序、白の幻鳥 (2)


 海岸線に沿ってさらに南下して、日向ひむかの都へたどり着くと、比良鳥ひらとりは、そこに停泊していた大和の船に乗って海を渡ることになった。


 向かった先は、瀬戸。強い潮の流れで流れ者を阻む、早瀬の海だ。


 瀬戸の海の早瀬は、ふらりとやってくる異人の船を拒み、またたくまに沈めてしまうが、その海を熟知した者にとっては、それ以上はない万能の海だった。


 都合のよい潮に船を乗せて帆で風を受ければ、思うままに船は進み、外洋では考えられないほどの速さで、海の上を行き来できる。巧みに帆の向きを変えたり、舵を操ったりしながら、船乗りたちは見事に船を急流に乗せ、波の上を走らせた。


 比良鳥が乗った船が着いたのは、瀬戸の海に面した浜里の一つだった。


 その浦は小山を背にしていて、斜面では、あちこちから白煙が上がっている。


 季節は、初夏。山焼きの季節ではなかったし、薄青の空に向かって安穏と立ち上る煙の筋は、山火のようにも見えなかった。


 浜里に着き、船から下りた比良鳥は、山々から立ち上る白い筋を見上げて、日向から一緒に船に乗った武人の男に尋ねた。その武人は名を三雷みかづちといい、顎に黒髭を生やしている。鎧を身にまとうと、小さな鉄山のようにも見える大男だった。


「三雷様、あの山に見える白煙は、いったい何を燃やしているんです?」


「ああ、あの煙か――。炭焼きと、鍛冶かじの煙だ」


「炭焼きと、鍛冶?」


「ああ。この里は、古くから青銅をつくっていた。大陸から鉄が伝わり、青銅の値打ちが下がってからは廃れたが、邇々芸様が、この里の息を吹き返させた。古くなったとはいえ、この里に伝わる熟練の技は、たしかだったからだ。邇々芸様はそれに目をつけ、里の金匠かなだくみたちに、鉄を扱う技をお授けになった。新しい技は、根付いたよ。いまに必ずこの里は、鉄の里として育つ――俺の目には、その光景がすでに見えているよ」


 そういって、三雷は大きくうなずいた。


比良鳥は、邇々芸という異国の王子のことを敬愛していた。


「邇々芸様が――」


 その王子の御名を恭しくつぶやいていると、三雷から行く先を示された。


「比良鳥どの、まいられよ。邇々芸様の知友が、あなたの到着をお待ちかねだ」


 三雷から導かれるまま、比良鳥は、初めて足を踏み入れた異国の浜里に上陸した。





 比良鳥が招かれた場所は、浜里でもひと際立派な木組みを誇る堅固な舘だった。


 中には、異様な衣装を身にまとった男がいた。衣の生地には艶があり、色も鮮やかだった。生地だけでなく、衣の形もあまり見たことのないものだ。だが、比良鳥は、その男の身なりに思い当たった。大国主とともに諸国を漫遊した時に、どこかでその男と似た雰囲気をもつ人に出会ったことがあったからだ。


「あなたはもしや、韓国からくにの方では――」


 名乗った後でそういうと、男は、細い目をさらに細めて柔和に笑った。


「ええ、その通りです。私の名は、杼甫子ひぼこ。邇々芸様と天照女王のはからいで、『あめ杼甫子ひぼこ』と名乗ることを許されております」


 韓国というのは、海の彼方に栄える異国の名だ。大陸と呼ばれる広大な国土を誇る大国と地続きになっており、そして、その国がもつ先進の技の数々は、倭の国々にとって大きな魅力とされていた。


 韓国の出といいつつ、その男は自在に倭国の言葉を話した。


(天の杼甫子――、韓国の通辞か? ああ、だから――。この里に鉄の技が伝えられたと三雷様がいっていたが……大陸の先進の技を引き込んだのは、もしや、この杼甫子という男か)


 倭国一の鉄の産地として栄えた出雲では、十年前には、すでに鉄の技が根付いていた。鉄を鍛えるための炭つくりが盛んにおこなわれ、炭場の近くの良地には、金匠の仕事場も整えられた。役目に就くために山にこもって暮らす山の民たちの集落もつくり終えていた。そして、鉄の武具や農具を量産した出雲は、倭国での勇名を欲しいままにしたのだ。


