための婚儀だった。





 意宇の医薬師が、天の星を読んで選んだ吉日。雲宮の本宮には、出雲の豪族の長がすべて駆けつけ、婚儀を見守った。


 本宮の真奥には、壁一面を覆う大きな軍旗が垂れていた。


 婚儀はその前で営まれて、禰宜ねぎに促されて、出雲王の彦名と、武王、大国主が二人揃って舘に入り、軍旗の前で足を止め、横に並ぶ。


 二人の王が身につけたのはそれぞれの正装で、印象は真逆だ。金色に磨き上げられた鎧を身にまとい、玉石に彩られた宝剣を佩く大国主とはうって変わって、彦名は、深い袖のついた雅やかな衣服を身につけ、玉の御統みすまるを首に飾っている。


 新しく夫婦となる若者が身につける正装は、上から下までが白一色。二人の婚礼衣装は、薄氷うすごおりのように澄んだ純白をしていた。


 髪の結い方にも、決まりがあった。高比古の黒髪はいつもより大きめの角髪みづらに結われて、肩まで落ちる黄色の布と、純白の玉飾りが結い紐に重ねられる。狭霧のほうは、黒髪を背中までまっすぐに下ろして、額に純白の領布ひれを巻いた。


 頭には、金の冠を乗せる。鈍い輝きを放つ表面には一対の蛇紋が描かれて、それは二人とも同じ揃いの紋だった。


 大勢の人がつめかけたざわめきの中、舘の外庭で控える武人たちの手によって、どん、どん、どん……と、太鼓が打ち鳴らされる。それは、婚儀の中では最も大切とされる〈本礼の儀〉の始まりを告げた。


 狭霧と高比古は、太鼓の打音に歩みを合わせて館の正面にある階段きざはしを上がり、広間へ登ると、真奥の壁際に待ち受ける二人の王のもとへと近づいていく。


 出雲王という位をもつ彦名は、そばで恭しく控える従者の手から美しい玉剣を掴み上げて、前へ進み出た高比古へ、それを授けた。


「次の武王となる若者に、王の剣を――」


 高比古は両手で恭しく剣を受け取り、頭上に掲げて深く礼をする。それは、「そのようにしろ」とひそかに稽古をさせられた通りの所作で、こういう場での決まりということだった。


 そのような決まりは、ほかにもたくさんあった。


 妻となる娘、狭霧に課せられたのは「一連のことが終わるまで目を伏せていろ」という決まりだった。深くうつむいたまま顔を上げることが許されなかったので、狭霧は、高比古の足さばきや裾の動きを見て距離や方角を察して、一緒に進まなければならなかった。


(顔を上げて自分の目で見れば簡単なのに。婚儀って決まりばかりね)


 「理由はわからないけれど、きっと、大事な意味があるのだろう――けれど」と狭霧は思った。


(おかしいわよ。これはわたしの婚儀で一生を左右するとても大切な時なのに、見ちゃいけないなんて。――今、何が起きているんだろう。高比古はどんな顔をしてるのかな。一瞬だけ、ほんの少しだけ――)


 ひそかな仕草で顎を傾けて、左隣にすらりと立つ高比古の表情をちらりと覗き見た。


 垣間見た高比古の顔は、無表情をしていた。


 高比古の正面に立つ彦名も真顔をしていたが、彦名の真顔には、どこか穏やかな印象がある。でも、高比古のする真顔のほうは――。


 一瞬見たなりさっと目を逸らして、床の上へと視線の先を戻す。それから、胸で思った。


(高比古ってば、睨むみたいにまっすぐ前を向いて――そんなに怖い顔をしなくてもいいのになあ。一応、婚儀……なんだけどなあ)


 ほんの少し愚痴をいいたい気分にもなったし、高比古の表情の乏しさに呆れたり、同情したりする想いもあった。でも、それより先に、朱で彩った唇に力を込めて、震えそうになるのをじっとこらえた。ふと気を抜けば、笑いだしてしまいそうだった。


