天帝の娘 (2)
それから二人は、庭の隅に置かれていた大岩に並んで腰かけて、待ち続けた。
大国主を西の宮に運んだ従者たちは、ほとんどが追い出されるようにして寝所を出ていた。
やがて、二人の目がはっと動いた。
その時、西の宮には動きが起きていて、大国主の寝所となった広間から、回廊へ姿を現した男がいた。安曇だった。
いつもよりゆっくりとした歩みで西の宮の回廊に出た安曇は、胸の内が読めそうにない重い笑顔を浮かべていた。
息を飲むようにして顔をあげた狭霧と高比古の真正面に来るように進み、足を止めると、安曇は、その奇妙な笑顔を二人へ向けた。
「いいよ。おいで――。いや、その前にたしかめておきたい」
回廊から庭を見下ろした安曇は、狭霧と高比古を一人ずつじっと見つめて、尋ねた。
「おまえたちは、結ばれることを望むんだな? それが、二人の意思なんだな? おまえたちは二人とも、それがなにを意味するか理解しているね?」
いい方は厳かで、荒ぶる神に仕える高位の
目を逸らすことなく、二人がじわりとうなずくと、安曇は微笑する。ふわりとした動きで背を向けると、安曇は二人をいざなった。
「わかった。こちらへ」
声がかかると、高比古は先に立ちあがって狭霧の手を引く。
「いこう」
でも、狭霧の腰は重かった。すぐさま安曇に従おうとした高比古を引きとめるように袖を指でつまむと、狭霧は見上げて、小声で嘆願した。
「お願い、高比古。次は、とうさまとちゃんと話して。いまは死にたくないでしょう? さっきみたいに、ただ打たれるような真似はしないで。お願い――」
高比古は、しばらく答えなかった。でも、苦笑すると、いった。
「わかった」
安曇に先駆をされて、二人が向かった先は、朝の光に溢れていた。
大国主の寝所は舘を丸々使っていたので、とても広々としていた。壁に備わった突き上げ式の窓はすべて開け放たれていたので、高い場所に据えられた四角い穴からは白い光が射し込み、広間の虚空には、光の壮麗な筋模様が仕上がっていた。
壁には渋い色味の糸で縁取られた壁掛けが垂れ、その手前には、飾り布を上から垂らした木製の間仕切りや、水壺に酒壺、食事が盛られた
大国主がいたのは、上座に敷かれた敷物の上だった。そこに置かれた肘置きに億劫そうに太い腕を乗せて、武芸に秀でた者らしい丸みを帯びた大きな背中を丸めて、あぐらをかいている。
麗しい朝の光が満ちた広間の中で、武王の姿は、黒い塊のように見えていた。
光の中にできた重い影になった大国主は、ほとんど身動きをせず、さっきのように問答無用で高比古を掴み上げたり、打ちすえたりするような、素早い身動きのできる存在には見えなかった。
だから、高比古は、出鼻をくじかれた気になった。
狭霧を奪ったと知れたら、大国主は、まず力でねじ伏せようとするだろうと考えた。そしてその時は、されるがままになろうと決めていた。
たとえ刃を抜かれても、命乞いをする気はなかった。逆らったのは事実で、申し開きできることなど、なにもなかったのだから。
それより気をつけなければと思ったのは、高比古がこれまでひれ伏してきた、冷徹な武王としての大国主だ。
興奮して手がつけられないふうに暴れ狂う大国主より、ほとんど身動きをしないくせに、唯人には見えない華のある気配や、鋭い眼光でぐさりと人を刺し貫く大国主のほうが、高比古は恐ろしかった。それに射抜かれて力の差を感じたことや、敗北を認めたことは、これまでに何度もあって、そのうえ、この男から与えられるその敗北感を、心地いいと感じてきた。だからこれまで、好んでこの男に頭を下げ、かしずいて、服従してきたのだ。
狭霧から、父と争ってくれと頼まれた時から、頭の中ではいくつもの方法を試していた。
