6話:石の名
番外、塔の上の小嵐
出雲の岬には、大海原を見張るための、そして、船に陸地の在りかを知らせるための灯台が建っている。中でも、一番大きなやぐらは五層建てに組まれていて、高さは出雲随一を誇る。
海の道の行き来して、方々に出かける越の者に訊いても、ほかの国で、これほど背の高い
だから、人は噂をした。その高殿の頂きは、この世で最も天に近い場所なのだと――。
岬の高殿の頂きで見張りを任されるのは、潮見役の中でも特別な一族だ。とくに目が良く、遥か彼方の海の上に浮かぶ漁り船の動き方までを、陸地から見通すことができる。
だが今、今日の見張り番を任された爺たちは、無理やりてっぺんから引きずり降ろされて、一つ下のやぐらに押し込まれていた。そうさせたのは、武王、大国主だ。
許しなくば勝手に立ち入ることのできない高見台に我が物顔で踏み込むと、大国主はそこで大の字になって寝転び、頭上を見上げては文句をいった。
「なんなんだ、この青空は。忌々しい――」
その日の空は青く澄み渡り、天からは真夏らしい煌々とした陽射しが降り注いでいた。
「腹が立つ空だよ。雷でも鳴ればいいのに――」
ちっと舌打ちをして目を閉じると、大国主は、やぐらの手すりに背を預けて座る青年へ、いらいらと声をかけた。
「おい、安曇――。さっきの狭霧を見たかよ? 狭霧がおれを見た目は、敵を見るようだったなあ? あいつは、おれに従うより、高比古を守るほうを選んだ。それが叶うなら、おれを討っても構わないって顔を、あいつはしていた。――おれは、狭霧の父親だぞ? なのに――!」
安曇は、苦笑して宥めた。
「それは、あなたが先に、高比古を殺しても構わないという顔をしたからです。狭霧はあなたを止めようとして、それで――」
「でも、相手はおれだぞ? 父親だぞ! あいつはおれの娘のくせに――!」
「
「いうな、わかってる!」
不機嫌に怒鳴ったものの、大国主は小声でごにょごにょと付け加えた。
「……いや、正直まだわからんが、そんな気はしている。わかろうとはしているが――」
はあ――。大きく息を吐くと、青空を隠すように目の上で腕を交差させて、大国主はぶつぶつといった。
「なあ――高比古は、狭霧を奪ったと思うか」
「どういう意味です?」
「どういう意味もなにも、狭霧はあいつに……ああ、腹が立つ。あのくそがきが、よりによって狭霧に手を出しやがって――! あの様子じゃ、あいつは、夜のうちに狭霧に触れたよな。触れて――ああ、あのくそがきが!」
頭に血が上ったかと思えば少し落ち着き、そうかと思えば、また憤り――。
岬の高殿の頂きでは、ここへやって来てからずっと同じことが繰り返されていて、そのたびに安曇は、気長に応えていた。だが、今の問いには眉根をひそめて、苦言を呈した。
「……そういうことを想像なさるのは、おやめなさい。狭霧にも失礼です」
「おれだってしたくない! だが……」
ふいと横を向くと、大国主は再び、いらいらと天を見上げる。
そこには、天の彼方まで突き抜けるような夏の青空が広がっている。
いくら嫌がったところで、雲も風も、空の色も、大国主が望むようには変わらなかった。
「青空が、腹立たしいなあ――。なぜ、こんなに晴れているんだ。すこやかな青空など、見たくない。雷雲に覆われてしまえばいいんだ」
天から目を逸らすように寝返りをうつ主の姿に、安曇は苦笑した。
「前にもここで、同じことをおっしゃいましたよね」
そして、昔のことを語った。
「あの日も、爽やかないい日和でした。あなたは、今のように青空に恨み事をいっていて――」
それは、六年前の出来事だった。
大国主が愛した妃、須勢理が死んでから、十日後のことだった。
「穴持様、お食事です。――少しくらい、何かものを口に入れたほうが」
