番外2、冬の匂い (1)



 その日、海から吹く冬の風は、氷のように冷えていた。


 木枯らしが吹きすさぶ道をいき、杵築を目指す一行の主は、まだ若い娘だ。冬装束の雪蓑をつけた馬にまたがり、か細い身体に毛皮のおすいをまとって、寒風に逆らうように道を進む姿を不憫に思ったのか、従者たちは、自分たちの主、狭霧をよく気遣った。


「姫様、大丈夫ですか」


 でも、狭霧は、こういう行き来に慣れっこだった。


「平気よ。杵築まで、もうすこしだね」


「ええ。でも、今日の風はひどく冷えます。どこかでいったんお休みになりますか」


「ううん、平気です。だって、今は冬だもの。冬は寒いものよ。こうなることくらい知っていたから、大丈夫」


 明るい声の通りに、狭霧は寒風を浴びても笑顔を浮かべていた。


「あっ、でも、もしあなた方が休みたいなら――」


「いいえ。我々なら、お気遣いなく。侍女様は……」


 狭霧の警護を務める武人たちは、侍女、恵那えなへ目配せを送るが、恵那はすぐにそれを断った。


「私も平気です。先を急ぎましょう、皆様。狭霧様は一刻も早く雲宮に着いて、高比古様にお会いしたいのですよ。休んでいるわけにはいきませんの。ねえ、狭霧様?」


 恵那がきっぱりというので、狭霧は頬を赤くした。


「恵那ったら――」


 でも、それ以上はいわなかった。恵那がいうのは、たしかに事実だったのだから。







 狭霧と高比古の祝言の儀は、翌春、祈年祭としごいのまつりに先立っておこなわれることになった。


 二人のための居場所をつくるべく、雲宮にはすでに木の匠が出入りしている。


 とはいえ、祝言の儀を経て正式に夫婦になった後だろうが、ずっと一緒に暮らせるとは、狭霧に思えなかった。


 いまも、そうだ。


 妻と夫という関係にはなったが、武王の後継候補である高比古の拠点は、杵築。そして、薬師を育てる学び舎づくりに奔走している狭霧が暮らすのは、意宇。


 事代ことしろでもある高比古は、意宇や、神野くまのへもたびたび呼び出される。でも、武王の候補と大っぴらに呼ばれるようになり、大国主のそばで本格的に軍務を学び始めた今では、高比古が雲宮を出る頻度は明らかに減った。


 だから、狭霧が、意宇と杵築を行き来することになった。


 三日月が満月に育つまでは意宇で暮らして、月が欠けていき、新月になるまでは杵築で暮らし――。そんなふうに、狭霧は十五日ほどずつ、交互に宮を移る暮らしをすることになった。


 狭霧に並んで馬を駆る恵那は、海の方角をちらりと見やって愚痴をいった。


「本当に今日は、冷えること。いっそのこと、雪でも降ってしまえばいいんですがね」


「雪? そう?」


「そうですよ。だって、この道が雪に閉ざされてしまえば、あなたは杵築にずっといられるじゃないですか。よりによって、こんなに天気の悪い日に、わざわざ長旅をしなくたって――。本当にあなたは物好きで、我慢強いお方ですよ」


「わたしは平気なのよ。だって、意宇にも杵築にも用事があるし――。でも、恵那はごめんね、付き合わせちゃって」


 狭霧はともかく、毎度それに付き合わされる恵那は、たまったものではないだろう。


 謝ると、恵那はやれやれというふうに細い肩をすくめて、笑いを誘うようにおどけた。


「そういうところは、母君にそっくりですよ。恵那のことはお気になさらないでください? 須勢理すせり様に鍛え上げられて、すっかり恵那も我慢強くなっておりますから」


 年上の侍女と目を合わせて、狭霧は笑った。


「ありがとう」


 それから、行く手に続く冬の道を見つめる。道の両側には畑があったが、冬に備えて作物はすべて刈りとられて、土には、根っこの部分だけがからからに乾いて残っている。


 でも、この景色も、純白の雪に覆われた後では一変するだろう。雪は、なにもかもを覆い隠すはずだ。畑も野も、水路も、道も、里も、すべて――。


 狭霧は、憂鬱なため息を吐いた。


「雪、か。雪が降って道が閉ざされたら、身動きがとれなくなるけれど、それが、たまたま杵築にいる時ならいいんだけどね。意宇にいる時に大雪が降ってしまったら、わたしは、こうして杵築にいくこともできなくなるんだろうなぁ」


