番外2、冬の匂い (3)
その後も、妙な物音が聴こえるたびに、高比古はびくっと外の方角を向いた。
「気になる―――」
「ごめんね、とうさまが」
「……ほんとだよ。まあ、いいや。話でもしようか」
その時、高比古と狭霧は隣り合って寝転んで、頬杖をついていた。
夜になり、舘の中は、火皿の灯かりがちらちらとほのかな明かりを与えるだけの薄暗がりになっていた。館の外の寒さを思わせる強い風の音が時おりびゅうっと鳴って、かたかたと木窓を揺らす。
でも、眠るにはまだ早いし、久しぶりに会った嬉しさで、眠気も二人には訪れそうになかった。
「うん、どんな話?」
「なんでも。なにか話したいことや、聞きたいことがあれば」
そういって、高比古は狭霧の肩に腕を回す。
「別に、前みたいな喧嘩でもいいぞ。なにかあればだが」
優しい仕草や、ぐるりと肩を包む頼もしい腕の重みにうっとりとしつつも、狭霧はあごのあたりに人差し指を添えて、はたと考え込んでしまった。
「聞きたいこと?」
狭霧はひとつ、それを思い出していた。そして、思い出すやいなや、ひどい渋面になっていく。
突然不機嫌に黙った狭霧を、高比古は不思議そうに見下ろした。
「ん、どうした?」
「……実はね、いつか聞いてみたかったことが、あるの」
「うん? なんだ」
「あのね、高比古。――心依姫にも、こんなふうに優しくしてた?」
狭霧がぼそりとつぶやくと、高比古は急に息を詰まらせたように、げほっと挙動不審な咳をした。
「……な、なにを訊きたいわけだ?」
高比古は、決まりが悪そうにうろたえ始めた。それを見るなり、狭霧の機嫌はますます悪くなる。
「どうしてそんなに脅えるのよ」
「どうしてって……妙なことを訊くから。――心依? 正直、あんまり、覚えてない。上の空だったから――。でも、優しくはしたと思う。なるべく……」
狭霧の高比古を見る目が、じとーっと険しくなった。
「抱きしめた?」
「……何度かは」
「くちづけた?」
「そりゃあ……たぶん――まあ」
「たくさん? じっくり?」
「なんで、そんなこと聞かれなくちゃならないんだよ」
うろたえていたが、そこまで話が進むと、高比古はむっと顔をしかめる。
でも、狭霧も引きさがらなかった。ぶすっとした渋面をつくると、さらに問い詰めた。
「答えたくないんだ?」
「普通、答えたくないだろう。……とりあえず、あんたを相手にするのとは、全然違ったと思うが――」
「どう違うの?」
「……もういいだろう?」
「どうしてよ、答えられるでしょう? 雪の匂いのことだって、高比古はきちんと説明できるくせに!」
「そりゃ、雪のことよりよっぽど答えにくい問いだからに決まってるじゃ……」
高比古はぶつぶつといった。
でも、いったんその話が始まってしまえば、狭霧の追及の手はやまなかった。
「じゃあ、
「桐瑚ぉ?」
素っ頓狂な声を出して、高比古がのけぞった。
逃げてしまいそうなので、追いかけるように、狭霧は少し身を乗り出す。
「桐瑚さんとは仲がよかったでしょう? そういえば桐瑚さんって、宗像にいる間は、何日もずっと高比古の寝所に泊ってたんだよね。……そういえば。そういえば、だけど、高比古が使ってた仮宿の寝床って、けっこう狭かったよね――。桐瑚さんと高比古、ものすごく近づいて寝てたんだね。というより、あんなに狭かったら、腕枕をするとかしていないと、一緒に眠れないよね――」
しだいに、狭霧の声は暗く沈んでいく。
高比古から目を逸らして、敷布の毛皮にうなだれるように伏した狭霧を見下ろして、高比古はやれやれというふうなため息をついた。
「あの、その……はあ」
でも、狭霧はそれが気に入らない。
「なにをため息ついてるのよ。ため息をつきたいのはわたしなのに!」
「ため息くらい、つかせろというか」
高比古は開き直ったふうにぶつぶつといった。
その態度が、ますます狭霧には許せなかった。狭霧はつい、ぐちぐちと文句をいった。
「この二年たらずで、高比古って三人も恋人がいたのね」
「三人って、あんたと、桐瑚と……心依まで入ってんのか? 桐瑚に関しては認めるが、心依は不可抗力というか……!」
