序、白の幻鳥 (1)



 一年前、遠賀――。


 夕餉の粥を炊く温かな煙が、浜里を包み込む夕時。大国主は出雲軍の野営を離れて、阿多族の浜里にある神殿にこもっていた。


 しだいに薄暗くなる舘の中で、大国主は武人らしい張りのある背中を丸め、あぐらをかいた膝に頬杖をつく。


 大国主の背後には腹心の部下が座し、前には、若い青年が姿勢よくあぐらをかいていた。その青年は、出雲一の力をもつ事代ことしろで、彼は、うなだれる大国主とは裏腹に、大国主から決して目を逸らそうとしなかった。


 何度目かのため息の後で、大国主は低い声を出した。


「――間違いないのか」


「おそらく――」


 事代の青年、高比古は答える。高比古の背後には、巫女の衣装に身を包む娘、日女ひるめが正座をしている。娘とはいえ、日女に年頃の娘らしい可憐な雰囲気は皆無。高比古から目配せを受けると、亡霊か何かのような冷笑を浮かべて、そっと手のひらを差し出した。そこには、指ほどの太さをした金色の筒が乗っていた。


「それは?」


「水浴びをしている隙に、彼の衣服を探りました。その際に、帯の内側から出てきたものです」


 高比古は、日女の手の上から金の筒をつまみとる。


 そして、大国主に向き直ると、ぱちん、と音を立てて金の筒の蓋を開けた。すると――。指の太さしかない筒の中から、奇妙な煙が一気に溢れた。いや、それは煙ではなく、ほのかな煌めきを含んだ霧だった。ちらちらと輝く霧は、すぐさま暗い虚空に、大きな鳥の形を得ていく。翼は広く、悠に人の手幅を越えていた。純白の羽といい、金色にも見える鮮やかな黄色の足といい――突然現れた不思議な鳥は、神が天上から遣わした聖なる使者とうそぶかれても納得するほど、神秘的な姿をしていた。


 薄暗い舘の中、目の前で翼を広げた純白の鳥を、大国主は、獲物を狙うかのような目でじっと見据えた。


「これは、いったいなんだ、高比古」


「おれも、よくわかりません。――光が外へ漏れるとまずいので、この鳥は、いったん仕舞います」


 淡々というと、高比古は手にしていた金の筒の蓋をぱちんと閉める。すると――煙が小さな筒に吸い込まれていくように鳥は姿を消し、一度か二度、まばたきをするかしないかのうちに、薄暗い舘には再び影が戻った。


 大国主の背後に座す安曇あずみが、小声でいった。


「高比古、説明しろ。いまの鳥は、いったいなんだ」


 大国主と安曇の二人から問い詰められると、高比古は、手の中で閉じた金の筒を床の上にことりと置く。それから、腰に下げた小袋から、からからに乾いた草の蔓と花を取り出すと、金の筒に並べて置いた。


「それは?」


「この草と花のどちらも、狭霧が浚われた時に、野営の奥に広がる森に残っていたものです。そして、このどちらも、おれが見たことのない草と花です」


「見たことがないとは、どういうことだ? 一見、珍しいものには見えないが――」


「いいえ。普通、草にも花にも、風や石にも、なんらかの意思があるものです。しかし、この花と草には、それがないのです」


「意思――? それはなんだ。人と同じように、花や草も物事を思ったり、考えたりするというのか? 人ではないものの声を聴く事代は、常日頃それを聴いていると――?」


「それは、そうですが、それとまったく同じではありません。――おれがいう意思というのは、何かをしたいと欲する望みのようなものです。たとえば、草なら、日の光を浴びたいという願い、土に根を張りたいという願い、風なら、狭いところを出て、自由に動ける開けた場所へ流れていきたいという願い。ふつう、どんなものにもそういう意思があるものです。しかし、この草花と、いまの鳥には、それがないのです」


「と、いうことは、つまり――?」


 大国主の背後から高比古を見つめる安曇の眉根が、そっと寄せられた。


「どういうことだ。一人の男の命運を左右することだ。生半可な見立てでは――」


「わかっています。結論からいうと、この鳥も、草も、花も、出雲でつくられたものではありません」


「いい切れるのか?」


 高比古を問い詰める安曇は、友人を庇う最後の手立てにすがるようだった。高比古は、ゆっくりとうなずく。


「間違いありません。――この草も花も鳥も、いわば幻で、見せかけの命です。狭霧は、邇々芸ににぎという大和の王子に浚われた際に、その王子の母親が、なんらかの霊威をもつ術者だと言ったと聞いています。邇々芸の母親――、つまり、大和の女王は、こういう影の命をつくり、操るのでしょう。ここにある花や、草、鳥――これらに共通してあるのは、創造主、つまり、大和の女王に使役されるがままに動く言いなりの力だけです。花と草は、おれが見つけた時にはすでに命令を取り下げられていて、動きませんでした。彼が隠していたこの鳥を見つけて、初めておれは、動いている姿を見たのです。――わかったのは、これが、幻だということです。出雲でつくられたものではありません」


