番外、賢王の宮
須佐乃男の離宮を頂く、賢王の膝元、
山道は、点在する山里を繋いで続き、くねっていた。緑の葉で天井を丸く覆われた道を、安曇は、従者とともに馬で駆けた。賢王に、申し開きをしにいくためだ。
狭霧が、高比古を夫に選んでから、三日後のことだった。
さらさらと流れる清流のそばに建つ須佐乃男の離宮を訪れると、老王は、苦笑して安曇を迎え入れる。それから、人払いをした舘の中で向かい合うなり、開口一番に嫌味をいった。
「
安曇は、無言で顎を軽く引いた。老王が言った言葉に、間違いなかったからだ。
安曇がこうして山道を駆けて来たのは、杵築で起きたことを、彦名や他の面々に伝える前に、事と次第を話しておくためだった。
「昨日ここへ送った使者は、着いていたようですね――」
「ああ。聞いた。狭霧が、夫に高比古を選んだと――」
老齢とはいえ、若き日の猛者ぶりがしのばれる大柄の肩を揺らし、あぐらをかいた膝に
「えらく急だな。狭霧は、大和へ向かう使者になる気でいると思ったが。もしくは、そうすべきと思うようになると――」
老王は苦笑していた。だが、皺に覆われた目は、安曇を睨んでいた。
「誰が狭霧をそそのかした? ――おまえの仕業か?」
いい方は、今の状況を生んだのはおまえだろうと、安曇を責めていた。
安曇は目を伏せ、老王と自分の間にある床の木目を、じっと見つめた。
「もし私が何かしたとすれば、種を撒いただけです」
「種を? ――なぜ、そうした。おまえは、出雲を戦わせたいのか」
「狭霧が使者として大和へ出向いて、はたして本当に出雲と大和は繋がっていくのでしょうか――。出雲と大和が相容れる姿は――いえ、東西で領土を広げている大和という国がそれで納得する姿は、私には想像がつきません」
安曇は慎重に告げたが、須佐乃男は眉をぴくりとさせ、安曇から目をそむけるように横顔を向けた。
「想像がつかないだと? おまえが想像できなくては、誰もできんな。――つまりは、おまえの力不足だ。想像のつかないものを想像して、現実にするのが、上に立つ者がするべきことだろうが? おまえは出雲の、和睦の道を閉ざしたということだ」
ふう――と、須佐乃男が長いため息をつく間、安曇はじっと耐えていた。
こんな風に、この男から厳しい言葉を投げつけられるのは、身を切られるように苦しかった。ひと月ほど前に、この男が血相を変えて自分のもとへ怒鳴りこんできた日からは――。
須佐乃男は、忌々しげに眉をひそめていた。だが、大きなため息を吐ききると、それ以上苦言を続けることはなかった。
須佐乃男は鼻で笑うようにして、ちらりと安曇へ目を向けた。
「しかし、まあ。話を聞けば、高比古には、ようやったと褒めるしかないか――。あの石頭の
「親殺し、ですか」
安曇は顔をあげて、須佐乃男の表情を追った。
この老王は、時たま意表を突く言葉で物事を例える。
高比古が狭霧を娶ったことが、どうして「親殺し」という言葉に繋がるのか――。
意味はわからなかったが、この男がでたらめな言葉を吐くことがないということは、身をもってよく知っていた。
須佐乃男は、上座に置かれた脇息に肘をついて姿勢を崩しつつ、館の小窓を見上げた。小窓の隙間からは舘の外に立つ木の葉の緑色が覗いていて、夏風にさやと揺れていた。
「ああ、そうだとも。高比古の中では、父親は
くっ――。喉を鳴らすようにして笑うと、須佐乃男は、その奇妙な笑顔で安曇をまっすぐに見つめた。
「
安曇は、あぐらをかいた膝に乗せた手のひらを強張らせながら、ゆっくりと息を吸い、老王の目をじっと見つめ返した。
「――狭霧が高比古のそばにつけば、杵築に
「杵築に、政を引きこむ? 意宇が許すか?」
「力の掟を理解しているなら、応じるでしょう。杵築は実政を司り、意宇は、そのお目付け役――長老会の居場所にするという手もあります」
「長老会と杵築が離れないか」
「長老会に狭霧が混じるか、仲立ちになれば――」
「――狭霧か。なんでもかんでも狭霧というのは、感心せんな。いまのところ、おまえがいう狭霧の名は、なんでもできる呪いの言葉のようだ。それは、あの子に背負わせすぎているし、おまえがあの子に夢を見ているともいえる」
須佐乃男は安曇を見て笑い、首を傾げた。
