終章、沖ノ島



 その日、心依姫は、朝から伏せっていた。


 いやな風が吹いている。外にも、遠くにも、私の中にも――。


 うわ言のように繰り返して寝所にこもった心依姫は、むかし彼女が、宗像むなかたの沖に浮かぶ小さな神殿で巫女として暮らしていたことを、文凪あやなぎに思い起こさせた。


 主である異国の姫が朝から姿を見せないので、離宮に仕える下男や下女は、文凪を見つけるなり寄ってきて、姫君を気遣った。


「文凪様、心依姫様の具合は、お悪いのですか?」


「いいえ。こういうことは、ときたまあるのです。ええ、心依様が幼い頃から、何度も。心依様は、宗像の外宮のある沖ノ島に巫女として仕えておいででした。その時と同じように、今も、私たちのような凡人には感じることのできないなにかを、お感じになっていらっしゃるのでしょう」


 誇らしげに説いた文凪に、下男と下女は目を丸くした。


「へえ、巫女姫様……。高比古様の奥方にふさわしいお方というわけなのですね。高比古様も事代ことしろで、我々には視えないものを視て、聴こえない声を聴くそうですから」


「ええ、そうです。お二人は、似た者同士。お似合いですよ」


 文凪はふっくらとした丸顔に、にんまりと笑顔を浮かべた。


 では、姫君のお食事はどうしましょう、お散歩は……と、文凪と下女たちとのやり取りがひと段落ついた頃、下男の一人が、さも困ったというふうに離宮の庭に立つ小さな馬屋を見つめた。


「そういえば、腹が大きくなった雌馬がいたでしょう? あの馬の様子が、今朝からおかしいんですよ。ほとんど飯を食わないで、苦しそうにしていて――。今日にでも、子馬が産まれるかもしれませんよ」


「まあ、本当? 心依様が喜ぶわ。赤ちゃんの子馬が見たいと、楽しみになさっていましたもの」


 文凪は、ふふふっとこみ上げた笑みをこらえた。


 腹が大きくなった雌馬のことを、主の姫君が気にかけている理由は、生まれたばかりの子馬が見たいからというだけではなかった。


(さぞ、お喜びになるでしょう。だって、心依様の身には、今――)


 それから、ふと、ある姫のことを思い出した。心依姫が、やや子の存在を知らせてしまった相手は、文凪の他にもう一人いた。その人は、雲宮の主、大国主の娘姫、狭霧だった。


(高比古様に伝えてからにしたいと、他の者には決していおうとしなかったのに、どうして心依様は、そのように大事なことを、あの姫に――。心依様は、よほど狭霧様を信頼していらっしゃるのでしょうか。……まあ、それもよいかもしれませんが。高比古様の足をこの離宮に向けるには、あの姫君のお力を借りるほうが賢明かもしれません。あの姫君は高比古様に近く、心依様のことも含めて、あれこれ話をする仲のようですから。とはいえ――)


 先日、雲宮を訪れてその姫君を見かけた折り、文凪は、その姫君に対して怒りを覚えた。


 その姫は、心依姫の夫である青年と懇意にしている。文凪の目に映ったその二人の様子は、ただの友人と呼ぶには親密すぎた。


 心依姫の夫、高比古は、自分からはろくに妻に近づこうとしない。妻に対してはそんな態度をとっているくせに、妻でもない別の娘と親しくしているという事実が、文凪は腹立たしくてたまらなかった。その苛立ちは、大国主の娘姫に対しては、さらに募った。


(あの姫は、奥ゆかしい心依様とは大違いでいらっしゃるわ――。夫でもない若者のそばにいて平気で過ごすことができるなんて、出雲の姫君というのは、実にふしだらにできていること。あの姫君の母君も、男に混じって剣を振り回していたと聞くし、そういう血の生まれでいらっしゃるのね。おお、いやだ)


 記憶の中のその姫を思い出すだけで、文凪には憎しみじみたものすらこみ上げた。


 文凪は不機嫌に黙ったが、周りでは、爽やかな朝の光に彩られたにこやかなやり取りが続いている。


 下女も下男もくすくすと笑って、主の姫君の慎ましさを褒めそやした。


「心依様は、子馬が生まれたら、よりいっそう愛らしく笑んで、毎日のように馬屋を覗きにいらっしゃるのでしょうね。本当に、可憐な姫君ですね」


 下女たちは、むかしから仕えている相手のように、熱心に心依姫の世話をやいた。


 それは、心依姫が彼女たちに気さくに接したせいだ。


 離宮の主となった幼い姫は、炊ぎ屋で働く下女たちのもとへいって、むかしは自分もしたことがあるからと、みずから手伝いを願い出たりすることもあった。


 恋しい青年がこの宮を訪れると、心依姫は人目もはばからずに大はしゃぎをしたが、それも、年頃の娘らしい無邪気な姿があどけなくて微笑ましいと、下女たちの心を揺さぶったようだ。主の姫君の恋物語がうまく実るようにと、手助けを願い出る若い下女も、後を絶たなかった。


