死の匂い (3)


 報が杵築きつきへもたらされた翌朝、夜明けとともに狭霧は雲宮を出て祖父のもとへ駆けつけた。


 須佐乃男は孫娘の来訪を喜び、自分の舘へ招き入れた。須佐乃男の離宮に病の気配はなく、老王はいつも通りに颯爽と舘の中を歩いていた。だが――。須佐乃男の表情は暗かった。


 須佐乃男は、狭霧と高比古の婚儀をおこなうことを最後まで反対していた。それは、狭霧が高比古の妻になることに対してではなく、この春に、かつて類を見ない規模の華やかな婚儀をひらくことに対してだった。


「なぜ今なのだ。もう少し戦の気配が薄れるか、状況が変わってからにしろと、わしは彦名にいったのだが――。いいや、わしは隠居爺だ。彦名のやることに口は出さんが……」


 結局、須佐乃男は婚儀の前に渋々と折れたが、狭霧が離宮にいる間、そのことについてずっと不満を漏らした。


(おじいさま……)


 二人でした話の数々を思い出すと、狭霧は、ため息をつきたくなった。






 狭霧たちの一行は、雲宮の大門をくぐってからも早駆けを続けた。そのまま大路を駆けて、兵舎まで馬で乗りつける。


 小柄な身に袴をはき、凛々しいいでたちをする狭霧は、馬術も武人に引けを取らなかった。颯爽と鞍から飛び降りる頃、狭霧を見つけて手を振ってやってくる青年がいた。異国からはるばる雲宮を訪れた客人、真浪まなみだ。


「真浪様! お久しぶりです」


「久しぶり。見かけによらず結構なおてんばなんだね? 越の国には、今の狭霧ちゃんみたいに早駆けをする若い姫なんかいないよ」


「真浪様がいらっしゃると聞いたので、急いで戻ったんです。いつもはもう少しゆっくり走るんですよ?」


「砂まみれになって――早馬の蹄が砂を巻き上げたのを浴びたんだね。その砂は、おれのためか。嬉しいよ。会えてよかった」


 再会の挨拶がひと通り済むと、狭霧は高比古にさし向う。


「ただいま」


 微笑むと、高比古は少し居心地悪そうな真顔をした。


「――おかえり」


(照れ臭がってる……そばに真浪様がいるからかな?)


 夫となった青年の仕草にくすくすと笑いつつも、狭霧の笑みはすぐに引いていく。


 狭霧には、どうしても高比古に尋ねておかなければいけないことがあった。


 今日、狭霧は一人で須佐を目指したが、それは、高比古や大国主、安曇たちに別の用事があったからだ。


 婚儀から二十日後、大国主を主とした船団は出雲を発ち、引島という地にある砦を目指すことになっていた。だが、細かな日取りや、大国主と共に戦の旅に出かける者を誰にすべきかという最後の軍議はまだ済んでいなかった。――今日の、昼までは。


 背後の真浪を気遣いつつもまっすぐに高比古を向いて、狭霧は、声をひそめて尋ねた。


「それで、高比古――船団の出立はいつに決まったの? 婚儀から数えて二十日後のまま? 高比古は、十日後には雲宮を出てしまうの?」


 夫となった青年を戦地へ見送るのは、たとえそういう日が来ることを覚悟していてもつらいものだった。


 婚儀の日からは、すでに十日が経っている。誰が向かっても事が済むように、戦の支度はつつがなく進んでいた。


 じっと見上げる狭霧へ、高比古は苦笑した。


「それが――外された」


「え?」


「おれは、後から向かう軍を任されることになった。理由はいろいろあるんだが、一つは、安曇が――」


「安曇が?」


「ああ、安曇が、あんたと一緒にいろって。その、つまり――」


 高比古は、とつとつとしたいい方で言葉を濁す。それを、背後から様子を窺っていた真浪が茶化した。


「なんだ、戦の話? ここも慌ただしいもんなあ。で、ああ、今のうちに新妻とべたべたしておけって?」


 真浪がからかった瞬間、高比古が豹変した。


「おまえ、なにを――」


 すぐさま振り返って睨みつけるので、長い袖を風になびかせて退きつつ、真浪はさらにからかった。


「そんな怒るなよ。赤くなって、もー。見て見て、こいつの顔、真っ赤じゃないかよ。かーわいい、ね? 狭霧ちゃん」


 そういって、真浪は、尋ねるついでに狭霧の肩を抱いて見せる。


 高比古はむっと眉をひそめて、狭霧の手首を掴んで自分のそばへと引き寄せた。


「おまえ、わざとだろ? おれをからかうならからかうで、こいつに近寄るな」


 真浪はげらげらと笑って、目尻に涙をにじませた。息を詰まらせてひいひいと喉を鳴らしつつも、まだ笑う。


「きみさ、火悉海のことを狭霧ちゃんに鼻の下伸ばしてるとかなんとか、散々いってなかったっけ? いやー、すました顔してたくせに、変われば変わるもんだなあ。あーーっ! また火悉海と三人で飲んで、きみをいじめてやりたい!」


