番外1、真夜中の素顔
暗がりの中の吐息は、優しい。
とくに、温かな腕に抱きしめられている時に、耳たぶに落ちてくる吐息は――。
高比古は、夜の闇に似合う静かないい方をした。
「髪を解くか? 痛くないか」
「うん、そうする」
笑顔を浮かべて、狭霧はうなずいた。それから、腕を動かすと頭の上のほうへ向かわせて、そこにさしてあった
髪を結いあげるのにきつく結ばれた紐の端を指でつまんで引き、頭の上のあたりで大陸風にまとめられていた黒髪がほどけると、髪を指で梳く。
そうしている間ずっと、高比古は狭霧の手つきをじっと見下ろしていた。目が合うと胸の中がくすぐったくなるので、狭霧は笑った。
「そんなにじっと見て……ぐちゃぐちゃ? 髪がからまってる?」
「そうじゃないよ。ただ……」
高比古はむっと眉をひそめて、それ以上いわなかった。
狭霧も、いちいち問わなかった。
楽になった頭を、思う存分寝床の敷布に押しつけると、まっすぐに真上を見上げた。
ずっと二人で暗がりにいたせいで目が慣れていたのか、高比古の顔は、わりにくっきりと見えた。
いや、もしかしたらそうではなくて、わざわざ目で見る必要がないくらい、彼の顔立ちなど、覚えてしまったのかもしれない。
もしくは、顔立ちや表情などをいちいち見なくても、柔らかく降りてくる吐息や、触れ合った肌が感じるぬくもりや、ほかのものが、彼がいまどんな顔をしているのかを教えてくれているのかも――。
高比古は、ぼんやりと狭霧を見下ろしていた。
雰囲気は、照れ臭がっているようで、幸せそうで――。
とにかく、「どうしたの」、「なにを考えてるの」と、わざわざ問い詰める必要などなかった。
狭霧は、くすくすと笑った。
「髪を解いたほうが上を向けて、高比古の顔が見やすいね」
それから、とてもいい名案を思いついたと目を輝かせた。
「……そうだ。ねえ、高比古も、髪を解いて」
「は? 髪を? おれが?」
狭霧の真上で、高比古は首を傾げるような素振りをした。
でも、狭霧は引きさがる気になれなかった。
「だって、出雲風の髪型を崩したら、素顔が見える気がするもの。本当はね、『出雲の高比古』になる前の名前や、その頃の話も聞きたいの。でも、それは、もう捨ててしまったんだものね?」
「それは、その……」
高比古は、居心地悪そうに言葉を濁した。
なにかをいい渋ってかたまった唇を、狭霧は笑顔で宥めた。
「前の名前は捨ててしまったって、前にいっていたでしょう? だったら、もう訊けないよね? でも、素顔だったら、出雲の身なりをしていなければ見られるでしょう? ね?」
出雲へ来る前の話を彼がしたがらないのを、狭霧はよく知っていた。
うっかり彼の過去を覗こうとして逆鱗に触れて、形相を変えた彼から脅かされたこともあったし、急に心を閉ざしたように、二人の間に見えない壁をつくられたこともあった。
いま、こうして、真夜中に二人で触れ合うような仲になっても、高比古は過去を探られるのを戸惑っていた。
腕をあげると、狭霧は手のひらで高比古の頬に触れた。
薄暗かったのと、彼が表情のない真顔をしていたせいで、見ただけでは、彼の考えていることがわからなかった。
でも、指先が触れた頬は、緊張してすこし強張っていた。
だから、狭霧はその頬を優しく撫で続けた。
いいよ、いわなくて。
わかるものだけで、十分。
でも、知りたいの。少しでもたくさん、あなたのことが――。
しばらくすると、高比古は頬を傾けて、みずから頬を狭霧の手のひらにくっつけるような仕草をした。それから、ふてくされたようにいった。
「素顔? ……髪を解いたくらいで、そんなに変わらないよ」
「いいの。いいから、見せて」
「わかったよ」
いい方は渋々というふうだったが、高比古は起き上がって、耳元に指先を伸ばす。
狭霧も、むくりと起き上がった。髪飾りへ伸びた高比古の手つきを追って、さっきされたのと同じように、彼の手仕事をじっと見つめた。
高比古の髪は、いつも両耳のそばで出雲風の
出雲の男は、夜眠る時も髪を崩さない。髪を解くのは、湯浴みをして髪を梳く時くらいで、狭霧は、高比古が出雲風の角髪を崩すところを見るのが、初めてだった。
器用に髪飾りを外して、きつく結ばれた結い紐をほどくと、髪は背中あたりまで落ちた。ずっとその形に結われていたせいで、黒髪には結われていた時のあとがついている。
出雲風の角髪には、どちらかといえば厳格な印象がある。それを崩して、背中に黒髪を下ろした高比古の顔は、いつもよりも無垢な印象を帯びた。
「これで、いいかよ」
高比古が、照れ臭そうに横を向きかけるので、狭霧は手を伸ばして頬に触れて、自分のほうを向かせた。