 鉄と、その技の保有は、異国の動向を気にする国の長であれば、まず気に掛けることだった。


 ごくりと、比良鳥は唾を飲んだ。そして、目の前に座る杼甫子という異国の男の顔を、じっと見つめた。


「なるほど――。あなたが仲立ちになって韓国から仕入れた鉄を、遠賀からこの里に運び、ここでつくりかえるというわけですね。ここは、大和随一の外里になるわけだ。新しい武具や農具をつくる、大和の要地に――」


「ええ、その通り」


「さすがは、先進の技をもつ韓国の方だ――。そのように邇々芸様に進言なさったのも、杼甫子様でしょうか?」


「――いいえ。私は、邇々芸様のために働いたにすぎません。あの方と、天照女王の御考えが、私をこの国に渡らせたのです」


 杼甫子は、にこりと笑った。


「比良鳥どの、私はね、邇々芸様や天照女王とお会いして以来、この島国が好きになったのです。私の故郷、韓国は、大陸の皇帝にかしずくしかできぬ国。領土が隣り合っているため、大国の恩恵を受けることができますが、皇帝の権威をかさにした横領にも耐えねばならぬのです。それに引き換えこの島では、なんと自由にものが言え、なんと自由に息が吸えることか――」


 比良鳥は、大国主の従者の中でも、韓国や大陸のことに詳しいほうだった。


 韓国と大陸の帝国の区別を明確につけることができ、その両国が倭国にもたらす富や技の数々、それから、韓国と大陸の帝国の本土には、出雲より贅沢な品が溢れているということも理解していた。そして、大陸の帝国の権威が、韓国に及んでいることも――。


「たしかに――」


 杼甫子は、うなずいた。


「それに、ご存知ですか? 鉄の技であれ木組みの技であれ、これほどあっさりと技が根付いて、またたくまに広める民が住まう地を、私はこの地のほかに知りません。それは、ここに、たしかな土着の技があり、新しいことが伝わればすぐに取り入れ、自分たちのものにするだけの技が、もともとこの地にあったからです。私は、この島のそういうところに魅かれました。そして、古い技と新しい技を結び付けようとしている、邇々芸様と天照女王の御考えに賛同したのです。――いま、この倭国と呼ばれる島では、いくつもの小国が乱立し、戦を繰り返しています。その、なんと愚かなことよ――。このままでは、豊かな知識をもっていても、今にこの国は、第二の我が故郷となります。一日も早く一つの大国としてまとまらなければ、大陸の帝国は、この島を支配してやるべき哀れな混沌の地と見て、攻め入るでしょう――」


「一つの大国として、まとまる――」


 比良鳥は、その言葉を反芻した。比良鳥が敬愛する異国の王子が、よく口にする言葉だったからだ。


『このまま出雲がのさばっていれば、戦の世は終わらない――。そして、このまますべてが共倒れになる。一つにまとまらなくては、この倭国と呼ばれる島一帯は、遅かれ早かれ、大陸に栄える強国に乗っ取られることになるだろう。そのためには、何が要るだろうか? ――力だ。恐怖であれ、慣習であれ、絶大な力をもつ王権をつくり出し、それを働かせるべきだ――』


 脳裏に蘇った、記憶の中の邇々芸という王子は、憂いを帯びた優美な目で比良鳥を向いて、苦笑した。


『だが、母上の御考えは、少し僕と違う。母上は、人を従えようと思うより先に、いい仕組みを生めとおっしゃる。先に、人々にとって役に立つ考えを生んで知らせてやるべきで、それがたとえ善だろうが悪だろうが、彼らにとっていいことであるべきだと、そうおっしゃる。そうすれば、人はおのずとついてくるし、繋がりも強まるのだと――。きっと、母上が正しいのだろう。それはわかっているが、慌ただしくなったり、目の前のことが忙しくなったりすると、その御言葉をつい忘れがちになる。だから、こうやって人に話して、肝に銘じているのだよ――』


 その王子の齢は、二十を少し過ぎたあたりだ。比良鳥よりは十以上年が下だが、その王子には、周りの者の目を奪う気高い雰囲気があった。


 比良鳥がその王子と偶然出会ったのは、遠征の折に、使者として異国に出向いた時だった。出雲の武人にはない優美な気配をまとうその王子との出会いは、比良鳥にとっては驚きだった。そして、各地を行き来する邇々芸がしていたことにも、度肝を抜かれた。


