番外2、冬の匂い (2)



 目指していた林に入ってしばらくすると、狭霧の目は、前方に現れた木々に吸い寄せられる。


 神領地の林には、ふしぎな霊威が宿ったかのような、ぐにゃりと曲がった木々が多かった。でも、そこに現れた林の木々は、ほとんどが天へ向かってまっすぐに伸びている。


 古い木もあれば、若い木もある。この林の木を使って炭を焼く山の民の手によって、手入れがなされていたからだ。


「あの木は?」


 その時、狭霧の目の前には、三本の木が並んでいた。


 どの木も同じくらいの太さで、冬空へ向かってまっすぐに立っている。


 それを見つけた時、狭霧には、橋にされた後の幻が浮かんだ。それほど、橋になる木材としてふさわしく見えた。


 里者たちは、ほうと息をした。阿夜那も、感嘆の声を漏らした。


「なるほど、いい木だ――。ほとんど手を入れなくても、このまま倒せば橋にできそうです」


「本当に。いい木が見つかりましたね? でも、伐った後で、ここから川まで運べるでしょうか」


 狭霧は来た道を振り返って、今いる場所と川辺との距離をたしかめる。すると、警護の武人たちが頼もしい笑顔を向けた。


「平気ですよ、姫様。これくらいの木なら、男が六人もいれば運べます」


「お任せください。我々武人は、戦地で急ごしらえの砦を建てることもあります。土木には慣れていますから」


「これは、頼もしい。では、みんな、この木を橋にいただこう。斧をもっている者は前へ! 急いで伐り倒そう!」





 そして、見る見るうちに三本の木は伐り倒され、集まった男たちの肩に担がれて水辺へ向かった。


 武人たちはたしかに匠仕事に慣れていて、手際良く声をかけて、里人たちを導いた。


「斜面に順番に並んで、木を少しずつ隣へ送れ。いいぞ、互いに声をかけろ!」


 木が伐られてから、水に浮かぶまではあっという間だった。


 木の端には縄がくくられ、木材はぷかり、ごろりと川を下りながら、川べりを歩いて里へ戻る男たちの手に引かれた。


 狭霧の一行も里者たちのそばを歩いたが、その道中はずっと阿夜那や里者たちから満面の笑顔を向けられて、感謝の言葉を浴びることになった。


「なんと御礼をいっていいのか――! これで、冬のうちに橋を架けることができます」


「いえ。わたしが神野くまのと話ができれば、もっと早く事は進んだのでしょうが……」


「神領地の木はみんな立派で、橋にするには曲がっていました。おかげさまで、いい木が手に入りましたよ。だいいち、待っているだけでは、橋はできっこありませんでした!」


 そして彼らは、川を渡ることのできる浅瀬へ一行を送り届けると、別れを惜しんだ。


「寒い中、ありがとうございました。今晩は我が里でお泊りになればいかがですか? 出湯を案内しますが……」


「いいえ、先を急ぎます。雪が積もったら、道が通れなくなりますから」


「そうですか……」


 別れの寂しい気配が漂う中、それを壊すように狭霧の手を引く者がいた。恵那だった。


「急ぎましょう、姫様。雲が――」


 恵那は、海の方角を見ていた。


 海際といっても、そこから海までは小さな丘を隔てている。


 海の色は見えなかったが、その上にかかる分厚い雲は、荒れた海を想像させるほど暗い色をしていた。






 冷たい川を渡ると、狭霧たちは馬を走らせた。


 そのうちにも、横から吹く風は一行を殴りつけるように強くなる。


「風が荒れてきましたね」


「うん……駅屋うまやか里で、風がやむのを待ったほうがいいかな」


「待っていたら、それこそ雪が降ってしまいますよ!」


 恵那は声を荒げたが、びゅうびゅうと吹きつける風は凍てつくように冷たくなっていく。ついには馬を走らせることが難しくなり、一行は、風に耐えるようにゆっくりと道をいった。


 あたりは暗くなりかけていた。


 冬の季節で、もともと日の入りが早いのに加えて、天はほとんどが分厚い雪雲で覆われている。太陽の光は、あっけなく失われていった。


「このまま雲宮にいくのは難しそうね。今夜、泊めてもらえる場所を探そう? このままじゃ、夜になってしまうわ。冷えてきたし、馬も弱ってしまう……」


 狭霧が寂しげに笑うと、恵那は馬上でうなだれた。


「雲宮までは、もうすこしなのに……」


 狭霧と恵那を風から守る壁になるように、武人たちは二人の風上にいた。そして彼らも、一行が無事に休める場所を探し始めた。


「残念ですが、我々もいまは、先に進もうとはいえません……。我々はなにより、あなたの御身が大事ですから。――休みましょう、姫様。無理をなさってはいけません」


「もうすぐ、杵築の都に一番近い里があるはずです。大丈夫です、姫様。道が雪に埋もれてしまっても、ここから雲宮までは目と鼻の先です。明日、明るくなったら雪の上を歩きましょう?」