力の差が明らかな格上の男を相手に、勝負を挑まなければいけなくなった。今度こそ正念場だと、そう思っていた。それなのに。
(いったい、どうしたんだ――)
寝所の奥で黒い影になる大国主は、さっきのように襲いかかるどころか、高比古の様子をうかがおうとすることもなかった。
安曇に導かれた二人が寝所に入った時に、一度顎をあげてちらりと目を向けたものの、それだけ。さっきみずから痛めつけた相手、高比古の顔をそれ以上見ることはなく、うつむいて、大国主が気にしたのは、娘、狭霧だけだった。
手招きをしてそばに呼び寄せたのも、娘だけだ。
「こっちへ来い、狭霧」
父王から声がかかると、狭霧は面食らったふうに高比古を見上げた。
その時、狭霧は高比古の陰に隠れるようにして立っていた。それは狭霧も、ここで起こることは庭で起きたことの続きだと、疑っていなかったからだ。それに、さっきの大国主は、狭霧を見ようとしなかった。いや、さきほどだけでなく、阿多でも、それまでも、溺愛してやまない愛娘とはいえ、大国主がそれほど狭霧を構うことはなかったはずだった。
でもいま、大国主が見ようとしたのは、娘だけだった。
狭霧は呼ばれるままに足を進めて、高比古の影から出ていく。
「はい、とうさま」
ゆっくりとした足取りで寝所の木床を踏み、父があぐらをかく敷物の前で足を止め、そこで膝をついて座るが、大国主は、片腕をかざしてさらに近くへ呼び寄せた。
「もっとこっちへ来い。そばに来て、顔を見せろ」
大国主が狭霧を座らせたのは、自分のすぐそばだった。
腕を回せば、狭霧の肩を抱けるような場所だ。
いわれるままに歩み寄って、狭霧がそこで膝をつくと、大国主は娘の顔を覗きこむ。仕草は、娘の顔色をうかがうようだった。
「狭霧、おれは、おまえの敵になったのか」
それは、ふだんの様子からは想像がつかない弱々しい声だった。
「敵?」
「……なんでもない。答えなくていい」
大国主は、ため息をついてその問いをうやむやにした。
それから、片腕を浮かせて狭霧の頬に手のひらを添えると、自分のほうを向かせる。熱心に娘を見つめるその目は、とても遠い場所にあるものを探るようだった。
「
いい方は、独り言をつぶやくようだった。
「娘が亡き妻とは違うことくらい、わかっていた。いや、そうじゃない。そうじゃないが、おまえはおれの物だったんだ。おれの、宝だったんだ。……いくな、狭霧。おれのそばにいてくれ」
大国主は深くうつむき、いまにも泣き出しそうに背中を丸めていた。涙こそ見せないが、武王の姿は泣き咽んで見えた。
その背後で、安曇は静かに立っている。彼は、力なく肩を落とす主を見守っていた。
二人の様子を、戸口に立つ高比古は呆然と見つめた。そうするしかできなかった。
「とうさま……」
狭霧も、目を丸くしていた。大国主は、自分を嘲笑うように顎を振った。
「馬鹿な父親だな、おれは。いまいったのは間違いだ。おまえが望むことをしてやらなくて、なにが親だ。黄泉の世で須勢理に会ったら、叱られてしまう。父らしい世話もできないおれにできるのは、それくらいなのに」
大国主の言葉は、涙に耐えるようにゆっくりだった。
「狭霧、おまえは、あいつに嫁ぎたいのか」
「……はい」
「本当に、あいつでいいんだな」
「はい」
「あいつか……。須勢理がいたら、どういっただろうなあ、狭霧。かあさまに、おまえがあいつのもとへいくといったら、許すかな。いやがるおれを説得するほうに回るかな。あいつを打ちすえたおれを、叱るかな。……たぶん叱るな」
腕を浮かせて、狭霧の肩を抱き寄せながら、大国主は思い出し笑いをするようにかすかに笑った。
「須勢理に会いたい――」
「……うん」
「須勢理。おれはどうすればいい……。おれは、狭霧を手放したくないんだよ。おまえの面影を残した、たった一人の娘を――。頼むよ、狭霧、離れるな。……うそだ。違う」