「いい切れるんだな」


 念を押す安曇へ、高比古は冷笑を向けた。


「はい。出雲の技には、大地の息吹や、生き物における血のようなものが流れていますが、これらにはそれがありません」


「その幻は、おまえに操れるのか。例えば、ここで――大国主の目の前で消せるか?」


「はい、難なく。幻とは、まやかしです。信じなければ意味を成しません。この程度の幻など、跡形もなく風に散らすことができるでしょう。おれだけでなくほかの事代たちにも、巫女――日女にも、たやすいことです」


 わずかのよどみもなく高比古はいい、うなずく。そして、口もとに暗い笑みを浮かべた。


「しかし、そうしないほうが賢明です」


「それは、なぜだ?」


「こちらも、これを使うべきだと思うからです」


 少し顎を引いて、高比古は、真正面で背を丸める大国主をじっと見つめた。


「これは、彼の帯に戻してはいかがでしょうか。無くなったと気づけば、彼は焦り、脅えるでしょう。手負いの獣を捕えるのが厄介なのと同じく、混乱した男を捕えるのは、いささか面倒です」


「――奪っておく必要はないのだな?」


「ありません。しょせん幻です」


「――わかった。そうしろ」


 大国主から許しを得ると、高比古は床の上の金筒を指でつまみ上げ、背後で控える日女へと手渡した。受け取ると、日女は静かに膝を立てて舘を出ていく。その金筒を、もとの場所へと戻しにいくのだ。彼――長年、大国主の従者として仕えてきた、比良鳥ひらとりという名の男の帯の裏へと――。


 日女が神殿を去り、そこに残ったのが大国主と安曇、高比古の三人だけになると、大国主は、いっそう深いため息をついた。


「……なぜだ、比良鳥――。身内に裏切られるのは、悲しいなあ――」


 ひと睨みで部下たちをかしずかせる華のある目は閉じられ、表情は、失意で暗く沈んでいた。しかし――しばらくすると、武王のまぶたは開かれていく。その時、瞳には殺意と呼ぶべき光が宿っていた。


「――奴は、おれがこの手で始末する。明朝、刑場をつくり、引き出せ」


 大国主がしたのは、死罪のりだった。しかし、高比古は軽く目を伏せた。


「いずれ殺すのであれば、彦名様にゆだねてはいかがでしょうか。おそらく彦名様なら、殺すなというでしょう。――おれも、同じ意見です」


「殺すな? なぜだ」


「泳がせるべきだからです。彼が出雲を追放されたら、助けを請う相手は大和です。そのために、彼は、もっとも手っ取り早い道をたどるでしょう。たとえば、瀬戸の道を――」


「ふ、ん――」


 大国主は再び目を閉じ、太い首をぐるりと回した。それから、横顔を向けて、うつむいた。


「――任せる。好きにしろ」


 それは、許しだった。


「御意」


 高比古は薄笑いを浮かべて、両手を床につき、頭を下げた。






 出雲軍にいた裏切り者の存在が明らかになったのは、大国主の娘、狭霧が、大和の賊に浚われたせいだった。そうでなければ説明がつかない内々の知らせを、敵が手に入れていたと発覚したからだ。


 そうとわかると、日女はすぐに裏切り者を見つけてみせた。


「向こうの方角で、意識が動いた――。脅えている――ふふっ」


 みずから裏切り者へ死を与えようとした大国主と肩を並べるほど、日女がその男を探す目つきには、殺意と呼べるものがあった。いや、むしろ、日女のほうは、報復を喜んでいる風だった。


「出雲の女神は、甘くない。男王に背く者を、女神はお嫌いだ。声が聴こえるよ。裏切り者を決して許すなと、殺せ、殺せと……。高比古様、こちらへ。脅えの気配は、こちらです――」