 心依姫を慕う下女たちの言葉に、文凪は満足した。


「ええ、そうです。心依様は慎ましくて愛くるしい、宗像自慢の姫君ですよ」


 話の輪の中にいた下男は、気のいい笑顔を浮かべてうなずいた。


「だったら、なおさら、子馬をどうにかしないといけませんね。俺たちも、姫様が喜ぶお顔が見たいですし。でも、肝心の馬飼さんが、今日はまだ見えませんね。いつもなら、朝にはこちらにおいででしたのに」


 そういって、下男の目はついと離宮の門の方角を向く。


 館と馬屋、炊ぎ屋と、小さな小屋が建つだけのこじんまりとした離宮の入り口となる門の向こうには、雲宮まで続く道が伸びている。でも、そこに、ここへやってくるはずの馬飼の姿は、まだ見えなかった。


「今日は、遅いですね……」


「いま産気づかれたら、俺たちだけじゃうまく取り上げられるかどうか――。雲宮の馬飼なら、馬の出産なんか、朝飯前なんでしょうが」


 すると、下女の一人がぽんと手を打った。


「なら、誰かに雲宮までひとっ走りいってもらって、いつもの馬飼さんをお呼びすればいいじゃないですか。そして、ついでに高比古様をお探しして、お呼びすれば……。そうすれば、一石二鳥! 高比古様がいらっしゃったら、心依姫様はお喜びになるでしょう?」


 下女たちがしたのは、主の姫を想っての提案だった。しかし、文凪は首を横に振った。


「いいえ。心依様は高比古様に遠慮してばかりで、そんなことをしてはお邪魔になると、そればかりですから……」


「まあ――。心依姫様は、本当に高比古様を大切に想っていらっしゃるんですね……」


 若い下女が、高貴な恋物語に憧れるようにうっとりと笑った、その時。


 下男の一人が、遠くのほうで立ちこめた砂煙に気づいて、指をさした。


「あ、誰かが道を来ますね。馬かな?」


「雲宮の馬飼でしょうか。ああ、よかった」


 庭で世間話をしていた文凪や下女たちは、ほうっと胸をなでおろす。


 小道を駆けつつやって来たのは、期待通りに、いつもこの離宮を訪れる馬飼の男だった。


 しかし、その日に限って、馬飼の男はすこし様子がおかしかった。


 いつもよりも荒っぽい乗り方で馬を走らせ、離宮の門をくぐったかと思えば、すぐさま手綱を引いて馬の足を止める。仕草は、それ以上先に進むのを怖がるようで、足がすくんでいるというふうにも見えた。