「おまえに、一つ助言しよう。杵築に力が集まるのに反感を持たせないためには、それを当然と思わせねばならない。早々に、次の王は高比古と狭霧の子にすると決めろ。そうすれば、杵築に血筋という力を印象付けていける」
「――はい」
安曇は粛然とうなずいた。――いま老王がいったのと、同じ意見だったからだ。
すんなりと受け入れた安曇を、須佐乃男は笑った。
「理由を訊かんのか? なぜ力の掟を無視するのかと――なぜ、出雲にはないはずの王の血筋をつくっていくのか、と」
「――はい」
安曇は、ゆっくりとうなずく。それを須佐乃男は、満足そうに見つめた。それから、再び目を逸らして、小窓の向こうで揺れ動く青葉を眺めた。
「力の掟、か――。そもそも、力の掟を定めたり、王都を二つに分けたりしたのは、かつての出雲が、八つの国が集まってできたものだからだ。八国すべての若者の中から、連国を束ねるに相応しい才をもつ若者を選んで王とし、また、王が力をもちすぎないようにするために、武と政の中枢を分け、王を二人置くようになった。――しかし、それは昔のことで、その心得は力の掟として人に浸透しているし、いまや人は、誰しもが自分は出雲の民だと思っている。彦名と穴持は、二つの都を作るにふさわしいほど真逆だったから、この仕組みがうまく働いたが、わしが王の頃は、ほとんど一人で二つの都を治めていた。――普通、そうなるはずだ。わしは当時、王都を一つにしたほうが良いのではないかと思ったが、古から受け継いだ伝統を壊すだけの決断ができなかった。――だが、今はできる」
ゆっくりと息継ぎをして、老王は、決意を口にした。
「王座を一つにせよ。出雲はすでに八連国の集まりではなく、一つの大国に育っている。王となった者が、自分の育った小国に遠慮をすることもないだろう。生粋の出雲の民ではない高比古と、王の子である狭霧では、それも起こりようがない」
「はい――」
「わしと穴持は、須勢理を介して親子となった。わしら二人が二代に渡って王になり、その血を継ぐ狭霧も、いまや、限りなく王座に近い場所にいる。三代も続けば、百年近くになろうか――。出雲には、王の血筋という考え方が間違いなく存在するようになる。実在するものをないと言いはるほうが、世は混乱する。――混乱は、不和のもとだ」
「はい――」
「どのみち、急げ。わしが生きているうちに道筋をつくれ。そうせねば、変わる時に世は乱れる」
「はい――」
老王がいったのは、どれも、安曇がそうではないかと気付いたものの迷っていたことだった。
安曇は、膝に置いていた手のひらを床へつけると、頭を垂れた。目の前で大国の将来を憂う老王の言葉を聞いているうちに、老王の意思をすべて受け入れたくなり、両手をついてひれ伏したくなった。静かに頭を下げる安曇に、須佐乃男は笑って、目を細めた。
「穏やかな、いい顔をするようになったな。――それでいい。おまえの目は、前より、ずっと遠くまで見通せるようになった」
安曇が須佐乃男のもとを訪れたのは、狭霧と高比古のことを伝えるのと、もう一つ別の用事があった。
さやさやと葉が揺れる音をしばらく聞いてから、安曇は姿勢を正して、目を伏せた。
「ここへ来たのは、あなたから知恵を授かりたかったからです。高比古をどうするべきか、教えていただけませんか」
「高比古を?」
「はい。狭霧を手に入れて、一旦は落ち着いたように見えるのですが、まだ、少し――今も、もがいているように見える時があります。もう少しなんです――もう少し皮が剥ければ、彼は今よりずっと良くなる。でも、私には、どうしてやるのがいいのかがわからず――」
須佐乃男は、にやりと笑った。
「人に、ただ訊こうとするな。先に、おまえの考えを話せ」
「それは――」
安曇は、言葉を濁した。老王に話せるほど自分の考えがまとまっていれば、わざわざここまで来ていないというものだ。自分の考えに、自信はなかった。
「――正直、わかりません。高比古は、出雲で生きていく理由を探していました。それは、彼がもとは出雲の民ではなく、出雲に一生を捧げることに理由が必要だったからです。狭霧を得た今、出雲は高比古にとって家族の住む場所となりました。理由を得て落ち着いたように見えるのですが――それだけでは、ただの男です。彼に求められているのは、ただの男ではなく王者の器です。彼を王者として仕上げていくために、今後どうすればいいのか――」