大国主は太い腕でぎゅっと狭霧を抱き寄せるが、相反する二つの想いに翻弄されるように、すぐに狭霧を離すと、手のひらで額をおさえて、ため息をついた。
「おれは、たまらなく情けない男だな。なにが武王だ、大国主だ」
それから。背後で自分を見守る安曇へ、少し大きな声で呼びかけた。
「安曇、おまえの意見は? もともとおまえは、狭霧は高比古に嫁がせろといっていたな」
「え?」
狭霧は、きょとんと目を丸くして顎をあげた。戸口に立つ高比古も、ついと視線を向かわせる。三人の目が向く先で、安曇は穏やかな笑みを浮かべた。
「はい、穴持様。でもそれは、武王の
「それは、変わらないか。盛耶ではなく、高比古でいいのか」
「はい、どちらでも。誰にも嫁ぎたくないというなら、私は狭霧の願いを重んじたでしょうが、狭霧が選んだ相手が高比古か盛耶のどちらかなら、問題はありません。私にとっても、あなたにとっても、よりよい選択でしょう。出雲としては、いまは正直考えたくありませんが、あえていうならば、このままずるずると混乱を迎えるよりは、意思を示すという点では都合がいいでしょう。ただし、問題は残ります――。もともと、狭霧の相手は、出雲、もしくは出雲の息がかかったいずれかの国の有力者か、大和。このうちのどれかが望まれていましたが、いずれも、話し合いではまとまらなかったでしょう。どちらにしても、戦、あるいは内乱が起きるのは必須。狭霧がひそかに相手を選び、あなたがそれを仕方なく許すという筋書きでなくては、決まらないでしょう。すくなくとも、大和との争いが目に見えるようになるまでは――」
「そうか――」
言葉を咀嚼するように、大国主は長い時間をかけてうなずき、しばらく黙った。
やがて、膝を立てて立ちあがると、呆気にとられる狭霧のそばを通り抜け、この場から立ち去ろうとした。
「安曇、来い。出かける。つき合え」
「はい、穴持様」
従順にうなずく安曇は、微笑していた。
「しかし、ここを出る前に、二人になにか言葉をかけるべきでは?」
「言葉?」
「ええ。あなたは高比古を打ちすえ、狭霧も不安にさせました」
安曇からうながされると、大国主はまず足もとでぼんやりとする狭霧を見て、それから、戸口につっ立ったままの高比古を見る。しかし、高比古の顔が目に入るなり、大国主の顔は宿敵を見つけたように険しくなった。
「明日、昼に二人でここへ来い。話はそれからだ。……いくぞ、安曇」
いうが早いか、肩で風を切って広間を横切り、大国主は西の宮の外を目指した。道を開けようと端へ寄った高比古のそばをすり抜けたものの、大国主が高比古と目を合わせようとすることはなく、遠ざかっていく背中も不機嫌で、苛立っていた。
後姿を見送った安曇は、くすくすと笑った。
「そんないい方では、これからまたひと悶着起きるのではと、二人が困るでしょうに」
柔らかく主を咎めた安曇は、狭霧と高比古に、主の言葉をいい換えて伝えることを忘れなかった。
「安心していいよ、二人とも。穴持様は、おまえたち二人の祝言を認めた。しばらくは不機嫌だろうが、それは仕方がないと腹をくくっておいてくれ」
安曇は、大国主を追ってこの寝所を出ようとした。そして、忠告を残した。
「穴持様がそうと決めたのだから、杵築の意思は決まった。……戦に備えることになるだろう。しかし、そのためには、穴持様よりよほど厄介な相手を説き伏せなくてはいけないことを忘れてはいけないよ。……明日、ここで決めよう。意宇へ、いつ出向くかを――」
安曇は一度、暗い目配せをして、鼻で笑った。
「私の勘だが、おまえたちの祝言を意宇に認めさせることは、まったく難しくないと思うよ。狭霧の身の上に繋がりが一つ増えて、宝が、ますます貴いものになるだけだからだ。――意味がわかるかい? ……もう、後戻りはできない。というより、したくない。してはいけない」