 狭霧たちがいるその場所は、雲宮にかなり近いところにある。


 目的地のそばまで来ているのだから、狭霧は、いっそのことこのまま駆けていってしまいたかった。


 でも、雪が降り始めた暗がりの道を走るのは、とても危うい。自分だけならともかく、恵那や武人たちや、それから、狭霧を乗せて進む馬を、危ない目に遭わせるわけにはいかなかった。


 彼らの気遣いが身に染みると、狭霧は微笑んで、行く手を見つめた。


「うん、ありがとう……。あ、灯かりが見えるね。里はすぐそこよ。一夜の宿を、お願いしようね」


 風は雪をはらみはじめて、白く濁っていた。


 暗くなりゆく冬の宵風の向こうに、素朴な火明かりが見えていた。


 その灯かりをじっと見ているうちに、狭霧の唇はぽかんとひらいていく。


 灯かりは遠くから見ると一つに見えていたが、実は二つあって、そのうちの一つは少しずつ一行のもとへと近づいてきていた。


 それは、人の手に握られた小さな松明だった。


 その人は馬に乗り、粉雪に覆われ始めた冷たい道を、軽々と駆けてくる。


 馬は、寒風を避ける冬装束に着替えていて、その人も、立派な毛皮のおすいで身体を覆っていた。手綱を握る手も、革の手甲で覆われている。冬装束の隙間から覗くのは、雪の色に似た白い肌。笹の葉を彷彿させる、涼しげな目もと。そして、出雲風に結われた髪。


 やってくるのは、高比古だった。


 驚いて手綱を引き、馬の足を止めた狭霧のもとへ、高比古は馬を走らせてやって来た。それから、微笑した。


「おかえり」


「高比古……。どうしたの。どこかに、出かけるの」


 馬を走らせて、こんな寒風の中、雲宮を出ているなんて――。


 高比古は、どこかに呼び出されてしまったのだろうか。


 彼に会いに来たというのに、入れ違いになってしまうのだろうか――。


 寂しげに目を細めた狭霧に、高比古はぷっと吹き出した。


「迎えに来たんだよ。風が、あんたが来るって教えてくれたから。――こっちに乗れよ。あんたの馬は、疲れてるだろう」


 そういって高比古は、自分の前を示した。


 彼の馬につけられた鞍は少し大きめで、狭霧を前に乗せても、どうにかなりそうなものだった。





 狭霧を自分の前に乗せると、高比古は身にまとっていた毛皮の襲を広げて、ふわりと狭霧を包み込む。


 狭霧が高比古の馬に移るのを見届けると、恵那も武人たちも、ほっと笑った。


「では、高比古様。我々は先の里に泊って馬を休ませ、明日、雪が止んだら――」


「わかった。狭霧をありがとう」


 武人たちとのやり取りを済ませると、高比古は、胸もとに囲った狭霧に声をかけた。


「しがみついていろ。走るから」


「うん……」


 高比古の胸もとに頬を寄せて、いわれるとおりに、狭霧は襲の内側で腕を背中に回した。


 繊細な印象をもつせいか、はたから見ると、高比古の身体は華奢に見える。でも、いざ腕を回してみると、胴や胸は意外なほど逞しい。狭霧を囲って手綱を操る腕もそうだった。


 狭霧の腕が背中に回ったのをたしかめると、高比古は、二人の出発を見守る恵那たちへ目配せを送って、馬を走らせた。


「じゃあ」


 風には、雪が混じり始めていた。


 吹雪とも呼べる冷たい風に吹かれるたびに雪で白く覆われていく野道を、高比古の駆る馬は走り続ける。


 でも、そのあいだ狭霧は、吹雪のことも、蹄が土を蹴る振動のことも、何も気にならなかった。ただ、ぎゅっとしがみついた胸の広さや温かさに浸った。


 高比古も、そう見えた。


 時おり彼は狭霧に話しかけたが、その声は、吹雪の中で早駆けをしていることを感じさせないほど、ゆったりと落ち着いていた。


 器用に手綱を操りながら、高比古は自分にしがみつく狭霧の髪に顎で触れて、ふうと吐息した。


「あんたに、冬の匂いが染みついてる」


「冬の匂い?」


「冬の匂いっていうか、雪の匂いなのかな。風は雲より先に雪の匂いを帯びて、運ぶから。そういう風を浴びていれば、雪が降っていなくても、雪の匂いが身に染みるんだよ」


 高比古は、冬の匂いとやらを淡々と説明した。


 狭霧は、くすっと笑った。


 そういえば、さっき恵那は「事代ことしろだったら、いつ雪が降るかなどということはきっと見抜ける」と自信ありげにいっていた。その言葉通り、高比古は、普通の人より敏感に冬の香りだとか、そういうものを感じるのだろう。