ふう――。肩で息をつく安曇に、須佐乃男は失笑した。
「おまえの考えとやらは、それだけか? 浅いなあ、安曇。――あいつが、出雲に生きる理由を探していただけなら、家族をつくる相手は他の娘でもよかったはずだろう? 妻を得て生きるだけなら、すでに娶っていた筒乃雄の孫でもよかろうが」
老王の返答を、安曇は不思議に思った。
なぜそんな簡単なことをこの老王が訊くのか、わからなくなった。
「一生添い遂げる妻が、誰でもよいというわけではないでしょう。高比古は色恋に器用なほうではありませんし――一旦狭霧が欲しいと思ったなら、たとえ手に入らなくても、一生胸のどこかで想って生きたでしょう」
「自分のことを話すようにあいつのことを話すな?」
須佐乃男が吹き出し、大きな肩を揺らして笑った。
安曇は、ひそかに眉をひそめた。馬鹿にされたと思ったからだ。
男は、須佐乃男や、主の大国主のように、器用な者ばかりではない。高比古のように、そうはできない男がいてもおかしくはない――自分のように。どちらかといえばそっちが普通で、珍しいのは、大勢の妃を難なく侍らせた須佐乃男や大国主のほうだ。
だが、安曇を見つめる須佐乃男の眼差しは鋭く、そのように簡単な話をしている風ではなかった。
「そもそもの部分が違うな、安曇。色恋だの、人の想いだの、そのように測りにくいものだけを見て、なんとなく結論づけているようでは、とうていあいつを理解できんよ?」
目の奥にぎらりとした光を宿すと、老王はその目で、じっと安曇を見つめた。
「――安曇、おまえに、人の動かし方を教えてやろう。人を動かすにはな、その者の最も欲しいものと、最も嫌がるものを先に見極めろ。高比古の場合、あいつが何を欲しがって、何に脅えていたのか。それをまず考えるべきだ。――さて、なんだと思う?」
「高比古が何を欲しがって、何に脅えていたか、ですか――?」
安曇は、目をしばたかせた。
「高比古が欲しがっていたものなら、居場所では――。力を発揮できる場所、必要とされる場所……」
今、須佐乃男は、みずから培った大事な知恵の一つを、伝授しようとしている。その知恵の大きさに圧倒されながら、目をかけている青年の姿を思い出し、懸命に考えるが――。安曇を見つめる須佐乃男の目はぴくりとも揺れず、変わらなかった。
「ふむ、居場所――。では、脅えるものは?」
「居場所を失うこと……」
「それでは、浅い。『居場所の有無』、つまり、答えは『居場所』となり、一つしかないだろう。一つだけでは、相手を操る方法が限られてしまう」
脇息に肘を預けて楽な姿勢をとりながら、老王は一度、安曇の表情を覗くように黙り、それからまた唇を開いた。
「では、あいつがなぜ、彦名より穴持に傾倒したと思う?」
「それは――」
高比古の主は、意宇の王、彦名だ。嵐の後の海に漂っていた高比古を救い、出雲へ連れてきたのも彦名という話で、つまり、高比古にとって彦名は命の恩人でもある。しかし、高比古は、策士として従軍するようになると、彦名よりも大国主の考え方に同調し、惹かれていった。
「わしはまず、そこが気になった。そして、考えてみたが――それは、あいつが欲しがっていたものが、父親だからだよ。安曇、あいつはな、自分好みの父親が欲しかったんだ」
「――父親――それが、穴持様……」
須佐乃男はにやりと笑って、種明かしを続ける。口調は、ゆっくりだった。
「ああ。親の庇護を知らぬあいつが、あの、父親向きではない穴持という男に、自分に一番相応しい父親として、父親の姿を見ていたのだ。あいつが、そうと自覚しているかどうかは知らんぞ? だが、そうだろう。――面白いものだな。あれほど父親らしくない男が、ある者にとっては、一番相応しい父親と見られるとは――人の縁とは、難しいものだ」
安曇は、頭の中が真っ白になっていく気分だった。老王の言葉を聞くたびに、目をかけてきた青年のこれまでの行動が、すっと一つにまとまっていく気がしてたまらなかった。
「――で、では、高比古が脅えていたものとは……」
「自分だろう」
「自分? 彼自身ということでしょうか」