去り際に彼は、温かな微笑を浮かべて狭霧をじっと見下ろした。
「おめでとう、狭霧。幸せに。望むとおりにやりなさい。それが一番強い。出雲はどうにでもなる国だから」
狭霧ははにかんでうなずいたが、狭霧の目は、安曇が浮かべた深刻な表情を懸命に追っていた。
「安曇、それって、つまり……」
でも。いいやめると、すでに遠ざかった父の後姿を気にした。
「安曇、とうさまは――」
「ああ、戸惑っていらっしゃるだけだ。私がついているから、狭霧は気にしなくていいよ」
安曇は、狭霧が幼い頃から父代わりを務めていた人だ。最後に彼は、父親めいた優しい笑顔で狭霧とのやり取りを終えるが、それが済むと、態度を一変させた。
狭霧に背を向けた一瞬のあいだに、高位の武人らしい鋭い気配を帯びた安曇は、笑顔のままで高比古を睨みつけ、脅した。
「これで気が済んだか? 昨日までのふぬけた顔をもう見なくても済むと思うと、せいせいする。大国主の一番の宝を奪ったんだ。もちろん、それなりのことをしてみせるつもりだろうな? ――明日、顔を合わせるのを楽しみにしておく」
凄味のあるいい方でけしかけられると、高比古は呆気にとられたようにつぶやいた。
「……はい」
安曇が去り、大国主の寝所にいるのが狭霧と高比古の二人だけになると、高比古はぽつりといった。
「あいつ、なんか怖さに磨きがかかったぞ。うまくいえないが、須佐乃男っぽくなったというか――」
高比古はふしぎなものを見るように、遠ざかりゆく安曇の後姿を目で追っていた。
それから、二人だけになった寝所をぐるりと見渡し、上座の敷物の上でぼんやりとする狭霧と目を合わせると、肩をすくめた。
「それにしても、おれはまた、かやの外だった」
「かやの外?」
「ああ。一応、どうにかしてあんたと生きる許しをもらえるようにって、考えてたんだけどな。妻問いっていうのは、欲しがった男じゃなくて、親と娘でするものかもな。……まあ、いいや。これであんたは、おれのものになった」
高比古は、こみ上げる笑いを噛み殺しきれないというふうに笑った。でも、ある時はっとすると、急におずおずと尋ねた。
「あんたは、これでよかったか? おれが相手でよかったか」
「今さらなにを尋ねるのよ。さっき、あれだけとうさまにそうだといったのを、聞いていなかったの?」
狭霧ははにかんで、それから、何度も首を横に振った。
「困ったことはたくさんできたけど、もういい。あなたといられることと比べたら、それより大きな問題なんか、一つもないもの」
きっぱりというと、高比古は、ほっとしたように口もとをほころばせた。
「なあ……」
さっきは手をほどけといったくせに、高比古は手で狭霧の指に触れて、手をつなごうと誘った。
そうして、手をつないで西の宮から本宮へ続く渡殿を歩いていると、本宮の庭にいた黒づくめの一行と、ちょうどはち合わせることになる。その一行は、毛皮や獣皮で縒った帯や、剣の鞘など、出雲ではあまり見かけない異国風の品を身につけていた。
先頭にいた若い青年は、狭霧の姿を見つけると、ぱっと顔をあげて一歩を踏み出した。
「さぎ……」
でも、狭霧のそばにいる高比古に気づき、そのうえ、高比古と狭霧の手が結ばれているのを見つけると、激昂したふうに眉間にしわをよせた。
「さ、狭霧……! そいつから離れろ。高比古、貴様はいったいなにをしているんだ? 血迷ったのか!」
そう叫んだのは、一行の長、盛耶。
高比古は、盛耶がここにいる理由に気づいた。
(大国主に妻問いをしにくるっていってたっけ。狭霧を、大和へ渡すまいとか)
昨日も彼は、ここを訪れていたが、昨日は大国主がここを留守にしていた。不在を嘆いた彼は、そういえば、翌朝出直そうと部下たちと話していた。
