天帝の娘 (1)



 夜中のうちに何度目を覚ましたかを、高比古は覚えていられなかった。


 ろくに眠れなかったが、目が覚めて、まだ夜中かとあたりの闇を見やるたびに、うつらうつらとしたわずかな間に、とても幸せな夢を見たと思った。


 夜中に気づくたびに、高比古の胴に回った温かな腕は、いかせまいとするように力強くしがみついていた。


 腕の中に、いま、家族の幸せがある。こいつは、おれのだ――。そう感じるたびにいとしさがこみ上げて、起こさないようにと、背中まで落ちた黒髪をそっと撫でた。


 でも、何度目かののちにまぶたをあけていくと、目に見える景色は闇ではなく、朝の光に覆われていた。舘の一角につくられた小さな寝所の壁の木目や、隅に並んだ飾り籠や鏡。娘の居場所にふさわしい小物の数々が、澄んだ光の中にうっすらと浮き上がって見えた。


(朝だ。いかないと)


 呪いに誘われるようにそう思うと、身体を傾けて、狭霧の腕の中から胴を抜く。


 狭霧の身体を白い褥の上にそっと横たえて、二人の身体を包んでいた掛け布を白い背中にかけても、狭霧は眠っていた。いや、ある時ぱちりと目をあけると、がばっと身を起こした。


「高比古……?」


 狭霧は、大事な失せ物に気づいたかのように血相を変えていた。


 高比古は、寝床のそばで衣の袖に腕を通していたが、狭霧を見下ろすと、苦笑した。


「まだ早いよ。寝てろよ」


「……高比古は、どこへいくのよ」


「あんたの親父に会いにいく」


「いまから? こんなに早い時間に?」


「朝には戻ると聞いた。大国主の寝所の前で戻るのを待つよ」


 狭霧は、自分の身体を覆う掛け布を握り締めながら、ぶるぶると首を横に振った。目は昨夜と同じく、寂しげに潤んだ。


「でも、だって……」


「本当をいうと、夜の間は、身を清めていこうと思っていたんだ。神野くまのの巫女が自分の命を賭けて呪いをかける時は、必ずその前にみそぎをするという話を聞いたから、おれもそうすべきだと思って」


 涙目になる狭霧を見下ろして、高比古は静かに笑った。


「でも、いまになって寂しくなった。おれは巫女じゃないし、万が一の時は、あんたに触れた身で逝きたい。だから、このままでいくよ」


「万が一って、高比古……」


 狭霧はうつむいて涙をぬぐった。でも、すぐに顔をあげて高比古を睨みつけた。


「いやだ。高比古に手をかけるような真似なんか、絶対にさせない。だいいち、わたしたちは悪いことをしたわけじゃない……!」


「あんたはな。でも、おれは、主を裏切った」


「どうして? わたしがそう望んだのに……! 拒まなかったのはわたしよ。高比古をここに招き入れたのも……」


「それでも、駄目な時は駄目だ。あの人は、荒神みたいなものだから」


「どうして――。とうさまに、じっくり話そう?」


「……できない。説得したいと思えない」


 ぽろぽろと涙をこぼしてうつむく狭霧の頬を、高比古は手のひらで支えた。頬を包んだ手のひらでそっと上を向かせると、目を細めて、狭霧へくちづけた。


 仕草は自分だけの大切な宝に触れるようで、たった一晩を二人で過ごしただけで、触れ合うことに遠慮はなくなっていた。


 狭霧も、いつかのように「そばにいってもいい?」とわざわざ断ることもなく、自分だけの大切なものに触れるように高比古に寄り添うと、背中に白い腕を回した。


 高比古の胸に頬を預けた狭霧は、朝の光に晒した肩を小刻みに震わせた。


「どうして。……説得してよ。とうさまに、ちゃんと話をしてよ。出雲を二分するのを阻むためとか、わたしがそう望んだからとか、理由はいくつもつくれるでしょう? どうして、なにもしないうちから……」


「そんなものは些細な理由だよ。要は、おれがあの人の持ち物を奪ったか、そうでないか。おれは、あの人の一番大事なものを無断で奪った。そんなの――殺される覚悟がないと、おれがあの人にたてつくなんて無理だよ。あんたの親父は、おれが服従してる相手なんだから」