「ああ。あいつは、自分を嫌っていたと思うぞ。自分のもつ力、自分の生い立ち、すべてだ。だからわしは宗像で、あいつに、あいつに気性がそっくりの娘を添わせた。脅えの対象を許してやることで、今後、脅えずに済むようにだ。あいつは自分を受け入れられるようになり、脅えから解放されたことで、外に目を向けられるようになった。狭霧から夫として大切にされれば、今後、自分を愛せるようになるだろう。そして、父親のほうも――父親と思っていた穴持を一度であれ裏切る行為は、成人儀礼と意味合いは同じだ。あいつはこれで、穴持を本当の父にすることもできた。あいつは今、満足しているはずだよ。あいつは今後、父の後を継ぐに相応しい者になろうともがくだろう。幸い、あいつは飲み込みが早くて、疲れを知らない剛健な若者だ。――あいつがもがいていると見えるなら、そういうことだから、放っておけばいい」
唇を開けて呆然とする安曇に、須佐乃男は小さく笑い、話を続けた。
「人を伸ばすには、いろいろな方法があるが――。恐怖であれ、焦りであれ、満足であれ、その者が直面していることの理由と、その先を読んでやらねばならんよ。だから、おまえが高比古を育てたいというなら、影で心配するのではなく、あいつに力の差を見せつけて、あいつにとっての父親役を演じてやればいい。男の見本を見せてやれば、あいつは自力で追いついてくる。わしは宗像でそうしたし、結果はまずまずだったと思うが――。まあいい、おまえが思うように試せ」
須佐乃男は話を終わらせたが、安曇がなかば震えるようにその目を見つめ続けるので、須佐乃男は苦笑して、話を戻した。
「なにかいいたそうだな?」
(いいたいこと?)
いいたいことは、たくさんあった。
安曇と高比古は、共に戦場へ出かけて、何か月も旅をした仲だ。武王の副と意宇側の名代ということで、二人の関わりは深く、寝る間も惜しんで戦況を話し、戦策を練ることもあった。
対して、須佐乃男が高比古と話す機会は、宗像へ共に出かけるまでほとんどなかったはずだ。しかも、話を聞けば、宗像へ出かけてすぐに須佐乃男は、高比古を育てるべき若者として見極めて、手を打っていたことになる。
この男の頭は、いったいどうなっているのだ――。
安曇は、目の前にいる老王の天性の才能に脅えた。その才を甘く見て、ろくに考えもせずに、これまでこの男のそばに居続けたことも、恐ろしく思った。
ひざに置いた手のひらが、緊張の汗で湿っていった。
「――あなたは、全ての人に対して、欲しがるものと嫌うものを見極めていらっしゃるのですか」
「ああ、育てようと思った奴は、すべてな」
「――それで、人を伸ばすとすれば、どうやって……」
「満足させたほうがよければ、満足させる。人というものは、居心地がよくなれば、そのよさを保とうと努めるものだ。脅えさせたほうがよければ、恐怖を与えて縛りつけるか、追い立てる。――戦の策を立てるのと同じだろう? 戦も政も人の育て方も何もかも、突き詰めれば、本質はそう変わらないものだ」
「――穴持様と、彦名様の場合は……」
「あの二人は、焦らせた。あの二人は、焦るのが好きだ。あの二人は真逆の存在だが、二人が同位にいても、均衡がとれているように見えるだろう? それは、あの二人が不均衡を好むからだ」
「――では、私の場合は……」
「おまえは、満足させた」
「私の、満足――?」
「おまえが欲しいのは、
「――枷?」
「おまえの才能は、枷があることで発揮される。穴持という枷、多忙という枷、役目という枷。おまえは枷が好きなようだな」
「私が――?」
ぽかんと口を開ける安曇に、須佐乃男はくすりと笑った。
「そろそろ、好みを変えるべきだとは思わんか。穴持から独り立ちしろ。――おまえが甘やかすから、穴持もなかなか独り立ちできん」
だが、すぐに今の言葉をなかったことにした。
「――冗談だ。自分のこともわからん奴に、いちいちいわん。――好きにしろ」
須佐の宮殿を出て、杵築へ向かう帰り道。安曇は、ろくに手綱を操ることができなかった。
(須佐乃男がいったのは、本当に冗談だったのだろうか――)
最後、老王は「冗談だ」といったが、真実だということは、自分でよくわかっていた。その証に、安曇は、自分が嫌がるほうのものを老王へ尋ねることができなかった。