 顔色も悪く、夏の強い陽射しのもとで、馬飼の陽に焼けた肌は鈍い土色に見えていた。


「おやおや、どうなさった。夏風邪でも……?」


 やって来た馴染みの馬飼のそばへ歩み寄りつつ、下男は明るく話しかけた。


「どうしたんです? ご気分がすぐれないようですが」


 馬飼の男は、それに答えなかった。彼はまっさきに文凪を探すと、鞍から下りて、おそるおそるというふうに文凪の前でひざまずいた。


「たいへんです、侍女様」


 声まで、生気を失ったふうだった。文凪は丸みを帯びた身体を曲げて男の顔を覗きこむと、身を案じた。


「顔色が悪いけれど、具合でも――? いったいどうしたのです。たいへんなことというのは?」


「実は――」


 文凪を見上げる馬飼の男は、目元を震わせながら、じわじわと唇をひらいた。


「今朝、高比古様が、新しいお妃を娶られました」


「……なんですって?」


「しかも、まずいことに、お相手は――」


 男が、心依姫の夫の青年が新しく妻に娶ったという娘の名を告げると、文凪は目を見開いて、怒りをあらわにした。


「なんと……」


 同じ時、舘の方角から、危機迫った叫び声が文凪を呼んだ。


「文凪様、たいへんです! 心依様が……!」


「え? はい、姫様がなんです!」


 動転したものの、文凪はすぐさま踵を返して、まっしぐらに心依姫の寝所を目指した。


 高床の広間へ続くきざはしを登り、戸口の隙間をくぐり、心依姫が朝からこもっていた寝所へ入る。そこには、寝床の上でぽろぽろと涙をこぼす心依姫の姿があった。


「どうしよう、どうしよう……」


 うわ言のようにつぶやき続ける心依姫の頬には、絶え間なく涙の筋が落ちている。


 もしや、と文凪は思った。


 心依姫には、巫女の霊威がある。その霊威をもって、たったいま雲宮から離宮へ駆けこんだ男が伝えたばかりの悲しい知らせに、みずから勘づいてしまったのではないか、と。


 枕元に走り寄った文凪は、主の姫君の細い肩を抱き、懸命に慰めた。


「おいたわしや、心依様、本当に――。どうか、お気をお強く」


 文凪の胸の内に渦巻いたのは、雲宮への不信と、心依姫を泣かせてばかりの夫への暴言だった。



 悲しいですが、あの方がいつか別のお妃を娶る日が来るかもしれないことは、ご承知だったではありませんか。


 その相手が、大国主の娘姫だったのには、仰天しましたが――。


 でも、あの姫と高比古様は、もともと仲良くしておられました。実はこの文凪は、前からお二人の仲を怪しんでいたのです。阿多へ旅をなさった時は、何か月もお二人で過ごしたとのことですし――。


 それにしても、年頃のお二人を、何か月も一緒に暮らすようにお命じになった方の気が、知れたものじゃございませんわ。お噂では、そのようにお命じになったのは大国主のそえ、安曇様とのことですが――。このようなことが起こると、その方は危ぶまなかったのでしょうか? 


 とはいえ、高比古様という方は、誠実そうに見えて、とても不実な方でいらっしゃいますね――。



 でも、心依姫は、恋しい夫の悪口をいわれるのを嫌う。


 文凪は、胸の内で暴れ回るような文句を、懸命に飲み込んだ。それから、主の姫の傷をこれ以上深くしないようにと、慎重に言葉を選んだ。


「心依様、お気を強く。大丈夫です。こうなるとは、もともとわかっていたではありませんか……」


 でも、それはいい切ることができない。


 寝床の上で背中を丸めて小さくなっていた心依姫は顔をあげると、真っ向から文凪を睨んで、責めた。


「文凪は、こうなると思っていたの?」


 若い娘らしい細い声は、いつも通りの心依姫のものだ。しかし、つぶらな瞳は、世を恨む生霊や禍つまがつひを思わせるほど暗く翳っていた。


 長年仕える幼い姫の目に、文凪は震えた。


「いいえ、私は、その……いえ、思っておりませんよ」


 剣幕におされてうそぶいた文凪に、心依姫の怒りはおさまり、表情は一度落ちつきを見せる。


 それから、心依姫は細い指でぎゅっと掛け布を掴み、うわ言のように繰り返した。


「お願い、文凪。お姉様を……沖ノ島の巫女をここへ呼んで。どうしたらうまくいくのか、訊かないと……」


 でも、文凪は首を横に振るしかなかった。


 沖ノ島は、出雲からいくとなると七日はかかる場所だ。しかも、その島にある宗像の外宮に仕える巫女たちは、島を出るにも島へ入るにも宗像の長の許しがいる、特別な存在だった。


「姫様、それはできません。沖ノ島の巫女など……」


「呼んで! 出雲の事代や巫女に代わりができるなら、その人たちでもいいわ。いいから、早く呼んで!」


 絶叫するようにいった後で、心依姫は、うっうっと肩を揺らして慟哭した。


 様子がおかしいと、文凪は懸念せずにはいられなかった。


「姫様。どうか、お気をしっかり……」


 すると心依姫は、涙に濡れた目で、すがるように文凪を見上げた。


「文凪、どうしよう。御子が」


「え?」


「兄様の御子が、私の中から落ちてしまったの。もう、動かないの。命の緒が、切れているの――。せっかく兄様の御子を授かったのに、出雲の大巫女様のお言葉は間違いだと、信じられたのに――」


「姫様?」


 文凪は、目を見開いた。


 それから、えもいえぬ勢いで心依姫の腰から下を覆う掛け布に手を伸ばすと、一気に払いのけた。ばさりと翻った布の下には、心依姫の肌でぬるまった敷布がある。そこには、文凪の気を遠のかせるものがあった。心依姫の腰のあたりには、血の染みがあった。血だまりというべき、大きなものだ。