「もっと見せてよ。うわあ……なんだか、嬉しい」
「嬉しい? なにが」
「嬉しいの。だって、髪を解いた高比古の顔を見たのは、もしかして、わたしが初めて?」
浮かれたようにはしゃぐ狭霧へ、高比古は渋面で水を差した。
「悪いが、戦の旅に出たら――」
「あっ、そうか。何か月もみんなで暮らすんだものね。そうしたら、みんなで水浴びくらいするだろうし、髪も解くよね。でも、嬉しいな。わたしは初めて見られたもの」
「前に、見なかったか? 阿多で、佩羽矢と入れ替わった時に――」
「そうだったっけ? 見たような、見なかったような、とくに興味がなかったような」
「――あのなあ」
「嬉しいな。ねえ、もっと――こっちを向いてよ」
「……なんだよ」
高比古は、恥ずかしそうにしていた。それから、あまりにも狭霧がまじまじと見つめたせいか、自分の頬に触れる狭霧の手を振り払う。それから――。
「ん……」
払いのけた狭霧の手首を、高比古の手のひらが掴み返す。そうかと思えば、高比古は少し前のめりになって、顔を近づけた。それから、暗闇の中で、唇と唇を触れさせた。
ふたたび寝床の敷布に二人で倒れ込んでから、高比古は、狭霧ととても近い場所でつぶやいた。
「あんただって、そうだろ」
「ん? なにが……」
「いま、髪を解くのは、おれの前だけだろ」
高比古は、自分の腕の間に囲った狭霧の顔を、じっと見つめていた。その間、彼の手のひらは、結っていた時のうねりが残る狭霧の黒髪をいとおしげに何度も撫でる。
「……こんなに、幼く見えるのに。こうしておれと一緒にいる時は、ただの娘に見えるのに――。髪を結いあげて外に出たら、もう、狭霧姫に見えるんだもんな。――なあ、どっちが本当のあんたなんだ? 去年といまでも違うが、最近のあんたは、人の目がある時とそうでない時とで、別人みたいに変わるよ」
「本当のわたし? それは、いまのほうよ。本当は幼くて、なにもできないの」
「そうじゃない。……あんたは、へんな奴だよ」
闇の中で狭霧に降りてくる高比古の吐息は、すこし照れ臭そうで、幸せそうで、やはり、優しかった。
「なあ、好きだよ」
「……うん、わたしも」
「あんたも、おれを、抱いて」
催促をされると、狭霧は精一杯腕を伸ばして、高比古の背中を抱きしめた。
「――うん」
「なあ――」
「うん?」
「おれたち、いつまで一緒にいられるかな」
「――えっ?」
「……なんでもない」
高比古は、苦笑した。
「ふしぎだな。あんたと同じだ。あんたを好きだと思うと、なんでもかんでもあんたのことを知りたくなるよ」
そんなふうにいわれると、狭霧はくすくすと笑った。高比古のように隠しておきたいことなど、狭霧にはとくになかったからだ。
「わたしのことなら、なんでも話すよ?」
狭霧の腕に抱かれながら、高比古は照れ臭そうに笑った。
「なら、おれも、話そうかな。あんたには、おれのことを知ってもらいたい。だから――」
優しくてぬるい真夜中の暗がりで、高比古は狭霧を腕に囲い込みながら、懐かしい物語を振り返るように遠くを見つめた。
高比古は、つぶやくようないい方でこういった。
楽しい話じゃないから、一度しかいわないよ。
でも、へんだな、なにから話そうかと思い出しても、心が静かだ。
前は、まだそこに居るのかと気になるだけで、息苦しくなったのに――。
でも、口ではそういったが、高比古はしばらく経ってもぼんやりして、唇を動かさない。
まばたきを忘れたふうに、じっと虚空の闇を見つめる真顔が、狭霧は心配になった。
「話せる? 思い出すのがつらいなら、別に――」
声をかけると、高比古は我に返ったように吹き出す。それから、狭霧の顔を囲むように置いた腕に力をかよわせて、手のひらを狭霧の頭の丸みに添わせると、鼻先と額が触れ合うように、顔を近づけた。
「いや、いい。こうしていれば、大丈夫」
狭霧を抱きしめる腕は、脅えていたり、なにかから逃げたりするふうではなかった。むしろ、狭霧ごとすべてをふわりと包み込むように、頼もしかった。
夜闇にうっすらと浮かび上がる、白い肌。包み込むようにして、小さな肩を抱く大きな手のひら。
無言のまま、しばらく時が過ぎた。
言葉はなかったけれど、沈黙も、二人を包むぬくもりもいとしいと、狭霧は思った。
「ゆっくりで、いいよ」
「ありがとう」
くすぐったそうに、高比古が微笑んだ。
だから、狭霧も、気持ちを告げるように、ぎゅっと背中を抱きしめた。
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