 真浪は、苦しげなかすれ声を出してさらに笑う。高比古はふんと鼻を鳴らして、横を向いた。






 狭霧と高比古の舘では、真浪とその従者を招いたささやかな宴をひらくことになった。


 酒器と肴に囲まれながら、三人でこれまでの話をした。宗像でのこと、遠賀のこと、阿多で火悉海と過ごしたこと、それから、越の国のこと――。


「ああ、楽しかった。じゃあ、また明日」


 夜が更けると、真浪は従者を引き連れて去っていった。


「おやすみ」


 そこにいた人が去るなり、話し声と人の気配に満ちて賑やかだった舘が突然静かになるのは、不思議で寂しい。


 宴のあとが侍女たちに片づけられていく間、狭霧は、高比古と隣り合って舘の回廊に腰掛けていた。


 真浪との宴は、とても楽しかった。明るく陽気な真浪と過ごすのが狭霧は好きだったし、なにより、真浪と喋って楽しそうにしている高比古を見るのは、嬉しかった。こういう時、高比古は、狭霧やほかの武人といる時には見せない顔をたくさん見せた。それを見るのも、楽しかった。


 でも、真浪が去っていくのを、狭霧は胸のどこかで待っていた。高比古に話したいことがたくさんあったからだ。


「とうさまの軍から外されたっていう話の続きなんだけど――。それって、どうして? 高比古は策士なのに――。いずれ雲宮の主になるから、とうさまに代わって留守を守るため?」


 高比古は、前庭の闇をぼんやりと眺めていた。


「まあ、いろいろあってさ」


「いろいろって?」


「一番は、佩羽矢ははやのことかな」


「佩羽矢さん?」


 佩羽矢は、石玖王の預かりになっている若い武人だ。神事を経て、出雲を二度と裏切らないと誓った彼は、見かけが似ていたため、高比古の影を務めるという誓いも立てた。そのために佩羽矢は、みずからの命を神事の代にすることを選んだという。


「佩羽矢は、もともと伊邪那いさなの術者だったろ。霊威みたいなものをもともともっていたから、それに出雲の神事を組み合わせて、おれと繋げることにしたんだ」


「高比古と繋げる?」


「あいつがどこにいても、おれと話ができるようになった」


「――そうなの?」


「ああ。話だけじゃなくて、互いに念じれば、あいつが見ている景色や、聞いている音までおれに伝わる――そのはずだ。たぶんな」


「たぶん?」


 聞き返すと、高比古はふうと息をついた。


「時々試してはいるが、たとえば、おれたちが遠く離れた場所にいても働くのかとか、どれだけこの力が戦に役立つのかとか――。まだ、うまく先が読めない。だから、はじめの軍で佩羽矢に先にいかせて、試すことになった」


「佩羽矢さんはとうさまといくんだ。石玖王も?」


「いや、石玖王は後発だ。おれと同じかずれるかは状況次第だが――」


 そこまでいうと、高比古は諦めたように苦笑して、狭霧を向いた。


「実はおれも納得していないんだ。でも、もう決まったことだ。これ以上考えるならどうしてこう決まったかじゃないから、もうやめるよ。――それで、あんたのほうは? 須佐乃男の具合はどうだった?」


「えっ」


 一瞬、狭霧はどきりと胸が突かれたような気分を味わった。


 ちょうどその時、舘の中から、狭霧たちを呼ぶ侍女の声がした。


「片づけは終わりましたよ。寝床の支度も済みました」


「あ、ありがとう」


 舘から去っていく侍女たちに礼を告げて、二人できざはしを上り、舘の中へ戻る。


 二人の休み場としての姿に戻った舘の中で、寝る前の身づくろいをしながら、狭霧は高比古と話を続けた。


「おじいさまなら、元気だよ。寝床は片づけられていたし、動き回っていたし。なんでもないって、付き添いの薬師もいっていたよ」


「だろうな。そんな気はしていた。――まあ、よかったよ」


「うん、そうだね……」


 支度が済むと、二人で隣り合って寝床に入る。


 二人のためにしつらえられた大きな敷布には、香りのよい干し草が中に詰まっていた。掛け布も、絹を縫い合わせて中に綿をいれた極上のもの。その隙間に脚を滑り入れた時の、柔らかくてなめらかな肌触りが、狭霧は好きだった。でも、考えごとをしたせいか、今夜に限ってそれを味わうことはできなかった。


 頭から離れなくなったのは、須佐乃男のことだ。


 狭霧と高比古の婚儀をこの春にひらくことに最後まで反対した須佐乃男は、今日、須佐まで見舞に出向いた狭霧にも不満を漏らした。




『まだ早いというのに――。大きな婚儀をひらいて、高比古におまえを娶らせたことを大っぴらにするのは、戦を前にして、出雲の武人たちの士気を高めたいという思惑があるのだ。しかし、まだそういう時ではない――。高比古は、まだ生煮えだ。生煮えの若造など、食えたものじゃない。どんなふうにも育つと、将来の甘い夢を描けるだけだ』