(あの人は、やろうと思えば、いつでも私を脅せたということか。痛めつけて、焦らせることもできたのだ――それを……。いや、何度かはすでにしていただろう。あの人が「答えが一つでは足りない」といったのは、そういうことだ。二つ必要なのは、二つを絡めて使って、手数を増やすためだ――)
山道をいく馬上で、安曇はため息をついた。それから、つくづくと思った。
(――本当に、化け物のような人だな。――それにしても、枷、か。たしかに、嫌いではないかもしれない)
そのように考えが行き着くと、安曇は自分を嘲笑うように苦笑した。
(あの人の前では、私は幼子のようなものだな。――自分好みの父親を継げる国、か――)
須佐乃男に怒鳴られ、それほど目をかけられていたのだと気づき、老王との確執に決別すべきだと決めた日から、安曇は、須佐乃男を継ごうと思うようになっていた。
須佐乃男という、出雲が生んだ天才の知恵を受け継いでいくべきだ――と。
しかし、今日、須佐乃男からされた話からすると、ただ受け継ごうと受け入れるだけでは足りないのだと痛感した。
(父殺し、か――)
高比古が狭霧を妻にする際に、彼は、大国主と争う覚悟をした。須佐乃男は、それを「父殺しの覚悟」と呼んだ。尊敬した父を一瞬であれ下してやると思わなければ、越えようがなく、父と子の関係にはなりきれないというのだ。
(――そういうことか。私は、まだまだだな――)
須佐乃男を越えてやるとは、さっぱり思えなかった。むしろ今は、須佐乃男から与えられる敗北感を爽快だと感じている。だが、それも、少し前には味わえなかったものだ。
(――まあいい。急がずにいこう。私の「父」は、どうせ大きい)
土の香りのする風を鼻先に感じて、行く手の景色に目を向けた。日が傾き、山中の小道に射し込む光は、薄暗く翳り始めている。
山中で日が暮れてしまえば、先へ進むのも危うい。
背後から、従者の一人が進言した。
「安曇様、急ぎましょう。闇が来る前に近くの里へ寄らねば――」
「そうだな」
安曇は手綱を握り直して、馬の腹を沓で軽く蹴る。
まずは、目の前のことをこなさなければ――。やり遂げなければいけないことは、山積みだった。
「これから先のことを、確かめておこう。ここからなら、明朝には杵築へ戻れる。戻ったら、そのまま意宇へいくから、皆そのつもりでいろ。穴持様なら、話せばすぐに動いてくださる。狭霧と高比古は、たぶん毎日覚悟している。それから――一人は、留守役を頼む。里へ帰っている兵すべてへ、来春の招集を告げさせろ。いま杵築に詰めている兵たちも、順番に家族のもとへ戻してやれ。間違いなく、来春には何かが動く。それから――」
狭霧と高比古のことや、意宇と長老会のこと、杵築が従える兵たちと、その暮らしのこと、武具のことなど――。背後をついてくる従者へひと通り指示を伝えると、部下たちは、「はっ」と凛々しい返事で応えた。
うなずいて微笑み、安曇は、前方へと目を戻した。
すると、目の前で葉が枝から落ちた。ぬるい風に乗ってひらりと落ちていく葉は、他の葉より一足先に黄色く色あせていた。
(もう夏が終わるのか――。今から春までが勝負だ。いまのうちに支度をして――)
きゅっと奥歯を噛みしめて、ちらちらと落ちゆく黄色い落ち葉から目をそらす。
そして、再び前方を見据えた。
先へ進まなければ――。これまで足踏みをしていた分、一歩でも先へ――。
しかし――。逸る気持ちを静かに宥め、わざとゆっくりと手綱を操った。
(駄目だ、焦るな。――冷静に。みずからの動きを封じて、状況をはるか天から俯瞰せよ――。それが、私の役目だ)
落ち着こうと、これまで自分にいい聞かせてきた言葉を、胸で繰り返す。
その反面、胸のどこかで、そうか、私は焦るのが嫌いなのだな――と老王の声を思い出し、自分を嘲笑うように小さく笑った。
(人が欲しがるものと、嫌がるもの。人の操り方、か――)
須佐乃男とした会話を、噛んで咀嚼するように思い返しながら――。安曇とその一行は、のどかな山道に、軽快な蹄の音を響かせていった。
.......end
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