「わたしが、とうさまの持ち物? わたしはそんなじゃ……!」


「そうなんだよ。あの人にとってはそうなんだ」


 高比古が、わずかたりとも躊躇いを見せなかったせいか。狭霧は問いを変えた。


「なら、一緒についていってもいい?」


 高比古は、すこし悩んだ後で答えた。


「いいよ。あんたも当事者だもんな。でも、口は挟むなよ」


「絶対に、いや。あなたまで目の前で失うくらいなら、わたしだって死ぬ気で抗う」


 狭霧の目は、命を賭けるふうだった。


 むしろ、狭霧のほうが高比古より命を賭け慣れているというふうで、眼差しは、呪いを跳ね返す奇妙な壁のように見えた。


「どうして、あんたまで命を賭けてくれるんだ。そんなのは、馬鹿な真似をしたおれだけでいいのに。どうして、おれを恨まないんだ? おれはあんたを、おれのわがままに付き合わせたのに……」


 心から不思議に思ってつぶやくと、狭霧は思い切り眉山を寄せて、睨んだ。


「いまさらなにをいっているのよ、あなたは――!」


 強い眼差しは高比古を責めていて、迷いめいたものは、狭霧の顔にほんのひとかけもなかった。


 その理由に、高比古はすぐに気づいた。


 狭霧はかつて、想い人を目の前で亡くしている。その王子を殺したのは父、大国主で、高比古もその場でそれを見ていた。その王子が処刑された後に、気を失った狭霧が生きたまま魂を飛ばして死にかけた姿も、高比古はよく覚えていた。


 狭霧は怒っていた。でも――。


「――ごめん。それでも、いまのおれに、生きようとは思えない」


 涙目で睨みつける狭霧へ、高比古ができたのは苦笑で応えることだけだった。


「頭ではわかってるんだ。こんなことしかいえなくて、ごめん……。幸せにしてやるっていえなくて、ごめん。こんなことをして、この後本当におれが殺されたら、あんたを哀しませて、そのうえ、なにもかもがめちゃくちゃになるのに――。おれは、とてもわがままだ。でも、あんたが欲しくてたまらなかった。手に入るのはたった一晩だけかもしれないとは思ったが、それでも……」


 一度、高比古は言葉を濁した。でも、じわじわと温かな笑みを浮かべながら、正直に告げた。


「一晩あんたといて、家族がいる幻を想像してしまった。家族なんておれは知らないのに、とても幸せだったんだ。あれほど満足したのは、昨日がはじめてだった」


 狭霧は、眉をひそめて目を逸らした。


「家族? たった一晩の家族なんて、なんの意味もないわよ。なんの意味も……」


「そんなふうにいうなよ。おれは満足してたんだから」


「わたしは絶対に満足しない。たった一晩だけの幸せなんか、誰が……」


 狭霧の目に、涙が溢れた。その涙を押しつけるように、狭霧はぎゅっと高比古に抱きついた。


「悔しい――」


「え?」


「悔しいよ。どうして……! あなたのことを、いつからこんなに好きになっていたんだろう。昨日までと、全然ちがうの。いったいなにが起きたんだろう? 会ったばかりの時なんか、わたしは、高比古のことなんて大嫌いだったのに――」


 狭霧が、二人が出会った頃の話を始めると、高比古はその耳もとでくすっと笑った。


「それは、うん。おれも同じだ。おれは、あんたのことが大嫌いだった。あんた以上に嫌いだと思った奴は、後にも先にも、ほかにいない」


 断言すると、狭霧は機嫌を損ねた。ぷうと唇を尖らせると、仕返しをするようにいった。


「わたしだってそうよ。あなたほど気に食わない相手はいなかったわよ。高比古って、冷たくて、性格が悪くて、わたしのことをいじめてばかりで」


 でも、そうやって不仲だった頃のことをいい合うと、高比古の背中に回った狭霧の手にはいっそうぎゅっと力がこもって、狭霧を自分のもとに抱き寄せる高比古の腕も、ますます力強くなる。