「なにをおっしゃいます。恵那の里の長老だって、風の吹き方で、雪がいつ来るかわかるものですよ。視えないものを視る事代だったら、そりゃあ、ねえ? あなたの旦那様なら、雪がいつ来るかなどは、すぐにお見抜きになるでしょうよ。わかれば、あなたを杵築に留めることもできましょう?」


「でも――。大雪が降る日があらかじめわかったなら、雪に遭わずに意宇へたどり着けるようにって、早く雲宮を出なくちゃいけないじゃない。わかっていながら、知らないふりをするなんて――」


「正直すぎますよ、あなたは」


 恵那は、ため息をついた。


「では、恵那が高比古様に、あなたに内緒で足止めをするようにいわないと」


「うん、そうして。その時は、わたしにいわないでね」


 狭霧は肩をすくめて、冗談を楽しむようにくすくすと笑った。






 道には、びゅうびゅうと唸るような寒風が通り過ぎていた。


 大雪になるかもしれない日に、一日中馬に乗らなければいけないなんて、なんといたわしい! と、恵那は嘆いたが、狭霧は、この旅路をそれほど疎ましく思ってはいなかった。


 この道は高比古に通じる道だったし、朝から晩まで馬に揺られながら、気の知れた仲間とお喋りをするのは、楽しい息抜きだった。


 とくに恵那は、高比古の話をよく聞きたがった。


 親しい人を相手に、思う存分恋しい人のことをお喋りしていると、時間はあっけなく過ぎていく。そして、いつのまにか狭霧は、杵築に近づいているのだ。


「ねえ、恵那。もし雪が降ったら、高比古も手が空くかな。夜だけじゃなくて、昼間も一緒にいられたりするかなぁ」


「それはそうですよ。雪は、人の手も、お役目も止めるものです。下男や下女は雪よかしに追われて忙しくなりますが、あなたや、高比古様は楽になりましょうよ」


「そっか」


 ふと、海の方角を見やる。そこには、雪雲にも見える灰色の雲が、天を覆っていた。


 いまにも雪を運んで来そうな強い海風は、凍てついているように冷たい。でも、どんよりとした雪雲も、冷たい寒風も、高比古と過ごす時間を与えてくれるものだと思えば、どれもありがたいと感じた。


 だから、狭霧は冬の風に祈った。


 雪が降れば、いいな――。


 降るのが今夜か、明日ならいいな。高比古の仕事がなくなって、ずっと一緒にいられるから。


 半月後にも雪が降れば、もっといいな。足止めをされて、意宇に帰る日を遅らせられるから――。






 意宇と杵築という二つの都は離れていたが、朝出れば、どうにかその日のうちにたどり着ける場所にある。


 そのうえ、街道には、早馬の中継地、駅屋うまやも整えられていた。


 狭霧の一行も、その駅屋をよく使った。


 駅屋には馬屋が備わっていて、駿馬が何頭も囲われている。そこで疲れた馬を休ませる代わりに、駅屋の馬を借りて、何度も馬を乗り継いだ。


 長旅を覚悟している場合は、馬を疲れさせないようにゆっくり進むものだが、駅屋のおかげで、普通よりも早く杵築へ向かうことができた。


 そして一行は、まだ陽の光が残っているうちに、雲宮寄りにある最後の川にたどり着く。


 でも、その日に限って、光景はいつもと違った。


 水辺を歩いて渡ることができる浅瀬の道には、里者の身なりをした人たちが大勢いて、川を渡る順番を待っていた。


 河原の人だかりを見て、恵那は首を傾げた。


「いったいどうしたのでしょう。えらく賑わっていますが」


「本当ね。お祭り?」


 狭霧たちの一行が近づいていくと、河原を埋め尽くすような里人たちはざわざわと噂を始め、川渡りの順番を譲るようにさっと道を空けた。


「狭霧様だ。大国主の娘姫の――次の武王様のお后とか」


「おや、袴など佩いて馬にまたがって、男勝りな姫君だなあ。それにしても、お付きの武人様たちのお姿の凛々しいこと――。剣も身なりも、さすがは姫君のお供だなあ」


 里者たちは、狭霧や、狭霧を守るように連なる一行の姿や身なりを見あらためながら好奇な目配せを送り、ひそひそと噂をした。


 そうするうちに、人だかりの中から壮年の男が一人、ぱっと飛び出してきた。


「なに、狭霧姫? 大国主の御子姫の、須佐乃男様の血筋の――!」


 興味深げに狭霧を見つめる人の輪から飛び出した男は、目を輝かせていた。そして、一行の道を塞ぐように進み出ると、膝と手のひらを土に付け、平伏した。そして、大声で嘆願した。