 邇々芸が訪れる場所のほとんどは、少々寂れてしまった里だった。かつては栄えたものの、宗像、出雲や越など、北の海側の国々へ富が集まるようになってから、力を失っていった国々だ。そういう地を訪れた邇々芸は、その地にふさわしい知恵を授けて、見事に里を蘇らせていく。まるで、しぼみかけた花に咲き誇ることを思い出させていくようで、その姿に比良鳥は、その王子こそが倭国の長になるべき偉大な王者だと、心酔した。


「杼甫子様――私も、邇々芸様の御考えが正しいと思います。あの方は、はるかな高みから大地を見渡す、神子みこのようなお方――。私は、あの方についていきたい一心で出雲を裏切る覚悟をいたしました。これからも、あの方が大和を広げていくのを、嬉しく見守っていきたいと思っております。しかし――」


 比良鳥は、ふうと息を吐くと自分の手の甲を見下ろした。


 日に焼けたのと、山を抜けて旅をしてきたせいで、手は黒くなり、細かな傷がたくさんついていた。そして、手の甲には、一生消えそうにない刃の傷跡がある。


「私は、呪いもちの身です。今後、出雲を再び裏切ろうとすれば、身体の半分を失う術がかかっていて――」


「話は三雷から聞きました。――災難でしたね。そのような呪いを刑とするなど、出雲はなにやら不吉な陰のある国ですな――。さきほど、邇々芸様にもお伝えしましたが、あの方も残念がっておられました」


「邇々芸様にお伝え? それでは、あの方は、この里にいらっしゃるのですか?」


「いいえ、幻の鳥――八咫烏やたがらすでやりとりをしたのです。あの方は、今、遠賀におられます。――それから」


 杼甫子は、慰めるように比良鳥へ笑いかけた。


「邇々芸様は、あなたのことを気にされていました。霊威をもつ大和の術者は、この里には何人もおります。その技をもってすれば、あなたにかかった呪いを消すことができるやも、と」


「ほ、本当ですか!?」


「ええ。実は、すでに準備をさせていたのです。――よいぞ、入りなさい」


 目を細めてにこりと笑うと、杼甫子は、二人がこもった小部屋の外へと呼びかける。すると、戸口にかかった分厚い薦が動き、そこから、裾の長い珍しい形をした衣服に身を包んだ男たちが四人入ってきた。比良鳥は、その男たちの身なりにも覚えがあった。邇々芸と出会った異国の里には、彼らも一緒に訪れていたからだ。


「大和の術者たち――」


 四人の術者たちはそれぞれ、大きな円鏡を手にしていた。上半身が隠れるほどの大きさで、表面は傷一つなく磨かれ、見事に周りのものを写し取っている。四人の術者たちは、比良鳥を囲むようにして座り、円鏡を比良鳥に向けた。四方の鏡に自分の姿が映っているのは、比良鳥にとって不思議な気分だった。


「この鏡は――」


「結界となると聞きましたが――すみません、私は術者ではないので、細かなことはわかりません」


 杼甫子は謝罪を告げたが、悪びれる様子はなかった。


 術者たちが部屋に入って来てから、杼甫子は立ちあがって、戸口側の隅へと場所を移っていた。そこから一度戻ってくると、木床の上に大きな布を広げた。そこには、とある地域の海岸の形を写し取った絵が書いてある。絵地図だ。


「これは、遠賀の海峡の――? 敷島と遠賀の間にある、海の道の――」


「その通り。説明は不要でしたね。さすがは出雲軍、大国主付きの武人です」


 比良鳥の前に絵地図を広げると、杼甫子は壁際へと戻っていく。そして、そこで腰を下ろした。


「実は、あなたに助けていただきたいのです。支度が整い次第、邇々芸様は、船団を引き連れて宗像へ向かわれます」


「宗像へ――? 船団ということは、対馬にある宗像の都を攻めるおつもりで――」


「いいえ。あの方は、どうしても必要と判断しなければ、刃や戦に頼りません。宗像のような商国は、力の流れ方次第ですぐに栄え、潰えるものです。あの方は、今ある海の道にくさびを打ち、流れをお変えになるおつもりです。宗像に流れ込む莫大な富を減らして、大和や瀬戸、南筑紫など、今ある海の道から弾かれてしまったがゆえに咲き方を忘れてしまった都に、再び花を咲かせようと――そうお考えになっています」