(こんな時でも、いつもと変わらないんだね。高比古らしい)


 彼らしい。そう思うと可笑しくなり、胸に幸せな気持ちがこみ上げたのだ。





 彦名による祝いのりが済むと、狭霧と高比古は二人の王に背を向けて、舘の正面へ戻っていく。


 本宮の前に広がる大庭は、一面が黄色の飾り布で囲まれていた。そこには、連国出雲を成す小国の長や、高位の武人、意宇おうと杵築の館衆がすべて揃って、婚儀の行方を見守っている。


 〈本礼の儀〉を済ませて、狭霧と高比古は正式に夫婦となった。ゆっくりと階段を降りた二人の足が地面につくと、拍手喝さいが起きた。


「大国主、ばんざい!」


「高比古様、狭霧様、ばんざい!」


「出雲よ、とこしえに!」


 祝いの声に負けじと二重三重に若夫婦を囲む人の輪から進み出て、狭霧のそばに歩み寄る女人がいた。その女人は狭霧の背後にぴたりとついて、衣装の裾を直してみせる。それは芝居で、花嫁の衣装を直すふりをしつつ、女人はひそひそと次の段取りを知らせた。その女人は二人の付き人役を任された狭霧の侍女で、名を恵那えなといった。


「狭霧様、二人の王から許しの宣りを得ましたので、〈本礼の儀〉は済みました。これでもうお顔を上げて構いませんよ。この庭を抜けたら、次はお二人で御輿みこしに乗ります。そのまま大路を進んで、一つ目の十字路で曲がり、あなたと高比古様の寝所まで向かいます。今日は里者も雲宮に入ることが許され、あなたたちの姿をひと目見ようと大路に列をつくっております。御輿の先駆さきに意宇の禰宜と杵築の武人が付きますが、集った民にあなた方お二人のお姿を見せてやるため、歩みはかなりゆっくりになると思います。よろしいですね? よければ……」


「わかった、恵那」


 狭霧が答えると、恵那は内緒話をするような小声でたしなめた。


「しっ! 狭霧様、婚礼衣装に身を包む娘は唇をひらかないものです! 今日はお返事を控えてください。これから恵那が何をいっても、返事をせずに心に留めておいてください。よろしいですか?」


「うん、わかった――あっ、ごめん」


「いったそばから、姫様――」


 恵那は呆れた。でも、呆れたのは狭霧も同じだ。


(尋ねられたら答えるのが普通だと思うけどなあ。娘はうつむいていなければいけないとか、唇は閉じておかなければならないとか、婚儀って面倒な決まりがたくさんあるのねえ)


 婚儀の決まりが狭霧はよく理解できなくて、わずらわしいものと思った。





 大庭を抜けると、樹皮細工の花で飾られた御輿が待っていた。そこに狭霧と高比古が乗り込むと、白の衣装に身を包んだ武人がそれを担ぎ上げて大路を進み始めた。恵那がいった通り、歩みは止まっているのか進んでいるのかがわからないほどゆっくりだった。


 大路の両端は里者で埋まっている。御輿がわずかに動くたびに、里者たちはどよめき、拍手が起きた。それに応えようと、狭霧は御輿の上から笑顔を見せた。


 御輿の四隅には柱が建てられ、純白の天蓋が垂れていた。天蓋は二人の姿を覆ったので、里者たちはしきりに身体を傾けていた。


「なあ、見えたか」


「見えた! お二人並んでいるよ」


「しかし、なんだってあんな布でせっかくのお姿を隠してしまうんだ? 見えねえじゃねえか」


「馬鹿ねぇ。私らのような下々の者がじろじろと見ていいもんじゃないんだよ。いいじゃないの、すてきね。私もああいう高貴な祝言をあげてみたかったわぁ」


「何いってんだ? てめえは布でもかぶって、そばかすだらけの汚ない顔を隠しておけっつうんだ」


「まあ、あんた、いったね――!」


 時折、陽気なやり取りも聞こえてくる。朗らかな笑い声が耳に届くたびに狭霧は楽しくなって、何度も吹き出した。しかし、隣に座る高比古はというと、ぴくりとも頬を動かさずに虚空を睨んでいる。