 冷えた額を自分のもとに押しつけながら、高比古は狭霧をいたわった。


「すごく、冷えてる。寒かったろう?」


「ううん、今、とてもあったかいから、大丈夫」


 狭霧は、笑顔を浮かべた。


 朝からずっと寒風のもとにいたが、はじめから狭霧は、冬の寒さを疎んでいなかった。


 今となっては、その風がどれだけ冷たかったかということすら、思い出せなかった。








 高比古の住まいは、兵舎にある宿直兵のための棟にあった。


 しかし、狭霧を娶ってから、高比古のための舘が新しく建てられた。


 意宇で狭霧が使っている舘とちょうど同じくらいの大きさのその館は、兵舎の近くにあった。


 下男に馬を預けて、肩に積もった雪を振り払いつつその館に向かってみるものの、戸口を閉ざす薦を開けようとしていると、ちょうど背後から侍女がやってくる。


「おかえりなさいませ、高比古様。いま、火を入れますね」


 三人でやってきた侍女たちは、それぞれ手になにやらを運んでいた。


 二人に先だって舘に入り、火皿に火を灯し、高杯たかつきに食事を並べ、それから、運んできた炭を炭鉢に整えると、侍女たちは、寝床の支度を始める許しを乞った。


「支度をしてよろしいですか。後でまたお伺いしましょうか」


「今でいいよ」 


 答えを聞くと、三人の侍女は、隅に片づけられていた寝具を手際良く整えていく。


 見る見るうちに仕上がっていく寝床を眺めるうちに、狭霧は目を丸くした。


 そこにあった寝具は、見たこともないほど立派だった。綿入りの温かそうな掛け布は真新しく、大きい。そのうえ、敷布には、立派な毛皮までが重ねて敷かれた。


「ここ、寒いから」


 高比古は、笑い話をするようにいった。


「立派な寝床だろ? 昨日、大国主がここに届けるようにいったらしいんだ。ここの寝床をあんたも使うから、あんたが寒くないようにと極上のものを用意させたんだろうが――。あんたがここで寝ると思うと、腹が立って仕方がなかったんだろうな。おかげで今日は、とんでもなく不機嫌だった」


 おれは何も頼んでないし、いってもないのにと、高比古は肩をすくめて苦笑した。


「あんたが着いたと知らせがいったかもしれないし、今頃、また不機嫌になってるかもな。もしかしたら、そのうち、乗り込んでくるかも」


 高比古は、くすくすと笑った。


「明日、大国主のところへいこうか」


「いいわよ。いつもそんなに会わないもの」


「会いにいってやれよ。喜ぶから」


 それから、狭霧の背中を押して、舘の中へ進ませた。





 外にはすでに闇がいた。


「なんにもないだろ、ここ」


 自分のものになった新しい舘を見回して、高比古はいった。


「少し前までは宿舎にいて、周りに男が大勢いたから、なんだかんだと賑やかだったんだが。今は、静かすぎるくらいだ」


 たしかに、その舘はできたばかりというふうで、床も壁も真新しい。置かれているものも少なく、火皿や高杯や、ちょっとした調度類が、居心地悪そうに隅っこに並んでいるだけだった。


「それに、寒い。宿舎や里の粗末な住居だと、土間で床にじかに火を焚くから温かかったんだが、ここは――」


 隅にぽつんと置かれた炭鉢を寝床の前までもってくると、高比古は掛け布の端をあげて毛皮の上に座り、狭霧を隣に呼んだ。


「中に入れよ。寒いぞ」


「うん」


 炭はちりちりと燃えて、じんわりとした温かさを伝える。その様子を見つめながら、狭霧と高比古は肩を寄せ合って、綿入りの掛け布を肩にはおった。


「温かいが、寒い時期に寝床に入ると外に出られなくなって、することがなくなるな。……つまらなくないか」


「ううん、全然。なら、話をすればいいよ。話したいことなら、たくさんたまっているもの」


 にこりと笑んだ狭霧を見下ろして、高比古も小さく笑った。


「じゃあ、話せよ」


「うん。――でも、もしなにかあったほうがいいなら、わたしがものを運ぼうか? どんなものがいい? 壁掛け? それとも、遊ぶもの? 模擬戦の駒とか――」


「あんたの好きにしていいよ。おれは正直、あまり欲しいものがなくて」


「そうなの?」


 聞き返すと、高比古は、笑顔のままでふうと大きなため息をついた。


「あんたの爺様がいうには、おれは貧乏くさいんだそうだ」


「貧乏くさい?」


 高比古は思い出し笑いをした。


「おれは、贅沢にも、余計なものを持つことにも慣れていないんだそうだ。欲しければ奪い取ればいいし、誰がなんといおうが囲い込めばいいって、その時にいわれたよ。……だから、そうした」