 裏切り者を見つけるのは、簡単だった。そして――。


 そいつの片づけを、どうするべきか――。


 彦名から高比古のもとへその沙汰が下りたのは、大国主がそれを許した翌朝の早朝のことだった。






 出雲軍が遠賀に駐留していた頃、高比古は、狭霧の守り人として同じ天幕で寝泊りをしていた。


 まだ夜も明けきらぬ朝の星空の下、夜露に濡れる草むらを通って、日女はその天幕まで、高比古を起こしにやってきた。


「高比古様――。彦名様が、神野くまのにお着きになられました。これから、大巫女と話をなさるとか」


 少し大きめの天幕の中、高比古と隣り合って眠る狭霧は、まだ寝入っていた。狭霧に話を聞かれてはまずいと、高比古は日女が立つ天幕の入り口まで出ていって、声をひそめた。


「――わかった。おまえは、これから大国主のもとへいくのか?」


「はい。彦名様のお声をお伝えする依り代として――」


「なら、沙汰が下りたら知らせに来い。おれは、狭霧のそばを離れられない」


「かしこまりました」






 その、少し後のこと。彦名の許しを得ると、日女は、高比古と連れ添って裏切り者のもとへ出向いた。そして二人は、その場で、赤穢あかえの契りという神事をおこなった。


 それは、術をかけられる者自身の血を仲立ちにしておこなわれる誓いで、呪いと呼んで然るべきものだった。


 赤穢の契り――。それは、〈赤穢〉、つまり、自分の身をくまなく流れる血への誓いだ。


 自分は、今後一生、出雲を裏切ることはないと――。


 もしも誓いを破ったならば、その時は、自分の身体の半分を失うと――。


 身体の半分というのは、目と、耳と、喉のことだ。誓いを破った瞬間に、術をかけられた者は、物を見る目の力と、音を聞く耳の力と、言葉を話す口の力を、すべて失うことになっていた――。












 ぞくり――。自分の身体を流れる血のめぐりの音を聞いたと思うなり、比良鳥は背筋が寒くなった。


 長年仕えた、出雲という国が関わるあらゆる場所から追い払われることになった、その朝から、比良鳥は、自分の身を流れる血がやたらと冷たく感じて仕方なかった。


(寒い……)


 汗と土で汚れた頬を動かして、手の甲を見下ろす。そこには、巫女が刃でつけた傷がまだ残っていた。神事に先だって、その巫女、日女は、比良鳥の手の甲に盛り上がった血の管をわざと断ち切り、血を吹き出させた。もちろんそれは痛かったし、体内から血を失っていく喪失感は、恐ろしかった。


 しかし、なにより比良鳥の目に焼き付いているのは、目の前で血を流す男に向かって、顔色一つ変えずに微笑み続けた若い巫女の顔だった。


 言霊ことだまと呼ばれる文言を唱えきり、神事が山を越えると、日女は比良鳥を見つめてこういった。


「おまえの身からほとばしる血に、今後、二度と出雲を裏切ることはないと誓いを立てよ。もし、おまえが出雲に刃を向けたり、出雲を陥れようと不義のことを喋ったりすれば、その時、おまえは身体の半分を失う。おまえの目は光を失い、耳は音を失い、喉は声を失うだろう。おまえは、人と関わることのできぬ獣となって、野をさすらう。――わかったな?」


 その時のことを思い出すだけで、比良鳥は指が冷えた。心の臓が動いて、血がどく、どくと音を立てるたびに、身体から体温が奪われていく感覚が蘇り、巫女がかけた呪いが身体中に染みている幻が浮かんで、目の前が真っ暗になった。


(落ちつけ――! ほら、もうすぐだ……)


 遠賀を出てから、まともな食事はとっていなかった。


 疲れた足を引きずって森を抜け、川に沿って海を目指し、南下しながら、ひたすら迎えが来るのを待った。出雲軍の野営を追い出されてすぐに天へ放っておいた、幻の鳥が戻ってくるのを――。


 比良鳥の旅が終わったのは、ふた月ほど後のことだった。


 筑紫の南にあると伝え聞いた日向ひむか隼人族の港にたどり着くと、帰りを待ちわびた白の鳥が、風に乗って下りてくる。


「助かった……私はここだ! 戻ってこい、ここだ!」


 衆目を気にせずに大声をあげ、長旅の果てにぼろ布になった袖を大きく振って、腕の中に純白の鳥を迎え入れた。純白の大鳥が腕の中に舞い降りると、比良鳥はすぐさま鳥の脚の間を探した。金色にも見える細い脚の間には、三本目の脚にも見える金色の筒が下がっていた。


 時を争うように、その筒に手を伸ばした。そこに、書簡が入っていると知っていたからだ。


 土で汚れた指先で金の筒を開けて、中から丸まった樹皮を取り出す。そこには、朱色の印がついていた。それは、大和の女王の名代として諸国を行き来する王子、邇々芸の印だ。


 それは、身分の証。邇々芸の客人としてその人のもとに迎え入れられるために、必要なものだった。


(よかった、あの方は、私を見放さなかった――!)


 薄い樹の皮をつぶさないように丁寧に拳の中に包みこみ、比良鳥はその場にひざまずき、泣き崩れた。



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