若かりし日の大国主、穴持が、岬の高殿へ初めて足を踏み入れた時――。得もいえぬ勢いで乗り込んだせいで、見張りの爺たちは穴持の形相を見ただけで、悲鳴をあげて逃げ出した。
そうして人を遠ざけた高殿の頂きに居座った穴持が、そこに大の字に寝転んでから、九日が経った。
九日目の昼過ぎ。安曇が、芋の葉に包んだ蒸し餅と、水壺を入れた籠を背負って、頂きへ続く梯子を上りつめた時も、若い武王は四肢を投げ出して、目の上に手のひらを置いていた。
そこには、高い場所を吹く風がぴゅうと唸っていて、鼻をすする音も混じっていた。
鼻を鳴らしているのは、自分の手で顔を隠す穴持だ。それを知っていたので、安曇は、わざわざ主の泣き顔を覗きこもうとはしなかった。
穴持の足の向こうには、蹴飛ばされたように転がった籠があった。
それは、昨日安曇がここまで運んだものだが、そばに寄って中身を確かめると、安曇は苦笑した。
「よかった――。少しはお食べになったんですね」
安堵した安曇に、穴持は低い声で唸るように文句をいった。
「……もう、飯などもってくるな。あると、食いたくなるだろうが」
「食べたくなるなら、元気な証です。本当に食べたくないなら、食べなければいいのです」
「おまえまで、おれの邪魔をするのか――」
顔の上を覆う自分の手のひらを少しずらすと、穴持は忌々しげに舌打ちした。
「――今日は朝から、腹が立つ空だな」
「空? そうですか。綺麗な空です。雲ひとつなく、彼方まで澄んで――」
「いやな空だ。おれは、こんな晴れた空なんか見たくない」
高い場所を吹き抜ける風は少々強いものの、その日は風もほとんどなく、さんさんと光が降り注ぐいい日和だった。
しかし、穴持は青空に向かって、呪いの言葉を吐くようにいった。
「空など、分厚い黒雲に覆われて、大木を一薙ぎにするような稲妻が落ちればよいのだ。大雨が降りしきればよいのだ。雨の水を集めて、川は濁流となり、民たちは、いずれ来る大水に脅えるがよいのだ……! 須勢理が死んだ時から、おれはそう願っているのに――おれは、雲すら呼べんのか――!」
「穴持様――」
ははっ。乾いた声で笑い、穴持はみずからを嘲った。
「なにが武王だ、大国主だ――。おれは、すべてを守れると思っていた。おれに従う兵すべて、出雲の民すべて、出雲の国土も、すべてだ。でも――どうして、一番守りたかったものが守れないんだ。どうして、女一人を――。おれはしょせん、なにも守れない男だ」
「……穴持様、もう、それくらいにしましょう」
背負っていた籠をやぐらの隅に置くと、そこで安曇は姿勢よくあぐらをかき、中央で寝転ぶ主を見つめた。
「お知らせしたいことがあります。先ほど、
「石土が?」
「はい。――石土王は、あなたを心配しておいでです。杵築の離宮に滞在していた父君ともども雲宮を訪れて、あなたのご様子をお尋ねになり――」
そこで、安曇はふうと息を吐いて肩を落とした。
「実は、須勢理様の舘もご覧になり、驚いていらっしゃいました――。先日、あなたが焼いてしまった舘の残骸を……」
穴持は、鼻で笑った。
「は? おれの心配? 黒こげになった柱を見て、おれが、とうとう狂ったんじゃないかと心配してるというわけか? ――あいつらが心配しているのは、武王の座だろう。おれが須佐乃男に選ばれなければ、石土も候補の一人だったんだから……!」
声を大きくして一息に言い切ると、穴持は、ぴんと張っていた糸が切れたように、ぼんやりとした。
「石土か……。石土は、いい奴だ。あいつなら、武王になれるだろうなあ」
「――むりです、穴持様」
安曇は、すぐさま首を横に振った。
「石土王には野心がありません。
「だが、石玖は出来不出来にうるさい。おれがこんな風では、あいつは、さっさとおれを見限って、自分の息子こそはといい出すだろう」