 爽やかに笑う高比古の顔を、狭霧は見上げた。


「そうしたって?」


「あんたのことだよ。あんたが欲しかった。だから、大国主から奪い取った」


 その時、高比古は狭霧をじっと見下ろしていた。


「あんたは、おれが生まれてはじめて、別の奴から奪い取った宝だよ。あんたがいれば、ほかに欲しいものなんか、べつに――」


 眼差しは目を逸らせなくなるほど強くて、狭霧は、視えない腕で抱きしめられた気になった。


 そして、自分のもとへ囲い込むような腕が、狭霧のもとに降りてくる。


 高比古は狭霧を自分に寄り添わせて、頭の丸みや、背中を何度も撫でた。それから、耳もとで囁いた。


「会いたかった――」


「うん……」


「とても、会いたかった。やっと、会えた」


「うん――」


「……狭霧」


 そうして――。いつか、唇と唇が触れて、一度では足りなくて、何度か触れ合わせた。


 そして、ある時――。がたん。と、大きな音が舘の外で鳴った。


 びくっ、と身体を跳ねさせるようにして、高比古が狭霧を抱く手を止める。


 なにごとかというふうに高比古は耳を澄まし始めたが、その時、外には誰かが大声で叫んでいる気配があった。


 外で騒いでいる男の声は二つあったが、どちらも狭霧の耳に馴染みがあるものだ。


「いけません、穴持なもち様。突然押し掛けるなど、無粋というものですよ!」


「なにが無粋だ。狭霧が戻って来ているなら、なぜおれのところへ挨拶に来んのだ? 放せよ、安曇。おれは偶然、高比古と飲みたくなっただけだ。なぜかたまたま気分が乗ったから、あいつを酒の席に呼びたいだけだ!」


「……明日にしましょう。狭霧も、今日は長旅で疲れているでしょうし」


「疲れているなら、自分の寝所で休めばいいだろうが? なぜあいつの舘に泊る必要があるんだ!」


「あのですね、穴持様。正式な婚儀はまだ先とはいえ、高比古と狭霧はすでに夫と妻という間柄なのですよ? いまさらいいたくはありませんが、あなたは一度、ご自分の胸に手を当てて、いろいろと考えてみるべきです。あなただってかつては、須佐乃男様の不在を狙って、須勢理すせり様を奪い取ったではありませんか。しかも、そういえば、あの時のあなたは、『だからどうした』の一点張りで、須佐乃男様に詫びることもなさいませんでしたよね? そう考えると、須佐乃男様は実に寛容でしたねえ――。あんなに須佐乃男様は、須勢理様をあなたに嫁がせるのを嫌がっていたというのに……」


「昔のことを持ち出して、しみじみと嘆くな! やはりおれは、高比古と酒を……」


「だから、おやめを。やけ酒なら私が付き合いますから。いきますよ?」


 声は、大国主と安曇のものだった。


 二人はどうやらこの舘のすぐ前まで来ていて、そこで問答をしている。


 木の壁一枚を隔てた場所に狭霧の父王がいると気づくなり、狭霧を抱きしめる高比古の手はこわばったようにぎこちなく動きを止め、彼はびくびくと聞き耳を立てた。


 そのうち、安曇に引っ張られるというふうに、父王の気配は遠ざかっていった。


 その間も、大声は聞こえていたが。


「はい、こっちですよ、穴持様。あなたの寝所は――」


「いいや、やっぱりおれは戻る。おれは高比古と話が――!」


「いけません。いきますよ。本当にあなたは、こんな吹雪の中を、わざわざ来なくても……!」


 二人の声が遠ざかっていき、聞こえなくなるまで、高比古はぴくりとも動こうとしなかった。


 その緊張した真顔を見つめて、狭霧はくすくすと笑った。


「びっくりしたね」


「あんたにこんな真似をしているところを覗かれてたら――。殺されるかと思った」


 高比古は照れ臭そうに笑って、「笑うな」と狭霧を咎める。


 それから、もう一度唇を近づけた。





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