 流産だ――。


 それがなんなのかを悟ると、文凪は心依姫に代わって、悲鳴をあげて人を呼んだ。


「誰か、誰か雲宮へ早馬を! 取り上げ婆を、医師を呼んで! 高比古様をお呼びして!」





 同じ頃。宗像、沖ノ島のある北筑紫の海には、大和の船団が浮かんでいた。


 先頭の船に乗り、指揮を執ったのは、大和の若王、邇々芸ににぎ


 大陸と筑紫のあいだの大海にぽつんと浮かぶその小島は、宗像の都のある対馬つしまの島ほど大きくなく、断崖絶壁で、港にできそうな岸辺も狭く、船を寄せる場所はほとんどないといっていい。


 それでも、その島は、大八嶋おおやしまと大陸を行き来するには、絶好の中継地になりえた。


 それを、邇々芸のそばに控える穂耳ほみみは、同じ船に乗った異国の男にたしかめた。


「では、改めて問う。おまえがいっている島は、あの島で間違いないな? 韓国からくにと遠賀を行き来する航路の目印になる、唯一の島というのは――」


 穂耳が問いかけた相手の顔は、倭人の面とは少し違った。細面をしていて、顔の輪郭も目も細く、髪の結い方も、衣装も異なる。言葉づかいも、穂耳や邇々芸、それから船団を為す兵たちのものとはいくらか違った。それは、その男が、倭国の言葉をそれほど話し慣れていないせいだ。


「ええ。間違いない。韓国の者が倭国を目指す時は、いちいち壱岐いき対馬つしまなど、寄らないよ。遠回りだし、こっちの潮のほうが速い。目印になる場所がこの島しかなく、心細く、不便だが、早いし、便利だ」


 穂耳は、うなずいた。しかし、疑いを晴らす気はまだなく、彼は慎重にいった。


「一度、試してみたい。その航路が本当に使えて、あの小島が、宗像の壱岐と対馬に代わる港になるなら――」


 用心深い穂耳とは裏腹に、外洋を進む船の上で行く手の海原を眺める邇々芸は、海風に洗われたような涼しげな微笑を浮かべていた。


「いい島ではないか。乗っ取ってしまえば、難攻不落のいい岩砦になる。巫女、禰儀ねぎはすべて捕え、逆らうようなら殺してしまえばよい。とにかく、誰ひとり島から出すな。なによりまずいのは、宗像の都へ知らせに戻られることだ。あの島と、その先に続く航路を丸ごと大和のものとするまで、援軍が来るのを遅らせる。それでよいだろう? 穂耳」


 主から声をかけられると、穂耳は、几帳面な真顔を崩すことなく、小さくうなずいた。


「ええ。長ければ長いほどいいでしょう。せめて、ふた月――。この航路に詳しい韓国の船乗りは、今回、すでに大勢連れてきています。彼らの手を借りて、航行を試して、あの島が使えるとわかれば、すぐに次の布陣へ移れます」


 穂耳の言葉に、邇々芸は肩をすくめた。


「ふた月? 粗末なことをいうな。半年、もしくは一年しのげ。その間に陣を整え、この海の道を使って物を運び、我々の存在を韓国の都に知らしめよ。大陸のものは、これまでどおりに宗像を通って筑紫へ流れるだろうが、韓国の宝は、こちらでいただくことにする。……大陸の宝など、僕は正直、興味がない。くろかねの産地は、大陸より韓国だ。そうであろう?」


 びゅうびゅうと白い頬を吹き殴っていく沖の潮風の中で、邇々芸はくっと笑みをこぼした。


「我々の海の道が生まれれば、昔からあった海の道は、必ず廃れていく。宝を運ぶ道が狭まれば、北の海側の国々の力は弱まっていく。戦をする前に敵を弱らせるのは、当然の順序だ。勝てる戦というのは、戦を始める前から、そのように仕組まれているものだ」


 おびただしい数の戦船を従えて、青々とした海を進む先頭の船の舳先から、邇々芸は動こうとしなかった。そして、しだいに目の前に迫る険しい岩の島を見据えると、満足げに笑った。


「沖ノ島を、我らのものとせよ。あの島を手中におさめて、宗像を必要とせぬ、新しい海の道をつくらしめよ。なぜ、これまで、沖ノ島を通る航路を誰も利用しようとしなかったのか――。あの島が、宗像の海神を祭る聖地だから? ……馬鹿げている――。宗像を侵してはならないといういにしえの智慧は、間違いだ。古の技への過信は、新しいものが生まれるのを阻む愚かなものだと、いわざるをえまい?」




.........6話に続く


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