「大国主の御子姫、狭霧様とお見受けいたします。どうか、お慈悲を。どうか、お許しを!」


 狭霧は呆気にとられて、馬の歩みを止めた。


「お慈悲? 許し――?」






 狭霧たちの前に進み出た壮年の男は、このあたり一帯の里人を従える一族の裔らしい。男は、阿夜那あよなと名乗った。


「実は、先の大水で、この川上にあった橋が流されてしまったのです」


 阿夜那は、ひれ伏しながら狭霧へ訴えた。


「その橋は、このあたりに住まう者たちが使う、たった一つの橋でした。しかし、それがなくなった今、民はわざわざここの浅瀬まで歩いてきて、川を渡らねばならないのです。このように――」


 阿夜那は、背後で人山をつくる里人たちを気にしつつ、一息にいった。


「狭霧姫様、どうか、橋をつくるお許しを。どうか――!」


 阿夜名が額に土がつくほど頭を下げると、それに合わせて、背後で壁を為す里人たちも深々と頭を下げ始めた。一人、二人と、河原に集った大勢の人々はゆっくりと土に膝をつき、狭霧たちの一行を囲むようににひざまずいて、平伏する。


 でも、狭霧は、彼らの平伏の意味がうまく飲み込めなかった。


「ちょっと待ってください……! 橋をつくる許しって――。橋は、あなたがたの暮らしに必要なものでしょう? だったら、つくればよいのではないのでしょうか。杵築や意宇に、わざわざ願い出なくても――」


 すると、阿夜那は小さなため息をもらした。


「それが――。橋をつくろうにも、川上の橋がかかっていたあたりには、神野の大巫女が司る神領地の林が広がっていて、木を切ることが許されていないのです。とはいえ、橋は我々の暮らしに欠かせないもの。神林の木を橋にするお許しを得ようと、意宇の舘衆に再三お尋ねしていたのですが、いまだよい返事が得られず……」


 阿夜那がそこまでいうと、背後の人だかりからも、悲痛の色を帯びた嘆声があがった。


「このままでは、雪が降ってしまいます。雪が降って林が閉ざされたら、暖かくなって雪が溶けるまで、私たちは橋をつくることができません!」


「どうか、お許しを! 今日、今にでも伐り始めないと――!」


 もう間に合いません、お願いします――!


 集まった大勢の人々から嘆願されると、狭霧は馬上で肩を落とした。


「神野の大巫女、神領地の、林――」


 そのどちらにも、狭霧はあまり縁がない。


 そしてそれは、どちらかといえば苦手で、できればあまり関わりたくないと感じているものだった。





「ひとまず、その林までいってみましょう」


 狭霧は、阿夜那に案内をさせて、川沿いの道をのぼっていくことにした。


 海際につくられた街道から遠ざかるにつれて、背後から吹きつける風は乾いて、より冷えていく。


 阿夜那が行く手を指さして声をかけたのは、しばらく歩いたのちのことだった。


「あそこです、姫様。あの、土手に見えるのが壊れた橋で、こちらの林が――」


 少しさかのぼると、川は、歩いて渡ることができる下流の浅瀬とはまるで違って、深くなり、水がとうとうと流れていた。


 そして、その両岸には手つかずの林が広がっている。


「このあたりの林が、神野の神領地です。木材になりそうな木はたくさん立っているのに、伐り倒す許しが出ないなんて――!」


 阿夜那は悔しそうに、大きな肩を震わせた。


 狭霧も、馬上からあたりを見渡した。


「本当ですね……」


 たしかに、壊れたという橋の残骸の周囲には豊かな林が広がり、木材になりそうな太さの木も、そこらじゅうにある。ほとんど手が入っていないせいか、ぐにゃりと曲がった幹をもつ木が多いように見えるが――。


(この林が意宇か杵築の王領地なら、あとで話しにいけば説得できそうだけど、神野か――どうしよう)


 神野という出雲一の聖地に、狭霧は、一度だけ出かけたことがあった。


 古い林に囲まれた、清らかな気配の漂う場所だったが、なによりも印象に残っているのは、その聖地を司る女人、神野の大巫女だった。その女人は、狭霧に美しい笑顔を向けた。でも、眼差しは蛇が獲物を捕えるようで、妖しいと呼べるほど強固過ぎた。



『そなたは、狭霧だね? 大国主と須勢理の子。……そなたの父も母も強情でね、運命など信じないとそなたと同じようにいって、頑として私の言告げを聞かなかったよ?」


 その時、口ごもった狭霧へ、大巫女は脅すようにいった。


『でも、私がいった通りになった』



(とうさまか。……とうさまだったら、こんな時、なんていうかな)