「なによ、高比古の女たらし」
狭霧は、ぷんと横を向いてすねる。
高比古は、それには反論した。
「女たらしって、おれがか? ……おれだって、それができればどんなにいいか。なれるものなら、あんたのとうさまみたいになりたいっていうか……」
彼自身がそう望んでいないとはいえ、周りは、高比古が、狭霧だけでなく心依姫とも仲睦まじく過ごすべきだと願っているはずだ。そして、心依姫と狭霧だけでなく、さらに別の妃を娶って欲しいとも――。
そっぽを向いて、彼は本気の独り言をいったが。それを聞きつけた狭霧は、かっと頭に血が上ったふうに怒り出した。
「とうさまみたいにって……高比古、まだ奥様が欲しいの!?」
「そんなことは一言もいってない! ……ああ、もう。うるさいなあ」
結局、高比古は辟易というふうにぶつぶつといった。
それから――。苛々と怒る狭霧を見やると、高比古は一度、冷たい目をした。
「おれと関わった女が、三人? ……一人、忘れてないか。まだ、
日女というのは、
神野に仕える巫女は大勢いるが、その中でも、日女は高比古だけに仕えるといい切っていて、高比古とは魂を繋げ合う「形代の契り」というものを交わしている。
その巫女のことを思い出すと、高比古を見つめる狭霧の額には、たらりと汗が落ちていった。
息を飲んだ狭霧を見返す高比古の目は、いまや、目の奥が覗けないふうに冷たく凍っていた。その表情にも、狭霧は脅えた。
「どういうこと? 日女とも、なにかあったの?」
そういえば、神野で高比古と日女がその契りを交わしにいく時、日女はやたらと艶めかしい仕草で高比古を誘っていた。
これまでまったく考えたことがなかったが、狭霧は急に恐ろしくなった。
神野の契りというのは、いったいどんなことをするんだろうか。
もしかして、もしかして――?
脅えたふうに、狭霧の目は潤んでいった。
「形代の契りって、いったいなにをするの? もしかして、くちづけたり、なにかしたり……する?」
「だったら、どうする?」
狭霧をじっと見つめ返す高比古は、表情が読めない真顔をしていた。
狭霧と心を通じ合わせる前の彼に戻ってしまったようで、その表情にも、今の言葉にも、狭霧は脅えた。
でも。それほど時をおかずに、高比古の表情はもとに戻った。
「――うそだよ。あいつとはなにもない。あんたを少しいじめようと思ったんだよ。あんたが、おれをいじめるから」
ばつが悪そうに種明かしをすると、高比古は、狭霧の目もとにそっと指先を伸ばして、ほんの少しこぼれた涙をぬぐった。
「嫉妬されて悪い気はしないし、そういうあんたを見ていると、むしろ可愛いと思うが――。心依のことも、桐瑚のことも、今さらどうしようもないじゃないかよ」
高比古は、居心地悪そうに折衷案を口にした。
「もういいだろう? その時は、あんたとこういう仲じゃなかったんだし。だいたい、桐瑚の時も心依の時も、もっと優しくしてやれって、あんたがおれをけしかけてたくせに」
でも、そうやって高比古がもとに戻ると、狭霧は涙で目を潤ませたことを棚にあげて文句をいった。
「ごまかされた……」
「ごまかすだろ、そんなの」
それには、高比古も文句をいったが。
狭霧の嫉妬混じりの追求がひと通り済むと、次は、高比古がおずおずと尋ねた。
「あんたはどうなんだよ。あんただって、
狭霧はむっと眉をひそめて、すぐさまそれに応えた。
「
「――ほんと?」
高比古の顔が、嬉しそうにぱっと明るくなった。が、それは長くは続かない。
「そうよ。わたしがくちづけたことがあるのは、高比古と、
「……んだと?」
高比古の形相が変わった。それまで一方的に問い詰められたり、緊張したりしていたのが嘘のような険しい顔になると、少し起き上がって、狭霧の顔を高い位置から見下ろした。
「邇々芸? 大和の若王ってやつか? そいつが、あんたにそんな真似をしたってのか?」
「あ、あれ。いってなかったっけ」
次は、狭霧が慌てる番だ。
それまでとは立場が逆転したように、狭霧は目を泳がせながら、慎重に答えた。
「その、それは、でも、好きとかじゃなくて、嫌いだ嫌いだっていう感じので――」