穴持はふいっと横を向き、安曇から顔を隠した。
「石土が武王になれば、後ろに石玖がつく。石玖に任せれば、問題はないよ。あいつらは、おれに代わって出雲を率いていく――」
「――穴持様、あなたは、もう……」
「もう、なんだ――。おれは、もう戦えない。牙が抜けた。――須勢理がいないんだ。もう、二度とあいつに会えないんだ――」
憤慨していたと思えばうなだれて、そうかと思えば目元を覆って、穴持はさめざめとした涙声で、安曇に尋ね続けた。
「安曇、いったいなぜだ? なぜ、須勢理は死んだ? あいつは、賢い女だ。自分がこの世を去ったらおれがこうなることくらい、わかったろう? それなのに、どうしてあいつは、おれを一人で置いていったんだ――。おれは、あいつを止めた。我が子など、あいつの身代わりにできるならいくらでも斬ってやるといった。でも、あいつは、させなかった――。なぜだ――。子なんか要らん。子なんか、いくらいても、須勢理一人には代えられないじゃないか――」
「穴持様――」
安曇は、咎めるように少し語尾を強くした。
「須勢理様が、あのように、みずからお命を断つような真似をなさったのは、あなたを守るためだそうです。あなたと、ひいては出雲を守るためだったと、
「神野の大巫女!? おまえは、あいつらを信じるのか!」
穴持はがばっと起き上がり、目を血走らせて安曇を睨んだ。
「あいつらは、自分たちに都合のいい作り事しかいわない。出雲のためだと? あいつらが、出雲を思うものか。おまえにはわからないか? あいつらは、自分達に都合のいい幻ばかり見ている。あいつらの目は、そこにあるものを何も見ない。人として必要なものすら、見ようとしない――! 悪しき霊に祟られるだ? 悪霊は、あいつらじゃないか。あいつらなんか……!」
がん! 穴持が思い切り床を蹴りつけると、高さのあるやぐらはぐらりと揺れる。強風に煽られても崩れないようにと、岬の高殿は、もともと風に揺れるように造られている。とはいえ、頂きで力任せに床や柱を蹴りつけ続けては、このまま建っていられるかどうかも危うい。
一歩身を乗り出し、安曇は暴れる主を一喝した。
「落ち着いてください! やぐらが崩れます! ――もう、あなたは……」
安曇は、呆れてため息をついた。
「それで、いったいどうなさるおつもりです? いつまで駄々をこねている気なんですか。本気で武王の座を退く気ですか」
だが、穴持も負けてはいない。けしかけるようないい方をされると、獣が牙を見せつけるように、ぎろりと睨みつけた。
「本気じゃなければ、そんな大それたことをおれがいうと思うか?」
「それは、まあ――」
気合負けをした風に、安曇の声は小さくなる。
部下が大人しくなると、穴持はその場にあぐらをかき、大きな背中を力なく丸めた。
「強い者が上に立つ――。おれを武王の座に就かせたのは、力の掟だよ。上にいる奴が力を失えば、当然、上にはいられなくなる。――おれには、もう無理だ。須勢理がいなければ、一国の頂きに立ち続ける力など漲らない――。武王など、務まりようがない……。もう、疲れた……」
「穴持様――」
安曇は、ため息をつく。
それから、塞ぎこむ主の姿からそっと目を逸らして、海の彼方を見つめた。
穴持と問答を続けるうちに、いつのまにか空の色は夕時の色に移っていた。真昼と同じく、雲ひとつない爽やかな空には、赤々と空を染め上げる夕焼けが、どこまでも続いていた。
「日が暮れます――。おれは一旦、雲宮に帰ります」
怒りの矛先を向け、泣きつき、問答をして、脅した腹心の部下が、蹴飛ばされた籠に荷を仕舞い、帰り支度を始めると、穴持は文句をいった。
「――おれを、このまま置いていくのか」