 判断に困ると、狭霧は、武王として名を馳せる父のことを考えた。そして、ため息をついた。


(とうさまだったら、神領地の木だろうが、すぐに伐らせちゃうんだろうなあ)


 狭霧の父、大国主は、はたから見れば横柄とうつるほど我を通す人だ。そして、神野を含めて、神事や呪い、予言などをあまり好まない。


 狭霧の脳裏には、冷笑する父の顔が浮かんだ。想像の中の父は、それっぽくうそぶいていた。


『神の林? わかった。なら、「橋にする木をいただいて、感謝する」と、おれが神に伝えておく』


(とうさまなら、神野にも大巫女様にも遠慮しないで、さっさと許しを与えてしまうかなあ)


 父がするだろう方法は、狭霧には真似ができそうになかった。


 それで、もう一人のことを考えてみた。


(高比古なら、どうするかな)


 でも、やはり胸は晴れない。


 高比古は事代で、神野にもしょっちゅう出入りをしている。狭霧が怖がっている神野の大巫女とも、顔馴染みのはずだ。


『神野にはおれが話をつけておく。いいよ、伐ればいい』


 たぶん彼も、あっさりと許しを与えるだろう。


 狭霧は、ため息をついた。


(高比古も、けっこう横柄なところがあるしなあ。それに、興味がないことだったら、悪いと思ったところで忘れちゃうかも。忘れてしまった後で騒ぎになっても、けろっとしているかも)


 高比古のやりそうなことも、狭霧にはできそうになかった。


 ふうと息を吐くと、狭霧はさらに遠くまでの景色を見渡した。


 手つかずの神の林は、よく見かける林よりも黒々として見えた。


 そして、その向こうあたりに、神領地だという林とは別の、のどかな緑色があるのを見つけた。


「あれは? この先に、神領地ではない林もありますか?」


「ええ。すこし遠いですが」


「遠いって、どれくらいですか」


「いえ、いくだけならまずまずの距離なのですが、道が悪いので……。その林へ木材を取りにいこうとしたものの、ここまで運ぶのは難しいと、前に諦めたことがございまして」


「そうですか」


 狭霧は、残念に思った。


(その林に木を取りにいけばいいと思ったけれど。じゃあ、どうすれば……)


 次の手を考えねばと、狭霧の目は再び周囲を向く。でも、あることに気づいた。見つけた林は、川筋に沿って茂っていた。


 狭霧は、ぼうっと景色を眺めた。


「あそこから木材を運ぶのが、難しいのですか? ここまでの間に、川の水が少ない場所があるのでしょうか」


「え、川?」


「川があるなら、重い木材でも簡単に運べるのではないかと思ったのですが。木は水に浮きますから、出かけて、伐り倒して、水辺まで転がしさえすれば――」


「あ!」


 阿夜那は、素っ頓狂な声をあげた。


 目は輝き、狭霧が示した方法に、期待を膨らませているように見えた。





 林へ続く道は細い獣道で、たしかに悪道だった。


 馬では進めないので、狭霧は馬を下りて、斧を手にした里人たちの後についた。


 恵那は、それを止めたが。


「姫様! あんな男たちのことなど、放っておきましょう。雲宮へ帰りましょう!」


 恵那は、阿夜那たちがする狭霧への扱いに、憤慨して見えた。


 里者と同じように悪道をいく狭霧を、なぜ止めないのか、と。


「ごめん、恵那。でも、ちゃんと最後まで見届けたいし。せめて、木を伐って、川に流すところまでは――」


「本当に、あなたは! 雪が降って道が閉ざされてしまったら、こんなところで足止めを食らうことになるんですよ? 雲宮は、もう目の前だというのに」


「それは、そうなんだけど――」


 怒る恵那を、狭霧の警護を任された武人たちは苦笑して宥めた。


「まあまあ、侍女様。我々も手を貸しますから」


「そうですよ。できるだけ早くご用を済ませて、帰途につきましょう。高比古様も、きっと首を長くして姫様のお着きを待っていますよ」


 彼らも馬を下り、狭霧を守って、冬枯れの獣道を里者と一緒になって歩いた。


 恵那も、武人たちも、一行は誰もが狭霧の恋の手助けをしたがった。狭霧が高比古に会えたところで、誰にも、特別いいことは起こらないというのに。


 それは気恥かしいが、この上なく幸せなことだと、狭霧は思った。


「う、うん。ありがとう」


 赤くなりつつ、感謝を告げる。それから、先をいく里人たちの行く手を見つめた。


 こうなったら、とにかく早く、橋に相応しいいい木を探すべきだ。


 そうすることが、きっと誰のためにもいいと、そう思った。






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