「ふしぎだな。あんなにあんたのことが嫌いだったのに、どうして今はこんなに近くにいるんだろうな」


「……うん。特別大嫌いだった人を、どうして、いつのまにか特別大好きになるんだろうね」


「わからないが、自分じゃ絶対に手に入らないものを、あんたはたくさんもっているから? ……いや、どうでもいいことだな」


 狭霧の黒髪から背中までをそうっと撫でて、高比古はつぶやいた。


「おれは、あんたが好きだ。そばにいて欲しい。そばにいたい」


 それから、狭霧の髪に頬を寄せて、笑った。


「ふしぎだな。昨日、あんたを腕に抱くまで、おれは、いらついて仕方なかったんだ。へんなもやみたいなものが、ずっと胸にあって――。それが、こんな簡単な言葉一つでまとまって、そのうえ、口に出すとすっきりする。……おれは、あんたを好きで、あんたにとっての特別な奴になりたかったんだな。たぶん、こうやって抱きたかったんだ。こうやって、触れて――」


「じゃあ、どうして死んでもいいなんていうのよ。一度でも死んだら、絶対にもとには戻らないのよ? もう二度と同じようには……今みたいには――!」


「だから、ごめん」


 高比古はすぐに謝った。


「あんたは大事だよ。でも、おれはあんたのとうさまも大事だ。あんたを腕に抱けるのは嬉しいが、同時に、罪だと感じてたまらない。……あんたも、そうだろう? おれと同じか、それ以上に自分の親が大事だろう? 例えば、おれがいま出雲を去ろうっていったら、あんたはおれと一緒に逃げるか?」


 狭霧は、すぐさま声を荒げた。


「逃げるわよ。一度、逃げなくて後悔したことがあるもの!」


「……しまった。問いを間違えたな」


「そうよ。逃げようなんて、あなたは考えていないでしょう? そんなことは、口が裂けてもいわないくせに!」


 狭霧はしがみついて責めた。 


「逃げるほうがいいなら、逃げればいいのよ。大事なものなら、守ればいいのよ。後で痛い目を見るのもかまわずに、そうやって格好ばっかりつけて、男の子なんか嫌いよ!」


 狭霧は高比古だけではなく、前に狭霧の目の前で死ぬことを選んだ幼馴染の王子のことも責めていた。


「……ごめん」


 高比古はすぐに謝った。狭霧がいったことは、あながち間違ってはいないと思ったからだ。


 でも、いい返さずにはいられなかった。


「あんただって、逃げようとしなかったくせに」


「わたしが?」


「ああ、そうだよ。あんたは大和に人質として向かうのを、覚悟していただろう? 大和に嫁ぐ日のあんたと、今日のおれはたぶん同じだ。だから今は、おれの好きなようにさせろよ」


 狭霧は、とうとう唇を閉じた。


 でも、悔し紛れというふうにやはり責めた。


「……もう! 冷静なふりをしているだけで、男の子はとてもわがままだと思う!」


「ごめん」


 やはり狭霧がいうのが的外れではない気がして、高比古は従順に謝った。


 その時に限って、狭霧は謝罪や心変わりを求めているふうではなかった。高比古の胴を細腕でがんじがらめにするように抱きつくと、決意を口にした。


「いい。わたしも今、ものすごくわがままになったから。出雲なんかどうでもいい。誰が不幸になっても、傷ついても、どうなっても、わたしはあなたといたい……! 高比古は、絶対に死なせないから」


 狭霧の言葉は、高比古とは真逆なほど力強かった。だから、高比古は笑った。


「あんたは、やっぱり強いよ」



 

 

 寝所を出る前からずっと、狭霧は高比古とつないだ手を放そうとしなかった。


 すでに朝が来ていて、東の宮の回廊には朝の仕事に励む侍女の姿がある。


 自分の寝所から、青年をともなって回廊へ姿を現した狭霧に気づくなり、侍女たちはぎょっと目を見開いて、青ざめた。狭霧が、大国主が溺愛する愛娘だということは、この宮に仕える者なら誰もが承知だ。その狭霧が、仲を隠そうともせずに高比古と手をつないで、それどころか、父の居場所、本宮を目指すので、侍女たちは庭へ下りたり、隅へ寄ったりして道を空けるものの、血相を変えて慌てて、ひそひそと噂をした。


「た、たいへんよ。お館様に知れたら……」


 でも、狭霧は見向きもしなかった。


 前を見据える毅然とした目つきは、自分が高比古を守るといいたげで、一緒に歩いている高比古が寂しくなるほどだ。


(あんたのほうが、武人らしいっていうのかな。でも、ごめん――。それでもやっぱり、おれは命乞いをしたいと思えないんだ。おれがあの人を裏切ったのは、事実だから――)