 須佐乃男は高比古の才能を買っていた。でも、今の高比古がすぐさま王位を継げるかというと、それは絶対に無理だと繰り返した。


『たしかにあいつは武王向きだ。だが、武王になるには、まだ死の匂いが足りない。それが身につき、名実ともに武王の候補とならねば穴持なもちの跡継ぎとしては認められまい。大戦を控えているなら戦場で名をあげれば済むことなのに、彦名の奴め、目先の欲に走りよって』


 死の匂いが足りない――。


 須佐乃男がいったその言葉は、いやに狭霧の耳に残った。


『おじいさま、死の匂いって?』


 尋ねても、須佐乃男はろくに答えなかった。


『今にわかる。おまえがわからないということは、あいつが武王の跡取りだと声高にいうのがまだ早いということだ。まずはそれを覚えて、女神と向き合わねばならないというのに。そうせねば――』


(女神と向き合う?)


 その言葉も、いやに胸に響いた。


 それから須佐乃男は、狭霧が思いもよらなかった娘の名を口にした。


『時に、狭霧。日女ひるめという巫女に最近会ったか』


『その巫女のことを知ってらっしゃるの?』


 日女という名のその巫女は、高比古と〈形代かたしろの契り〉という神事を交わした娘のことだ。


 須佐乃男は賢王と呼ばれて、出雲という国はおろか、倭国と呼ばれる島一帯の諸国を見渡し、その多くに影響を与える人だ。それなのに、神野くまのに住まうたった一人の巫女の名まで知っているとは――。狭霧は目を丸くした。


『時々姿を見かけます。今は杵築の神殿で暮らしているみたいですが、時々は意宇おうでも姿を見かけます』


『なら、いい。次に会ったら、賢王が会いたがっていたと伝えてくれ。須佐の地に遊びに来いと――』


『ここへ遊びに?』


 狭霧は、ぽかんと口をあけた。なぜ日女のことを気にかけるのかとも尋ねたが、結局須佐乃男はやんわりとはぐらかした。


『いずれわかるようになる。それも先ほどと同じで、おまえがわからないうちは、高比古を王の名に関わらせるには、まだ早いということだ』




 昼間に須佐乃男とした問答を思い返していると、狭霧の胸はどきどきと不安で高鳴っていく。


(高比古に話そうかな。でも、そんなことを話したらいやがるかな。とうさまの跡取りとして、おじいさまから認められていないだなんて)


 頭を悩ませていると、頬に触れる指があった。隣で寝転ぶ、高比古の指だ。


「えっ?」


 驚いて横を向くと、高比古が微笑していた。


「何度も呼んだよ? なのに、気づかないから――。なんの考え事だ?」


「うん、まあ……」


 言葉を濁すが、高比古が問い詰めることはなかった。気を取り直したように笑うと、話を続けた。


「少し考えたんだが――大国主の軍が発つのに合わせて、雲宮を出ようと思うんだ」


「え、雲宮を出る? どこへ?」


阿伊あい


「阿伊?」


 聞いたことのない地名だった。狭霧が反芻すると、高比古がそれに答える。


「出雲の奥地だよ。いってみたい場所があるんだ。そうしたいと安曇に話したら、そこに離宮があるからしばらく泊っていいといわれた。それで――あんたも、おれと一緒にいくか?」


 寝床に入る前に火皿の灯かりは吹き消されていたので、舘は闇に包まれていた。


 でも、狭霧には、自分をじっと見つめる高比古の顔がくっきりと見えていた。それは、目が闇に慣れたのと、きっと互いの顔を覚えきるまで見慣れたせいだ。


 高比古の目は狭霧を誘っていた。「一緒にいこう――な?」と、眼差しに抱きしめられたと感じるほど、真剣に――。


「もちろん、いくよ」


 狭霧が答えると、高比古は小さくうなずく。


 それから、もう一度狭霧の頬を指でなぞって掛け布にくるまりなおした。


「おやすみ」


「うん、おやすみ――」


 挨拶を返すものの、狭霧は上の空だった。


 高比古からの誘い文句に応えたのは、誘われたのが嬉しかったからだ。でも、それ以上に別の想いがあった。


 なんとなく、高比古を一人で遠くにいかせたくなかった。


 脳裏には、昼間に聞いた須佐乃男の言葉が繰り返し蘇った。


『あいつが武王になるには、まだ死の匂いが足りない。……まずはそれを覚えて、女神と向き合わねばならないというのに』


 声を振り切るように、狭霧も掛け布を引き寄せた。


 それでも少し心もとなくて、隣で眠る高比古の腕にそっと指を触れさせた。


(わたしも一緒にいくからね)


 心からそう伝えたくて、そうしていると、隣でまぶたを閉じる高比古が少し笑った。それから、腕に触れる狭霧の手を自分の手で包み込んで、温かな熱がこもった掛け布の下で手を繋いだ。


「おやすみ」


 闇のしじまに柔らかく広がった高比古の囁き声。それは、狭霧の胸の中を覆ったもやをすっと晴らしていく。すぐに、狭霧は何も考えられなくなった。――眠りに落ちたのだ。


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