籠を背負いつつ、安曇は呆れたふうにいった。
「置いていきますよ。いい大人なんだから、平気でしょう? それだけ元気なら、大丈夫です。――おれは、忙しいんです。あなたの代わりにしなければいけないことが、たくさんありますから」
「――薄情者」
「なんとでもいってください。――また、明朝来ますから」
安曇は本音らしい文句混じりにいうが、最後には温かく微笑む。
そして、ここまで上ってきた梯子を伝って、地上へ下りていった。
安曇が去り、闇が訪れ、再びそこに一人になると、穴持は星空を見上げて、亡き妻を想った。
「星、か――」
死んだ人がいったいどこへ向かうのか、穴持は知らなかった。
異国では、王の祖先が太陽の神だとか、王を祭る神官の祖先が海から来たとか、闇の神を崇めているとか、その国に住まう民が揃って崇める唯一の神がいるという。
だが、出雲では、祀られる神は里や地方によって異なっていた。山地では、とある山を神に見立てて祭り、海際ではまた別のものを祭り――石を祭る里もあれば、剣を祭る里もあった。
それぞれの里で崇める存在がまちまちなのと同じく、死者が暮らす世界がどこにあるのかというのも、考え方はまちまちだった。
死者は星に姿を変えるという者もいれば、海の彼方へ飛んでいくという者もいる。山奥に不老長寿の果実が咲き乱れる不思議な谷があり、そこで暮らすという者もいたし、そうではなくて、地下深い世界に死者が住まう闇の国があると、死の国を魔物の国として畏れる者もいた。天高い場所にのぼって、美しい世界で永遠に幸せに暮らすという者もいた。
深くため息をつき、穴持は肩を落とした。
(海の彼方に、山奥に、地下深い場所に、天か――。いったい、どこにいけばおまえに会えるんだ、須勢理――)
愛する妻の身体が冷たくなってから九日が過ぎても、寝ても覚めても、穴持は、死者の世界に向かうことばかりを考えた。
雲宮を飛び出て、岬の高殿に乗り込んだのも、ここが一番、天に近い場所にあるという噂を聞いたからだ。だが――。
「もう、駄目だよ、須勢理――。力が消えた。もう、牙が抜けた……」
一人きりの静寂の中で本音の泣きごとをいっても、答える妻の声はない。
夜空の星はきらきらと瞬いていたが、この星が自分だと穴持に知らせる星はなかったし、天から下りてくる不思議な力もなかった。
独りになった――。
壮麗な星空の中でぽつりと思うと、涙は止まらなかった。
「やはり、おれはもう無理だ。人を導くなど、無理だ。もう、戦えない……」
これまでのように、大勢を率いている自分が想像つかなかった。
そばに誰もいないのをいいことに夜通し涙ぐんでいるうちに、穴持は、決意した。
もう、おれは戦えない――。
武王の位を退こう。退いたら、死者の国の入り口を探す旅に出よう――と。
明け方まで寝つけなかったせいで、空がかなり明るくなっても、穴持はまだ寝入っていた。
ぎっ、ぎっという耳慣れた音を聞きつけて目を覚まし、腫れた目をこすりつつぼんやりとしていると、朝の明るい陽射しに似合う、部下の声がした。
「穴持様、お食事です」
梯子縄を鳴らしていたのは、そこを上がってきた安曇だった。
穴持は、夜中から考えを変えていなかった。
「ちょうどいい。おまえに大事な話がある。実は、おれは武王の位を――」
だが――。岬の高殿の頂きに姿を現した安曇は、今朝に限って、一人ではなかった。
今朝の安曇は、籠ではなく、女童を背負っていた。広帯で安曇の背中にくくりつけられていた
「須勢理……?」
安曇と一緒にやってきた女童は、亡き妻と似ていた。
何度も目をしばたかせてから、やっと穴持は、女童の正体に気づいた。
それは、須勢理との間にできた娘だ。齢は、十になったはずだった。
「狭霧か――」