 仕方なく、高比古はぐいと狭霧の手を引いて、先に一歩を踏み出した。


 突然歩調を変えた高比古を、狭霧は訝しげに見上げる。目つきは、戦慣れした武人に見えた。この先にある戦など、まるで怖くない。狭霧の目はそんなふうに先の争いを見ているようで、顔つきも気配も、すでに攻めの手を打ち始めているかのようだ。


 それを、高比古は苦笑で宥めた。


「すこし下がれよ。おれの立つ瀬がないじゃないかよ。それに、大国主の前では口を挟むなよ。おれは――」


「いやだ、高比……」


「おれもいやなんだ」


 拒んだ狭霧を、高比古は拒み返した。


「先に、おれと大国主で一騎打ちをさせろよ。女の手を借りてあんたを手に入れるようじゃ、生きながらえたところで、大国主は一生おれを認めない。あの人に見下されたまま生き延びるくらいなら、おれは――」


「男の子は本当、格好ばっかりつけて……」


 狭霧は、さも嫌気がさすといわんばかりに横を向いた。高比古は苦笑した。


「でも、相手も男なんだよ。頼むぞ? 口を出すな」


 強い口調で念を押すと、渋々というふうに狭霧はうなずいた。


 でも、前を見据える狭霧の目は、これまでと同じふうに前を睨んでぎらついていた。





 本宮の広間は大国主の昼間の居場所で、雲宮の政務の中心でもある。


 まだ地面に朝の白霧が残るほど早い時間だ。本宮の広間に館衆の姿はなかったが、代わりに、せっせと床を磨く下男たちの姿がある。


 大国主の寝所は、本宮を越えた先に建つ、西の宮にある。


 本宮の入り口を過ぎ、西の宮とを繋ぐ渡殿へ向かい、そこを通って西の宮の回廊へたどり着いたところで、高比古は足を止めた。


「ここで待つよ」


 長居を覚悟するようにいって、高比古がその場であぐらをかくと、狭霧も隣で正座をした。


 隣り合って座っても、狭霧はつないだ手と手を放そうとしなかった。


「放せよ。こんなところで」


「いや。放したら、高比古はわたしのことを忘れるもの」


「隣にいるのに、そんなわけないじゃ……」


「あるのよ。手を放したら、あなたはどんどん死んでもいいって思うようになるの。絶対に放さない」


 狭霧のいい方は、予言をするようだった。高比古は苦笑した。


「あんたって、妙に鋭いよな」


 狭霧は、にこりともせずに高比古を見上げた。


「高比古がおかしいのよ。いつもは鋭いし、人一倍好戦的なくせに、今は……」


 でも、それ以上はいわなかった。諦めたふうに首を横に振ると、渡殿の先をじっと見つめた。


 その渡殿は、大国主の寝所を目指すなら、必ず通らなければいけない道。


 二人が座りこんだ場所からは、渡殿の向こう、本宮の回廊も眺めることができた。


 そこは、大国主が寝所を目指そうが、本宮を目指そうが、雲宮に帰って来れば、その人の気配を必ずたしかめられる場所だった。





 本宮が慌ただしくなったのは、それからしばらく経ってからだった。


 一人、また一人と、本宮の前の庭には雅びな衣装に身を包んだ館衆の姿が増えていく。そうかと思えば、彼らの頭上高い場所に、馬に乗る大柄な男たちの姿が見え隠れし始める。大国主の警護を務める武人たちだ。


 早々と馬を下りた警護の武人たちと違って、本宮の前庭ぎりぎりの場所まで馬で乗りつけた武人が数人いた。そのいずれもが雲宮では指折りの位をもつ武人で、どの男も高比古はよく知っていた。そして、その中には、高比古にごくりと息を飲ませる男の姿もあった。


(来た――)


 狭霧の手を握る高比古の手が、きゅっとこわばった。それを握り返す狭霧の指にも、力がこもった。


 本宮の前庭では、騒ぎが起きていた。


 何人もの舘衆が、おのおの声をあげてなにかを知らせ合っていたが、そのうち、馬上にいた武人の中でもひときわ豪奢な衣装に身を包む大柄な男が、朝の風を切り裂くような速さで首を動かした。その男の両耳のそばで結った角髪みづらの形も、黒髪を彩る飾りも、首や肩や、頭の輪郭も――。どれも、高比古にとっては目に焼き付けるようにして覚えたものだった。高比古が憧れてやまなかった男、大国主だ。