「嫌いだ嫌いだ?」
「だから、その――高比古にお願いしたことがあったでしょう? その、あの……くちづけてって――。あれって、その時のことを忘れたくて……」
「ああ、あれか……」
忌々しげに、高比古は小さくつぶやいた。
「大和なんか、ぶっ潰してやるよ」
不穏な言葉を吐きつつ、高比古は手のひらを狭霧の頬に伸ばす。そして、高比古の目の奥を窺うようなおずおずとした狭霧の顔を、自分のほうに向かせた。
「そいつに触れられたのは……妙な真似をされたのは、唇だけか」
「うん……。あと、手の甲にもそういえば――」
「手の甲?」
すると、高比古は狭霧の手を取ってぎゅっと握りしめながら、自分の唇を狭霧の唇に重ね合わせる。
そのまま胸に抱きしめて寝転がると、いまのうちにといわんばかりに、高比古は問いを続けた。
「そういえば、盛耶には? なにもされなかったか?」
「うん、ない」
「……火悉海には?」
「ないよ――。ほんの少しの間、手をつないだけど」
「そうか」
ひと通り問いが済むと、高比古は、やれやれというふうにつぶやいた。
「……なんだか、緊張するもんだな。どれもこれも、おれが文句をいう筋合いはないと頭ではわかってるんだが。火悉海に嫁げとあんたにいってたのは、おれだったし」
「うん……緊張するよね。後ろめたいことはなんにもないのになあ――。お互いにね」
あの時のあれはどうだった? あの時は、何が起きた――?
過去は過去。でも、知りたいし、知ってしまうと嫉妬するし、切なくなるし、寂しくなる――。
秘密を探り合うように話を続けていると、時は恐ろしいほど早く過ぎて、まるで話し足りないというのに、身体だけが疲れを訴える。
いつか、狭霧は、頬をくたりと敷布にくっつけた。
すう、と寝息を立てはじめた狭霧に、高比古はみずからの腕で枕をつくった。
「眠い?」
「うん、眠い……。くたびれちゃった」
「朝早くに意宇を出て、ここまで来たんだもんな。……お疲れ様」
いたわりの言葉をかけると、高比古の手のひらは狭霧の黒髪に添えられ、さらなる眠りに誘うようにゆっくりと行き来をした。
「寝る?」
「……寝ていい?」
狭霧の声は、夢の世界に半分足を突っ込んだかのようにぼんやりとしていた。
高比古は、苦笑した。
「いちいち訊かなくても。いいよ」
「じゃあ、うん、寝る……」
「じゃあ、髪を撫でていてもいい?」
夢うつつの気分ながらも、狭霧は、優しい眼差しを感じた。そうして上を見上げると、自分をまっすぐに見つめてはにかむ、温かな表情を見つける。
目が合うと幸せな気分になっていき、狭霧はふわりと微笑んだ。
「髪を撫でてるって、ずっとこうしてくれるの?」
「ああ」
その間も、高比古は、さらり、さら……と狭霧の髪を撫でていた。優しい愛撫に微笑んで、狭霧はますます彼の肩に寄り添うように、温かな場所に頬をうずめた。
「なんだか、とってもいい夢が見られそう」
「……おれも」
「高比古も? どんな夢?」
「おれの、いい夢? そうだな……」
くすりと笑った高比古は、狭霧の耳元でつぶやいた。
「あんたを抱いてる夢かな。夢の中でも、こうしていたい」
高比古に抱きしめられながら、狭霧の鼻先には、ふわんと涼しげな香りが漂った。
それは、朝から夕方までの長い間外にいたせいで自分の肌や衣に染みついていた香りで、狭霧は、きっとそれが高比古のいう「冬の匂い」だと思った。
でも、寒風が似合うはずのその匂いは、いま、とても温かくぬるまっている。
その匂いは優しくて、温かくて、穏やかだが、なぜだか胸が締め付けられるように少し切ない。でも、その切なさを埋めるものは、狭霧のそばに余るほどあった。
高比古の衣の胸のあたりに頬を寄せて、人肌のぬくもりの中で心音を聞き、自分の髪をいとおしげに撫でる手のひらを感じて――。
雪を運ぶ冷たい寒風の香りだという冬の匂いは、狭霧を夢心地に浸らせてくれるほど幸せで、やはり狭霧は、冬の寒さを疎ましいとは思えなかった。
......end
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