(黙れよ、馬鹿)
高比古は、つないだ手と手を見せびらかすように、すこし浮かせた。
「悪かったな、先を越した。ちょうどいま、大国主に話をつけたところだ」
盛耶はくわっと目を見開き、大きく口をあけた。
「先を越した? 話をつけただと? 親父がうんといったのか? まさか……! おれが何度いっても、聞く耳持たなかったんだぞ!」
それを聞くと、高比古には、小さな笑いがこみ上げた。
ぎりぎりだったんだな――とも思った。
さきほど大国主の寝所で交わされた話を聞く限り、安曇は、出雲の武王としてはともかく、男親としてなら、狭霧は盛耶か高比古に嫁がせるべきだと大国主に進言していたらしい。
高比古がそういう思惑を感じたことは、実は、ないわけではなかった。安曇は盛耶に甘かったし、たぶん、自分にも甘かった。それに、安曇は、須佐乃男と彦名の意思と知った上で、狭霧を大和へやるのを阻もうとしていたはずだ。そうでなければ、前に阿多へいった時に、高比古に狭霧の守り人役をいいつけることはなかっただろう。指一本狭霧に触れさせるなと命じたわりに、安曇は、狭霧が火悉海から求婚されるのを黙認していた。高比古と狭霧が親しくなるのも。
もしも盛耶が高比古の先を越して、狭霧のもとにいっていたら――。安曇は盛耶が相手でも、祝言を認めるように大国主に助言したかもしれない。狭霧が、拒みさえしなければ。
(こいつはもう、おれのだよ)
心地よい興奮がむずむずとこみ上げた。いつのまにか身の内に得ていた新しい牙に気づいた気分で、その切れ味を試すのを楽しみたくもなった。
「信じられないなら、大国主に聞けよ。いっておくが、これからおまえがなにをしようが、狭霧は絶対におまえの手に入らない。狭霧は、もうおれの妻だ。意味がわかるか?」
つないだ手をほどいて狭霧の肩を抱き寄せた高比古は、仲の良さを見せつけるように狭霧の黒髪に頬を近づけた。
朝方、高比古が大国主の逆鱗に触れたという噂はすっかり広まって、ことの成り行きを追おうと、本宮には、館衆も侍女も下男も、大勢が集まっていた。
大勢のやじ馬の前で、これまでとは打って変わって攻撃的な態度をとり始めた高比古に、狭霧が慌てた。
「た、高比古……」
盛耶は、高比古が言葉に隠した意味に気づいたらしい。彼は、猛り立って怒鳴った。
「夜這いやがったな。この、悪党……!」
「おまえと一緒にするな」
高比古は冷笑を浮かべる。でも、昨晩のことを思い返すと、「まあ、たしかに、似たようなものだな」と、胸の底で恥ずかしくもなった。
それで、狭霧に耳打ちをした。
「うるさいから、逃げよう、狭霧」
「う、うん?」
「どこかへいこう」
「どこかって、どこへ――」
「どこでも。いいから。いまは役目を忘れることにする」
「役目を? いいの? 忙しいんじゃ……」
「いい。今のおれがどこかへいっても、なにもできないよ。あんたを手に入れて、浮かれてるから」
「浮かれてる? 高比古が?」
「ああ、そうだよ」
ぽかんとして狭霧が尋ね返す頃には、すでに高比古は狭霧の腕を引いて、回廊から庭へ飛び下りていた。
そのまま、狭霧は、高比古から腕を引っ張られることになった。
わななきながら見送る盛耶の目の前を通り抜け、朝からの妻問い騒ぎを見守る大勢の人々の好奇な眼差しをかいくぐり――。そして、兵舎にいきつくと、馬屋で馬を借りて、走らせる。
雲宮の門を目指して大路を駆け、その門も抜けると、その向こうには青々とした稲畑が広がっていた。なみなみと水をたたえた水路が、稲田の緑色を囲んでいる。
見慣れた杵築の山々は黒々とした深緑に覆われ、雄大にそびえている。雲ひとつない青空には鳶が舞い、ひゅーひゅると涼しげな声を、天から大地へ降らせていた。