(おれは、この男を、裏切った。この男に認めて欲しくて、この人の子供になりたくて、ここまで来たのに。……でも、悔いはない)


 胸は、静かだった。


 そのうちに、遠くに見えていた大国主はばっと身をひるがえして、身体ごとで西の宮の方角を向いた。


 大国主の一行がいる本宮の前庭と、高比古と狭霧が隣り合って待つ西の宮の間には庭があり、見える姿はお互い遠く、しかも庭に立つ木々に隠されている。でも、高比古は、大国主の憤怒の表情を見た気がした。睨まれれば呪いがかかって、すぐさま石にされてしまいそうな形相で、射抜かれたとも。


 きっと、大国主はそこで、噂を聞きつけた館衆から話をされたのだろう。


 馬から飛び降りた大国主は、飛び上がるようにして本宮へ続くきざはしを上り、どかどかと荒い足音を立てて回廊を進んだ。


 大水が押し寄せるような怒涛の勢いで進む大国主は、あっという間に西の宮へと続く渡殿にいきつき、そこに姿を現す。その時、大国主は身を炎で覆ったかのように怒りをあらわにしていた。


 その背後を、怒りをおさめようと大勢の従者たちが追っている。


「大国主、どうか穏便に!」


「狭霧様のお相手は高比古様です、どうか……!」


 大国主には、娘の寝所から高比古が出てきたというところまで、細かく伝わっているらしい。


 姿を現すものの、大国主はそこにいる娘には目もくれなかった。大国主は高比古ただ一人に狙いを定めて、くわっと目を剥いた。


「おまえが、狭霧を……。このくそがきが……」


 角髪に結われているのに髪は逆立って見え、無言のうちに幾多の兵を従わせる華のある黒目は、すぐさまひざまずいて命で詫びろと、高比古を脅した。


 怒りが滾ってままならないというふうに、大国主はそこで仁王立ちになるが、高比古と狭霧の間で手が結ばれているのを見つけると、火の山がぼっと炎を噴いたようになり、太い腕が宙を薙ぎ、手のひらが剣の柄へ向かった。


「高比古……!」


 狭霧は庇おうと膝を立てたが、大国主のほうが早かった。


 炎で覆われた大岩がごろごろと音を立てて迫りくるように、大股で一気にそばまでやってくると、ためらうこともなく腕を伸ばして、高比古の胸倉を掴む。


 それから、高比古の腹を蹴り上げて、そのまま力ずくで庭へと放り投げた。


「高比古……!」


 背後で娘があげた悲鳴を、大国主は聞こうとしなかった。


「おまえが狭霧を汚したというのか、おまえが……!」


 やはり娘には見向きもせずに、投げ飛ばされた高比古を追って、自分も渡殿から飛び降りる。それから、鞘がついたままの剣を帯から抜くと、地面の上で起き上がろうとしていた高比古の頭を、思い切り打ちすえた。


「高比古!」


 蹴られて、投げ飛ばされて、そのうえ力任せに打ちすえられて。高比古の身体は再び宙を浮いて、横へと吹っ飛ぶ。


 地面に転げるが、高比古が抗うことはなく、次に打たれるのを待つように、ただゆっくりと起き上がる。額と口もとには血が流れていた。


 大国主は再び、鞘をかぶったままの剣を振りあげたが、その時には大国主の背後には大勢がついて、何人もの腕で羽がい締めにされていた。


「穴持様……!」


「大国主、お願いですから……!」


 大国主の正面に飛び出した、少女の影もあった。


 高比古を庇おうと両手を懸命に広げた狭霧は、涙ぐんだ目で真っ向から父王を睨みつけた。


 大国主は、獰猛な獣を押さえ込むように大勢から身体を押さえられていた。


 言葉を理解できない獣のように、自分を捕まえる従者たちの腕を振りほどこうと暴れていたが、目の前に狭霧が現れて、敵対する者同士のようにぎろりと睨まれると、呆然と娘を見つめて、暴れるのをやめてしまった。