須勢理と暮らすその女童には、妻に会いに舘へいくと必ず出会うので、顔も存在も、もちろん穴持は知っている。だが、その女童と過ごした記憶は、ほとんどなかった。
しかし、あらためて目の前にしてみると――穴持は、身体の芯が震えたのを感じた。
初めて、子という存在を覚えた気分だった。
子というものの存在の大きさと異質さに、思わず目元を覆って、穴持は声を震えさせた。
「須勢理が、この世に残っていた――。おれには、まだ守れるものがあった……」
「今さら、なにをおっしゃっているんですか、穴持様」
安曇は、苦笑していた。それから、みずから運んで連れてきた狭霧の背を押して、穴持の真正面に立たせた。
「狭霧も、あの日からずっと泣き暮らしていたんです。でも、あなたが塞ぎこんでいると話をすると、今日は一緒に来るといって――」
安曇から背を押されるものの、狭霧は、その場から動こうとしなかった。
だから、穴持は微笑んで、自分のそばに呼び寄せた。
「来いよ、狭霧――こっちへおいで。抱かせてくれ」
命じられるままに、狭霧はおずおずと木板を踏んでやって来る。
幼い娘を膝の上に乗せ、か細い身体を抱きしめた。
恋に落ちた娘を抱きしめた覚えは多々あったが、これほどか細い女童の身体を抱きしめるのは、初めてのことだった。身体の細さよりなにより、抱きしめた時にこみ上げる得もいえぬ安堵は、これまで覚えたどれとも違っていた。
それは、折れそうなほど細いのに、ほかの何より温かくて、重いものだった。
女ではなく、「娘」なんだ――。それを、実感した。
(細い身体だ――。そういえば、おれはこいつに、母親の最期を看取らせてやることができなかった。結局おれが、最後まで須勢理を独り占めにした。こいつも母親に会いたかったろうに、須勢理も、狭霧に最後の別れを告げたかったろうに――。それどころか、舘まで焼いてしまった。おれにとっては気に食わない場所でも、こいつにとっては、母親との思い出がつまった大切な場所だったろうに――おれは、駄目な父親だな)
泣き出したい気分だった。
そして、父親になりたいという光が、胸に生まれた。
娘の細い身体を不器用にぎゅっと抱きしめると、懸命に優しい声をつくって、慰めた。
「かあさまが死んだのは、寂しいな、狭霧――。これからは、とうさまと暮らしていこうな――。いつまでも泣くなよ。泣いても、かあさまは蘇らない。おまえが泣き暮らしている姿をきっと遠い場所で見て、かあさまは、悲しむ――」
自分にいい聞かせるように、腕の中の娘に告げた。でも――。娘は、父親よりずっと強かった。抱きしめて包み込むつもりが、背中に回ったか細い腕は、手に余るほど大きな父親の背中を、ぎゅっと抱き返した。
「そんなこと、わかってるよ! ――とうさまも、ずっと泣いてちゃ駄目だよ? 安曇も、ほかの人もみんな、とうさまが宮に戻って来るのを待ってるよ。狭霧も――ね? ほら、元気にならなくちゃ。かあさまも、今頃、心配しているよ――!」
父親らしく慰めてやらねば、父親らしく――と思ったものの、生まれて初めて父親らしくやってみようと試した穴持よりも、むしろ、娘のほうが、娘らしさにかけてはよっぽど長けていた。
狭霧は、わりに元気だった。
そこで、穴持は初めて気づいた。
いつも自分のそばにいて世話を焼いていた安曇が、今回に限って自分のそばを離れたのは、狭霧のそばについて、慰めるためだったと。父親らしい真似ができない自分の代わりに、狭霧をここまで立ち直らせていたのだと――。
「悪かった、狭霧――」
狭霧の肩を抱いてうなだれているうちに、妻を失った悲しみとは、べつの涙がこみ上げた。
娘の前では涙を見せるまいと、穴持は安曇を探して、命じた。
「安曇、頼む。狭霧を、雲宮に戻せ――」
「――はい。それで……」