「なるほど――では……」


 比良鳥は、ほっと肩の力を抜いた。


 比良鳥の中に、いつもはびこっていた疑問があった。


 邇々芸は、出雲を、今倭国にある大乱の種だと考えている。力の流れを大和へ向かって変え、大きな王権をつくりあげた暁には、必ず力を奪い、支配しなければいけない国だと――。


(その後、出雲はどうなるのだろうか――。商国は、力の流れを変えるだけで支配できると考えていらっしゃるが、出雲のような武国は、いかにするおつもりなのだろうか――)


 比良鳥が邇々芸に従った理由に、一つがあった。それは、邇々芸が、対出雲の方策として、武王・大国主と賢王・須佐乃男の血を引く娘、狭霧姫との婚姻を望んだことだ。


 出雲を裏切ってくれと頼んだ邇々芸が比良鳥に命じたのも、そのことだった。


 狭霧姫の動向を知りたい。一人になる隙があるなら、それを知らせて欲しい。浚ってでも大和に連れて帰れば、出雲の動向をいちいち知らない東の国々には、それだけで効く。出雲は大和に下されたと思わせることができる。大和という国の根を、より遠く、深くまで張ることができる――と。


(狭霧様に、邇々芸様とゆっくり話をしていただきたかった――。あの方のことを深く知れば、きっと私と同じ考えをもつようになられたはずだ――。いや、まだ望みはある)


 床に手をついて、比良鳥は、真正面にいる杼甫子をじっと見つめた。


「私がすべき助けとは、なんでしょうか」


 邇々芸が自分に求めているのは、前と同じように、狭霧という出雲の姫君を自分の后にするための手助けだろうと思った。しかし、杼甫子が比良鳥に告げた命令は、比良鳥が考えたものとは少し違っていた。


「出雲軍の外港があるでしょう? 引島という砦で、長門の海のどこかにあるはずです」


 引島の砦は、出雲の、対筑紫、対瀬戸の守りの要所だ。


 今は、出雲一の豪傑と名高い石玖王に守護の任に就かせている。それほど、軍を司る都、杵築が、もっとも目を光らせている地の一つだった。


「それは、ありますが――」


 ぽかんと唇を開く比良鳥へ、杼甫子は穏やかに笑った。


「引島の場所を、詳しく教えてほしいのです。だいたいの場所はわかるのですが――出雲の砦は、兵泣かせ、術者泣かせで、そこに砦があると隠す覆いのようなものがあるのです。ぎりぎりまで近づかないと、そこに船団がいるとわからないのです。それでは、むやみに近づけません」


「はい、しかし――」


 比良鳥は、迷った。引島の砦の重要さは、よく知っていたからだ。


(あの場所が明らかになれば、出雲軍の守りは各段に薄くなる――。出雲軍にとって、大きすぎる痛手だ)


 しかも――と、比良鳥は不安に思った。それは、出雲を裏切るということに繋がらないか――。そう思うなり、どくんと脈の音が大きく響き、比良鳥は口もとを手のひらで覆った。その瞬間、耳が一気に遠くなり、目の前にあるはずの景色も、靄がかかったように白くなった。喉も、焼けるように熱くなった。


「――いけません、杼甫子様。私は、その手伝いをできません」


「できないとは?」


「それは、出雲に対する裏切りです。その前に喉は使えなくなり、私は言葉を失うでしょう。目も耳も使えなくなり、絵地図を見たり、あなたの声を聞くこともできなくなるでしょう。私には、呪いがかかっているのですから――」


 身体の半身を失う――そう思うと、どく、どくと脈の音が大きく響く。その血はやたらと冷えて感じて、「寒い……」と、比良鳥は震えそうになった。


 杼甫子は、比良鳥を宥めるように微笑した。


「大丈夫です。そのために、術者をここへ呼んだのです」


「術者を?」


「あなたの身にかかった呪いを、この者たちが解きます。さあ、彼らを信じて、教えてください。引島の砦はどこにありますか」


「呪いを解く――? 本当に……?」


 にこやかに笑って、杼甫子は床の上に広げた絵地図を指さしている。


 しかし、比良鳥は半信半疑だった。


 四方で円鏡をもつ術者たちは、じっと比良鳥を見つめている。表情のない真顔をする彼らは、比良鳥が不安げな目配せを送ると、そっと目を伏せた。仕草は、なんらかの霊威を働かせているように見えた。


(本当か――?)