 武王の気が逸れたのを、すぐ背後でおさえつけていた安曇は見逃さなかった。


 彼は大国主の肩越しに、地面にうずくまる高比古へ怒鳴った。


「出直せ、高比古! 外で待て!」





 大勢の人に引っ張られるようにして、いつか武王の身は渡殿に引き上げられ、やがて姿は西の宮の寝所へと消えていく。


 父の姿が見えなくなるまで、狭霧は、指先までを石のようにかたくして、みずからを高比古を守る壁にするのをやめなかった。喧騒が遠のいていき、庭が静かになると、その指はぴくりと揺れて、はっと背後を振り返る。


「高比古……!」


 彼の姿を探すものの、狭霧が見つけた高比古の顔は、血だらけだった。


 狭霧は悲鳴をあげるように息を飲んで、それから、紐を引きちぎるようにして、上衣に重ねていた飾り着を脱いだ。


「見せて」


 そばにうずくまって高比古の前髪をかき上げて、血だまりのもとを見る。ちょうど額の端あたりに、ぱっくりと裂けた傷があった。鞘で打たれた時に、肌が裂けたのだ。一緒に打たれたのか、唇のきわや頬も赤く腫れていた。今は赤くなっているが、腫れがひいたら真っ青な痣に変わってしまいそうな打ち身の痕だった。


 庭の周りには、騒動を見守る侍女や下男たちが大勢いた。


「誰か、水と酒をもってきて!」


 背後を振り返って大声で命じるなり、狭霧は手にした飾り着で高比古の額の傷をぎゅっとおさえて、血を止める。


「額の傷はたくさん血が出るけど、すぐに治るから。血を止めてきれいにしておけば、大丈夫……」


 自分で自分にいい聞かせるように、狭霧は高比古の耳もとで何度もつぶやく。


 青ざめた狭霧とは裏腹に、高比古は愉快そうに肩を揺らして笑っていた。狭霧をそっと押しやると、起き上がろうともする。


「……起き上がっても、平気なの? 目まいはしない? 吐き気とか……。頭の打ち傷は、命取りになることもあるのよ。しばらく静かに、大人しくして……!」


 案じられると、高比古は吹き出して笑った。


「平気だよ、これくらい。痛いだけだ」


 地面へ投げ飛ばされたりして、高比古の白い衣は土ですっかり汚れていた。額からはまだ血が流れていて、腹を思い切り蹴られたせいか、時々咳き込むような息もする。


 でも、高比古は笑っていた。それも、見ている狭霧が驚いてまばたきをするような、爽快な笑みだ。


「あんたのとうさまは、よほどおれを痛めつけたくて、一瞬で殺そうとは思わなかったのかな。刃が抜かれなかったのは驚きだが、ひとまず、一つ目の山は越えた。それに、痛いのはまだ生きてるからだ。問題ないよ」


 胴や手を取りながら高比古が起き上がるのを助けていた狭霧は、ほっと笑みをこぼした。


 ずっと張りつめていたものが緩んで消えいくように、狭霧の真顔からはしだいに険しさが薄れていく。見る見るうちに身体からも力が抜けていって、いつか狭霧は、ぺたんと地べたに尻もちをついた。


「もう、大丈夫」


「それはまだ気が早いんじゃないか? まだこれからだと、おれは……」


「ううん、もう平気」


「そうか? まあ、おれも、首さえ飛ばなければ、どうにかなると思えてきたが。目や腕なら、なくなってもどうにかなるだろう。腹や背中を斬られたり、骨を折られたりするくらいなら、動けるようになるまで耐えるし、もし四肢を切り落とされても、覚悟を決めて神野くまのにいくとかすれば、どうにかなる気がする。霊威も神威も、使えるものをすべて使えば、たぶん――」


「ううん、そうじゃないの」


 ぐったりと背中を丸めた狭霧は、砂まみれになった高比古の肩に頬を寝かせると、首を横に振った。それから、幸せを噛みしめるように笑った。


「だって、高比古から死んでもいいっていう気が消えてるもの。まだ生きているって、あなたはほっとしているもの。いまは生きようと思っているでしょう? 死んでもいいとは、いまは思っていないでしょう?」


 嗚咽で細い肩を揺らす狭霧は、嬉しくて泣いているふうだった。





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