(もう、真面目なんだから)


 狭霧が呆れて苦笑する頃、大路を囲む民の列からひときわ大きな声が風に乗ってくる。その声は、狭霧の名を何度も口にしていた。


「大国主と須勢理様の娘姫、狭霧様かあ。ついこの前、お生まれになった時の祭りがあったと思ったんだがなあ」


「もう、嫁ぐ齢になられたんだなあ。時の経つのは早いよ。お綺麗になられたなあ。ん? そういえば、狭霧様の夫となる方の名はなんていうんだっけ」


「たしか、なんとか比古じゃなかったかなあ。……あっ、思い出した、タコ比古様だよ、タコ比古様!」


「ああ、そうだ、そんな感じだった。タコ比古様、ばんざーい!」


「ばんざーい!」


 もともと高比古は、ともすれば不機嫌に見える真顔をしていた。


 それに輪をかけて、大路で飛びかう祝い文句を聞きつけると、真顔はかなりの渋面になった。






 行列は大路の十字路を曲がり、やがて二人の寝所へとたどりつく。


 その寝所はその日、二人のくつろぎ場や、衣裳部屋として使われることになっていた。


 御輿を降りて寝所に入るなり、すぐに高比古は文句をいった。


「誰がタコだ、タコ比古様だ……。名が知れてなくて、悪かったな――」


 高比古は、行列の最中に名を間違えられたことに腹を立てていた。


 たしかに、高比古を「タコ比古」と間違えられるのは笑うに笑えない話だ。狭霧は、吹き出しそうになるのをこらえて高比古を宥めた。


「ま、まあまあ――たまたまよ、たまたま」


「そうかよ?」


 高比古はふいっと横を向く。その仕草も不機嫌に見えた。


(あぁあ、また機嫌が悪くなっちゃった。そういえば、今日は高比古の笑ってる顔を一度も見ていないな)


 そう思うと、狭霧はつい寂しくなった。


「ずっと怒ったような顔をして――。少しくらい嬉しそうな顔をしてくれたらいいのに。だって、今日は婚儀だよ? わたしたちが結ばれるのを大勢の人が祝いに来てくれたんだよ?」


 高比古はちっと舌打ちをした。


「嬉しそうな顔? 婚儀なんか、嬉しくもなんともない。嬉しくない時にそんな顔ができるかよ、馬鹿馬鹿しい」


「――え?」


 狭霧は、目を白黒とさせた。さすがに、そこまでの言葉が返ってくるとは思わなかった。


 二人と共に寝所に入った侍女たちも、居心地悪そうに手仕事を慎ましくする。寝所に妙な緊張が張りつめると、高比古は首を横に振った。


「そうじゃなくて……。あんたと結ばれたのは、そりゃあ嬉しいよ。でも、この婚儀はそれだけじゃないだろう? おれは、こんなものまでもらってしまったんだ」


 高比古はため息をついて、腰に佩いたものを見下ろしている。そこには、五色の玉石で飾られた剣がある。出雲王、彦名から手渡されたもので、高比古が次の王となる若者と認められた証でもあった。