 身体の半分を失う呪いなど、解けるものなら、さっさと解いて欲しかった。


 ごくりと息を飲むと、比良鳥は、邇々芸を信じる覚悟をした。


(あの方についていこう。あの方を信じよう――)


 それから、ゆっくりと唇をひらいた。


「引島の砦は、陸の方角を向いています。ちょうど、そこにある長門の浜里に向かい合うようにして――絵地図でいうと、このあたりです」


 震える指で、床に置かれた絵地図の中をさした。


(指が、冷たい――)


 極度の緊張で心の臓が高鳴り、うるさいほどだった。今にも、呪いが働くかもしれない。身体の半分を失うかもしれない――と、今か今かとその時に脅えた。


 しかし、耳鳴りや喉の熱を、今は感じなかった。目のくらみもだ。


「あ……」


 何も起きないことに驚いて、比良鳥は思わず、真正面に座る杼甫子を見た。大和の術者たちに場所を譲るように、杼甫子は壁際であぐらをかいていた。


「ほら、平気でしょう? あなたにかかった出雲の呪いは解けたようです。――それで、引島の砦は、そのあたりで間違いないのですね?」


 杼甫子の様子は、落ち着いていた。比良鳥は、喜びで声を上ずらせた。


「はい、そこです。正面にある浜里とは、小舟ですぐに行き来できる距離にあります。しかし、海を見渡すのに適した場所にあるため、場所がわかっていたとしても、海から忍び寄ることは難しいでしょう。――弱点は、砦の裏側、山手です。逆の浜から上陸して中央の山を越え、背後から討つべきです。山はそれほど険しくありませんが、兵が身を隠す程度の雑木林は存分にあります」


 砦の在り処や手薄な箇所は、間違いなく出雲軍の重要な機密の一つ。いま、比良鳥は出雲を裏切っているも同然のことをしていた。しかし、呪いが働く気配はなかった。


「なるほど――うむ、いい知らせです」


 杼甫子は比良鳥の話に合わせて何度もうなずき、絵地図をじっと覗きこんでいた。


 それから、二人は、砦の攻略方法についても話した。


 幾月もの間、自分を悩ませた恐怖が取り除かれたと思うと、比良鳥の口は軽くなった。


「今、砦を守っているのは石玖王いしくおうです。御存知でしょうか、石玖王は石見国の主で……」


「その王の名はよく知っています。出雲一との噂もある戦上手ですね――」


「はい。石玖王なら、背後の山に目を光らせることは忘れないでしょう。あの方は豪快にして、用心深い方ですから――。あの方が守っているうちは、山からであれ、忍び寄るのはやめたほうがよろしいかと思います」


「なるほど――では、その王はいつ出雲に戻られるのですか?」


「砦を守る軍は、一年ごとに交代します。石玖王が任に就いたのは去年の夏ですから――」


「今年の夏までは、砦にいるということですね。石玖王の次に任に就くのは誰ですか?」


「そこまでは――。石玖王に代わるのですから、戦の経験が豊富な方だと思いますが……」


「しかし、石玖王よりは格下になるということですね。石玖王の軍は、出雲一を誇る精鋭なのですから――そうでしょう?」


 杼甫子は何度かうなずき、感慨深そうに一度口を閉じた。それから――。


「それにしても……大和の術者の力は、なかなかですね――」


 杼甫子は苦笑して、比良鳥の周りを見ている。


 比良鳥は、はっと思い出した。自分が呪い持ちだと忘れるほど、巫女にかけられた呪いは、まったく影をひそめていた。


「それはもう、はい――ここへ来て本当によかった……。ここに来るまで、私は死ぬまで呪いにおかされ、一生救われることはないだろうと思っていました」


「そうでしょう? 出雲がすべて正しいわけでも、すべて優れているわけでもないのです。あなたがこれまでかしずいたものは決して出雲だけのものではなく、他の国にもあるのです。おわかりでしょう?」


「はい、本当に――」


 胸の底からほっとして、笑みをこぼした。その時だった。


 じっ――――。何かが焼け焦げるような音がした。なぜか気になって、びくりとすると、比良鳥はその音がどこで鳴ったのかを探そうと、周囲を目で追った。すると――。比良鳥は、目を見開いた。自分を囲んで座る大和の術者たちが手にする円鏡が、はじめと比べると、すっかり様相を変えていた。比良鳥の姿をくっきりと写していた鏡面は真っ黒になり、そのうえ、じっじっと音を立てて少しずつ焼き切られて、削れていた。