安曇は従順にうなずくが、主をじっと見つめる目は、緊張していた。
その不安げな目と目を合わせて、穴持は微笑んだ。
長い付き合いのある部下の考えることなど、手に取るようにわかった。狭霧を連れてきたのは、安曇にとって、主を立ち直らせるための大きな賭けだったろう。
(賭けは、おまえの勝ちだよ。いつも通り、おまえの勝ちだ――)
そういうことがすっと浮かぶほど頭が冴えていることにも、穴持は安堵した。
「後で、おれも戻る。上からの景色をもう少し眺めたら、戻る」
自分を気遣う安曇を宥めようと、「もう大丈夫だ、安心しろ」と目配せを送ることも、穴持は忘れなかった。
「はい――」
安曇が、眉根をひそめて微笑んだ。
そして、それ以上は言葉を交わすことなく、安曇は再び狭霧を背負い、梯子を伝って下りていった。
再び一人になった高殿から、穴持は国土を見渡した。
東の果てから西の果てまで続くなだらかな海岸線に、出雲一の軍港、
(大地だ――おれは、武王。この出雲の、大地の守り神だ――)
士気と呼べるものは、まだ思い出せなかった。だが、きっと今に思い出せると、自分を信じることはできるようになっていた。
(そういえば、須佐乃男がいっていたな。男が最後に得る牙は、自分一人では生やすことができないのだと。誰か、守るべき者が現れた時に、初めて得られるのだと――。男の牙、か――)
天を見上げて、海の果てを見つめて、そして、山々を見渡して――。大地の至るところへ向かって、穴持は亡き妻に語りかけた。
(須勢理、おまえが今、どこにいるのかわからないが――おれは、おまえのために生きるよ。おまえの代わりに狭霧を守り、出雲を守る。ここで血と泥にまみれて生きるおれを、見守れ――)
全てのものをざっと茜色に包みこむような、美しい夕焼け空が広がっていた。
岬の高殿の頂きで、まだ大国主はごろりと横になっていた。
茜色に染まる天をぼんやりと見上げて、ぽつりとつぶやいた。
「日が暮れるな」
応えた安曇も、壁際で肘をついて寝転んでいた。
「ええ。いったい、いつまでここにいるつもりですか」
呆れたようないい方だったので、大国主は六年前の記憶をたどって、嫌味をいった。
「おまえは、帰らんのか。役に立たないおれの代わりに、雲宮ですることがたんまりあるんだろう?」
安曇は、寂しげに笑った。
「いえ――。あの時の私の役目は、あなたの代わりに、狭霧の父親役を務めることでした。でも、もう――。今、狭霧に父親は要りません。あの子は、私より、高比古といたいと望むでしょう」
「高比古と?」
はん、と大国主は鼻で笑った。
「なんだ、おまえも用済みか」
「ええ、あなたと同じく」
安曇は、苦笑した。
「なら、どうする。ここで、このまま過ごすか」
「たまには、こういう晩もいいでしょう。せっかくですから、酒でももって来させましょうか。――祝いましょう。狭霧は今日、大人になりました」
「――そんな祝い、したくもない」
大国主がすねたようにそっぽを向くので、安曇はくすりと笑う。
それから、やぐらの手すりから顔を出して下方を覗くと、下で待つ従者に、酒と食事をもってくるように命じた。
高殿の頂きに酒が届けられる頃、天からは赤みを帯びた光が消えていた。
美しい葡萄色に染まった宵の空に、一番星が煌めく。
主が手にする盃に酒を注ぎつつ、安曇は笑った。
「どうです、穴持様。晴れた空もいいでしょう?」
「いい? どこがだ。――腹が立つ空だよ」
文句をいいはしたが、大国主は海の彼方の澄んだ空を見つめて、ぼんやりとしていた。
そして、注がれたばかりの酒を、ちびりと飲んだ。
.......end
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