「重かった。今も、重いよ。緊張した――」


 息苦しそうにつぶやくと、高比古は、照れ臭そうに真顔を歪めた。


「おれ、余裕がないな。駄目だな、こんなんじゃ。――へんなことをいって悪かったよ。婚儀の間もぶすっとしてて、悪かった」


「謝ってくれるの?」


 狭霧は驚いて、それから吹き出した。


「そんなの、気にしなくていいよ。高比古が不機嫌に見えた理由はわかったもの。――それにしても、変わったね、高比古」


 高比古は、ある部分では前と同じだが、ある部分では様変わりしていた。


 前と同じところは相変わらず彼らしくて、狭霧は好きだと思ったし、前とは様変わりした部分も、やはり好きだと思った。


 彼らしい部分も、彼らしくない部分も、どちらも好きだった。そして、彼がいとしいという純粋な想いがふっと胸にこみ上げた。


「あのね、高比古」


「うん?」


「あのね……ううん、なんでもない」


 寝所にいるのが二人だけなら、きっと狭霧はこみ上げた想いに任せて高比古に飛びついていた。でも、そこには恵那やほかの侍女がいて、二人の世話を焼いている。


 結局、狭霧は胸に湧いた想いを伝えられなかった。


「なんでもない? なんだよ」


 高比古は訝しげに目を細めたが、幸せそうにはにかむ狭霧と目が合うと、微笑んだ。






 寝所に戻ったのは、ここで少し衣装を脱いで身軽になるためだ。


 着けていると頭が重くなる金の冠を外し、儀礼用の重いくつから普段用の沓に履きかえる。それから、一番上に重ねた白の飾り着を脱がされた。そこまでは許されたが、高比古が肩まで垂れた髪飾りを外そうとすると、侍女たちは慌ててその手を止めた。


「いけません――! それは、今日の晩まで外してはいけない決まりなのです」


「これはつけたままなのか?」


「はい、今日の晩に――」


「だが、今から軍議だぞ? こんな、ひらっひらなのを髪につけて、舞童みたいな格好でいけっていうのか? 馬鹿馬鹿しくて、してられるか!」


 威勢よく文句をいう高比古のそばで、狭霧は小さく肩を落とした。


(やっぱり高比古、いらいらしてる。今日は婚儀なんだけどなあ。それどころじゃないっていうのはわかるけれど、もう少し浮かれてくれてもいいのに)


 そういえばと、狭霧は、高比古と父、大国主の元に祝言の許しをもらいにいった日のことを思い出した。あの日、高比古は別人かと思うほど浮かれていて、狭霧と結ばれることになって嬉しい、幸せだ、そばにいたい――と狭霧に甘えた。


 その時狭霧は、この人がそんなふうに甘えたり浮かれたりするのは珍しいと驚いたが、たしかにそれは驚くに値するべきことだったようで、その時以来、高比古が浮かれた顔を見せることはなかった。


 狭霧は、肩で息をした。


「今日くらい我慢して――ね? 後で、またこの格好に着替えるのはいやでしょう? 軍議の後に祝宴がひらかれるから、どうせまた今の格好をしなくちゃいけないんだから――ね?」


 高比古が気にしている通り、これから狭霧と高比古は寝所を出て、兵舎へ向かうことになっている。兵舎でおこなわれるのは、軍議だ。その場に参じようと、本宮に集っていた男たちは今頃ごっそり移動しているはずだ。


 狭霧が、大国主と賢王に繋がる姫だからか、それとも、高比古が「いずれ王位を継ぐ者」として婚儀を迎えたからか。こたびの婚儀には、かつてないほど大勢の豪族が祝いに出向きたいと申し出て、集まった。


 だから、彦名と大国主はいった。


『みなで話し合うには、絶好の機会だ』


 婚儀は祝宴の前に一旦中断されることに決まり、その間に軍議がひらかれることになった。


 軍議とは戦に備えるための話し合いの場だが、婚儀そのものが、戦に備えるために開かれたようなものだった。彦名が、高比古が狭霧を娶ったという事実を早々に公にするべきだと、祭礼を急いだからだ。


(わたしが誰に嫁いでいようがたぶん婚儀には戦が関わったと思うし、こうなるのはわかっていたけれど――。なんだか、寂しいなあ……。できれば里の娘のように、自分の婚儀の日くらい、幸せな気持ちに浸っていたかったなあ――)


 これからのことを思うと、狭霧は、ため息をついた。



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