「……うう、う」


 よく見れば、四人の術者たちは、いずれも苦悶の表情を浮かべていて、まぶたを閉じ、懸命に歯をくいしばっている。


 何かがおかしい。これは、あやうい――。


 比良鳥の中で、警鐘が鳴った。


「これは――」


 意見を求めようと顔を向けたのは、杼甫子だった。


 杼甫子は、笑っていた。しかし、それを見つめた比良鳥の背がぞっと冷たくなるような、不気味な笑顔だった。


「――いったでしょう? あなたがこれまでかしずいたものは、決して出雲だけのものではないと――。出雲に呪いがあるのなら、大和にも、同じものがあるかもしれませんよ?」


 その瞬間、ぱしん、と音が響き、真っ黒になった鏡の一つに亀裂が入った。割れた鏡はそれだけでなく、ぱしん、ぱしん――! と、鋭い物音が次々に続く。


 比良鳥は、自分の身に異変を感じ始めた。


「で、あ……! おあああああ! 目が熱い、目が……!」


 焦げた鏡のように、自分の目まで焼かれた気がした。


 そして、目の前が真っ暗になる。それから二度と、比良鳥の目は光を感じられなくなった。


 比良鳥は、そこにいるはずの男へ、渾身の力を込めて怒鳴った。


「おのれ……騙したなああああ!」


 そこにいる杼甫子の気配は、まだ笑っている。


「騙してはいません。出雲でそなたがかけられた呪いは、たしかに消えたのです」


「しかし……!」


 目は、すでに物が見えなくなっている。比良鳥はそれを信じなかったが、杼甫子は涼しげに答えた。


「耳は聞こえているでしょう? 喉も無事です」


 たしかに、その通りだった。比良鳥が出雲でかけられたのは、目と、耳と、喉が使えなくなる呪いだ。黙りこんだ比良鳥へ、杼甫子は現実を突きつけた。


「実をいうと、出雲の呪いは特別で、たしかに解けないのだそうですよ。だから、術者たちは〈呪いの向き〉を変えたようです。つまり――次はそなたに、こちらの呪いがかかりました。今後、一度でも大和を裏切ろうとすれば、そなたは耳と脚を失います」


 比良鳥は、拳をわななかせた。


「耳と、脚を――? ――卑怯者めが! 陥れるような真似をして……いったい誰がおまえに命じたのだ!? 邇々芸様ではないだろう! いったい誰が……! この野郎――!」


 血が上り、杼甫子に掴みかかってやろうと、比良鳥は膝を立てた。しかし――。


 この男を痛めつけてやる――! すぐにでも飛び乗って、腹と背を蹴飛ばしてやる――! 脚は、力がこもって熱くなっていたはずだった。しかし、すぐにずきんと痛み、そうかと思うと、感覚が遠のいていく。


「ああ、あっ、ああ――!」


(このままでは、脚の力を失う――。動けなくなる――立てなくなる!)


 たちまち恐怖が生まれて、その恐怖は、比良鳥の身体の中をくまなく流れる血を凍りつかせる。


 比良鳥が大人しくなると、杼甫子の気配は同情するようにいった。


「あなたは実に聞き分けのない方ですね? すでに呪いがかかっているといったでしょう?」


 そのからかうような口調は、比良鳥にとって悔しくて、腹立たしくてたまらなかった。比良鳥は、光を失った目にじわりと涙を浮かばせた。


「いったいこれは、誰の命令です? 邇々芸様ではないはずだ……邇々芸様では――。あの方は戦に頼らず、まずは御考えを巡らせる素晴らしい王者だ。あの方が、このような酷い真似をするなどない。邇々芸様ではない――」


 長年仕えた大国主や、生まれ故郷を捨てようと思うほど、邇々芸という異国の王子は、比良鳥にとって特別だった。


 さめざめと邇々芸の名をつぶやく比良鳥に、杼甫子は失笑をこぼした。


「それも、先ほどいったはずです。邇々芸様は、今がその時だと判断すれば、一切の情けを捨てる方です」


 杼甫子は、惚れ惚れと主の才覚を讃えた。


「極刑を科すことも、跡形もなく消し去ることも、あの方が身に備えた王者の才覚の一つです。すべては、理想のために――さあ、あの方のなさる国造りに、共に加わりましょう?」






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