夏の景色は、山の緑も、空の青も、地面も、どれもこれもが色濃かった。
二人が駆る馬の蹄が蹴り上げる道の砂も、真夏の陽光に照らし出されて、驚くほど白く輝いている。
隣り合って馬を走らせながら、狭霧は尋ねた。
「高比古、ねえ! どこへいくの」
「どこでも」
ぬるい風を切りながら横を向いた高比古の顔には、どこまでも澄んだ夏の青空に似た、清々しい笑みが浮かんでいた。
「あんたを腕に抱けるところならどこでもいい。人がいないところのほうがいいだろ? 誰かに見られても気にしないなら、そのあたりでも……」
「ちょっと、あなたね。いったいなんの話をしているの」
狭霧が真っ赤になって咎めても、高比古はずっと笑っていた。
自分でいったとおり、たしかに彼は浮かれていた。でも、今のように浮かれてようやく、やっとふつうの若者らしく、齢相応に爽やかになったというふうだ。
そして、そういう高比古の笑顔は、見ている狭霧を笑顔にさせた。
いま彼がしているのは、彼が覚えたばかりの新しい表情だ。そう思うと、狭霧は、笑みがこぼれて仕方なかった。
結局、二人が行き着いた場所は、青い海にせり出した小さな岬の上だった。
立派な松の木が一本立っていたので、そこに馬の手綱を結わえて、木陰に二人で腰を下ろす。
狭霧を後ろから抱きしめて夏草の上に座った高比古は、そこから動こうとしなかった。
人の目がない場所を選んだとはいえ、馬から下りるなり抱きついて、なかば強引に腕に抱く高比古に、狭霧はしばらく目を白黒させていた。
でも、二人で寄り添うことにしだいに慣れていくと、狭霧も、高比古の腕の中にいることを不思議がることはなくなった。
「このまま、ずっと一緒にいたい」
「うん……」
海へ向かって吹く風がぴゅうっと強く頬のそばを通り過ぎれば、それだけでくすくすと笑い合う。二人で腰を下ろす海際の野に、あどけない白百合の花が咲いているのを見つけたら、それだけでも目を合わせた。目が合うたびに高比古は狭霧をぎゅっと抱きしめ、首を伸ばして狭霧の頬に唇を添わせるので、狭霧はそれを拒むふりをした。
やり取りを続けるうちに時が過ぎ、日が頂きにのぼって、二人に涼風を与えていた大樹の影が、ぎりぎりまで短くなると――。
狭霧の耳もとで、高比古は寂しげなため息をついた。
「そろそろ、いかないと」
じゃれ合うのを、高比古は狭霧以上に楽しんでいたはずだった。その高比古の声が落ち着いてしまうと、狭霧の声も小さくなった。
「うん……」
後ろから抱きしめる高比古の腕に添わせた手に、狭霧は、名残を惜しむようにきゅっと力を込めた。それに応えるように、高比古も背を丸めて、狭霧の肩に顎を乗せた。
「なあ……こんな話がある」
高比古がぽつりと話し始めたのは、大陸の昔話だった。
「あるところに、天帝の娘と男がいた。二人は恋に落ちて、男は、娘の父神から祝言の許しをもらった。二人は仲睦まじく暮らしたが、仲が良すぎて、役目を怠るようになった。見かねた父神は、二人を、永遠に会えない場所に引き離してしまった」
「え……? その話って――?」
「夏の夜空に見える、天の川の話らしいよ。天の川の両岸には、天帝の怒りをかって引き離された娘と男が、星になって浮かんでいるらしい。離れ離れになって――」
高比古は、後ろから狭霧の髪に頬をうずめて、残りわずかになった逢瀬の時を惜しんだ。
「もっとあんたといたいよ。正直、役目なんかさぼってしまいたい。でも、ちゃんといかないと――。そうしないと、大国主に会わせる顔がない」
高比古のいい方は寂しげだったが、小声の底には、頼もしいと狭霧に感じさせる堅固なものが生まれていた。だから、狭霧は、自分を包み込む腕に唇をうずめた。彼のことが、ますますいとしくなった。
「うん――。わたしも、今までよりがんばる。高比古と結ばれたのが一番良かったんだって、どの人にもいってもらえるようにしなくちゃね」
もう、いかなくては。
二人だけの居場所を出て、居るべき場所に戻らなければ――。
しんみりとした沈黙の中、海へ向かって吹く風が、びゅうびゅうと音を立てて何度も二人の耳もとを通り過ぎていった。
さあ、手を放そう。立ちあがろう――。
胸にいい聞かせながら、そのまま、すこし時が経った時。高比古が、おずおずと唇をひらいた。
「なあ」
「うん?」
高比古は、狭霧の耳もとで照れ臭そうにいった。
「おれの子供を、産んでくれるか」
「え?」
狭霧は耳を疑うように、後ろを振り返りかけた。でも、高比古が背後から狭霧にしがみつくので、それはできない。狭霧の髪に頬を押しつけて、高比古は表情を隠そうとした。
「子供が欲しい。なんていうか、そういうのをやってみたくなった。……あんたなら、いい母親になりそうだし」
頼み込むようだったり、いいわけをするようだったりする彼のいい方が微笑ましいと、狭霧は思ってしまった。だから、すがりつくような腕を自分のもとに捕まえるように、ぎゅっと抱きしめた。
「心配しなくても、いつか王様になる人のお妃になったんだから、そうしなくちゃいけないわよ。わたしも、早くあなたの子に会いたい」
それは、心からの願いだった。狭霧の顔にも声にも、幸せが溢れていた。
でも、高比古は頼み込むようないい方をやめなかった。
「なあ。もし、その子におれみたいな妙な力があったらどうする?」
狭霧はくすくすと笑った。
「なんの心配をしているの? どんな子だって、絶対にいい子だよ。早く会いたい」
するとようやく、高比古の腕から、ほっとしたふうに力が抜けていく。
彼は、満足そうにつぶやいた。
「……そうだよな、平気だよな」
雲宮へ戻った二人が別れた場所は、狭霧の寝所のある東の宮の庭先。
狭霧がそこへ戻るというので、大路を馬でいってそこまで乗りつけ、狭霧の馬の手綱を預かった高比古は、一人でそこから兵舎へ向かうことになった。
夏草が咲き乱れる庭先で、高比古は狭霧へ約束をねだった。
「夕刻、また会おう?」
「うん。ここで?」
「ここで。用が終わったら、すぐに来るよ」
「わたしも、お役目が済んだらここで待ってるね」
手と手をつなぎながら約束を交わした時、二人のあいだを吹き抜けた夏の風には、庭で咲き誇る花々の蜜を乗せた、甘い香りが漂っていた。
別れ間際に、二人は約束を確かめ合うように額と額をくっつける。
鼻先をくすぐる甘い香りや、自分の身体を丸ごと包もうとする頑丈な腕。安堵をくれる人肌のぬくもりや、すこし照れ臭そうな笑顔――。狭霧は、そばにあるすべてに、幸せを感じずにはいられなかった。でも、しだいに、幸せすぎることに不安を感じ始めた。
「ねえ、高比古。わたし、心依姫のところにいかなくちゃ。わたしもあなたの奥方になってしまったって、伝えにいかなくちゃ」
不安に駆られたようないい方をしたせいか。
高比古はその唇を、自分の唇で塞いでしまった。
くちづけは、「あんたが不安がることじゃない」と狭霧をいい諭すようだった。花の蜜のように甘いくちづけが終わると、高比古は狭霧をまっすぐに見下ろして、真摯に笑った。
「明日、いこう。心依にはおれが話すから」
笑顔には、心依姫への思いやりも表れていた。
きっと今の高比古なら、自然に相手を思いやることができて、心依姫が受ける心の傷をできるだけ小さくするすべも、懸命に考えることだろう。
そう感じると、狭霧はむしょうに泣きたくなって、高比古の胸に抱きついた。
彼は、今朝よりも、昨日よりも、その前よりも、とても強くて頼もしくなった。そう感じると、彼を称えずにはいられなかった。
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